翌朝、7時半からアスカはシンジの部屋に来ていた。シンジはもう起きていた。
「寝れた?」
「あんまり……」
目の下に隈が出来ている。アスカが自室に去って不安で眠れなくなったのだろうか。
(アタシもシンジが気になって、あまり寝れなかった)
「二度寝するなら、つき合うわよ。どうせ学校にはもう行かないんだから」
と言って、アスカはあくびをしながら、シンジの寝台の端からシーツに潜り込む。
「あの、アスカ……お願いがあって」
「んん? まだ眠いから、『仲良し』したいなら後にして」
『仲良し』とは、二人の間で通じるセックスの隠語だ。もちろん、今は性欲より睡眠欲だった。
「ち、違うよ……あの……僕、学校に行きたいんだ」
「……何のために? 忘れ物でもしたの?」
昨日、帰るときに机の中やロッカーも素早く確認して回収したはずだ。
「そうじゃなくて、みんなと仲直り……しない?」
アスカはそこで、初めて、寝返りを打つようにしてシンジに向き直った。
「はぁ?アンタ、何を言ってるの……」
「僕はもう世界中から嫌われても仕方がないけど、アスカは別に何か悪いことをしたわけじゃない、皆を守ってたんだから、こんな事で学校辞める必要ないよ」
「興味ないわ、あたしはもうとっくに大卒だし。アンタが行くから行ってただけよ」
「だから僕もちゃんと学校に行く。……その、逃げちゃダメなんだ」
「やめておいた方がいいわよ。そもそもアンタ、あんな事がある前だって誰とも話さなかったじゃない。今さら何よ」
シンジが級友たちに拒絶される可能性は正直高い。シンジのメンタルが果たしてそれに耐えられるのか。アスカには疑問だった。
「確かにうまく行かないかも知れない。でもやってみたいんだ」
「どういう風の吹き回し? 誰か、学校に気になる女の子でもいた? 恋愛相談なら乗ってあげよっか、シンちゃん」
「気になる女の子は目の前だから、そのうち恋愛相談には乗ってもらうよ」
「むぅ」
今朝のシンジは珍しくなかなか手ごわい。
「……アスカ、真面目な話なんだ。あれから一晩中、考えてた。アスカは昨日のこと、形だけでもいいから、彼に謝ってよ。で、彼にもちゃんとアスカに謝ってもらう。僕がちゃんと謝らせる」
シンジの表情は真剣だった。
「振られた女の机に腹いせで落書きするような奴が謝る? ばか言わないで」
「アイツが謝らないなら、殴ってでも謝らせるよ」
「……」
「昨日は自分のことだけで精一杯だった、本当にごめん。でも、落書きはアスカもされていて、もっと酷かった。アスカも本当は傷ついてる筈だ。それに、アスカを……その……淫乱とか皆に思われるのは嫌なんだ。僕もアスカとのことちゃんと皆に説明する」
(一体、どう説明するつもりなのよ。別に付き合ってる訳でもない。毎晩セックスしてるだけなのに)
アスカにはその点も疑問だったが、言葉に出しては、こう言った。
「もうそれはいいのよ。別に誰に何と思われようと気にならないわ。アンタとヤリまくってるのは事実だし」
「僕は気にするよ。確かに、アスカはかなりエッチな人だって僕も最近ようやく分かったけど、……それは世界で僕だけが知ってる秘密でいい」
確かに、それは二人だけの大事な秘密だ。
シンジの顔は久しぶりに晴れやかだった。アスカにはそれが眩しい。
「……ばか。別にエッチじゃないわよ。普通よ普通」
夜の睦言の中でなら兎も角、流石に朝っぱらから面と向かってシンジにそう言われると、気恥ずかしい。顔が熱くなるのがアスカには分かった。
「そうかな、でも僕はアスカしか知らないから」
照れたように頬をかきながら、シンジは言った。
「なんだか、少しだけ大人になったわね、シンジ」
「うん……アスカが、寝る前に勇気をくれたから」
「勇気?……あ」
寝る前に何をしたかをたどって、アスカもようやく思い至る。
「あのキス、嬉しかったよ。いつもの、Hの時のキスじゃなかったし……」
「まあ、いつもいつも女からキスされるってのはそろそろ何とかした方がいいと思うけどね。でもま、シンジだからしゃあないか」
アスカが笑いながら、返す。うん……とシンジも頭をかく。
「今度、頑張るよ」
「ま、ほどほどにね」
それで、とシンジは本題に話を戻した。
「いいよね、学校。アスカ、一緒に行ってくれるかな?」
「……いいわ。急がないと遅刻ね」
アスカが、掛け時計を見るともうすぐ8時だった。
◆
二人は慌てて準備して、遅刻ぎりぎりで登校した。静かに教室の後ろのドアを開けて中に入ると、少しだけ静かなざわめきが起こった。
真っ先に視線を走らせたアスカとシンジの机は綺麗だった。新品に取り替えられているようだった。
あの嫌がらせをした少年は、というと、机は有った。もう拭かれたのか、アスカの靴の跡はなかった。そしてその椅子に座るのは……全くの別人だった。
慌てて、周囲を見回して見ると、かなりの数の座席で、何人もの生徒が見覚えのない顔に代わっている。昨日、アスカを睨んでいた少女たちの姿がなかった。愕然として周囲を見まわすと、何人かの顔見知りと視線があった。いつも、アスカやシンジに友好的に接してくれた連中だ。アスカが話しかけようとすると、引きつった笑いを浮かべて、すぐに視線をそらしてしまう。
「なによこれ……」
「人が違う……クラスは合ってるのに。これって、アスカ……」
戸惑う二人に教室の外から、声がかかった。
「碇シンジ君、惣流・アスカ・ラングレーさん」
白いスーツ姿の見覚えのある男が教室の入り口から、覗いていた。
スーツの色といい、派手めのネクタイといい、着こなしもやや着崩した雰囲気で、髪を少し伸ばした優男だった。
アスカとシンジの転入手続きや説明を簡潔かつスムーズに行ってくれた、確か、子安と名乗る日本政府の教育管理官だった筈だ。つまりは政府の官僚だ。にこやかな顔で手招きをしてるので、それに応じて、アスカとシンジは人気のない廊下に移動した。
「あなたは……」
「そ。転入の時に一度会ってますね。教育科学省初等中等教育局の子安ハルヒトです」
「これは……一体、どういうこと?」
アスカは質問をして、すぐゴクリと唾を飲み込む。
「どういうこと、とは?」
「アタシたちに嫌がらせをしたアイツはどこに─? それ以外にも何人も……」
「ああ、彼は転校しました。急なお父さんの仕事の御都合らしいですよ。他の子たちも理由はそれぞれですが、皆転校です。で、転出が多かったから他のクラスの子を入れて人数調整です」
「そんな……昨日の今日ですよ、どうしてそんな」
シンジが悲鳴のような声を上げた。
「ん、喜んでくれると思ってましたが」
「喜んで? まさか昨日のことが原因なの……」
「私の仕事は初等中等教育機関─まあ小中高校、とざっくり言ってしまえばそうですが─の学校運営を円滑に進めること、もちろんイジメなんて有ってはいけない、そう思ってますよ。あ、皆さんの転校は単なる偶然ですが」
ニコニコと笑う子安の表情は底知れないものがあった。
「シンジは皆と仲直りしようとしていたのよ!アタシはそんな必要ないって言ってたのに、無理をして─」
「碇君たちはそんな事に気を遣う必要はありませんよ。お二人は大事な旧エヴァンゲリオンのパイロットですからね。雑念からは遠ざかって、いざという時に備えてください。あ、お二人が仲良くされるのは歓迎ですよ。清い交際を進めて頂くのも結構な事です。それ以上になる場合は…」
と、そこで、声を小さくして、
「避妊だけは気をつけてくださいね。子供が出来ちゃったりしたら、流石に僕も始末書ものです」
あくまで子安の口調は淡々と、明るく、かろやかだった。アスカたちを監視してる担当官だということは当人たちに隠すつもりもないようだった。
シンジが昨日と同じように青い顔をして、足早に流しに去った。また気分が悪くなり、戻しに行ったのだろう。
「……思い切り余計なことをして、ふざけるんじゃないわよ」
「子供の喧嘩に親が出る、という所ですか。気持ちは分かりますよ。でもああいうトラブルは困るんです。官邸にまで報告が上がりますからね。沢山の役人が困ります」
「そんなの知ったことか!」
アスカの剣幕に、子安は軽く肩をすくめる。
「申し訳ありません。でもテレビドラマ風のヘンパチ先生やらの青春授業を用意する時間はなかったんですよ。あの落書きをしたガキ……いや男子生徒もそんな改心するようなタマじゃありません。アナタたちに暴力や性的危害を加えられてからでは遅いんです」
子安の言うことは確かに正論だ。
本来なら子安のような処理にこそ、アスカは賛成するだろう。夕べまでならそうだった。
だが、しかし。
アスカは今朝のシンジの決意を聞いたのだ。また傷つくかも知れないが、前に踏み出そうとするシンジの決意を。
それがあっけなく踏みにじられた。
「─アイツ、もう立ち直れないかも知れないわよ」
アスカは子安を睨み付ける。
「記録の通り繊細ですね。それもまた良しです。アナタは見た限りでは、特段のダメージを受けてないようですし。日本政府としてはどちらかが使い物になるならそれでいいですよ。エヴァンゲリオン二機の潜在的運用能力というのは少しわが国の手に余る力ですしね」
「アンタに一つだけいいこと教えてあげる」
アスカはにっこりと満面の笑みをたたえている。
「なんですか?」
「アタシ、アンタが大嫌いだわ」
◆
「シンジ……」
「はは、アスカの言うとおりだ。余計な事をしようとしなければ良かった」
帰宅するなり、シンジは自室の寝台前にうずくまる。これではまるで昨日と同じだ。
「それでもアンタは一歩を踏み出したのよ。アンタは偉かった」
だがシンジにはその言葉は届かない。
「……もう、残ってる人たちとも友達では居られないね。みんな怯えてた。僕らに関わると、ああいうことになるって見せしめだったんだから」
「……シンジ。友達ならアタシがいるわ。アタシがアンタの親友よ。だから、他の友達なんか要らないわ」
「……」
アスカはシンジのそばにしゃがみ込む。
そっと、白い手を伸ばして、シンジを抱き寄せると、シンジの頬に自分の頬を寄せて、すりすりと頬を摺り合わせる。すりすり、すりすり…と。
「あ、あの……アスカ」
「アタシはもう自分の気持ちに正直になると決めたの。これはセックスとは違う。いつもの男女の仲とは別の、親愛の証よ。あんたが寂しいとき、親友の事を思い出して」
アスカの蒼い瞳がシンジを優しく見つめている。シンジの頬も上気している。身体を繋げ合わせることはもう頻繁になっていたが、このような不意打ちには相変わらずどぎまぎさせられる。
「ありがとう……僕とアスカは親友……なんだね」
「そうよ。嬉しい?」
「うん……」
寂しげな笑いだが、確かに笑ってくれた事が、アスカには嬉しい。あの赤い海の浜辺でも、シンジはアスカと二人きりだった。あの時、セックスする前にもっと話をすれば良かった。男と女になる前に、ちゃんと友達になれば良かった。
だけど、二人の順番はもう入れ違ってしまっている。アスカはシンジの親友である前に、シンジの女だった。それはもちろん、誇らしいが、しかしどこか切なく寂しい事でもある。
「その、親友……のアスカにこんな事を頼むのは変だけど、今から『
アスカはフフッと笑い、それを受け入れる。
「親友と『仲良し』するのは、結構なことじゃない」
すぐさま、シンジが必死の形相でしがみついてきた。
「アスカ…っ。僕、僕はっ……悔しくて……こんなの、前に進めなくて、でもっ……アスカが、アスカだけが、僕の傍に居てくれるからっ……」
「それでいいのよ。……別にいつだってアンタが悪い訳じゃない。今日はアンタが正しかった。アタシは今日のアンタを誇りにおもうわ」
泣きじゃくるシンジの服を脱がせ、自分も裸身を晒して、見つめ合い唇をそっと合わせる。手を繋ぎながら、寝台に上がり、程なく"親友"になったばかりの二人は結ばれる。
今日のように、シンジが勇気を出して、現実と向き合おうとしてもこういう事は常に起こる。彼は普通の男子高校生ではなく、エヴァンゲリオン初号機のパイロットなのだ。彼の現実は重く苦しい。だが同じエヴァパイロットのアタシなら、きっとその辛さ苦しさを分け合える筈なのだ。─シンジの親友として、シンジの女として。
─アスカはシンジに抱かれながら、強く、そう思った。