大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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七十一話 サモン(査問/summon)・前編

 

 それはアスカとの過去の記憶だった。

 

 高級車の後部座席の振動が、シンジの眠気を誘いながら、ゆっくりと追憶の中のベッドの軋みへとすり替わって行った。

 

 アスカとの夢はいつも楽しいもの──ばかりではない。時に苦しい夢、シンジと夢の中のアスカを共に苦しませる夢だった。アスカが苦しむと、シンジはつらかった。かつての罪が形を変えて襲ってくるようでいたたまれない事もしばしばだった。悪夢から目覚めて隣にアスカがいてくれたような朝には救われた気持ちになった。現実のアスカにしがみついて、まるで母親に悪夢を知らせるような心持ちで夢の内容を語った。アスカは、そんな時、いつも笑うのだ。──あんた、あたしの事を好き過ぎじゃない? 夢にまで出て来るなんて、次から出演料を貰わなくちゃ、と。

 

 しかし、今回の夢は、シンジには嬉しかった。

 

 二人分の汗を吸って湿ったホテルの寝台の上で後戯をたっぷり味わった後、アスカとシンジの二人は身体を伸ばして、開放感の呻き声を上げる。

 

「ああ、気持ちよかった」

 

 アスカはサバサバと情事の感想を述べるが、シンジはしかし、いつものように浮かない顔だった。

 

「どうしたの、シンジ。あたしの身体、つまらなかった? そろそろ飽きた?」

 

 シンジの頬を白く長い指先でつつきながらアスカはからかうように言った。

 

「そんな事はないよ……そうだったらこんなに」

「……早漏ではなかった?」

「アスカ!」

 

 ベッドから半身を起こしたシンジは顔を朱くして情人に抗議した。しかし、アスカは優しかった。宥めるように起き上がったシンジの背中に手を回し、ポンポンと軽く叩くと、言った。

 

「いいんだよ、そんなことは別に。早いとか遅いとか、巧いとか下手とかは本当にどうでもいい。そういうことを求めてるんじゃないんだから。あたしはあたしの中にシンジを感じたいだけ。それに……今晩はこれで終わりじゃないんだから……ね? まだ終わりじゃないんでしょ?」

「それはまあ……」

 

 そっと俯くシンジの眼に、飢えた狼のような欲望が宿っていた。アスカはそれを横目で見て、微笑する。

 

「あたしたちの場合、一回目は練習試合で、たいてい二回目からが本番だものね。あ、一回目も『本番』は『本番』だから、次からは、本番の本番と言うべきかしらね」

「アスカはエッチな事ばかり言ってるや……」

「そんな風にしたのはあんたよ。そうでしょ、碇司令。……あたしはどこまでも司令の忠実な部下であり、愛人であります」

 

 おどけたアスカが仰々しく軍隊調に言って、頷きながら裸のよく膨らんだ胸に手を当てると、シンジは弱ったなという顔で苦笑した。

 

「やっと少し笑った。男で根暗なのはモテないからダメよ。まあ明るくてもバカシンジが女の子にモテるわけなんかないんだけれど」

「そうだね……」

「でもま、構わないわよね。セックスならあたしが相手してあげてるんだから。あんたも仮にも将補……将官なんだから、あたしみたいに美人の愛人が横にいなければサマにならないわ」

 

 シンジの階級の将補というのは一般的な軍隊で言うと、星二つの将軍で少将に当たる。アスカの三佐(少佐)という階級よりも三つも上だ。むろん普通ならば、三十三という年齢で昇れる階級ではない。シンジはそれを彼に与えた人々の影の力を忘れた事はない。サードインパクト前から闇の世界に君臨する秘密結社ゼーレの名を。

 

 昔のアスカだったら、「バカシンジ」が雲の上の階級に至り、自分はその下僚に甘んじているなど、黙っては居られなかっただろう。だが今のアスカがほしいものは決して軍隊の階級や役職ではない。

 

「僕はアスカのこと、──そんなアクセサリーみたいに思ったこと……ないよ」

「まああんたはそういう自慢みたいなことしないわよね。それに愛人では大っぴらにも出来ないか。それはあんたの自業自得だとしても──でも、他の女の子にも手を出すのだけは絶対に止めて置きなさい。あんた、女の子とまともに付き合う能力なんか無いんだから」

「う、うん」

 

 アスカの断言に、シンジはたじろぐように頷いた。実際、アスカと一緒にいて気が休まるのは、むしろ会話がない時だ。アスカはこちらが無言でいても、気詰まりを感じさせない。黙っていてもボディタッチをしてくるし、ベッドの上なら足裏を合わせたりくすぐったりしてくる。退屈なら退屈だとハッキリ言う。自分から話題を振るし、シンジの語彙力や滑らかな会話術など端から当てになどしていない。

 

 そして自分の身体とシンジの身体を重ね合わせて愉しむ術もよく知っている。つまらなければ、あんたの身体で遊ぶから──無理をして会話を作る必要なんてないのよと、よくそう言っている。シンジには確かに、アスカと同じような自然で気の置けない関係を他の異性との間で築ける自信はない。

 

「あたしならあんたにちゃんと合わせてあげられる。遊びに行く時でもセックスでもちゃんとリードしてあげるし、リードもさせてあげる。司令の仕事をサポートするし、昔あんたにあげられなかった優しさを今補填してあげることも出来る。──ちょっと意地悪をするかも知れないけどね。二人だけが知っている秘密も沢山出来た。あんな所にほくろがあるなんて、お互いしか知らない恥ずかしい秘密だものね。だからそんな話をしていたらどの夜も夜更かしになって、幸せになれる」

 

 それからアスカは、言葉を途切れさせた。

 

「……あと自分勝手に結婚を求めたりも、もうしない──だから」

「アスカ──」

 

 シンジは少しアスカが顔を伏せて、小さく震えているのを見て、肩を抱き寄せた。

 

「──だから浮気とかしないで。あたしを捨てないで。裏切らないで。卒業しろとか酷いことを言わないで」

 

 アスカがぐっと零れそうな涙を堪えているのに気付いて、シンジは閉じられた彼女の睫毛の上にそっと唇を重ねた。

 

「もう、しないよ──僕はそんなこと」

「……無理してそんな気障な態度を取られるのもイヤ。シンジの柄には合わないよ。どんなシンジが本当のシンジなのか、今生きている人間ではあたしだけが知っている。ネルフでのシンジはいつも背伸びをしている。だけど。──たまには無理してでもいいから今みたいに甘えさせてほしい。さっきの後戯みたいなのも良かった。セックスでもペッティングでもピロートークでも、お互いに甘えたり甘えさせたりするのが理想よ。あんたもあたしに甘えるのを遠慮しなくていい。──今までも遠慮してないの、わかってるけど」

「うん」

 

 アスカは口角を上げた。涙声ながらもアスカに明るさが戻ったのを知って、シンジはほっとした。だから重ねて聞いてみる。いつもは聞けないこと。彼女の深奥に踏み込んで、何かを壊してしまいかねないからと恐れ、聞けないでいたことを。

 

「アスカは──ネルフに入って、僕と一緒に士官になったこと、後悔してない?」

「……するべき事があるのなら、あたしは逃げないわ。戦場から退くのはあたしらしくない。惣流・アスカ・ラングレーはずっとそうやって生きてきた」

 

 促成士官教育を受けただけの中学生の頃から、しかしアスカの魂はサムライだった。あの頃、シンジやアスカ、綾波レイらに兵士としての実質に見合う軍の階級が与えられなかったのは、純粋に法技術的な問題に過ぎない。

 

 すなわち──戦時国際法(国際人道法)では、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。国連直属の特務機関だから国際法に反する行い──、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。それでアスカたちはサードインパクトで世界が一旦破滅するまでずっと、ネルフという軍事組織に属する軍属扱いだった。

 

 一万二千枚の特殊装甲とATフィールドに守られたエヴァのエントリープラグ内は、使徒やその他のあらゆる軍事的脅威に対して世界で一番安全な場所である。ゆえに──そんな「詭弁」「強弁」の下に、少年少女たちの軍属待遇でのパイロット化が進められた。

 

 しかし、その安全性の主張の一端は、ネルフ本部決戦において無力化していたアスカがエントリープラグ内に無理やり投入されて地底湖に沈められた事で、パイロット保護手段としての軍事的有効性が証明されていたし、現になおこの軍属扱いが新生ネルフでの六分儀アイの待遇にも適用されていることからも、旧ネルフにおいてこの法解釈と運用を確立した軍法務官の先見性と辣腕ぶりが伺われる。

 

 もちろん、本当はアスカも何度も逃げ出していた。廃墟の浴槽に裸身で横たわる廃人としての彼女を剣崎キョウヤをはじめとする黒服の保安諜報部員たちは遠巻きに護っていた。たとえ自失していたとしても、彼女の奥底に間違いなく眠る、奪われてはならない自尊心と純潔とを傷付けないように、数少ない女性部員を近くに配し、キョウヤら男性部員は視覚の片隅にだけ入れて彼女と彼らの異性の同僚たちをまるで高潔な騎士のように静かに保護していた。

 

 だから──ずっと逃げずに生きてきた、とそう宣言する彼女は正しくはアスカの理想の姿に過ぎない。彼女が自分自身に対してかくあれかしと願う虚構だ。新生ネルフに入ってからもシンジとの関係に懊悩する彼女が常にサムライ然としていた訳ではない。時に道を見失い、戦いと職務を全て投げ棄てて、シンジと家庭を築く見果てぬ夢を願いもした。だが、それに何の罪があるのだろう。

 

 決して、強くもなければ、正しくもない、そんな只の当たり前の人間が、強く、正しく、理想の自分であろうとすることこそが本当は美しく、人間らしいのではないか。そこには人間がより人間らしくあろうとする真っ直ぐな気高さがある。ピンと背筋を張って、アスカは逃げようとする自分を逃がすまいと生きてきた。アスカは実際には逃げなかった。たとえ心が現実から逃避したとしても、戦いの中で彼女は再生した。逃げ出したシンジを受け入れて共に生きようと足掻いていた。

 

 だからこそ、「逃げないあたしこそ、一番あたしらしい」と宣言する姿がシンジには尊くて、眩しくて、愛おしいのだ。

 

 アスカはそれから涙を拭った。小首を傾げ、シンジに向かって薄笑いを浮かべて言った。

 

「士官になって、あたしがするべき事、もう一つあったのよ」

「え──?」

「もしもあんたがまた逃げ出した時には──生きるのがつらくて死にたくなった時には、シンジ。いつでもあんたを殺して、あたしも一緒に死んであげる」

 

 アスカは、そう言ってシンジの首をいつでも絞められるとでも言うように、柔らかな羽のようにそっと撫でた。シンジはすぐに泣き笑いの顔になった。

 

「卑怯だよそんなの──。アスカが一緒に死ぬなら、僕は決して自ら死を選べないじゃないか」

 

 やっぱりアスカの出て来る夢は、シンジにとっていつも優しくてつらい。

 

 

 浅い夢を見ていたようだった。車内で目覚めたシンジは、すぐにドアにもたれ掛かっていた姿勢を正した。よだれを垂らすような失態は演じていないようだった。

 

「まもなく、国連本部ビルです」

 

 助手席からそう声がした。行き先を伝えられたのはそれが初めてだったが、シンジが目的地を把握しているのは先のやり取りで瞭然だったのだろう。特にそれ以上の補足もなかった。

 

 言葉通り、車は既に街中に入っていた。兵装ビルの見当たらない第2新東京の街並みは仮初めの平和と繁栄に安住する権力者の街という風情を醸し出していた。しかし、歩道を歩く母子連れの姿に、シンジはその考えを振り払った。仮初めの平和でも、永遠に保たれてほしい。

 

「ありがとう」

 

 助手席に言葉短かに礼を言って、シンジは頷いた。

 

 車を降りるとニューヨークにあった国連本部の寸分違わぬレプリカが長野県にある違和感を呑み込んで、シンジは本部ビルの中へと導かれた。構内案内図には決して描かれない中2階の特別(秘密)会議室にバックヤード経由で案内されると、

 

「エレベーターで特殊なボタン操作をすると止まる階とかじゃないんだね」

 

 そんな軽口が思わずシンジから漏れた。

 

「内装の予算が限られておりまして──それにゼネコンに馬鹿げた指示をして、痛くもない腹を探られても詰まりません。セキュリティはIDカード方式になってから随分楽になりましたよ」

 

 答えるのはもっぱら前を行く助手席の男で、シンジの隣に添うように従う運転席の男はあくまで寡黙だった。案内役と護衛役という役割分担かも知れなかった。助手席の男は切れ者のようだったが、話してみると案外気さくで、友人の多そうな人柄には、早めの転職を勧めたいとシンジは本気で思った。

 

 室内に入ると、一枚板(モノリス)(よう)遠隔端末がセフィロトに擬せられた位置に配置され、その中央に取り囲まれるように、査問を受けるシンジの為の席が用意されていた。

 

 会議が始まるとホログラフの人物映像がモノリスを覆い隠すように投影される。照明を落とした中での演出効果は初めて見た時には抜群なものと感じられたが、こうして平時の仕掛けを見せられると何ほどの物ではなかった。

 

 黒服たちが手早く回線と照明、カメラのチェックと準備を整えると、照明の溶暗と共に浮かび上がったゼーレの首魁キール・ローレンツ翁が、自ら「会議」の開催を宣言した。事務方に進行を任せるつもりなど、さらさら無いようだった。黒服たちも心得たもので、目立たぬように、そっと隅のパイプ椅子に腰を下ろしたので、シンジはすぐに彼らの存在を忘却した。

 

「久しいな、碇」

「ご無沙汰しております。キール議長」

 

 キールは遮光器土偶のようなバイザーをいつも通りに掛けているが、加齢の印象は逢う度に強まっている。

 

「少し痩せたのではないか? 碇」

「誰にも太ったのでは?と聞かれないのには、社交辞令以上のものを感じられて、安堵しますね」

 

 浮かび上がったモノリスに被せられた映像はキールの他には一人だけ。シンジが最初にゼーレに呼び出された時にも同席していた丸眼鏡の男で、確かフランス代表としてゼーレの一席を占める男だ。ゼーレも各国の利権の草刈り場であることは例外ではなかった。しかし、口を開いたのはキールだけで、シンジはここでも「役割分担」を感じた。それ以外の出席者は全てSOUND ONLYと表示されたモノリスのままだ。リモート会議で映像をONにしない出席者が必ず何人かいるものな──とシンジはほくそ笑む。

 

 単刀直入にシンジの査問に入るのかと思ったが、キールにはもう少し「遊び心」があるようだった。

 

「──こうして、久方ぶりに君を見ると、碇ゲンドウのことを思い出す」

 

 キール自身が殺した──戦自のネルフ本部占拠という間接的手段による混乱の中での死であっても──亡父の名前を聞いて、シンジの心臓の鼓動が少し早まる。

 

「父を──ですか?」

「似ておるからな」

「そうですか」

 

 むろん、シンジが──ということだろう。それにシンジはやや憮然として返事を返した。父と似ているなどとは思わない。いや、心の中ではその可能性に気付いているからこそ、シンジは反撥した。

 

 ──僕は父さんとは違う。

 

 しかし自らが死に追い込んだ男の名前を、その息子の前で平然と唱えられる神経の図太さはどうだろう。シンジはだから思った。キールの方が息子の僕よりも、よほどゲンドウの冷たさに似ている──。

 

 キールはそんなシンジを興味深そうに眺めてから言った。

 

「……ゲンドウに対して我々が悪意を持っていたと君は思っているのかも知れないが、それは誤解だ。碇ゲンドウはよき友人であり、志を共にする仲間であり、理解ある協力者だった。不幸にして我々と道を違える結果とはなったが、私は彼のあり方を最後まで好ましく思っていた」

「──父のあり方?」

「私は追従(ついしょう)(もの)が嫌いなのだ。他者の頤使に甘んじて尻尾を振り、媚びを売る人間に魅力は感じない」

 

 そう言ってから、一瞬、フランス代表のゼーレ幹部の方に視線を送った。送られた男の方は、眼鏡の奥に恥じ入るような表情を浮かべたが、何も反論することはなかった。

 

「ゲンドウと初めて会った時もヤツはふてぶてしくて不遜だった。口元にうっすら皮肉な笑みを浮かべた顔が、今でも目の前にありありと思い浮かぶ」

 

 ゲンドウとキールの初めての邂逅。勿論聞いたことのない話だった。それでシンジもつい興をそそられて、反撥心を棚上げにしてキールに尋ねた。

 

「父と──どんな時に対面したんですか?」

「ゲヒルンの迷彩組織として人工進化研究所が設立されていたのは知っておろう?」

 

 もちろんだ。生前、父ゲンドウが所長を勤め、母ユイも勤めていたのだから。

 

「だが、元々はそれは二つの組織だったのだ。ドイツ側のゲヒルン系と、日本側の人工進化研究所系のグループのな。やがて両者は統合し、表を日本側が、裏をドイツ側が中心に担うことになるが、まだそれ以前の話だ。セカンドインパクトの前に、我々はお互いの研究成果──知り得た昏い秘密を持ち寄る会合を日本の大学で持った。私はどちらの組織にも深入りしておらず、しかし形而上生物学の重鎮として、いわば二つの組織の月下氷人の役割をするものと期待されていた。……そこにゲンドウは飄々として現れおった」

「入室の……セキュリティは?」

 

 シンジが片眉を上げて尋ねると、キールは一笑に付した。

 

「そんなものはない。当時の我々はただの大学や研究機関所属の民間研究者だ。次なるインパクトに繋がる、人類補完計画の秘密のとば口に立ったばかりの、な。全てを知れば、我々をその時に殺しておけば良かったと願う連中も多いだろうが、当時は誰にも恐れられておらず、今の我々のように闇に隠れて命を守る必要もなかった。そもそも使徒の来寇は予め定められた神の計画だ。全てが我々の陰謀ではない」

「しかし、あなたたちがアダムを無理矢理、卵に還元しようとして失敗しなければ、ああいう形でのセカンドインパクトは無かった」

 

 シンジはそれを許すことは出来ない。いや、許せる人類は共謀関係にある列強の指導者層とゼーレ自身以外にはいなかっただろう。面従腹背を貫くシンジもつい、我を忘れて憤った。しかし、キールにはその感情はとうにお見通しだっただろう。キールはアダムを卵に帰す事が出来なかったことに結果責任を感じるが、人類を救おうとして行ったこととして、道義的責任を感じてはいない。

 

「そしてバレンタイン休戦臨時条約が結ばれるまでの間に起こった戦争という名の未曾有の虐殺も、あるいは我々の責に帰するな」

「あなたがたは──それで──!」

 

 キールはシンジの責めに先回りするように己の罪と責任をあっさり認めた。只の研究者たちの隠秘学的研究が人類を未曾有の地獄へと導いたのだから、冗談では済まされなかった。全世界で二十億人が亡くなったのだ。しかし発する前に罪を告解され、向けるべき矛先を見失ったシンジの怒りは更なるキールの述懐にかわされる。

 

「だが、その手痛い失敗は我々に一層、人類補完計画の貫徹を決意させた。堅く、不退転の意志を持って、決心させたのだ。かつて、ある作家が嘆きの壁のある町で言ったものだ。それはこんな話だ──私たちはみな人間であり、国籍や人種や宗教を超えた個人であり、システムという強固な壁に直面したもろい卵である、と。人間の作るシステム──国家や軍隊では、もろい卵を守ることは出来ん。あるいはシステムという壁ではなく、ATフィールドという心の壁であってもな」

 

 シンジはむろんそれを知っている。心の壁が他者を拒絶し、彼女を傷付けたことを。その傷が癒えることはあるのだろうか。明るくしていても、彼女の心の傷は明白だ。あえてその傷を忘れるためにシンジの傍にいるのではないかと思える程だ。シンジにはアスカの気持ちが分からない。優しくしてもらえる理由も分からない。身体と身体が繋がっていても心はどうだろうと──常に壁を感じる。我と彼女とは別の人間だとハッキリ自覚する。溶け合い、一つになることを拒否した最後の一対の人間だ。人間が独立した個人として存在することが、戦争や争い、諍いや誤解、悩み、苦しみを生む。

 

 だからこそ、彼らゼーレは人類の合一と進化を唯一の救いと信じるのだろう。もろい卵を守るには、いっそ卵料理にしてしまえばいい、とでも言うように。しかしそれも無造作な話だ。デ・シーカの『ひまわり』の中で、新婚夫婦のソフィア・ローレンとマストロヤンニは、二十四個の卵入りのオムレツを作った。むろん食べきれはしなかった。ましてや六十億人の魂入りのオムレツなど人類の胃袋ではただ持て余す特別料理でしかない。

 

 しかしゼーレに今も残っている人間たちの狂信あるいは信念は揺るがない。彼らはもう選んでしまったのだ。切り捨てるものと、残すものを。そして、シンジとアスカがこの十九年で大切にしてきたものは切り捨てられる方に入っているに違いなかった。

 

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