大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十八話 希望の槍

「碇司令が撮ってきてくれたMark.06の写真……バッチリ写っているね」

「うん……僕も確かにこの目で見た。右手に持つあれは紛れもなくカシウスの槍だ」

 

 消灯された室内。白衣姿のマリの操作で、プロジェクターのスクリーンに投影されたスライドは、シンジがゼーレの招きに応じて月面タブハベースを訪れた際に盗撮したものだった。

 

 画像には、黒と黄のツートンカラーに彩られた人造人間エヴァンゲリオンMark.06 が写っていた。ゼーレ所属のエヴァのその右手には、DNAの二重螺旋が集束したような特徴的な穂先の赤い長槍が握られている。

 

 ネルフ本部内の会議室。窓のないありふれた小さめの会議室だが、そこに《研究会》とだけ称して集まったのは、新生ネルフ司令碇シンジ将補、戦術作戦部部長惣流・アスカ・ラングレー三佐、技術開発部部長真希波・マリ・イラストリアス三佐の三名だけだ。会議室の使用者の名義は予約システムでは、司令部付秘書課長北上ミドリになっていたが、北上は会議室を押さえただけで、この場にはいない。

 

 普段の幹部会議には必ず顔を出す、戦略自衛隊からの連絡将校霧島マナ三佐、医官の鈴原サクラ一尉も出席しておらず、この会議の内容の機密性の高さがアスカにも窺い知れた。勿論、ゼーレによる盗聴などからは完全に遮断されているのだろう。保安諜報部長、剣崎キョウヤの能力は信頼して良いはずだった。

 

 緊張で自然と口内が渇くのを感じながら、シンジの正面に腰掛けたアスカは口を開いた。

 

「カシウスって、ロンギヌスの槍と対の存在だとされる、希望の槍──のこと?」

「そそ。カシウスってのはゼーレが付けた欺瞞名称だけどね。やっぱりゼーレが保有していたから、関連情報の操作を行ってきた訳か……」

 

 アスカの隣の席から応じたマリはゼーレの策謀を鼻で笑うように少し声を低くして言った。

 

「欺瞞──名称?」

 

 アスカは耳慣れない言葉の剣呑な響きに思わず眉を顰める。

 

 しかし、アスカにとってもカシウスの槍というのは、確かに前々からどこか引っかかる名称ではあった。

 

 ロンギヌスの槍の由来である、磔刑に処されたイエス・キリストを刺した百人長ロンギヌス(後の聖ロンギヌス)と、恐らくカシウスの槍の名の由来である、ユリウス・カエサルを暗殺した首謀者の一人、ガイウス・カシウス・ロンギヌスは同じローマ人であっても全くの別人なのだ。

 

 ナザレのイエスは共和制ローマではなく、帝政ローマ時代の人だ。「カエサル(皇帝)のものはカエサル(皇帝)に」というイエスの有名な説法からもそれは明らかだった。

 

 ガイウス・カシウス・ロンギヌスはカエサルの養子、オクタヴィアヌスの復仇に敗戦して、前42年に亡くなっている。いわば共和制に殉じた政治家だ。前6年から前4年頃に生まれたとされるイエスを処刑することは不可能だった。

 

「うん。世界中のどこの伝承にもカシウスの槍なんてものは語られていない。ロンギヌスの槍と並び称されるものの真名を隠すためのある種のコードネームだよ」

 

 マリに代わってシンジはそう説明した。いつもの黒の上級スタッフスーツを着ていて、服装だけなら、彼の亡父ゲンドウや加持リョウジと同じだったが、今ひとつ垢抜けない印象がある。しかしむしろそれでこそバカシンジだとアスカは思っている。

 

 それからマリはそれに再び言葉を繋ぐ。その二人の淀みのない連携が、アスカには少し面白くない。

 

「アンラウド・ウレディクの娘ゴレイディズを母とする、ケレドン・ウレディクの息子──百の繋ぎもつ──キリッズの息子キルッフが、巨人の長イスバザデンの娘オルウェンを求める試練の助力を得ようと、彼の第一の従兄弟であるアルスルを訪ねた折り、アルスルは望みのものを何でも与えると言った。彼が名を挙げた彼の身の回りの武器や妻以外のものなら、必ず差し上げるとね。その与えられない例外の中に、もう一つの聖槍、欺瞞名称・カシウスの槍も含まれている……」

 

 マリはその伝承に関連する固有名詞を暗誦できる程に完璧に記憶しているようだった。真希波・マリ・イラストリアスの博覧強記と抜群の記憶力には天才少女と称えられたアスカも時折、驚かされる。しかし、アスカもおぼろげながら、その伝承に関する知識を呼び起こせた。

 

 シンジと同じ大学に通っていた頃、シンジが片っ端から渉猟していた神話学・伝承学の本を、シンジが読み終わる度に、隣の席に座って同じ速度で続けて読んでいた。懐かしい思い出に、アスカの顔が思わず綻ぶ。思えば、あの頃が一番穏やかで幸せな日々だったかも知れない。

 

「つまり、アルスルにとっては母同士を姉妹とする第一の従兄弟に対する助力であっても差し出せなかったほどに大切な槍が、ロンギヌスの槍と対になる聖槍──なのね?」

 

 マリはそれを静かに首肯し、説明を続けた。

 

「アルスルは、白き竜を踏みつぶすことを予言されたコーンウォールの猪──竜と蛇を征服してきた──多分、人類社会の最初のリーダーは治水の英雄だからだね。竜や蛇は蛇行氾濫し荒れ狂う河川、水の象徴だから──ペルセウス=アンドロメダ型神話として語り継がれる鋼の属性を持つ人類の英雄たちの中でも最も名高い存在。彼の持つ槍は古文献で、ロンとかロワと様々に呼ばれ、おそらくはルインとかルーン、あるいは黄金のアッサルの槍とか、『森で一番名高いイチイ』と呼ばれたルー神の持ち物だった槍とも関係がある。これは実際、恐ろしい槍だよ。持ち主である王の片目を潰したことさえあるんだから──」

 

 そう言って、マリは言葉を区切り、意味ありげにアスカの青い瞳を見つめた。確かに、アスカの左目は量産型エヴァの投げつけたロンギヌスの槍で傷付けられた事がある。マリはその事を連想したのだろうか? しかし、アスカの左目の傷はとっくに癒えている。別に失明したり、眼帯をしているわけではないのだ。マリの反応は、アスカにはいささか過敏なもののように思われた。

 

 ともあれシンジとマリの説明で、アスカにも槍の真名が──すなわちその正体が段々と飲み込めて来た。

 

「その真名は、打ち手の槍──そうよね?」

 

 固有名詞だけは慎重に避け、その意味だけを挙げて、アスカは言った。まるで真名を明かすことが、災厄をもたらしかねないとでも恐れるように。シンジは流石アスカだね、と小さく呟いて、おもむろにアスカに向かって頷いてみせた。

 

 しかしむしろアスカにとって、その賞賛は遅過ぎた真相の看破に対する過分なものであり、(ほぞ)を噛ませるものだった。──ロンギヌスと対になる槍としては余りにもその真名は著名に過ぎ、その事に今に至るまで気付けなかった己の不明を恥じるほかはない。とはいえ、アスカとしてはその見抜いたはずの真相全てに納得が行っている訳でもなかった。

 

「でもその槍は──その槍が伝承として語られる地域は、ロンギヌスの槍を語り伝える、ローマやヘブライ人の地(カナアン)とは遠くかけ離れているわよ……」

 

 アスカはそう言って当惑気味に首を傾げる。シンジは少しずらした話題で問い掛ける。

 

「アスカは、なぜ、ロンギヌスの槍が絶望の槍と呼ばれるのだと思う?」

 

 勿論、一つには、ロンギヌスの槍はアンチATフィールドを発生させるデストルドーの槍であるのがその理由だ。溶け合う心が、私を、壊す。個と自我を保てなくする槍だから、絶望の槍と呼ばれる。生を渇望し、ATフィールドを発生させて個を保とうとする希望の槍、カシウスの槍とは対極の存在だった。

 

 だが、今シンジがアスカに訊ねているのは神話・伝承上において、なぜロンギヌスの槍が、絶望の槍とされるのか、なのだろう。だから、アスカはシンプルに答えた。

 

「それは──イエス・キリスト──(しゅ)を殺した槍だから?」

「そう。救世主(メシア)を世界から奪って神の御許(みもと)に返した。人類に与えられたのは絶望だった」

 

 シンジは少しの間だけ静かに目を瞑る。彼自身がサードインパクトで為した行為──いや為さなかった行為により──人類に与えた絶望を想う。その反応に、アスカはギクリとなって、思わずシンジに声を掛けようとする。──シンジは救世主でも、主でも何でもない。只の人間なんだ。彼が背負わされているものは、本来彼が背負うべきものではなかったのだ、と。しかし、シンジはすぐに口を再び開いて、アスカにその為の(いとま)を与えなかった。

 

 アスカは真剣な顔をしたシンジを前に、そっと溜め息をついた。シンジが過去を悔やむのなら、自分はそれを慰めてやるしかない。だけど、シンジが尽きせぬ後悔に膝下まで沈み込みながらも、すぐさま下ではなく前を向き、一歩ずつ進もうとするのなら、アスカも同じ未来を進むだけだ。

 

 シンジはアスカを正面から見て言った。

 

「異名同体の槍たちの中で、主を実際には殺していない槍なら、神殺しの原罪からは自由なんだ──ロンギヌスと全く同じ存在である槍が、全く別の神話・伝承を持つ別の文化圏のものならば……その槍はロンギヌスに対抗し得る《希望》となる」

「でも──別の神話・伝承なら、それはやっぱり──別の槍なんじゃないの?」

 

 アスカは今は亡きミサト譲りの赤いジャケットの腕を前に組みながら、当然の疑問を投げ掛ける。頭の中には、シンジも知っているはずの、ロシアの民俗学者、ウラジーミル・プロップの学説があった。プロップは魔法昔話の構造を31の機能と、7つの行動領域に分類し、僅かな記号で如何なる物語も分析出来ることを証した。それは畢竟、類似性のある伝承間の特別な関連性の否定であり、人類の想像力の普遍的同一性とその限界を示すものではなかったか。

 

 しかし、シンジは首を横に振った。

 

「印欧語族に共通する原神話の存在を仮定する学説は多い。それに僕たちは第1始祖民族や古代タルテソス王国の超文明を既に知っている。神話や伝承を単なる人間の想像力の産物だと切って捨てることは出来ない」

 

 そして、シンジは例を挙げる。これは、カシウスの槍とは一応、直接には無関係な話なんだけど、と前置きをして──

 

「例えば、北欧の光の神バルドルを弑したのは、盲目の弟神ヘズだ。彼が投げたヤドリギ──ミスティルテインだけが、不死の神バルドルを傷つけることが出来た。そして百人長ロンギヌスも、また盲目だった──少なくとも目に障害を負っていて、ロンギヌスによって刺されたイエスの脇腹から流れ出た血によって、その眼病は癒されたと言われている。そしてバルドルにもイエスにも死後の復活の伝説があるんだよ」

 

 マリがシンジの説明を補足するように更なる関連性に言及する。

 

「ジェイムズ・フレイザーが『金枝篇』で報告した、『王殺し』=『祭司殺し』も、金枝すなわちヤドリギを折り(きた)る者が、森の王という祭司を殺して、次の王となる。王の死と再生の物語だよね」

 

 主と王では違うという反論は不可能だった。なんとなれば、主イエス・キリストの罪状は、ユダヤ人の王であることであったからだ。彼がローマ帝国によって磔刑された時の罪状書きには、INRI──IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM──ユダヤ人の王、ナザレのイエスと書かれていたし、キリスト教世界ではその死後も、主を世界の王とか、王の王、王中の王と呼ぶことも一般的だった。

 

 それから彼女は改めてアスカを試すように、悪戯っぽく訊ねた。

 

「──聖ロンギヌスとバルドルの弟に共通する盲目という属性は、何を意味するのか。姫なら分かるかな?」

 

 アスカはしばし口を噤む。でも、答えは素人目にも明らかだった。むしろ、これまで神話学者たちが誰もこれに言及していないのなら、不思議なぐらいだ。

 

「それは──光の喪失」

「そう。やっぱり姫は賢いね。この神話の構造は、光を喪ったものが、光をこの世から──いや他者からも奪うというものなんだ。まるで自分の味わってきた孤独、闇と同じものの中に世界や他者を閉ざそうとするように」

 

 マリが説明したその感覚はシンジにもアスカにもよく理解できた。サードインパクトのトリガーとなったのは、シンジとアスカに共通する、孤独の感覚だったのだから。

 

 ──みんな死んでしまえばいいのに

 

 あの時、シンジが心の底からそう願ったのは、希死念慮の拡大版だった。だけど、シンジは本当は消えてなくなりたい訳ではなかったのだ。

 

 だから、あの願いは実はこう言い換える事も出来る。むしろそう言い換えるべきだった。

 

 ──みんな僕と同じ孤独だったらいいのに

 

 そのシンジの気持ちが、今のアスカにはよく理解できる。二十年近く、シンジの側に寄り添って、時に離れ離れになり、時に関係の破局を宣言したとしても、それでも結局アスカはシンジから離れられなかった。シンジがアスカと同じ、親との関係に起因する心の傷を負っている事をアスカは知っている。だから、シンジを見捨てる事は出来なかった。シンジを救うことで、アスカ自身も救われたかったのだから。シンジの中に、希望を見たかったのだ。

 

 北欧神話のトリックスター、ロキが使嗾した結果が、バルドルの死による光の喪失と、神々の黄昏──ラグナロクの到来だ。

 

 そして、ラグナロクと同じように、光を喪った世界には十九年前、サードインパクトが到来した。

 

 アスカはシンジと、世界にたった二人ぼっちで過ごしたあの赤い海の浜辺の夜を決して忘れることはないだろう。

 

 アーリア人に共通する原印欧神話の中の《この槍》は神殺し、光の抹殺、希望の断絶に深く繋がっている。その例外が、鋼の英雄アルスルの持つ、欺瞞名称カシウスの槍なのだ。

 

 アスカはそれでもまだ懐疑的だったが、シンジとマリの調査能力は信頼している。

 

「……学術的な態度としては、お互いの神話の影響関係を疑う必要は当然あると思うんだけど。──でもまあ良いわ。シンジとマリは、原印欧神話の実在を想定していて、複数の相同する槍は、そこから派生した別々の神話・伝承によって各々、奉じられた聖槍だと信じているのね」

 

 シンジとマリはそれぞれに肯いた。

 

「もしかしたら古代には、あたかも名刀に『写し』が作られるように、聖槍はもっと沢山あったのかも知れない。二十世紀の核兵器や、現代のN2兵器や量産型エヴァのように世界を破滅させかねない危険な大量生産兵器として……。ミスティルテインやルインは多分、その既に喪われた《同型槍》なんだろう。でも僕らが今、存在を確認できるロンギヌス級聖槍(Longinus Class Holy Lance)は二種類だけだ。そのうちの一本は、言うまでもないけど、僕が本部決戦の時に月軌道から回収したロンギヌスだ。そして、今回、月のタブハベースで、カシウスが見つかった」

「見つかったというよりも、司令の前にこれ見よがしに陳列していたような印象だけどね。これまで彼らが丹念に欺瞞し、隠蔽していたものを、今になってわざわざ、碇司令に見せつけるように開示した理由は何だろう」

 

 シンジの言葉を混ぜっ返しながら、マリは鋭く疑念の光を照射する。

 

「……さあ。示威、威嚇、牽制、挑発。あちらさんの理由は色々あると思うよ」

 

 表情から巧みに本心を韜晦させたシンジの応答に、マリは更に悪戯っぽい表情を閃かせる。

 

「そうかにゃー。ゼーレがカシウスの槍の保有を暴露した事については、もっとすっきりする説明があると思うけどにゃ」

「何よ、もっとすっきりする説明って」

 

 思わず二人のやり取りにアスカは割り込んでしまったが、妙にムキになってしまったのは、シンジが絡んだ話だからだろうか。マリは人差し指をピンと立てて解説した。

 

「碇司令はカシウスの槍の情報を、タブハベースに向かう前に知っていた。既に知られてしまった情報だから、ゼーレは隠蔽を止めたんだと考えれば、理屈は綺麗に通ると思うけど?」

「……」

 

 急に出来る女の仮面を付けてマリが指摘すると、アスカには室温が数度下がった心持ちがした。シンジは無言、無表情であり、その態度がすなわち真相を物語っていた。マリの指摘はシンジが独自の情報網を保有し、ゼーレ内部の情報を収集していることを示していた。シンジにとっても、諜者にとっても相応の危険を伴う危ない綱渡りだ。しかも情報漏洩が露顕しているとすれば危険度は一層高まる。アスカは唇を噛みしめ、そっとシンジの顔を窺った。

 

 ──年齢は既に倍以上になってしまっている二人だが、空母オーバー・ザ・レインボーの艦上で出逢った十三、四の中学生の頃と、本質的には変わらない、のほほんとした顔、夜になっても薄いままの髭、柔らかいままの頬の下に碇シンジはあたしの知らない顔を隠している。

 

 そんな一面を自分だけが知らずに、マリには薄々だが感づかれていた事が妙に腹立たしい。シンジがアスカに隠している冷徹な顔は、本来ならシンジがする必要もなかった、アスカを守るために無理やりに身に付けた冷たさなのだ、と思えば尚の事だ。

 

 でも、アスカにはそれをどうすることも出来ない。シンジが己や部下を危険に晒し、アスカの為になら──いや、それはアスカだけではなく人類全体の為なのだとしても──最終的にはシンジ自身をも含めたアスカ以外の誰かを犠牲にする覚悟が出来ていることを。

 

 アスカに今、出来る事と言えば、シンジがアスカにだけは隠しておきたいその冷たさに、出来る限り気付いていない振りをしてやる事ぐらいだ。

 

 だから、アスカはマリの指摘にそれ以上、関心を払わない振りをして、話題を不器用に転換する。

 

「しかし──手持ちが何も無いよりはマシだけど、世界救済を目指すこちらにあるのが絶望の槍で、人類滅亡を企むあちらにあるのが希望の槍だなんて皮肉なものね」

 

 アスカはシンジに向かって肩をすくめてみせる。

 

「神を殺せるのは神殺しの槍だけ──アンチATフィールドを張って、あらゆるATフィールドを侵徹出来るのはロンギヌスの槍だけだから、この際はそれで良いのだと思う。カシウスに出来るのは、ロンギヌスのアンチATフィールドを中和して、その侵徹力を無効化することだけだ。希望は絶望に効くクスリでしかない。希望の槍は、戦いに勝利した後で奪えばいい」

 

 シンジにしては珍しく昂然として不遜な顔で言い切ったので、アスカはなぜか頬を赤らめた。

 

 ふいにシンジとの夜の情景──それもアスカではなくシンジが積極的にリード出来た夜──が頭をよぎり、余計に頬の火照りが熱くなる。アスカは慌てて頭を振って、妄想を振り払う。

 

 確かに、シンジはいくら気弱でも男なのだ。アスカがどれだけ気丈でも女であるのと同じように。冷たい裏の顔を隠して、非情な策謀で女を密かに守り、最終的な解決手段として、強引な暴力を決して放棄しない──そんな風に、彼はどこまでも男なのだ。

 

 とはいえ、その暴風のような力がアスカには向かわず、アスカの敵にだけ向かうことを彼女は確信している。それはあのサードインパクトの後にシンジがアスカを絞殺しようとした経験にも関わらず、いや、だからこその、揺らぐことのない確信だった。

 

 ──シンジは二度とあたしにあんな事をしない。

 

 だから、アスカはにっこりと笑って、シンジをもう一度見る。

 

 ──たとえ、恋人ではなくても、最終的に結ばれ得ないのだとしても、シンジはあたしの男なんだ。不器用で、優しくて、心配性で、アスカを守ろうと足掻くだけの「冴えない男の子」。あの空母の甲板上での初印象はちっとも変わっていない。

 

「そうそう。それに異名同体の槍たちの違いは、私たちが思ってるほど大きい訳じゃないよ。その来歴で神殺しの原罪を背負っているかどうかの違いだけなんだ。実際、ロンギヌスの槍には、傷付ける力だけではなく癒やしの力があると伝えられている。希望は絶望、絶望は希望。同じ事の表と裏でしかない。最も強い希望は、絶望から生まれるんだよ」

 

 アスカを安心させようとしてなのか、マリがお得意のC調で明るく言葉を返す。それが努力しての明るさだとしても彼女には容易にそうと気取らせない飄々とした強靱さがある。

 

 そしてその言葉に──確かにそうだ、とアスカも心の中で同意する。

 

 サードインパクトが発動した時の、シンジの

 

 ──みんな僕と同じ孤独だったらいいのに

 

 という他者を拒絶するATフィールドの力は、彼の孤独と絶望の中から生まれて、人類の個と自我を保つ希望となった。シンジとアスカが絶望の中でお互いを拒絶する気持ちは、お互いをあくまで別々の人間として生存させる希望となったのだ。

 

 絶望の中からも人は希望を摘み採れる。

 

 アスカたち人類はサードインパクトで種としては一旦滅び、そこから再び生還したのだ。主や王がその死から再生したように。冬に枯れ果てた草木が、春になれば戻ってくるように。

 

 人類は一度、滅びの運命をその火口の縁から覗き込みながらも、世界をその手に取り戻した。

 

 そして、その取り戻した世界を二度と奪わせまいとするのがシンジがアスカたちと共に再建した新生ネルフだった。

 

 フォースインパクト発動を阻止し、使徒を覆滅させる。それが国連憲章にも規定された新生ネルフの使命だ。

 

 シンジは前にこう言った。

 

『……僕は特務機関ネルフの司令だ。フォースインパクトを防ぐのが僕の仕事であって、それを果たすのが僕らに安全を付託してくれた全世界の納税者への義務だ』

 

 そしてまた、こうも言っていた。

 

『……人類を守るなんて、僕の力だけでは到底無理だけど……みんなの助けを借りてやっとの難行苦行だけど、でも僕の力だってその中に無かったら無理なんだ……思い上がりかも知れないけど、そう思って仕事をして来ました』

 

 どちらもシンジの大切な想いを乗せた言葉だけど、アスカは、弱音を吐き出しながらも必死で自分を叱咤しつつ、身の丈以上の責任に振り落とされまいとしがみつく後者の言葉が、生身のシンジの声により近いようで、好きだった。

 

 ずっとそんなシンジの声を聞いていたかったのだ。

 

 だから、アスカは絶望なんてする訳がない。シンジがいる限り。最後にはまるで相聞歌を詠むような調子でこう言った。

 

「サードインパクトの星一つ無いあの夜にも、ちゃんと夜明けは来たわ。あたしはあの時、シンジと手を繋いで、他のみんなが帰ってくる世界を望んだ。あたしが心の奥底でそう望んだから、シンジもそう望んでくれた。シンジが心の奥底でそう望んだから、あたしもそう望んだ。あの地平線に昇ってくる曙光を私はたぶん一生忘れない。あれは世界にあたしとシンジだけがいた時に、二人占めしていた最後の朝日なんだから」

 

 マリは、それを聞いて見事な口笛を吹いた。

 

「姫ぇ、今月一番の惚気をありがとう。二人とも御馳走様♪」

 

 アスカはそれでシンジと二人だけではなかったことをようやく思い出し。シンジもその言葉の最中はアスカの顔だけを見、声だけを聞いていたことを自覚して──

 

 アスカとシンジは、ひどく赤面した。

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