大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十六話 それぞれの戦い・後編

「さてと。トリは私だね」

 

 女性自衛官の常装第3種夏服に身を包んだ霧島マナが、えへへとはにかんで立ち上がり、おどけたように敬礼する。

 

「うん──戦略自衛隊の準備状況はどうかな、霧島さん」

 

 今や、戦自からネルフへの連絡将校に補せられている霧島マナにシンジは訊ねた。マナは女性的魅力の横溢した表情をキリリと引き締めて軽く頷くと、おもむろに説明を始める。

 

「……北富士の東部方面特科連隊の駒門(こまかど)への移駐はほぼ完了しました。元々駒門に駐留している第1高射特科大隊と併せて、有事にはいつでも第3新東京市方面に進出可能です」

 

 自衛隊用語で特科といえば即ち砲兵部隊のことだ。主要装備は、前者が百五十五ミリ榴弾砲のFH70二十門、後者が81式短SAMと93式近SAMである。

 

 駒門は御殿場の自衛隊駐屯地の一つだ。御殿場から箱根……第3新東京市まで三十キロ弱。理想的には一時間掛からずに駆け付けられる見当だ。実際、第1高射特科大隊の警備隊区には第3新東京市が含まれている。

 

「連隊規模の移駐には年単位の時間がかかってもおかしくはない。本当に無理をしてもらって……有り難いと思っています」

 

 シンジは敬語で礼を言って頭を下げた。霧島をこの場での戦略自衛隊の代表と見做して、彼ら全員に対して頭が下がる思いを表明したのだろう。

 

「駒門には元々再編前の第1特科連隊が駐留してましたから、いわば古巣なんです。前々からこれあるを見越しての準備は進めてましたし、みんな里帰りの足は速いものですよ」

 

 霧島マナはそう言って、快活に笑った。

 

 御殿場市には他にも、板妻(いたづま)に第34普通科連隊が常駐していて兵力も大きいが、歩兵部隊の応援はいたずらに犠牲が増えるばかりだろうと予めネルフから断っていた。あくまで戦自に期待するのは、N2航空爆雷・N2地雷や、遠隔からの火力投射による遅滞戦闘で、何処から出現し侵攻するか、その形態も攻撃方法も予測が困難な使徒に対して即応し、エヴァが地形的、戦術的優位を占めるのに必要な時間を稼ぐことにある。

 

「それと──碇司令が板妻からの救援は不要と仰るから、橘の連隊長が発憤しましてね。うちには、第1統合機兵中隊がいる! ネルフの若司令に目に物、見せてくれるって大層な剣幕で」

 

 日頃、脳天気にシンジのことをシンジ君と呼んでいる霧島だったが、最近は緊迫感を反映して、このような公式の場では碇司令と呼ぶことが多い。

 

 なお、橘というのは第34普通科連隊の愛称だ。戦前の陸軍第34歩兵連隊の美名を継承している。

 

 統合機兵中隊は、戦略自衛隊の誇る機動兵器、四式統合機兵あかしま──で構成される中隊だ。通常、四機から六機の統合機兵で編成される。第34普通科連隊隷下の第1統合機兵中隊は六機のあかしまによる部隊だった。

 

「それは心強いな──」

 

 シンジは目を丸くする。統合機兵は戦自の虎の子の人型機動兵器だ。戦自ナンバー2の春日陸将のようにネルフに対し一貫して好意的な将官もいるが、戦自も当然一枚岩ではなく、かつてのネルフが人類補完計画の策動の首謀者であったというストーリーを盲信し、新生ネルフや碇ゲンドウの息子にも猜疑の視線を注ぐ者もいるのだ。

 

 それゆえに板妻の六機も、表向きはエヴァ支援用の対使徒戦術機動兵器とされていても、その真意は対使徒ではなく対ネルフのエヴァ用の備えだろうと噂されていた。だからシンジは、戦自は統合機兵を最後まで温存する積もりだろうと踏んでいた。有事にも戦場には出すまいと。それは損耗の烈しい、ある意味では絶望的な対使徒戦だけに、ネルフに対する敵対的な底意が全く無かったとしても当然の判断と言えるものだったから……それだけにこの申し出には素朴に感動させるものがあった。

 

「ええ、心強く思ってください。何しろ機兵隊ですからね」

 

 騎兵隊あるいは奇兵隊に掛けたシャレなのだろう。マナはそう言って笑った。自分で功績を誇るようなことを霧島マナは決して言わないが、その愛すべき連隊長を上手に焚きつけたのは彼女の柔らかな口説だった。

 

 剽悍な武人の自尊心の森に分け入り、彼が三尉の新品士官に任官したばかりの頃に抱いていた筈の若々しい理想──組織と地位ではなく、国土と国民を守る──にもう一度息吹を吹き込んだ。ただ、それだけのことだが、霧島マナでなければきっと成し得なかった功績だろう。

 

 一方、戦術作戦部長のアスカは、腕組みをしながら、僅か一個中隊ではあるものの、この新しくもたらされた要素について考え込む。

 

「あかしまか……」

 

 ──それ大風烈しきを(はやて)という。また、甚だしきを(あかしま)(とな)

 

 前にシンジに教えてもらったように、あかしまは台風という意味の古語だ。

 

 勇ましいのは名前だけではない。二足歩行戦車としての運用のみならず、グランドエフェクトによる空中機動も可能という全領域機動兵器でもある。

 

 アスカの来日前の話だが、日本重化学工業体の天才技術者時田シロウにより、その存在感を大いに示すも、突然の「事故」による開発中止を余儀無くされたジェットアローンの挫折と無念を乗り越えて、日本の軍事産業が成し遂げた輝かしい技術的到達点があかしまである。もちろん、ネルフからの技術供与はあったにせよ、だ。

 

 その点、確かにシンジの言うとおり、心強いは心強いが、あかしまは同じ人型兵器でも、ATフィールドを張れるエヴァとは異なる。使徒と本質的には同じ力を持つ人造人間エヴァンゲリオンとは次元の違う存在だった。

 

 だから、アスカは用兵の専門家として、冷静に統合機兵の使い処を考える。──例えばエヴァを正規の軍艦に喩えるならば、あかしまの実力は商船を改装した仮装巡洋艦に相当するだろう。武装はエヴァとある程度共通の物が使えるが、防御面では甚だ心許ない。

 

 あるいは、アスカの故国の軍艦、ビスマルク級戦艦やシャルンホルスト級戦艦に外観を敢えて似せたとされるアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦を連想させる。すなわち能力的懸隔は大きい一方で、エヴァ同様に、二足歩行の人型兵器という外観上の類似点を備える、というのがあかしまの大きな利点なのだ。つまりは、陽動、攪乱という方向性での活用を考えることが出来るのではないか。

 

 エヴァの脇侍か影武者か……

 

 対使徒戦において、戦自の指揮権は形式的にはともかく、実質的にはネルフの麾下に入る。それがネルフと戦自のかねてからの黙契──了解事項だ。厳密にはネルフ側の指揮命令を連絡将校の霧島マナ経由で戦自側に伝え、戦自はそれに原則として従うということだが、形式的側面はどうでもいい。つまりは、ネルフ戦術作戦部長惣流・アスカ・ラングレーが事実上、第1統合機兵中隊をも運用する事になる。

 

 アスカは、作戦上、喉から手が出るほど欲しかった二体め、三体めのエヴァの代替になりそうなものをようやく手に入れようとしていることになるわけだ。

 

 むろん、増援は戦自だけではない。

 

「在日米軍からも、座間の第17砲兵旅団、相模原の第38防空砲兵旅団の援護が期待されるわ」

 

 アスカはそう補足する。座間から第3新東京市まで五十キロ弱。相模原からは六十キロ弱。いずれも一時間前後での来援が可能だ。米軍は指揮権の実質的移譲のようなことはすまいが、その火力は戦自以上に期待して良い筈だった。

 

「主装備は、HIMARS(ハイマース)とパトリオットだね……」

 

 迅速展開が可能な自走多連装ロケット砲と、広域防空用の地対空ミサイルだ。

 

「ええ。通常の侵攻軍なら充分な火力なんだろうけど、使徒相手だから一部はN2弾頭に換装するだろうと想定している」

 

 シンジは会議テーブルの天板に埋め込まれているシミュレーション用の操作卓の電源を入れた。先ほどのアスカとマリ、マナの報告をユニットや装備の強度に手早く反映させ、マギ・セブンによるシミュレーションを開始する。

 

 侵攻してくる使徒は、「最強の拒絶タイプ」とも称されるゼルエル級との想定になっている。弐号機の頭部と両腕を切断されたことのあるアスカにとってはトラウマさえ感じさせる難敵だ。

 

「……」

 

 全員が無言で、仮想上の戦況の推移を見守る。友軍を示す青の光点と、同盟国軍の緑の光点が、使徒を表す、赤く一際大きな光点に遠隔から火力を投射し、それによって赤い光点は一時動きを止めるが、やがてその停止時間は効果が薄れたかのように逓減していく。

 

 再び動き出した赤い光点が、勢い良く青や緑の光点と接触する度に、本物ならば無数の命を表す筈の光の数を減じさせていった。青の最も大きい光点はエヴァンゲリオン初号機を表し、赤い光点に追いすがるように山稜沿いに各所を転戦していたが、遂にはゼルエル級との白兵戦で身体各部位に大きな損傷を受けて、じりじりと強羅絶対防衛線の内側へと追い込まれていく──。

 

 十数分に時間を短縮して現れた結果は、その一部始終を確認した列席者の厳しい表情からも明らかだった。使徒はほぼ無傷のままに、エヴァも友軍も同盟軍も壊滅する、というのが、マギナナのシミュレーションの結果だ。

 

 未だ仮想上のものではあるが、戦自の粉骨砕身による精励も、米軍の条約と友誼に支えられた奮闘も、作戦部や技術部の戦備増強も、全ては絵札の足りないポーカーのような物だった。これまで戦力強化の報告の度に、何度となく繰り返してきたシミュレーションと同様の結果だ。

 

 殺人的なスケジュールの移駐準備作業に夜遅くまで汗水垂らして当たってくれたに違いない東部方面特科連隊の将兵や、第34普通科連隊の連隊長の示してくれた開けっ広げの信頼に、何一つ応えられていない気がして、シンジは俯く。

 

「……担任正面の防御に就ては敵を撃攘(げきじょう)し得るという確信は遺憾ながらなし、か」

 

 シンジの言葉に暗さが籠もり、そのまま彼はシミュレーション卓の電源を落とした。

 

 それは、実を言えばシンジ自身の言葉ではない。太平洋戦争終戦の前日における元帥会議での畑俊六元帥の言葉だった。原爆で壊滅した広島に司令部を置いていた第2総軍の司令官としてその見通しは当然とはいえ、天皇と主戦論を維持する他の二元帥を前にしての、率直かつ悲観的な報告は、武人としても余程勇気がいることだったろう。彼の報告が無謀な本土決戦を断念させ、終戦へと導いたとも言われている。

 

 しかし、そうした悲観的報告が、軍人の良心として受け止められる時代の方が──それは人類史上最悪の戦争の時代であったのだが──まだ人類は幸せだったろう。なぜなら、和平を媾ずる敵もまた人類であり、敗戦の後もそれを評価してくれる人間が存続し得たのだから。

 

 此度の戦いは、そうではなく、一度の敗戦が、エヴァンゲリオン初号機を贄として、インパクト発動の供犠儀式を再び発動させることだろう。そこには和平の可能性も、それを評価してくれる後世の人類も存在しない。

 

 人類の命運を再び背負ったシンジには「敵を撃攘できる確信はない」と表明する権利は認められていない。ただ、このような非公開の場で、先人の言葉として引用することが許されるだけだ。

 

 肩を落とすシンジに、アスカもマナもサクラも今掛けられる言葉は無かった。ネルフの総員や友軍がこれだけの努力をしても、エヴァ一機による使徒迎撃という前提条件では厳しい戦いが予想されるのだ。

 

 唯一、マリだけがきょろきょろと司令室内を見渡してから、小声でアスカに囁いた。

 

「そういえば、今更だけど……ゼーレのアレはもう無いんだよね?」

 

 やや不安そうな表情のマリに、アスカは呆れる。ゼーレのアレとは言うまでもなく司令室に仕掛けられた盗聴器のことだ。

 

「それを確認するなら、会議を始める前に言うべきじゃない? 散々、機密を喋っておいて……。撤去の件なら、そうよ。前にもちゃんと伝えてあったと思うけど」

「にゃははは……確かに聞いてたけど、前はあるのが前提でずっと話してたからさ。なんだか不安になっちゃってさ」

 

 日頃、放胆なマリには珍しい言葉だが、アスカにも気持ちは分からないではなかった。もう十年近く、盗聴されているのに、されていない振りをしながら注意深く喋るという腹芸を強いられてきたのだ。それにマリには、あさっての疑問をあえて表明して、沈んだ場の雰囲気を多少なりとも変えたいという意図も恐らくはあるのだろう。

 

 アスカが伝えた通り、もう司令室にはゼーレの盗聴器はない。先週末に全て撤去して、より強力な防諜装置を設置してある。

 

 その撤去の実施について、アスカはシンジの家で実施前に問い質した時のことを思い出した。帰宅後の夜ばなしとして、廊下で向かい合って立ちながら、職場ではかえってしづらい仕事の話をすることが最近ではしばしばだった。

 

 

「でも、なぜ今なの?」

 

 アスカの白く艶やかな顔に憂いが浮かぶ。ネルフや碇シンジの生殺与奪を握っている秘密結社ゼーレに対する不用意な反応(リアクション)の生む擾乱の結果をアスカは恐れる。

 

「それは──」

 

 シンジは夜になっても、未だうっすらとしか髭が生えていない顎を指で摘みながら言葉を探す。アスカは仕事から帰宅するなりラフな部屋着に着替えていたが、午後から自宅でテレワークだったシンジは上着だけ脱いで、ワイシャツと折り目のきちんと入ったブルーのスラックスを同色のサスペンダーで吊ったままの仕事着だった。

 

 痩せているシンジがしていると、それなりにセクシーな格好だとアスカは思う。

 

「──今しか、盗聴器の撤去が有効な意味を持つ局面はないから」

「有効な局面?」

 

 アスカは怪訝そうに金色の整った片眉を吊り上げる。

 

「いきなり僕らがそれを撤去したら、ゼーレはどう考えると、アスカは思う?」

「盗聴器が……遂に発見されたと考える?」

「今まで十年以上も発見されていなかったのに?」

 

 そうシンジに指摘されると、確かにいささか以上に不自然な状況と言えるかも知れない。

 

 巧妙に新生ネルフの本部棟の建設時点から工事の施工業者に入り込むことで、設置されていた盗聴器だ。極々微弱な電波しか発せず、増幅器を持った内部の諜報員にしか受信することは出来ない。シンジが司令就任時に、剣崎率いる保安諜報部に命じた──週末に突貫で床面パネルを全部外させるような──偏執的かつ徹底的な調査が無ければ、決して見つけられなかっただろう。

 

 そして、シンジたちはそれを床下に発見した後も、あえて床面パネルを元に戻し、機能も殺さずに放置していた。司令室での会話が筒抜けになるリスクを犯しても、ゼーレに対する従順な姿勢を装い、嘘ではなく──嘘はいずれバレるから──流してもいい無害な情報だけをあえて流すための瞞着の手段の一つとして、それを温存した。時にはアスカとシンジの痴話喧嘩までもそのままにゼーレには音源ごと伝えられていたことだろう。二人の人間的な弱さと拙い男女関係の生々しさが、相手を大いに油断させる。それは演技ではなく、もちろんリアルだから、信用する他はない。

 

「そうか。──それを受信出来る内部潜入のゼーレ諜報員が、自ら盗聴器の存在を我々に暴露自白した、とゼーレは考えるに違いない。いや、そう考えるよう、仕向けるのね」

 

 人差し指を立てて到達した真実を説明するアスカに、シンジは穏やかな笑みを浮かべた。

 

「やっぱりアスカは凄いね。スパイとしても十分務まりそうだ。うん、──彼ないしは彼女の忠誠心が翻ったとゼーレ側に考えさせるんだ。そのタイミングは今しかない」

 

 アスカはシンジの反応に、肩をすくめる。

 

「……加持さんの最期を考えると、スパイなんて割に合わない仕事だと思うわよ。あんなに切れるスマートな人でも寝首を掛かれてしまったのだから──」

 

 長嘆息してアスカは睫毛を伏せる。故人のことをアスカは今でも時々、思い出すのだろうか。シンジの心の中にザワザワとした感情が蠢く。自分だってかつては綾波レイに惹かれ、いまわの際のミサトさんに唇を与えられるようなことをしているのに、アスカに対してはどうしてもその心と身体に対して強い独占欲を抱いてしまう。

 

 しかし、アスカはすぐに元の調子に戻り、言葉を続けた。

 

「でも、たとえスパイ活動で巨万の富が得られても、人類全体が滅んでしまえば意味がないからね。渚カヲルがネルフに潜入し、使徒の侵攻、ひいてはフォースインパクトが近いと……その謎のスパイ氏が考えるこのタイミングなら、確かに裏切りのストーリーに説得力があるわね。仮にあたしがスパイでも絶対に人類を存続させてくれるであろう側に寝返ると思うわ」

 

 アスカは今日も部屋着として着込んでいるダサTの前で腕を組んで、おもむろに頷いてみせた。ちなみにTシャツにはHAPPYと書いてあり、そのロゴの下には、風船を持った眠そうな目つきの出っ歯のウサギが描かれている。最近のアスカのお気に入りのキャラクターらしい。

 

「そう。しかも本当に彼に寝返ってもらう必要はないんだからね。僕らはその相手が誰かを知る必要さえない。ゼーレに対して、彼はもはや信用できないのではと思わせ、彼の情報の信頼度を低めさせることさえ出来れば。その偽の裏切り劇を演出するタイミングは今しかない。今より早くても遅くても不自然だから」

 

 しかしシンジの説明を聞きながら、アスカは頭を捻った。一つ気掛かりな点がある。

 

「でもそうしたら、そのスパイはゼーレに処分されるんじゃ」

 

 処分と婉曲に言ってはみるが、要するに殺されるかも知れないということだ。

 

 アスカはネルフに対する裏切り者がこちらの誘導により抹殺されたとしても、その後味の悪い結末を究極的には自業自得だとしか思わない──思わないように出来ると一応は思うのだが、しかし、その血なまぐさい結果に、心優しいシンジはむしろ傷付くのではないだろうか。裏切り者の運命よりも、アスカはシンジの繊細な心が心配だった。

 

 しかし、シンジはぎこちなく微笑むと、首を左右に振った。

 

「いや──処分は恐らく出来ないよ。なぜなら、彼を処分したら、──たとえ上手く事故か何かに見せかけたとしても、僕らはそこに込められた作為に気付けるから──その人間がスパイであったことをゼーレ自らが認めてしまうことになる。そこから芋蔓式に、彼が立場上、知り得ていた情報、すなわちネルフからゼーレに漏れていたに違いない情報が明らかになってしまう」

 

 アスカは自分が軍人として研究していた史実の中から、家康譜代の家臣、石川数正が秀吉の下に出奔した後に、徳川家がその軍制を丸ごと武田流に改めざるを得なかったという逸話を連想する。裏返せば、重要な情報の漏洩は確かに打撃だが、誰が裏切り、何が漏洩したかが分かっていれば、対策は可能なのだ。

 

「それに、僕らが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()状況だからこそ、そのスパイ氏はゼーレを裏切って僕らに付くことが出来る。アスカならこの理屈が分かるよね」

「あ、そうか。その可能性の有無が裏切り者にとっては正に重要なのね。そしてそうでない裏切りのストーリーはゼーレにとって、むしろ信用出来なくなる」

 

 確かに、ネルフが自力で盗聴を察知する可能性はかなり低いとはいえ、ゼロではない。もし本当に自力発見が絶対に不可能な盗聴器ならば、自分がその存在を漏らした、すなわち百%犯人だとバレるような裏切りをする訳がない。賢明な人間によって裏切りが行われるのは、それが裏切りではない可能性がある場合だけ、という逆説なのだ。だから百%の裏切りはかえって信じ込ませにくく、信用ができない。ゼーレはこちらの策略を疑ってしまうだろう。

 

 おかしな話ではあるが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と彼らは信じ込める訳だ。

 

「うん。そして、ゼーレは彼が裏切っていない可能性がゼロではないから、スパイを処断できない。かつ、ゼーレは漏洩した情報を特定されたくないから、スパイを処断できない」

 

 もちろん、そのようなスパイに対する処断の可能性の小ささはあくまでも予測に過ぎない。ゼーレが──飼い犬に矜持を傷付けられて猛り狂ったキール・ローレンツが、その怒りと激情のままに、スパイを処断する可能性は絶無ではない。しかし、アスカにはまだ告げられないが、それこそがシンジの隠している、もう一つのゼーレへの罠なのだ。それについてはいずれ語る場面もあるだろう。今より早くても遅くても不自然という前に、シンジには今どうしても、そうしなければならない切羽詰まった事情があった。多分それを明かされた時、アスカは天地が転倒したような気分になるかも知れない。

 

「ゼーレは、そのスパイの信用度を低下させるけど、そのスパイの言うことをなおも全部無視する訳には行かない。そういう迷いを生ぜしめるだけで、大いに意味があるのね」

「そう。大手を振って司令室で話が出来るというのはむしろ盗聴器撤去の副次的な効果にしか過ぎない。遂に僕らネルフのゼーレに対する面従腹背が終わるというのに、彼らには確固たる情報ソースが無くなるというのに意味があるんだ」

 

 しかも盗聴音源という一次情報を失って、裏切ったのか裏切っていないのかも確信できないスパイの人的情報(ヒューミント)に頼るということになるのだ。その心細さたるや、相当なものだろう。

 

 込み入った話だが、アスカにはよく理解できた。そして、シンジの策謀というのが、基本的には奸智というよりも、論理の領域に属するのだと改めて理解して、安堵する。シンジは相手を騙そうとしているというより、そう考えざるを得ない方向に誘導しようとしているのだ。相手も自分と同じ人間だから、同じように考える存在なのだという相互理解を前提として。そこにはむしろ相手への猜疑や不信はない。相手の知性や能力や人間らしさを信頼しているからこそ、この危うい鬼謀は成り立つのだ。

 

「そうだわ。──ついでに、ネルフだけでなく、この家の中にある盗聴器も撤去するの?」

 

 廊下には流石に設置されていないが、居間などにはシンジの電話での会話などを狙ってなのか、盗聴器が設置されていた。シンジがそれと知りつつ、雇い入れたゼーレのスパイでもある老家政婦の手によるものだ。

 

 剣崎率いる保安諜報部の雇用前の調査で、その人には病気の孫がいて、治療費にも事欠くことがわかっていた。世界中の不幸の原因になったと未だに己を責めているシンジには、こうして知ってしまった不幸をまた見過ごすことは出来なかった。だからシンジは老女スパイをわざわざ家政婦として雇い、彼女の病気の孫娘はサクラが定期的に診ることになって、今日(こんにち)に至っている。

 

「ううん。それはダメだ──家政婦さんを危険に晒すようなことは出来ないよ」

 

 シンジは老婦人を危険に晒す分だけ、自分にとってはより安全とも言える選択肢について、首を縦に振らなかった。

 

 ネルフに正規職員として入り込んでいる本職のスパイとは違って、「希少性の薄い」家政婦さんなら、残念ながら、裏切りの真偽定かならぬ状況でも、ゼーレは簡単に命を奪えるかも知れない。いや、そこまではしなくても、彼女の貴重な「副収入」が絶たれれば、彼女の病気のお孫さんのようやく手に入れた平穏な暮らしにも、日が陰ることになるだろう。

 

 だから──それはアスカが半ば以上に確信していたシンジからの答えだった。

 

「本当に、バカシンジはバカシンジなんだから」

 

 アスカが大袈裟に溜め息をついて、それから腕を伸ばして、シンジの髪を撫でてやると、シンジはキョトンとしてアスカを見つめている。

 

 底抜けのお人好しで、アスカなら絶対にしないような間違いの選択肢を選んだシンジはやっぱり大バカで、でも、だからこそ、アスカはシンジのことが誇らしい。サードインパクトの元凶として碇シンジを白眼視する世界の人々に向かって、碇シンジという青年のバカさ加減を誇りたいぐらいだ。でも、今なお世界の多数は彼の価値を理解してはくれないだろう。

 

「……あの、アスカ?」

「誰もあんたを褒めてあげないだろうから、あたしが褒めてやってるの」

 

 何度も繰り返し、頭を撫でる手の柔らかな感触と優しい動きに、くすぐったそうな顔をして頬を赤らめるシンジが、アスカには今すぐ抱き締めてやりたくなるほどに可愛くてたまらなかった。

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