大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十七話 今、ひとたびの夏よ

 半分に割ったイングリッシュマフィンの上に、ベーコン、落とし卵を乗せて、卵黄とバターで作ったオランデーズソースを掛ける。ベーコンの代わりに、サーモンを載せたのも作った。シンジとアスカはサーモンを、アイとサクラはベーコンを選んだ。

 

 今朝、アイが作ったメニューはエッグベネディクトだ。

 

「イヤやわ、また太ってしまう」

 

 テーブルの向かい側で目を輝かせながらサクラがぼやくと、エプロンを外したばかりの朝食の作り手は苦笑した。

 

「大丈夫ですよ、サクラさんは」

 

 シンジの家に皆で同居を始めて既に四ヶ月になる。四人は揃ってテーブルに着いて、朝の食事を始めるところだ。シンジの正面にアスカが座り、シンジの横にシンジの養女であり、アスカの被保護者である六分儀アイ。そしてアスカの隣にアイの主治医であり、アイというシンジの異性型クローン製作の実行責任者であった鈴原サクラが座っている。

 

 朝食の当番は四人で毎日順繰りにすることになっており、完全に平等だった。最初、シンジはアイを順番から外すことを主張した。だけど、アイは抗議した。別にボクは病気じゃない。結局、あまり気を遣うことが却ってアイの心の負担を重くし、精神衛生上よろしくないとやんわりサクラが指摘して、場を収めた。

 

「えっと。ムリに食べなくても、残してもいいですよ」

 

 朝はしっかりと食べた方がいい。それはアイの持論だったが、確かにカロリーは多めかも知れない。

 

「それはもっとイヤやわ。アイちゃんの料理はほっぺが落ちそうになるさかいな」

「ありがとう……ございます」

 

 アイは年頃の少女らしくはにかんだ。エヴァンゲリオンのパイロット以外に、日々、行うことがあれば生活に張りが出来る。サクラの判断は適切だった。

 

 その時、皿の脇に置いてあったアイのスマホのLEDが光り、メールの送り主とタイトルを記した通知が画面に表示される。

 

「……イズミさんだ」

 

 ちらりと画面に目をやってアイは言った。壱中時代、「いんぱくつ。」という学内バンドを組んでいたシンジたちの同級生で、高校生の時にプロデビューした谷口イズミの事だ。片目が隠れるような前髪長めのショートカットの髪型は、彼女とその友人二人が学内の人気をさらっていた中学生の時分と今も変わらない。

 

 食事の最中には携帯を触らないというのが新生活を始めた四人の決めた新しいルールだ。夜は仕事や学業で時間が合わず、朝だけが確実に四人が顔を合わせられる時間だった。互いに話すことは幾らでもある。それにスマホを食事中に触るのは衛生的でもない。サクラは、アイの免疫力の低下から起こる日和見感染症の発症を若干心配している。

 

「たぶん、また同じ用件だよ」

 

 ルールを守ってアイはシンジに向かって、メールを読むことなく、静かにその内容の予測を告げた。何せ一週間に二回は同じ内容のメールを貰っている。それに対して彼女の予想通り、シンジはこれまでと同じくゆっくりと首を横に振った。シンジは谷口イズミからの依頼をずっと拒否している。

 

「谷口って子、フリーのライター兼リポーターになったんだってね、サードインパクトとかネルフがらみ専門の」

 

 アスカが憮然として言った。その言葉に、サクラは僅かに嫉妬の色が含まれているのを感じ取る。それにはアスカなりの理由がある。碇シンジを挟むかつての同級生、谷口イズミとの関係だ。

 

 使徒再出現の報の後、俄かにフォースインパクトの恐れが巷のニュースの話題を席巻していた。その一種の終末論ブームに乗って、谷口イズミは、ミュージシャンや女優としての知名度、かつてのエヴァンゲリオンパイロットたちと同じ中学校に通っていた経歴を生かして、転身を遂げたのだった。

 

 といっても、旧エヴァパイロットの個人情報や個人的エピソードは決して漏らさない辺り、谷口には彼女なりの一線というか、美学なり信念もあるらしい。

 

「うん、芸能人として取材される方から、取材する方に。強引な転職だったけど、自分でも天職だと思うってメールには書いてあったよ」

 

 アスカは週刊誌に載った谷口の記事を読んだ事がある。それはセカンドインパクトの真相に関する簡単な解説記事で、今となっては旧聞に属する情報ではあったが、単なる賑やかしとして無責任、無根拠な放言をするタレントやコメンテーターとしてではなく、ある意味で前職への退路も断って、ライター、レポーターになった彼女の覚悟がよく分かる記事だった。使徒や世界破滅への恐怖や陰謀への怒りを無闇に煽るのではなく、きちんと関係者や科学者に取材をし、裏も取って、一般市民に向けて分かりやすく纏められた良心的な記事であった。

 

 その彼女からの取材申し込みをシンジはずっと断り続けている。新生ネルフ司令・碇シンジへの取材の申し込み。もちろんアイだけではなく、正式に広報や、あるいは先だっての事件で連絡先を知った保安諜報部長の剣崎経由など、あらゆる手立てを尽くしてそれは申し込まれていた。表向きには取材内容は、フォースインパクトの見通しと使徒の侵寇から人類を守る防衛戦略についてと書かれていた。しかし、シンジは首を左右に振るばかりだった。

 

 かたくなな、頑固さ。

 

 それは一見流されやすいように見えるシンジの本質だ。いや、かたくなも頑固も同じ意味だろうか。兎も角、シンジは一度こうと決めたら梃子でも動かない時がある。時折、アスカはその本質に、彼の父親である旧ネルフの司令、碇ゲンドウを連想する。冷酷で非情なゲンドウの本質も、息子と同じ頑な他者への拒絶だったのだろうか。あるいはそれは他人への恐れでもあったのだろうか。

 

 アスカはそのシンジの性格を変えてやる事は出来なかった。どれだけ身体を重ね、優しさを与えてやっても。シンジの根っこの部分には他人を強く拒絶する壁がある。それが彼のエヴァパイロット時代には不壊(ふえ)のATフィールドとして具現化していた。亡母への慕情や依存心に由来するシンクロ率の高さと、他人への拒絶心に由来するATフィールドの分厚さがシンジを稀有のエヴァンゲリオンパイロットにしていた。

 

 しかし、そんなものは人として生きる上では何の役にも立たない。人として幸せになるための能力ではなかった。そしてアスカはシンジがいつまでも自分のことを他人だと思っていることが歯がゆくてたまらない。

 

「別に、シンジが取材に応じたくないのなら、無理して応じる事はないわよ」

 

 機密だってあるんだし……と後から付け加えたのは口にしたアスカ当人にとっても、いささか言い訳じみて響いた。本当はそういう散文的な話ではない。シンジはあの中学生だった頃の自分を知っている人間をたった一人の例外を除いて近付けようとはしなかった。その例外はシンジにとっては特別な存在だった。赤い浜辺で残ったたった二人の人類の片割れだ。特別な絆だった。

 

 それ以外の近しい存在は、鈴原サクラも、霧島マナも、真希波マリも、あの頃のシンジを知る存在ではない。十四歳のシンジが触れ合いを持った者は、アスカを除いて、大人も同級生も等しく赤いLCLの海に溶け込んでいた。

 

 だが今までたったひとりだったその例外に、新たに谷口イズミという女が加わろうとしている。シンジにとっての過去からの使者。世界を守るために、傷つきながら戦っていたシンジたち少年パイロットをすぐ近くで見守り、彼らへの想いを歌に託していた。互いに交流と言えるほどのやりとりはなくても、かつてのシンジの心を少しだけ救っていた存在。それが、当時はシンジと鋭く傷つけあうばかりだったアスカを不安にさせる。シンジのあの頃を完全に独占してきたアスカを苛立たせる。

 

「イズミさんは、心配してくれているんだよ。ボクのことを。ボクが義父さん(シンジ)にどう扱われているかを。碇ゲンドウが碇シンジを扱ったみたいにされていないのかって」

 

 かつての被害者が加害者になる。ミイラ取りがミイラになる。DVやネグレクトではよくある話だ。しかし、シンジはその懸念を肯定するように頷いた。

 

「僕は確かにアイをそういう風に扱っている。僕が父さんにされたように、君を道具として扱っているんだ。谷口さんの懸念は正鵠を射ている。僕には、だから、彼女に会って話をする資格なんかない」

「気持ちは勿論分かるよ。自分だって逆の立場ならきっとそう言うと思うけど。でも、シンジは父さん(ゲンドウ)とは違うでしょ。父さんはそんな事言わなかったよ。だからそれだけでも、シンジは父さんと違う」

 

 アイは苦笑混じりにそう言ったが、シンジの厳しい表情を和らげる力はない。

 

(資格ね……)

 

 アスカは思う。シンジはあらゆる事について自分にはその資格がないと思っている。ネルフの司令として人類やアスカを守ろうとしていること。アイの養父であること。アスカに心身を愛され、曖昧で道徳家からは眉を顰められそうな男女の間柄であること。全てに資格がないと思っているが、そのどの役割も抛擲(ほうてき)して逃走はしていなかった。「逃げちゃダメだ」と心の中で繰り返しながらかろうじて踏みとどまっている。もうシンジには逃げ出すという選択肢はないのだから。シンジは自分に似つかわしくない、不適格な仕事を引き受ける覚悟は少なくとも持っている。

 

「でも、話せば伝わることはあるよ。それで世界が広がる事もある。ボクもイズミさんと話して世界が少し広がったから」

 

 アイはそう言って、おずおずと小さな笑みを浮かべた。彼女はメールと電話で未だに谷口イズミとの連絡を取り合っているという。

 

「アイが話すのはまだ構わないわよ。でもコイツは女の勢いには流されやすいんだから」

 

 アスカはアイに言葉を返した。碇シンジとはそういう男だ。かたくなで頑固な芯の周りを覆っているのは男にしては柔らか過ぎる外見と反応。まるで日本刀の玉鋼のような材質の性格、それが碇シンジだった。

 

 ホテルに連れ込んで、夜の甘い雰囲気とその場の勢いと成熟した女の肢体のなめらかさと匂いによってそのシンジの外側の流されやすさにつけ込んだ夜は数知れない。その時のシンジは、強引に結ばされた関係に、男としての情けなさに、事後にむしろ消沈していたかも知れない。

 

──全く贅沢な男だわ。このあたしに抱かれて落ち込むなんて。

 

 シンジがそんな風に谷口イズミの色香に惑わされるとは流石に思わない。ただ、シンジはイズミが追及すること──それがサードインパクト絡みの事であれ、アイの事であれ──に何の反論もしないに違いない。

 

 シンジはサードインパクト以来、自分の為したことと為さなかったことについて皆から罰せられる事をむしろ望んでいた。陰口を叩かれ、彼を知らない者たちから、その実像や本質とは全く違う怪物やその正反対の聖人や一方的な犠牲者に擬せられても、公の場でも私的にも、何の反論もしたことはなかった。大学で北上ミドリに過去を追及された時には、その素性や前歴を認めようとしない事はあった。でも、それはシンジ自身ではなく、あくまで対になるアスカを守ろうとする為だったとアスカには分かっている。

 

 だから谷口イズミは何もシンジから引き出せないに違いない。だけど、アスカは思うのだ。何も反駁しない、己を守ろうとしないシンジの態度に、直に接した者たちはむしろシンジに同情するようになるのだと。自分たちが身勝手に想像していたような恐るべき怪物ではないと気付いて、シンジの中に苦悩する「自分たち」の姿を見いだしてしまう。

 

 ネルフにおけるシンジの部下たちが殆ど例外なく友人のようにシンジを守ろうとしている理由がそれだ。碇シンジに全ての問題を押し付け、あらゆる悪や怯懦を犠牲の山羊だけに眠る、自分たちとは違う特異なものとしてきた己の卑怯さに気付いてしまう。かつてはシンジの立場に共感し、今はアイに同情し義憤を隠さないイズミの正義も、それに気付けないほど暴戻で、鈍感で、無邪気ではない筈だ。誰もがシンジと同じで、誰もがシンジになっていた可能性はあるのだ。

 

 だからこそ、アスカの懊悩は続く。これまでの新たな出逢いでもそうだったが、シンジやアイの助けになるのかも知れない、今はシンジやネルフにとって手強い監視者、批判者であっても、あるいは将来的には友人や味方になってくれそうな相手をアスカは手放しで素直には歓迎出来ない。

 

 アイによって知らされた並行世界のシンジの振る舞いのように、アスカを守ってくれるなら、彼女をシンジから奪いかねないどこかの誰かに、彼女を素直に託してしまえるようなシンジほどに──シンジの無数の可能性の一つほどには──自分自身の幸せをアスカは棄てられない。

 

 アスカの幸せをシンジ自身の幸せより優先しようとするシンジほどには、シンジの幸せをアスカ自身の幸せより優先できない。シンジに捧げてきた犠牲や献身の見返りをいつか、シンジが返してくれることを彼女は知らずに期待し、求めてしまっている。この先、アスカがシンジと結ばれる可能性がどんなに低くとも、また、新しい闖入者がアスカにとって代わる可能性が極小であっても、だから、不安を完全に払拭する事は出来なかった。

 

「まあ、碇さんが、会いたくないなら会わんでもええと思いますわ」

 

 サクラはすでにエッグベネディクトを平らげて、付け合わせのサラダに取り掛かっている。

 

「でもその谷口さんという人、テレビでも時々見取りましたけど、あれは簡単には引き下がらないタイプですわ」

「へぇ、谷口イズミに続いて、あんたも医者から人相見にでも転職するの」

 

 アスカが鼻で笑うように、サクラの不吉な、そして恐らくは図星に違いないとアスカ自身も予感する見立てを振り払うように揶揄すると、サクラは首を振った。

 

「そうやなくて。……谷口さん、多分、うちと同じタイプの女ですからね。決定的な敗北を思い知らされるまでは諦めない性格やと思うんですわ」

「……」

「妻妾同居なんて阿呆な話に乗っかったのは、うちも諦めてないからですよ。そりゃ、恋愛経験豊富な惣流さんも自信あるのは分かりますけどね」

 

 シンジとしか付き合った事のないアスカの「豊富かつ未熟」な経験を見透かすようにサクラは隣のアスカに向かって小声で囁いた。アスカは鼻を鳴らして、そっぽを向いた。

 

「ふん。どうでもいいけどね。シンジにはそういうの何にも分かってないと思うわよ、どうせ子供だから」

「それはうちら共通の悩みですわなぁ……」

 

 サクラは嘆くように首を振って、共感を求めるように目尻を下げながらアスカを見た。アスカはその馴れ合いには応じず、あくまでもそっけない。

 

 シンジは先ほどのアイの取扱いをめぐる父と自分との比較に気を取られたのか、せっかくの出来立ての朝食にも手を付けず、顔の前で両手を組んで鹿爪らしい表情で食卓を見つめている。

 

「あのさ、時間もないし義父さんも食べた方がいいよ」

 

 アイは横からそう促した。彼女はすでに半分以上食べている。幸いな事にこのところ彼女の食欲は異常がなかった。

 

「いいわ、アイもそろそろ学校でしょ、あたしに任せなさい」

 

 と、そのアイの心配をアスカが引き継ぐ。

 

「シンジ、その碇ゲンドウポーズは止めなさい。食事の際の禁止事項に追加するわよ」

「あ、ごめん……」

 

 その声で初めて気づいたように、シンジが組んだ手を崩すと、向かいの席に座るアスカはわざとらしく大きな溜め息を付いた。シンジはしばらく先ほどまで組んでいた手をじっと見つめていた。

 

「ねぇアスカ。僕って父さんに似ているのかな」

「はぁ? ……別に似ていないんじゃないの?」

 

 アスカは眉を顰めて、それからバカなことを言うんじゃないのと肩をすくめて見せた。シンジはその否定的回答に安心した素振りもなく、心細そうに言った。

 

「父さんみたいになりたくはないんだ。でも今の僕が父さんよりマシだとも思えない。司令としても大人としても」

 

 碇ゲンドウ、その存在についてアスカは彼女なりに思うところがある。旧ネルフの情報が明らかになり、その機密情報に自由にアクセス出来る地位に上ってからは、かつての彼女がネルフ司令碇ゲンドウに対して感じていた威圧感とは全く違った側面を感じることが出来る。

 

 かつてのゲンドウは一パイロットであるアスカにとって、己のエリート的才幹を、きちんと評価し、運用してくれるかどうか、アスカのレゾンデートルにとっての決定権──ある意味では生殺与奪を握る存在だった。

 

 直接対話する機会は殆どなく、通常は今のアスカの職位と同じ戦術作戦部長である葛城ミサトないし副司令である冬月コウゾウを通して指揮を受けるのが専らだったから、雲の上の存在でもあり、しかし同居人のシンジを通して間接的に、まんざら知らないでもない同級生の父親であるおじさんというイメージも持っていた。

 

 当時は、加持リョウジに父性混じりの憧れを抱いて、その後、同居するシンジに愛憎を抱くようになったアスカだったが、その父のゲンドウには全く好意的な印象はなかったから、シンジとゲンドウが似ているという感覚は殆どなかったのだろう。

 

 新生ネルフに入ってからアスカが調べ上げた碇ゲンドウの経歴からは、無名の野心家だった頃の旧姓六分儀ゲンドウが国連人類補完委員会の末席に名を連ねるまでに至る硬軟両方の策謀や人心収攬の手腕に舌を巻かされたし、京都大学で形而上生物学の教授として盛名を馳せつつあった、後の腹心冬月コウゾウに近付く際にわざと喧嘩騒ぎを起こして身元引受人を頼むなど、まるで戦国武将のようなふてぶてしささえ感じられた。シンジとは全く異なるハングリーで、人間臭い風雲児の姿がそこにはあった。

 

 さらには旧ネルフ時代に、ゲンドウが進めていた綾波タイプのクローン量産、あまつさえは計画段階とはいえ、アスカやシンジのクローン化も予定していたという冷酷な態度には悍ましさよりも前に呆れかえってしまう。そんなに、この世の中で碇ユイ一人が大切で、他のあらゆる人間はどうでもよかったのか、と。同じクローン化でも、シンジのように自分自身を素体にするのとでは訳が違う。シンジの罪はアイ一人にだけ負うものだ。オリジナルは自分自身なのだから。

 

 徹底的に道具の一つとして尊厳を無視して扱われる立場になっていたと知って、アスカにしてみれば当然の事ながら、総合的な碇ゲンドウの印象は、その行状を知れば知るほど、

 

「どこまでも、いやなやつ」

 

 だった。しかし一般論として見れば、弱い心をその芯に持つ強面の野心家という属性が、異性の関心をくすぐるというのは理解できなくもなかった。

 

 妻ユイからは「とても可愛い人」と呼ばれていたというのがどこかの記録に残っていたが、それが本当だとすれば、表に見せる職業上の顔と、親しい身内に見せるプライベートの顔に強い隔たりもあったようだ。かたくなな心を芯にして、柔らかな外観や反応をまとうシンジとは正反対とも言えるし、かたくなさと弱い心をニアイコールで結べば、本質は同じで、外観や反応だけが異なるとも言える。

 

 ゼーレによる人類補完計画に乗っかって、ゲンドウが改変を目指した目標が妻ユイとの再会であったと推測されている事からも分かるように、ゲンドウの亡妻ユイへの依存と執着の強さは疑いない。

 

 しかしそれと平行して、ユイの「死後」は赤木ナオコ、赤木リツコ母子を続けて愛人にするなど女性関係を絶やさない矛盾した在り方は、碇ゲンドウが、肉体的にというよりも先ず精神的に「女に依存しなくては片時も居られない」弱くて脆い男であることも示していた。それが元来のゲンドウの隠れた本質だったのか、碇ユイという窈窕に、男の鉄腸金心を蕩かせられた結果なのかは分からない。

 

(でもそういうところは、本当はシンジにとてもよく似ているのかも知れない。シンジはあたしに別れ話をした後も、当のそのあたしとだらしなく愛人関係を続けているし。暗闘と激務の中で、ストレスも強く感じてるだろうけど、女に甘えないとやっていけないタイプなのよ)

 

 アスカがそこまで考えたところで、

 

「あ、ボク、そろそろ行かないと。洗い物はよろしく」

 

 一足早く食べ終わってスマホでメールを確認していたアイが席を立って、学生鞄を取った。

 

「ああ、うん。行ってらっしゃい」

「車に気を付けるのよ」

「何かあったら、すぐ駆けつけるさかい。安心して行っといで」

「うん。行って来ます」

 

 元気そうに玄関に向かう少女の後ろ姿──馴染み深い壱中の女子制服姿を三人それぞれの安堵と共に見送る。

 

 そして、中学生の少女がいなくなったのを見届けてからアスカはにやりと笑い、ちょっと意地悪く、シンジに言ってやった。

 

お父さん(碇ゲンドウ)と似ているかの話だけど。下半身がだらしなくなる可能性は、遺伝的に大いにある」

「ちょっと……」

 

 シンジがまだサクラがいることを心配してか、そう言って窘めようとした。しかし、アスカは平気だ。アイを嫉妬心で苦しめたくはないが、サクラに対しては必要以上に配慮する積もりはない。

 

「ま、それはあたしが厳重に監視するから良いとして」

 

 シンジはアスカの指摘に傷付いたような顔をして呟いた。

 

「別にそんなんじゃないのに……」

 

 アスカはこの場が二人きりだったなら、シンジに、彼がこれまでどれだけあたしに甘えてきたのか、ベッドの上での恥部を含めていちいち説明してやろうかと思った。

 

「自覚がないのなら余計に重症よ」

 

 マナ、サクラ、マユミ、マリ。どこまでが恋愛的で、どこまでが同情、友情、親愛、敬意なのかも分からないが、シンジが誘蛾灯のように女の子たちを周辺に無自覚に惹きつけているのも事実だ。

 

 だからそう言ってきつく睨み付けてやると、少しシンジがしゅんとなった。アスカは口の端を吊り上げて、心の中で

 

(いい気味)

 

 と言ってやった。たまにはこういう、ささやかな復讐を行い、溜飲を下げたくなる気持ちもある。

 

 サクラはと言えば、いつの間にか取り出した扇子で、微風を何故か上気した己の顔に送っている。白い扇子の上には手書きの能筆で「法界悋気」と書かれている。伸びやかな筆遣いは、サクラ自身の手によるものらしい。

 

「いやぁ、暑い暑い。そろそろ今年も本格的に夏ですわ」

 

 七月も後半に入りつつあった。この季節になると、アスカもシンジも思い出す。あの夏は今よりもずいぶん長かったということを。暮れが押し詰まるその時まで、季節は夏だった。二人はあの夏のことを一生、忘れられないと思うのだ。一生、忘れたくないと思うのだ。

 

 そして、また一生忘れられない夏がやってくる。出逢いと別れの夏がふたたび。

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