大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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六十九話 パラダイスロスト・前編

 夏の日差しは木洩れ日となって、二人を照らす。天を突くほどに背の高い木々が、遮光カーテンのようになる小径に入って、ようやく二人は一息付いた。

 

 一人は惣流・アスカ・ラングレー三佐、国連直属の特務機関ネルフの現・戦術作戦部長。かつての葛城ミサトの地位を占める国際公務員にして女性士官(ウェーブ)だ。既に三十前半だが、未だ若々しい華やかさがある。彼女の金髪が、いま、木洩れ日の当たった所だけキラキラと光輝いている。今や世界の敵は使徒──旧約聖書やカバラ文書に書かれた通りの奇っ怪な姿形をした──Angelと呼ばれる神の御使いで、それが如何なる神罰なのか、人の世を終わらせるためにやって来る。しかし、それと戦うアスカだけは世界の敵ではない天使本来の優しく、美しい輝きを表しているようだ。

 

 今日の彼女はピンクのアウターレイヤーの下に、ライトグリーンのミドルレイヤーを重ねた登山ウェアに身を包んで、軽量タイプの登山用リュックを背負っている。華やかなばかりではなく、凛々しくもあり、背筋をピンと伸ばした姿は歴戦の軍人らしくあった。新生ネルフの幹部の一人であると同時に、彼女がネルフの司令碇シンジの愛人だという噂は組織内外の公然の秘密だった。噂だけ知って、彼女自身を知らなければ、幹部の地位も不当に獲たものだと思うかも知れない。清楚な姿だけ知って、噂を知らなければ、彼女にスキャンダルの匂いを嗅ぎ取るものは絶無だったろう。

 

 それに扈従するように後に続くのは、中学生ぐらいの少女で、ユニセックスなシャツとGパンに、小さめのリュックを背負っていた。再建された第3新東京市立第壱中学校に在籍する、碇シンジの異性型クローンで、表向きと戸籍上はシンジの養女となっている六分儀アイだった。当代唯一のチルドレン──エヴァパイロットとして、今はネルフの訓練に従事しつつ、シンジ、アスカ、それに医官の鈴原サクラと一緒に広壮なシンジの官舎で暮らしている。

 

 アイは中学生時代のシンジによく似た──というよりは、まるで一卵性双生児のようにそっくりの──しかし、性別の違いは適切に反映された柔和な顔の上で眉を少しひそめ、片手で作った目庇(まびさし)で真夏の陽光の猛威を少しでも弱めようとしていた。

 

 今、アスカたちは強羅絶対防衛線から西に掛けての予定戦域を、要所に絞り込んで間は車で移動しつつだが、実地に歩いて確かめている。アスカはやがて来る使徒来寇の際の上級指揮官として、アイはその人類最大の防衛戦に投入されるエヴァンゲリオン初号機F型のパイロットとして、自らの五感で現地の自然な地形のみならず、それに加えて水系・植生・交通網・集落など人為的な改変をも含む、総合的な情報大系としての「地勢」を確かめているのだ。

 

「でも確かめるって具体的にはどんな事を?」

 

 アイの質問にアスカはそうね──と、暫し小首を傾げ、それから近くの崖を指差して言った。

 

「例えばよ。この一帯を制圧する為に、あそこの崖の上に、特科……つまり砲兵部隊を上げるとするわ」

 

 アスカは自衛隊用語で言いかけてから、アイにも分かりやすいように一般的な用語で言い直した。新生ネルフに入ってからアスカが受けた士官教育は──パイロット時代に受けた速成のものとは違って──、新生ネルフ初期に戦略自衛隊からの出向者でまかなわれていた教官から受けたものだ。 

 

 公式にはネルフ幹部の暴走と陰謀として処理されているサードインパクト後、ネルフは国連憲章を厳格に遵守し、民主国家である駐留国日本政府に敵対的でない事を条件として再建されている。裏死海文書の知識と引き換えにその将来の代表たるをゼーレに約束された当時のシンジは、父や多くの大人の知人を戦略自衛隊の侵攻で失った身でありながら、内心はどうあれ条件をあっさり飲んだ。だからネルフの今の士官教育は戦自の影響を強く受けている。

 

 アスカはそこから暫し、回想の海に沈む。赤い海ではなく、彼女の瞳の色のように澄んだ青い色の海が戻ってきた時代だ。

 

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『使徒覆滅とフォースインパクト阻止を掲げる国連憲章に忠実なのは悪いことじゃない。むしろいざという時、ゼーレに対して抵抗する根拠になる。それまでは面従腹背を貫くとして……ね』

 

 かつて、ダブルベッドの上、シンジはシニカルな笑みを浮かべて天井を見つめながら、傍らで行為後の気だるさに身を委ねていたアスカにピロートークとして語ったものだ。サラサラと寝台の上を流れる長い金髪を梳くシンジの指先の動きの優しさとともにアスカはシンジの言葉を覚えている。

 

 ゼーレがネルフに求めた足枷は国連によるガバナンスを制度化する中で、微妙に変質する。サードインパクトで大きな被害を受けた世界の輿論と、それに対する人類社会の大義という名の建前は、ゼーレ自身が求めた国連憲章の改正の中にゼーレに対する劇薬を含める事となった。新たなネルフはフォースインパクト阻止の大義名分を公然と掲げる組織となったのだ。またそうでなければサードインパクト発動の陰謀の主役とされたネルフが再建される道理もなかった。

 

 真のサードインパクトの首謀者として闇に隠れる陰謀論の黒幕の意向と、自由で公開の討議によって結論が決まるデモクラシーの世界とのせめぎ合いがそこにはあった。 

 

 さるアフリカの新興独立国の国連代表が初めて出席した総会の演壇の上、旧宗主国フランス訛りのキツい英語で、訥々と要求した「人類によるフォースインパクト陰謀勢力との闘争の貫徹」が彼女の独立闘士としての名声もあって、予期せぬ感動と満場一致の憲章改正という結果を招来したのだ。

 

 美しい漆黒の(かんばせ)の両頬に伝う透明の二筋の流れが──ちっぽけな小国の英雄として、独立当初の不毛な権力闘争の中でその盛名から却って国連代表部に厄介払いされた政治的には無力で、杖を突き跛を引いた哀れな女の──それは独立戦争中に地雷を踏み抜いたためと伝えられる──次第に声を涸らすように声量が高まっていった演説の一言一句が──そして、彼女が語る、赤い海から帰ってはこない弟の想い出が──キール・ローレンツの思惑を出し抜いたのだ。

 

『シンジが受け入れた国連憲章への服従が、あの人の演説と相俟って、ゼーレに一矢報いたのね』

『あの人に比べたら、僕は何もしていない。彼女の弟の事だって……』

 

 そっと目蓋を伏せたシンジの首にアスカはかじり付くように腕を絡めた。

 

『前にあの人の話をフランスのニュースで見たわ。NervのGénéral Ikariを信頼していると言っていたわよ。憎むべきは元エヴァパイロットではないってね』

『ありがとう。僕への肯定的なニュースはどんな小さな記事でも見逃さないよね……アスカは』

『あら、でもLe Mondeの記事よ。そりゃ……1面では無かったけど』

『……ねぇアスカ。もう一度シていい? アスカがその……好き……なんだ』

 

 それを愛の告白ではなく、単なる睦言の延長と理解して──それをアスカは度々聞いているが真剣には受け止めない──、しかしアスカはその台詞で再び、女の内奥がじゅんと濡れるのを感じた。

 

『ちゃんとまたゴムをして。それから私の耳許で囁いて。アスカの中に入りたい。アスカに包み込まれたいって。そうしたら、また包み込んであげる。あんたのお母さんのように……優しくね』

 

 シンジはそれを真剣に、誠実に履行する。アスカの耳許で、小さく彼女にだけ聞き取れるように囁く。頬を紅潮させながら。それは聞くアスカの方も同じだ。赤くなった頬同士がその熱気が感じられる程、触れんばかりに近づく距離で、シンジはアスカを求めた。

 

『アスカの中に入りたい。アスカに包み込まれたい。僕にそんな資格がないのは分かってるけど、アスカに優しくしてもらいたい』

『ばかね……資格だなんて。でもおいで……優しく締め付けてあげる』

 

 それからシンジは再びアスカを抱いた。シンジとアスカの関係が比較的小康状態で、愛人関係が虚無感を漂わせながらも、週に複数回の逢瀬に及ぶこともしばしばな時期だった。それでアスカからではなく、シンジから男らしさを発揮して交接出来たのだった。もちろんそう出来たのはアスカがその女の声で優しく誘惑し、シンジの男の部分を鼓舞したからだ。

 

『……日本国憲法に忠実なのは、それを日本に押し付け……もとい、制定させた米国に忠実なのとは必ずしもイコールではない──と言うのと同じロジックなわけね』

『それは……僕は日本人だし。柔よく剛を制する。相手の強さや押し付けられた制約条件を利用して勝つしかないわけで。考える事はどうしても先人と同じになるよ……』

 

 再びの寝物語の中で国連憲章とネルフとの関係を議論しながら、大学の時に言葉通りの意味において死ぬ気で勉強をしていたシンジの光景がアスカの脳裏に浮かぶ。生物学専攻でありながら史学や防衛学の講義にまで潜り込んでいたシンジの姿を。その鬼気迫る勉学への姿勢はなぜか胸を打つ光景だった。

 

 それが思い出されるとアスカは何だか悔しくて、剥き出しのシンジの乳首をつねりながら応じた。

 

『痛い……!何するんだよ!』

『ずるい日本人に、アメリカ国籍の私からお仕置き』

『お仕置きって……今日は何もしてないよね!?』

 

 ふんとアスカは鼻を鳴らした。それからシーツを半ば顔まで引き上げ、ぼそりと呟いた。

 

『……いつもより大きかった』

『え!?』

『あそこが壊れるかと、少し怖くなるぐらいだった』

 

 拗ねるように言って、アスカはそっとシンジの下半身に右手を伸ばした。細く白い指先で尖端をそっと嬲るように弄る。かむり掛けていた包皮をまた優しく剥いてやる。『痛くない?』と視線だけで確認し、無言で頷くシンジに安心する。先ほどアスカ自身の手でそれを覆っていたゴムの膜を外して、シンジが放出した中身が漏れ出ないように結んで、ホテル備え付けのゴミ箱に捨てたところだ。ゴム越しとは違う温かく脈打つ感触にアスカは女の表情で赤面した顔をシンジの胸の中に埋める。

 

『お、大きいって……』

『もちろん、ココがよ』

 

 アスカは指を離さない。さするように少しずつ律動させながら、その行為と台詞をはしたないと自覚しつつ、恥ずかしそうに言った。

 

『そ、そうかな。……自分じゃ分かんないよ』

『二回目なのに荒々しくて、包み込んであげる積もりなのに、途中からわけが分からなくなった。……お母さんなんかじゃいられないわ。やっぱりあたしはシンジのお母さんの代わりにはなれない。シンジのコレ──おち×ち×が好きだと自覚したら、あたしはやっぱり女なんだと分かった。大好きなのよ……コレが』

 

 シンジが内心で欲する母性愛はかなぐり捨て、情欲に囚われ、吐息は荒く、上気するアスカの顔を見ながら、シンジは少し怪訝そうな表情になって確認した。

 

『それって……僕本体よりも?』

 

 その時、アスカは口の両端を吊り上げて、サメのようにニンマリと笑っていたと思う。

 

『そうだと言ったらあんたが傷つくかも知れなくても、今は、そうよ。あたしはあんたを裏切らないけれど、多少はあんたの心を傷つけたい。あんたの心にあたしだけの噛み跡を刻みつけたい。また元気になったのなら、入って来なさい。あたしの中に。不意打ちでいいから、もうそのままで。土足であたしの心を蹂躙するの。今のあたしはナマのシンジに陵辱されたい。ずっとバカにしていたバカシンジに女として屈服したい。バカなのはあたしの方だったんだって』

 

 今までシンジのものを撫でさすっていた白い指を今度はシンジの指に絡め、固く手をつなぐ。シンジは少し怯えたように言った。

 

『で、でも大丈夫なの。付けないでするのなんて久しぶりじゃ……』

『今日は大丈夫なのよ。さっきまでのコンドームは念の為なのと、その方がエロいと感じたから。付けるときと外すときと結んで中身ごと棄てるとき、みんなエロいでしょ? でも今は何も付けずに、肌と肌、性器と性器であんたを感じたい。男と女は永遠の彼岸にいる存在だけど、同性同士では絶対に出来ない事が出来る。シンジが中で果てるのを感じさせて。あたしを屈服させたシンジが結局はあたしの中で屈服するの。女を征服した男が女の中で囚われるの。束の間の勝利に酔いしれながら、あたしの中で果てて、孤城で包囲される負け犬になりなさい!』

 

 そこから雪崩れ込んだ三回目のセックスが終わった後に、アスカは自分が昂奮し過ぎて、滅茶苦茶な事を口走っていたのを自覚して、シンジの胸の中に再び埋めた顔を長いこと上げられなかった。

 

『さっきまでのは……その……決してホントのあたしじゃなくて』

『すごく可愛かったよ』

 

 シンジは柔らかく、アスカを庇うように言った。言いながら、またアスカの金髪を梳くように撫でている。シンジはこの滑らかな髪質を梳く手櫛になるのが好きだった。

 

『屈服とかそういうのはどうでもよくて……』

『分かっているよ』

 

 むずがるようなアスカをシンジは落ち着いた声で宥める。

 

『……何というか、失敗したなって感じなのよ』

『気持ち、良くなかった?』

 

 シンジはそこで初めて心配になり、胸の中のアスカの表情をそっと窺う。しかしアスカはシンジの平たい胸に押しつけたままの首を器用に左右に振った。アスカの胸はシンジのお腹に押し付けられて潰れている。そしてアスカの表情は瞼を半ば伏せ、含羞の色を浮かべている。

 

『ううん。気持ちはすごく良かった。だから失敗なの。理性がいっとき無くなっちゃった感じ』

『僕は誤解してない積もりだよ。理由に納得は出来なくても──だからそれでいつも後ろめたくても、アスカが僕自身に優しくしてくれるのも分かっている。そんな、僕の一部なんかと比べたりはしてないって……』

『いや、それはそうじゃないのよ、あの時はシンジのおち×ち×の事で頭がいっぱいだったのは本当で。だからゴメン。本当に抱かれたくて、繋がりたくて、濡れている所にゆっくりと入ってもらいたくて、奥をコツコツとしてもらいたくて、中に出されたかったの。バカシンジの事が欲しかったのよ。バカなあんただからすごく欲しかった。冴えないシンジの愛人でも良かったと思えた。あんたのこと本当はイケメンだって言う子もいるけれど、やっぱりあんたはイケメンなんかじゃないわ』

 

 アスカはシンジの中性的で整った顔立ちを見つめた。少し女の子みたいだな──と声も、顔も。そう感じたのはアイに出会うずっと前からだっただろう。

 

『でも──あたしの中で果てた時、ギュッとあたしを抱きしめてくれたわね、しがみつくように。それがとても可愛かった。中学生の時からあんたが可愛いと思ってた。たぶんオーバー・ザ・レインボーの艦上で初めて会った時からね。いつも可愛いのに、今日の二回目の時、可愛いあんたが思いがけず大きくなってくれていて逞しかったから、あたしは情緒がおかしくなった。でもギュッとしてくれた時、やっぱりあんたは可愛いと思った。離れたくなかったんだね、あたしと。離れたら、寂しいものね』

 

 アスカは頬をシンジの胸にすりすりと擦り付けている。シンジの平たい胸から彼の体臭を吸い込みながら、女の膨らんだ胸より、男の平たい胸の方がどんなにかセクシーなことかと思った。それから上目遣いでシンジを見つめ、言葉を続けた。

 

『高校の時、一度別れて、すぐにあんなことしなければ良かったとお互いに思ったでしょ。尽きせぬ後悔があって、でもその時は会えなくて──だって会ってしまえばまた同じことの繰り返しだもの。だから我慢して我慢して、やっと再会できた。それを即座に思い出した。だからさっきオーガズムに達した時、下半身の事はどうでもいいと思ったのよ。きっともっと大事な何かがある。繋がったままなのは嬉しかったし、もちろんまだ気持ちもよかったんだけど』

 

 シンジにはアスカの心の動きはよく見えなかったが、言葉とは裏腹に三回のセックスが彼女を心ゆくまで満足させたことはわかった。女になることは、彼女にとってとても幸せなことなのだと理解した。下半身の欲が十分に満たされれば、相手の心に迫る余裕も出来る。それも男と女のコミュニケーションのリアルな形だった。

 

『えっと……いつもより、えっちなアスカも可愛かったよ……僕もずっと繋がっていたかった。一つでいたかったよ。そんなに長く保たないけどね』

『ばか』

 

 艶めいたアスカの回想はしかし、シンジと同質の少女の声で中断された。声の主を見つめると、そこにはシンジの顔をした少女が現実の存在として目の前に立っている。

 

「アスカ……、アスカどうしたの?」

「あ、ごめん、シ……アイ。えっと何の話だったっけ」

 

 ついシンジと呼びそうになり、慌てて名前を呼び変える。絶頂感の記憶に潤ませかけていた蒼い瞳を瞬かせる。上気した顔の火照りを冷ましたくて、首を振った。アイはそれを気に止めるでもなく、話題を戻そうとする。

 

「あの崖の上に、砲兵部隊を上げたら……という話だったよ」

「そう、だったわね……高所を占めれば、広範囲の射界が得られ、位置エネルギーも味方に付けられて非常に有利よ。でも高所に上げるのにも、必要な情報、準備、段取りが必要になる。上までの運搬ルート、渡河の要否、崖の上の広さと岩盤の堅固さ、そこから導かれる、兵を何人上げられるか、上からの視界、近くまでの舗装道路や鉄道の有無……もちろん地図で分かるものもあるけれど、実見に勝る情報はない。戦場に立ったその日に初めて見るのでは心許ないから」

「衛星とかでは確認できないの?」

 

 アイは小首を傾げる。自分で志願して付いて来たので不満ではないが、踏査というアナログな手段へのこだわりは不思議に感じる。

 

「むろん出来るわよ。……日本政府の内閣衛星情報センター(シーサイス)からは、IGSの光学衛星の撮影画像と、レーダー衛星のSAR(サー)(合成開口レーダー)のRAWデータが得られるけど、ネルフが得られるのは政治的理由により『常に』数日あるいは数週間あるいは数ヶ月過去のもので、リアルタイムのデータではないの。だからマギセブンにはランダムにずらされた過去時点情報からの未来予測をさせる必要がある。戦自が貰えるデータと較べるとかなり精度が劣るのよ。……それに第一、画像には高さがない」

 

 半ば振り向いたアスカは片頬でにやりと笑った。

 

「実際問題としてあの崖の上に、砲兵を上げられると思う?」

「あー……急斜面過ぎて、ちょっと無理そうだね」

 

 アイは納得したように頷いた。

 

「そういうこと。正に一目瞭然ってわけね」

 

 アスカはよく出来ましたという表情でアイに──シンジそっくりの少女に──近づいて、頭を撫でる。アイは本質的にはあの頃のシンジに他ならない。だからアスカには愛おしい。アイが来てからは、大人になったあたしがあの頃のシンジを包み込んであげられていたら、また違う道もあったのかも知れないと思うこともしばしばだ。

 

 思えばサードインパクト以来、アスカはずっとシンジの先生だった。シンジは同い年の天才少女アスカに教育され、馴致されることに従順だった。本人曰わく「アスカに酷いことをした」サードインパクトの心理的影響もあったのだろうが、それ以前にいっとき調子に乗って暴走した時以外は、女子に対する無意味な高慢と優越感を発揮する事はないのがシンジだった。シンジが女性に抱く感情は畏れと劣等感だ。それは本質的には、全ての男性が「美」そのものの具現である女性を前にして抱く感情かも知れないが。

 

 もちろんシンジにも自尊心はある。時としてアスカにベッドでリードされる時は男として羞恥心もあり、あるいは内心、忸怩たるものがあるのだろうが、しかし、元々自己肯定感が低く、高い教育と刻苦勉励で自主的に身につけた広い教養も、シンジの奥底にあるサードインパクト後の自責の念を救ってはいなかった。だから逆説的にではあるが、何かをアスカに教わったり、主導されること自体に強い忌避感を抱いてはいない。

 

 アイもシンジと基本的には同じ性格だったが、記憶の違いから、抱えている自責の念が遥かに違い、また男であることの強迫観念的な責務からも解放されて自由だった。アイはアスカと二十年近く時間を隔ててしまっていた。シンジとは別の意味で、アイは大人になってしまったアスカに素直に尊敬と憧れを抱いており、間にシンジを挟まない限りは屈託が無かった。今もはにかむように、アスカが頭を撫でるのを受け入れている。

 

「……アスカは指揮官として、そんな風に色々観察出来る。凄いと思うけど、パイロットのボクにも実地観察は何か役に立つのかな」

「エヴァパイロットの場合は、電源喪失などエヴァが動けなくなる何かがあったとしても外に出て闇雲に動くのではなく、エントリープラグ内で籠城するのが一番安全よ。ただそれが出来ない時──急迫の侵害が予期される時、緊急脱出時のルート決定には、予め踏査していて土地勘があるに越したことは無いわね」

 

 そう言ってからアスカは近くの集落に向かう道や目印を説明した。仮にここで立ち往生したら、あちらの集落に落ちなさいということだ。クローンの身体的不安があるアイに長時間、徒歩行を強いるつもりはないが、こうして来てしまった以上、アスカは数ヶ所の特徴的な地点から、近隣の集落への逃走ルートを教え込む積もりだった。

 

 もちろん現状、一機しか無いエヴァの機能喪失はそれだけで人類滅亡に繋がりかねない緊急事態であるが、だからと言って、アイに自らを助ける術を伝えない訳には行かなかった。それにパイロットさえ残っていれば、希望はゼロではない。

 

 二人はさらに山道を奥まで進んだ。アイの体調のこともあるから一度、途中で引き返すつもりだが、まず二時間程度は踏査を進めておきたい。アイを送り届ける時は、衛星電話でサクラに連絡し、街道沿いでアイを拾ってもらう予定だ。

 

 道の両側にある樹木の遮光カーテンは度々途切れた。ところどころ古い倒木の跡があるから、サードインパクト前のシンジたちによる戦闘の傷跡かも知れなかった。

 

「十年、二十年で人は大きくなるけど、森はそうとも限らないか……」

 

 旧ネルフも傷付けた戦場の植樹をある程度していたと思うけど……まあ予算も限られていたしね──とアスカは頭をかく。それに誘発された訳でもないだろうが、アイも焦げ茶色のショートヘアに手を当てる。髪の毛がずいぶんと熱くなっている。

 

「やっぱり木陰でない所は暑いね、アスカ。暑さには馴れていた積もりだったけど」

「そうね。あんたはずっと夏の世界に居たんだから暑さには強い筈だけど、最近はそうでもなくなってきたかしら」

 

 それがアイの──いっとき表れた体調不良の進行、反映でなければ良いのだが……と思いつつもアスカはそれ以上は口に出来ない。口にしたことが本当になりそうな気がして、躊躇われるのだ。

 

 サードインパクト後の世界は、地軸の傾きが元に戻り、季節が復活した世界だ。とはいえ、アスカやシンジたちセカンドインパクト世代には季節という概念はお話の中にだけあったもので、体験としては全く新しいものだった。寒い国は年中寒く、暑い国は年中暑い。それがアスカたち世代の常識だったからだ。

 

「そうだね。段々と季節がある世界にも馴れてきたかも。……アスカは季節が戻ってきた世界って最初にどう思った?」

 

 緩やかに勾配を描く山道で、アイは先行するアスカを見上げて尋ねた。アスカは立ち止まって少し小首を傾げてから言った。

 

「やっと夏が明けた。私はあの砂浜でシンジと一緒に大人になった。分かるでしょ、アイも。人間としての階梯を一つ乗り越えて……幼年期の終わりねって……そんなことを思ったわ。何時までも夏のままでいて、良いわけがないもの」

 

 それは察するにあくまで比喩なのだろう。アスカは勿論、赤道直下の国がいけないと言ってる訳ではない。アスカたちは再び歩き始める。

 

「でも大人になるのって、あまり楽しそうじゃないね」

 

 細胞の寿命──ヘイフリックの限界に係るテロメア短縮の問題が解決されなければ、大人になれないのかも知れないアイの呟きに、アスカは暫し絶句するが、動揺を見せないように首を振った。彼女の救済プランはシンジ、アスカ、サクラの連携で着実に進んでいるが、まだ(じつ)を挙げてはいない。アイの未来への展望の暗さは、未だ自らの先が見えていない事もあるだろうが、アスカとシンジの愛人関係が懊悩に彩れているのをすぐ近くで見ているからだろう。

 

「……そう。確かに楽しいことは多くはないわね。あたしやあんたは温かい大人に囲まれて愉快な思春期を送った訳ではないのに、大人になるにつれて世界の明るさが増したりはしなかった。第一、階梯を登るには痛みだって伴う」

「痛み……?」

 

 アイは怪訝な顔をして、それから何かに思い至ったように赤面した。その様子を察して、アスカは慌てて取り繕う。

 

「……ヘ、ヘンな意味じゃないわよ」

「あー……うん、ごめんなさい。ボクのせいなんだよね。痛くしたの……ボクはあの時、女の人の痛みが、よく分からなくって。まあ今でも分かってはいないけど。何となく、受け身になる側のままならない気持ちぐらいは──」

 

 十四歳までの記憶を碇シンジと共有するアイが申し訳なさそうに肩を竦める。ある意味で「当事者」である少女が相手ではあっても、破瓜の痛みを連想させる表現を選択した事に、アスカは軽く後悔する。相手は子供なのよ!? いい大人が何を話しているの! ──とうろたえ、でもアイ──はシンジなんだから、実際にあたしのヴァージンを奪って、痛くしたのはこの子じゃないの、生意気に──と。目を白黒させた。

 

「だ……だからそういう意味じゃないっての。関係性の変化に伴う痛みと言ったらいいかしら。そりゃ最初のうちは、シンジだけが気持ち良さそうで、少しは腹も立ったけど……」

 

 アスカももう十分に大人になった。「ホンモノの」シンジとの間でもこういう性にまつわる話題が出来ない訳ではない。だがほんの少しの頬の紅潮と引き替えに、声のトーンを高める事さえなく会話を続けられるのは、相手がシンジの姿をしながらも同性である少女だからかも知れなかった。

 

「そんなに……ボク、気持ち良さそうだった?」

 

 こちらも赤面しつつ、確認せざるを得ないという表情で上目遣いのアイが言葉を返してくる。アスカは前を向いたままで、言う。

 

「少なくとも──幸せそうだった、私の腕の中で小鳥みたいに震える様子は愛おしくて、あたしの中にあんたをずっと包み込んでいてあげたかった。だけどあんたの──ううん、あいつの快楽が、あたしの苦痛に繋がると──少なくともあたしがソレに馴れるまでは──分かってからは幸せそうじゃなくなった。それでもあたしは促して、し続けたんだけどね」

 

 そこから先の記憶はアイにとっては存在しない未来のもので、別人のものだった。アスカが見ていない、後方を歩くアイの顔にふと寂しさがよぎる。アスカを抱く術を永遠に奪われた少女は、彼女をその後も抱き続けるシンジのことを思い、自分とは分岐した「幸福な」そしてシンジの主観では決して「幸福ではない」人生を歩む彼に自分が取って代われない無情な現実に唇を噛んで俯いた。 

 

 アスカをこの腕に抱きしめ続けていられるならば、苦しくてつらい人生であってもどんなに嬉しいか分からない。シンジにはそれが分かっているのだろうか。シンジはある意味では一番大切なものを既に手にしている。それに気付かないだけなのだ。もう一人の、愚かな、自分は。

 

 アスカはそんなアイの様子には気付かない。アイは喉から絞り出すように、少ししゃがれた声で後ろから訊ねた。

 

「どうして──そういう関係を続けたの?」

「それは──」

 

 かつての「戦友」綾波レイだったら、こんな質問にはどう答えるだろう。アスカはふと、今はいない少女の姿を思い浮かべた。

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