大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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七十話 パラダイスロスト・後編

「どうして──そういう関係を続けたの?」

 

 アイは、シンジとの苦渋に満ちた関係をなぜ続けたのかとアスカに訊ねた。強羅周辺の山あいの道で、暑さにじりじりと焼かれながら、しかしドキリとする質問は暫く暑さを忘れさせた。

 

「それは──」

 

 かつての「戦友」綾波レイだったら、こんな質問にはどう答えるだろう。アスカはふと、今はいない少女の姿を思い浮かべた。

 

 ──彼女は、いつだって静かな好奇心で周囲の人を観察していた。決して自分からは人間関係を広げようとはせず、アスカの名前さえ覚えようともせず──本当に興味がなかったのだろう──、碇ゲンドウにだけは心を開いていたが、シンジに対しては他の人間に対する態度と明らかに違った。あの子はシンジとの関係だけは自ら深めようとしていた。きっとあの子はシンジに近づくあたしの事が嫌いだったろう。だけど、その事を想像するとき、今のあたしは嬉しくなるのだ。彼女が自分の想像したような「お人形」ではなく、好き嫌いのある──きっとあたしと同じくらい好き嫌いの激しい──「人間」だったと知って。

 

 ──遺伝子的には彼女はアスカにとっては、将来夫になるかも知れない──今はもうそんな高望みは殆どしないが──シンジの姑に当たる。嫁と姑が仲良くなれる道理はない。ルツとナオミという嫁・姑が旧約聖書ルツ記には出て来るが、あたしがルツのように賢く「出来た嫁」になれる訳がない。あの子があたしの事を嫌いなように、あたしもあの子のことをあまり好きじゃなかった。──最初は仲良くしようともしたんだけどね。

 

 ──でもあの子、シンジのことをやっぱり好きだったわね。母親としてではなく、女として──。アスカはそれがなんだか少し嬉しいのだ。碇ゲンドウの思惑が彼女を亡き妻の代わりとして生み出したのだとしても、女は男の勝手にはならない。アスカはフェミニストでは全くなく、冗談めかして言えば原理主義的な異性愛者であり、世界の半分がそうであろう、男の子の肉体の素朴な賛美者ではあるが、それだけにレイの勝手な恋を嬉しく思った。

 

 ──あの子なら──あの、あたしと同じ男の子を好きになってしまったあの子なら、あたしの気持ちが少し分かるだろうか。いや、分からないだろうし、興味もないだろうなと思い直して微苦笑する。あの子だったらシンジとの関係を続けることをどう表現しただろう。──絆だから、とでも言うのだろうか。アスカは言葉を切って、少し考え、再び口を開いた。あたしはあたしだ。あの子とは違うあたしだったら──こう答える。

 

「やっぱり自分が選んだ道だから。──そして、自分が決めた相手だから」

 

 アスカはそう言ってから目をつぶり、あの日、曙光を浴びながら、二人で手を繋いで、あの浜辺を離れた日の事を思い浮かべる。

 

 ──さっきアイと話したように、あたしとシンジはあの浜辺で赤い海を前にして結ばれた。結ばれた?──いや、そんな気取った言い方をしないなら、あたしとシンジはそこで生まれて初めてのセックスをしたのだ。十四歳の拙く幼いセックスだった。愛撫も不十分でただ痛かった。心も通じなくて、なんだか、損をしたような感じさえした。シンジだけが一方的に快楽を貪ってあっという間に放精し、砂浜に丸裸で身を丸め、寝息も立てずに死んだように眠っていた。

 

 ──シンジの足と足の間に縮こまった少年の小さな性器があって、あたしの中を暴れ回っていた凶暴なものとは思えない程に情けなかった。今、それを見たら小さくて可愛くて愛おしいと思えるかも知れないが、その時はそうは思えなかった。あたしも丸裸のままそこにしゃがんで、すぐ近くに寄って暫くそれをじっと見つめた。磯臭くてその上、射精した精液も混じって、なんだか(なまぐさ)い変な臭いだった。そして、すぐにああ……栗の花の匂いとか女子たちが猥談でこっそりと言っていたのはこれかと思い至った。あたしとシンジが行けなかった沖縄への修学旅行の女子部屋でずいぶん濃密な夜の対話と情報交換が為されたらしい。ま、これで知識は追い付いた訳だけど。

 

 ──そしてすぐに、こんなものに一生振り回されるのかと思うと何だか腹が立って、乱暴に左手でそれを鷲掴みにした。シンジが眠ったまま小さくうめき声を上げた。あとでシンジが起きた後で分かったが、その時、シンジは失語症に陥っていた。最後に喋った言葉は、セックスの最中、アスカ、アスカ──とあたしの身体の上で快楽に呻く名前だった。

 

 ──愛のない、あたしの名前の呼びかけが最後の言葉だったことにあたしは安堵した。そこに愛があったり、あたし以外の女の──あるいは男の──名前だったりしたらとても堪えられなかっただろう。最後にシンジの言語中枢に刻まれたのが、あたしの名前だということにあたしは深い満足感を味わっていた。

 

 ──人類はもうこの世に二人しかおらず、シンジはあたしに何も喋る必要はなかった。喋ってもただあたしを傷付けるだけなら確かに言葉はもう要らないのかも知れなかった。そして言語を必要とする文明と社会はサードインパクトで崩壊していた。知恵の木の実を食べた人類は使徒に打ち勝っても、最後には知恵を喪うことになるとの予言はこの事だったのだ。

 

 ──数時間して目が覚め、シンジが言葉を喪っていることにあたしは程なくして気付いた。それはあたしを穢した罪だった。あたしを犯し、あたしの中で果てた罰だった。あたしの性器からシンジの白い精液がまだ少しずつ流れ出ていた。それが太ももに伝うのを見てシンジは謝罪のそぶりを見せた。唖の少年の言葉なき謝罪の代わりに、あたしは太ももを前に突き出して舐めさせた。シンジの白い精液を、最初は当惑し拒絶していたシンジ自身の舌先で綺麗にさせた。乾いてカピカピになった跡も全部浄めさせた。シンジは奴隷のように従順だった。あたしはそれだけで軽くイッてしまった。

 

 ──それから一時間ほど、あたしは砂の上に横になり、シンジにあたしの性器を直接舐めさせていた。破瓜して男を知ったばかりの、「瓜」という字の真ん中を縦にスッパリと割っている陰唇にシンジの舌を這わせた。喋れないが、言葉を聞き理解することは出来るシンジに、そのはみ出る物のない割れ目の楚々とした佇まいの希少性と美を解説し、それに初めてありつけた男であるシンジの幸運を説いて聞かせた。

 

 ──シンジにはその時、確かにあたしの恥丘に生え始めていた陰毛が、金髪だから色が薄くてまるで生えていないように見えたらしい。あたしのスリットの清楚さより、陰毛の薄さに感動していた。それで、もしかしたら本当に生えていなかったのかもとシンジは後から言っていた。シンジはバカだから記憶を勘違いしていただけだろう。

 

 ──高校生になってから一度剃ってやったことがあるので、それと混同しているのだ。白人の陰毛は日本人の陰毛よりゴワゴワとしていない。髪質を反映してしんなりしている筈だ。昔、風呂場でヒカリのと比べたことがある。だからシンジはもっと喜んでもいいのに、訳の分からない記憶違いをしている。あいつ、きっと無毛の恥丘(パイパン)が好きなのよ──。そうと分かってからあたしは欧米での一般的な女性のように陰毛を剃ったりはしていない。シンジの好みにはわざわざ合わせたりはしない。シンジがあたしの身体を好みにするべきなのだから。

 

 ──しかしその日、横たわりシンジの口淫に身を委ねながらあたしが気だるさの中で学んだのは性的興奮は衝撃が惰性に堕した後は急速に逓減するということだった。メリハリが重要だった。変態的な行為は、時間と場面を局限して行うべきだと悟った。だけど、本音を言えば、あたしはシンジの舌で身体を舐められるのが好きだったし、クンニリングスも好きだった。シンジにやらせてすぐにそれが大好きになった。それを男に自分の望むだけの時間やらせない女はバカだと思った。もっともその時、世界に女はあたししかおらず、女への批判は全て自分自身が蒙ることになると分かってはいた。

 

 ──それからシンジは長いこと、独りで寂しそうに赤い海を眺めていた。セックスの後、あたしとは言葉を交わさず──失語症なので交わせもしなかったのだが──、性交による多幸感が抜けて情緒不安定になったあたしが孤独と不安にむせび泣いても、顔を体育座りの足の間に近付けるほどに俯き、耳を塞いであたしの泣き声を聞かないようにしていた。本当に酷い男だった。──本当に可哀想な男の子だった。あたしはシンジに救って欲しかったし、シンジを救ってあげたかった。初めて同士を捧げ合い、交わし合った男と女なのだから、それが義務だと思えた。貞操を与え合った相手なのだ。人生にたった一人だけの初めての相手なのだ。助け合うことが、契りを交わした男と女の誠実であり、神聖なる義務なのだと思えた。あたしだけがそう思っていた。

 

 ──だからシンジが再び顔を上げ、赤い海の沖合いを指差して、あたしに再び言葉を発したときは驚いた。シンジの失った言葉は、コミュニケーションの光だ。世界の闇はまもなく祓われ、シンジは対話能力を取り戻す。

 

『戻ってくるのね。……みんなが』

『うん……』

 

 LCLの海からお互いの間にコミュニケーションを必要とする人々が戻ってくる。人類はまだ終わらない。シンジとあたしは新世界のアダムとエバにはなれない。

 

『……本当にそれで、いいの?』

『いいんだ。泣きたくなりそうだけど、でも、他に誰もいないからしょうがなく、その相手と……なんてのは意味がないから……』

 

 シンジはそう言って、前を向いた。あたしを誰かに奪われて、二人が結ばれないかも知れない世界。でもシンジはその世界でも、二人ぼっちの世界よりは良いのだという。

 

 全裸からプラグスーツに着替え終わったあたしとシンジは再び手を繋ぐ。よろけるシンジの手をあたしはまるで姉のように引いてやる。エバはアダムより先に知恵を手に入れた。だから女は賢しく男を先導する。それはいつの時代でも同じだ。

 

 やがて、二人が歩いていく先の、赤い海の向こうにある水平線が輝く光で縁取られるようになった。

 

 ──曙光だ。

 

 世界が再び生まれ変わる日の光だ。

 

 アスカはそれからずっと、その時、あの曙光を一緒に見た男の隣にいる。傷付けあっても、気持ちが伝わらなくても、すれ違っても。でも相手の為の努力は、相手を救う為の努力は──お互いに止めることはなかった。

 

 それは誰かに押し付けられた結末じゃない。誰かに引き裂かれたり、追い払われた結果じゃない。それは自分で決めた結論なのだ。

 

「──ふたりは自然と涙を流したが、すぐに拭いた。

世界はふたりの目前にあって選ぶばかりだった。

安息の地か、進み行く道しるべか

ふたりは手をつなぎ

ゆっくりと歩みを進めた

エデンを抜けて ふたりだけの道を」

 

 前を真っ直ぐ見つめたアスカの朗唱に、アイは顔を上げて反応した。山道は依然、なだらかな勾配を描きながら一直線に続いている。

 

「それは──?」

「ミルトンよ。『失楽園』の最後の一節」

 

 アスカは鼻の下を照れくさそうに擦った。その一節がまるで彼女の束の間の幸福な日々の記憶に直接繋がっているとでも言うように。

 

「シンジを追い掛けて、大学にもう一度入ってから、授業やゼミ以外では本ばかり読んでいた気がする。──シンジが本ばかり読んでいたから。他にする事もなくてね」

 

 あの頃、シンジは図書館に入り浸り、古今東西の書物を渉猟していた。アスカを庇護する為に必要な──足りない力が何なのかも分からず、その何かを捜すための濫読だった。アスカもそれに付き合いつつ、何かを──シンジを救うための何かを──捜して足掻いていた。

 

「物語を読むと、その中に出て来る主人公とヒロインがまるで自分たちの事のように思えてならなかった。大した共通点のない登場人物にもしょっちゅう、あたしとシンジを重ねていた。だけど、失楽園はそういうのとは違った」

 

 お仕着せの幸せを神に勝手に押し付けられるぐらいなら、神に反逆して自由意志の(もと)に苦悩の道を歩みたい。アスカが共和主義者にして自由主義者ミルトンの大叙事詩から読み取ったテーマは勿論それで、この押し付けがましい世界においては何より大切な事だと思えるのだ。

 

一敗(いっぱい)地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ? すべてが失われたわけではない──まだ不撓不屈の意志、 復讐への飽くなき心、永久に癒やすべからざる憎悪の念、 降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ!  敗北を喫しないために、これ以外何が必要だというのか?』

 

 かつて神の大いなる恩寵を受けし、叛逆の大天使サタンは叫ぶ。

 

『絢爛たる奴隷生活の平穏無事な(くびき)よりも、苦難に満ちた自由をこそ選ぼうではないか!』とマンモンの提議が一座を圧する。

 

 自由への渇望、世界と神への反抗、不撓不屈の意志を込め、悪魔たちに仮託された台詞は、シンジとの関係に挫折し、運命を呪い、互いの行き違いとすれ違いに何度も挫けそうになったアスカをその度に鼓舞したのだ。

 

 ──あたしはシンジと幸せになるためなら、世界や造物主とだって戦ってやる。おざなりの、お仕着せの幸せなんか、あたしはいらない。あたしの相手は誰だって良いわけじゃないんだ。惣流・アスカ・ラングレーを見くびるな。あたしはそんなに安い女じゃあない。

 

 渚カヲルがアイを通してもたらした別の世界のあたしの幸せ。シンジの未来とはもう交わらないかもしれない未来予想図を惣流・アスカ・ラングレーは断固拒絶する。

 

 だから──。

 

 アスカは今度は小さく、呟くように、しかし一層の力強い確信を以て繰り返した。両手の拳を固く握りしめて。

 

「──ふたりは自然と涙を流したが、すぐに拭いた。

世界はふたりの目前にあって選ぶばかりだった。

安息の地か、進み行く道しるべか

ふたりは手をつなぎ

ゆっくりと歩みを進めた

エデンを抜けて ふたりだけの道を」

「エデンを抜けて──」

 

 その最後に言葉となった楽園の名は、感傷的に六分儀アイの耳朶を打った。もしももう一人の自分であるシンジが、世界と他の人間たちの復活を望まなければ──いわば「物語」の再開、継続を望まなければ──アスカとシンジは今でも誰からも邪魔をされずに、あの赤い海の浜辺で二人だけで暮らせていたのではないだろうか。愛し合い、憎み合い、お互いがお互いにとって欠くべからざる存在なのだと日々思い知りつつ。もちろん、そのシンジはアイと名乗る異性型クローンである自分とは別の存在であるに違いないが……

 

 アスカも同じ様に過去を連想したのだろうか。遠い目をして懐かしそうに言った。

 

「ええ。まさにエデンよ──。だってあの時、シンジとあたしは確かに新世界のアダムとエバだったんだもの。世界にたったふたりの人類で、それから直ぐに楽園を追放されて、寄るべなき身で二人、歩き始めた。あたしたちが手を繋いだのはあの時が初めてだったわ。あたしとシンジは最初のセックスをして──身体と身体が結ばれた後で初めて、手と手を取ったんだ」

 

 アスカはアイに振り向いて、真っ直ぐ少女を見つめる。

 

「シンジ──。また手を繋いでよ」

 

 アイのことをシンジと呼んで、手を伸ばしたから、アイもアスカの白い手を素直に取った。

 

「アスカ。アスカの手が温かいよ──」

「シンジもね。こんなに温かい手なのに、あたしはしょっちゅう寄り道をしていた気がする」

 

 そして、アイと手を繋いで道を前にゆっくり歩きながら、あのサードインパクトの夜のことを思い出していた。

 

「シンジが言うようなループがこの世界に本当にあるんだとしたら、あたしはあの時──セックスでなく、手を繋いだ時に──ようやくシンジと結ばれたんだと思う。何回も何回も世界を繰り返して、その世界の創造主たちには悪意あるヤルダバオートもいれば、冷たいデミウルゴスもいて、傲慢な造物主は世界の終幕を宣言して──それでもあたしたちはそんな苦渋の世界を乗り越えて、歯を食いしばって、そこまで辿り着いた……」

 

 ──だから──あたしたちは、手と手を結ぶの。明日だって、明後日だって。それにシンジの左手は今でも寒い日や雨の日は、自分で指を折った痛みに疼くのよ。その手を温めてあげる人間が必要なの。あの痛みはあたしの為のものなの。あたし自身の指の痛みなのよ。そう言って、アスカは言葉を結んだ。

 

 アイは手の指を自ら折った記憶はない。だから、その痛みに対するアスカの優しさは──それだけはシンジだけのものなのだ──。シンジへの時と同じようにアイにも優しさと温もりを等しく伝えてくれるアスカと手を繋ぎながら、アイはそれがとても寂しかった。

 

「でもそのシンジは今日は風邪だっていうんでしょ……独りで家に残されて、本当に大丈夫なのかな」

 

 アスカと手と手が結ばれて最高に温もりを感じられる状況なのに、少し現実に引き戻されたような孤独感の中で、アイは今日この場にシンジがいない理由に言及する。アスカがあまり心配していなさそうなのも少し気になる。

 

 元々この戦域踏査はアスカがシンジと一緒に行くはずのものだった。シンジはそれを今朝土壇場でキャンセルし、アスカは予定通りに行くと言い張って、その早朝からの言い争いを聞きつけたアイが代打を一方的に買って出たのだった。

 

 アイが気遣わしげにシンジの話をすると、そこでアスカは苦笑しながら首を横に振った。

 

「ああ……あれはシンジの仮病よ」

「仮病?」

 

 アイはつい片方の眉を上げた。思いがけないアスカの告白だ。

 

「そう。間違いないわよ」

「だって……このハイキングはアスカと前々から約束していたんでしょう? アスカだって楽しみにしてて」

 

 すると、アスカは手を繋いでいるアイに振り向きながら、肩を竦めた。ハイキングじゃなくて予定戦域の調査よ──と一応は否定しつつ、頷いた。

 

「だからシンジは一層、後ろめたいのよ」

「じゃあ、本当に?」

「シンジが嘘を付くときはすぐに分かるわよ──まあ、サードインパクト後は、あいつがあたしにウソを付く事は滅多にはないんだけど」

 

 アスカと正面から向き合わずに傷付けた事が、シンジの重いトラウマになっている。だから、彼がアスカに嘘を付くことのハードルは高い。

 

 それでも重大な偽りは何度か有った。同棲時代に、いずれアスカと別れ、余所の誰かに──どこかの見知らぬ男に──彼女を託そうとしたこと。またアイの出生に纏わる計画の隠蔽にしてもそうだ。

 

 その選択に惑い、後悔し、臍を噛むことはあっても、シンジはアスカを究極的に救う為に自分の幸せから遠ざかる選択を度々取った。アスカはそれが贖罪というよりシンジが自分自身に行う虐待の側面を持つと感じている。シンジはアスカにしたことが今でも自身、許せないのだ。アスカはそれに気付く度にその都度、軌道修正を促してきたつもりではあるが、シンジの精神におけるその自虐的傾向は非常に根深いものがあった。

 

「調子が悪いと言うから、おでこを合わせて熱を確認しようとしたら、慌てて逃れようとしたのよ──」

「それは……アスカにそうされるのが、恥ずかしかったからじゃ」

「二十年近く肉体関係がある相手よ。今更じゃない?」

 

 シンジの──ネルフ司令の公邸にアイやサクラと共に同居するようになってからは流石にシていないが、シンジにとって最も濃密に一次的接触を行ってきた相手がアスカだ。キスもペッティングもセックスもオーラルを使ったソレらも。全てをやったことがあるし、初めての相手にして、唯一の相手だった。少なくともアスカはそう信じていた。キスだけは違うのだ、シンジはミサトともキスをしたことがあるのだ──とアイに暴露されるまでは何の疑いもなく、そうだと思い込んでいた。

 

 けれど、そんな明け透けな言い方をしたのは、アスカの中ではけっきょくアイはもう一人のシンジだという意識があるからだった。

 

 だがシンジならぬアイは無言になり、そっとアスカの手を離す。

 

「シンジ──いえ、アイ──」

 

 手を離されたアスカの顔に当惑の色が浮かぶ。アイは少しだけ道を後ずさり、ポツリと言った。

 

「ボクはアスカのこと今更だなんて思わないよ。おでこを合わせられそうになったら狼狽えるし、顔だって赤くなる。手を繋いだだけですごく嬉しかった。きっと何歳になったって、いつまでだってそうだよ。……そしてそれは多分、シンジだって同じだよ──」

「ありがとう、アイ。あなたの気持ち、信じられるわ。そして、シンジを庇ってくれたのも、ありがとう」

 

 ただ今回の件の真実は、もう分かっているのよとアスカは諦め顔で頷いた。アイはかつて自信に満ち溢れていたアスカの諦念に満ちた顔というものを見慣れないから、それでアスカが大人になったのを強く感じる。小児的な万能感から卒業した者を大人という──そういう理屈までは知らなくても、アイも直観的にはそれを何となく理解している。

 

「本当にシンジに熱は無かったのよ。額同士では最後まで嫌がったけど、掌は当てられたし。平熱だったわ。それでも調子が悪いと言い張るから無理やり、ベッドから引っ張り出せなかったけど。時々、あいつは子供よね」

 

 アスカはそう肩を竦めた。それからそれとなく付け加える。

 

「それにハンガーに、糊がパリッと効いたシャツに、下ろしたての上級スタッフスーツが吊してあったしね」

 

 アイは顔を上げてハッとした表情を浮かべている。

 

「ということは……仕事?」

「まあそういう事になるわね。それもあたしには言いたくない取引先との」

 

となると、その相手は十中八九ゼーレだろう。

 

「シンジはおそれている。ゼーレにあたしを接触させることを。シンジのゼーレとの取引は裏死海文書の内容と引換に、ネルフを再建することと、自分がそのトップになること、そしてあたしを保護する事だった……シンジには不安だけがあって他者からの認識に自覚がないのかも知れないけれど、ゼーレにとってはその時からあたしはシンジの花嫁なの。シンジの唯一の泣き所である彼の花嫁……いつでもシンジのゼーレへの裏切りに応じて、血塗れのウェディングベールを被せられる、ね」

「アスカ……」

 

 アイの心細くて泣き出しそうな声にアスカは明るく応じる。

 

「酷い話よね。シンジの本当の嫁にはなれないのに、シンジを痛めつける道具には擬せられて、狙われてはいる。その程度の相手の狙いは分かる。

時々、どこかで見たような顔の、監視役みたいなのともすれ違うしね。だけどまあ、シンジとセックスはしょっちゅうしているし、花嫁みたいなものだとは思ってもいいのかも知れない。実際、あたしはあいつの女房だって自分の心の中では定期的に自分に向かって宣言しているのよ。悪いことではないでしょ? 人間、生きる張り合いが必要だもの。愛人だなんて冗談じゃない! あいつはあたししか女を知らないのよ。あたしだってあいつしか男を知らない。そんな愛人が一体、どこにいる──」

 

 アイは、思わず感情を吐き出したアスカにここまで思わせているシンジの不甲斐なさに唇を噛んで俯いた。好きな女に当たり前の幸せを与えてやれないもう一人の自分に対する怒りが、ゼーレに対する怒りを上回る。しかし、アスカの声はすぐに平静に戻って穏やかだった。

 

「──大丈夫よ。シンジがゼーレを裏切るより前に、きっとゼーレがシンジを先に裏切る。そこからは一気呵成に事態が進展する。そうなったらゼーレもシンジの花嫁──あたし如きに構ってる暇はない。あんたがエントリープラグに籠城するように、あたしたちはジオフロントに籠城する。人類の命運をかけて徹底抗戦をする。キール・ローレンツたちイエロー(臆病者の)スープマニアと心中なんて真っ平ごめんだわ。あたしが死ぬときが来ても、それはシンジと別の場所でじゃない。シンジの──血塗られた運命の花嫁だったら、それぐらいの役得はあっても良いはずでしょう?」

「アスカ──」

 

 笑いながらそう言ったアスカだったが、後にその己の言葉を深く後悔するようになるのは、アイの胸中でそれをトリガーとしてある決意が兆したからだった。

 

 シンジは今、保安諜報部のガードを自分から外して、アスカやアイの護衛を強化させている。この山中でも十重二十重に黒服たちが街道を取り巻いていることだろう。ゼーレに対してそれが十分なのかはアスカにも分からない。不安がない訳ではないが、他に選択肢がない状況は幾らでもあるのだった。現在のシンジの目標は大きく四点だ。

 

 一つ、戦域調査の実施その他の戦争準備で、防衛戦の勝率を可能な限り上げること

 二つ、アスカやアイの拉致などを防ぎ、ゼーレの裏切りを阻止すること(また面従腹背を貫き、ギリギリまでゼーレの介入を防ぐこと)

 三つ、ゼーレによる呼び出しや接触からアスカを遠ざけること

 四つ、アイの体調を万全とし、エヴァンゲリオンによる防衛戦も成功させること

 

 最後に関して今日のアイの代打同行に、アスカもシンジも不安がない訳ではなかったが、同居人の主治医のサクラは大丈夫だと請け合った。過保護に、天気のええ日曜日も家に閉じ込めとる方がよほど身体に悪いです、と関西弁イントネーションできっぱり宣言されてはシンジらも引き下がるしかない。第一、シンジもパジャマ姿でベッドにしがみついてるのだから、拒否する威厳などあったものではなかった。

 

 彼女は今、湯本の喫茶店で医学書に目を落としながら待機している。こちらにも保安部の護衛は付けてあるし、観光地だからゼーレが衆目環視の中、無体な事を出来ないのは間違いなかった。駐車場にはサクラの私物のマセラティの高級スポーツカーが周囲からやや浮いた様子で駐車してある。アスカが電話一本掛ければ、驚くべき加速力で駆けつけるだろう。

 

 そして今、こうしてアスカたちが出掛けている合間に、シンジはそっと無人となった家を抜け出して、ゼーレの呼び出しに応じているに違いない。

 

 シンジへの日曜日の呼び出しは前にもあったことだが、これが彼に十分に休息を取らせまいとするやや稚拙な嫌がらせに属するものだと理解してからは、アスカは過剰に心配するのを止めた。どの道……と懐中の拳銃(ベレッタ)に服の上からそっと手を当てる。

 

 シンジに何かあれば、後を追うだけの事だ。それで人類も、アスカも、シンジもすべてお終いとなる。ループなどという戯けたやり直し(リセット)もなく、きっとそれで世界は本当の終わりになるのだ。

 

「……だけど、それなら日にちをずらしても」

 

 アイは小さく嘆息しながら提案した。少女はアスカもシンジも毎日帰宅が遅いのを知っている。それが世界や(つがい)の相手──お互いを救う為の必死の足掻きだと理解しているから、寂しくても何も言わなかった。自分の孤独感の為に頑是無い子供に戻るつもりはなかった。しかし、二人が一緒に出掛けるチャンスまで潰されなくても良いではないか……。

 

「これは別にシンジとのデートじゃないの。そりゃ碇司令も同行すれば、認識を強く共有出来たとは思う。そういう意味では残念だけど、強羅絶対防衛線の実地踏査は司令に任せられた、戦術作戦部長である私の仕事なの。シンジがあたしを信頼して任せてくれた仕事なんだから──。」

 

 気丈に言って、アスカはきりりと口を引き結んだ。あのバカと──心が繋がっているのなら、体が別の所にあることは本質的な問題じゃない。そりゃ、いつまでも遠くにいたら、イヤだけれど。

 

「碇司令か……なんだか寂しいな、その言い方」

 

 アスカは溜め息をついて、首を横に振った。気丈さがあっという間にほどけて、少し俯きがちだった。

 

「そりゃあたしだって。でも、シンジをシンジと呼ばせてくれない状況を作り出してるのは、あいつ自身よ。……それに」

 

 アスカは顔を上げて、真剣な表情でアイを見やる。

 

「あたしとシンジはね──職場に色恋沙汰は持ち込まない主義なのよ」

 

 アイは勿論それをジョークと捉えて、迎えるように微苦笑して言った。

 

「その主義なら──二人はまったく実践出来てないでしょ」

 

 アスカはその反応に憮然とした。別にジョークのつもりではなかったらしい。それに対して今度こそ屈託なくアイは破顔大笑した。

 

 

 アスカたちが出掛けてから、きっかり三十分後。シンジはベッドから素早く起き上がると、すぐに着替え始めた。着替えの時間は三分。上級スタッフスーツのプレス、襟章磨きは完璧に整っており、シャツにもシワ一つない。戦略自衛隊仕込みの教官からの士官教育はアスカだけでなく、シンジにも完璧な身支度を仕込んでいた。防衛大名物の毎日の容儀点検にもなんなく合格するだろう。あっという間に準備を整えて、洗顔や歯磨きを済ませると玄関から家を出る。革靴も黒光りするようで、靴磨きも完璧だった。

 

 時間を見計らったようにシンジの公邸の前に、黒いセンチュリーが滑り込むように止まった。助手席から出て来た男が一礼して開く後部座席用ドアからシンジは戸惑う事なく、車内に乗り込む。

 

「碇将補、しばらくのお付きあいを」

「うん。ご苦労様」

 

 ミラーシェードに黒服の運転手が野太い声で慇懃に言った。年齢はシンジより少し上だろう。年上の人間に礼を尽くされるのは未だに馴れないが、馴れない方が良いことも世の中には沢山ある。他に助手席にも先ほどドアを開けてくれたサングラスの黒服が一人。こちらも同年代の男だ。二人とも、快活に世間話に興じてくれそうな雰囲気はない。

 

(やれやれ……僕も車中会話は苦手だから良かったけれど)

 

 そして、──父さんもこういうのが苦手だから日頃、強面を装っていたのかな? と、ふと亡父の厳めしい表情を頭によぎらせる。しかし、シンジは直ぐにその感傷を掻き消した。父さんと僕とは違う。父さんが、裏死海文書として母さんのお墓の下のクッキー缶に入れて僕に託したものは、その目指したものが何か未だに分からないけど、きっと僕の理想とは全然別のもので。だから、僕はそれを僕の信念と目的の為に使わせてもらう──。

 

 車は湯本大橋から国1に入り、東海道沿いに西に進んだ。四十キロほど走ってから新東名に入り、新清水インターまで三十キロほど走った。インターの交差点を左折し、出発してから一時間ちょっとで国道52号線に入った。甲府と身延の表示がある。

 

(第2新東京だな)

 

 行き先を察知してやはりという表情を押し隠し、シンジは窓の外の流れる景色を追った。黒服たちとの会話は無い。

 

 第2新東京には、ニューヨークで水没した国連本部が移転されていて、恐らくそこがシンジたちの目的地だ。国連本部がある町は、いわば新しい世界首都だ。まもなく滅びる予定の世界の中心が、極東の島国の山の中にある。

 

「行ったことあるのかな?」

「──は?」

 

 思わず口を付いて出たシンジの台詞に、助手席の男が反応した。

 

「……いやごめん。ニューヨークにね。知人が行ったことがあるのかなって。独り言だよ」

 

 シンジが弁解するが、男からはキビキビとした返事が返ってきた。

 

「惣流・アスカ・ラングレー三佐でしたら、十二歳の時に一度。国連本部跡もご覧になっておられます。旧本部はマンハッタン湾の一部で水底ですが当時、遊覧船で──」

「……察しがいいね」

「は、ありがとうございます」

 

 シンジは姿勢を崩さないようにドアに肘を当てて軽く頬杖を突いた。アスカの一挙手一投足が過去に至るまで把握されている。この調子なら今までに二人の泊まったホテルから睦言まで記録されていても不思議ではなかった。これに怖じ気づいたシンジが、己とアスカの命乞いを始めれば、ゼーレとしては最高なところだろう。──キール・ローレンツ議長がサイバー器官(オーガン)絶頂(オーガズム)に達するかも知れない。そんなくだらない冗談を思い付いてから、ちょっとほくそ笑み、すぐに真面目な顔に戻ってから助手席に向かって言った。

 

「別に褒めてないよ」

 

 そして、シンジは嘆息する。革手袋をした左手の指が、寒くもないのに少し疼いた。

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