大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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七十二話 サモン(査問/summon)・後編

 

「で、父がその昔話にどう関わるんです」

 

 シンジは努めて平静を装ったが、声が上擦るのを隠せなかった。

 

「うむ。話が少し逸れたな。……その日、ゲヒルンと人工進化研究所の研究者が、ロの字に並べられたテーブルの左右に七八人ずつ向かい合わせに分かれて座っていた。当時の斯界のトップクラス研究者が揃って顔を並べていて、錚々たるものだった。日本側には赤木ナオコ君や葛城ヒデアキ、ドイツ側には惣流・キョウコ・ツェッペリンらがいたな。一番最後に、開会時間ギリギリに会議室に入ってきたその男は向かい側の真ん中の席に堂々と座った。誰もが遠慮して空けていた、座を取り仕切る私の真正面にな。

 

 随分と若い、痩せぎすの男で、薄手のニットの上に、地味な色のコーデュロイのジャケットを着て、遅参に焦る様子もなく、長い足を組んだ。私に向かって軽く頭を下げ、眼光鋭く──六分儀ゲンドウです、遅れて済みませんと挨拶はそれだけだ。聞いたことのない名だった。済みませんなどとはさらさら思ってもいない顔付きに、私は若さが羨ましくなった。才気あふれる者は誰しも若い時はあんな風に傍若無人なものだ。そうではないかね──」

 

 老人の懐旧には若さへの憧れと嫉妬があった。おそらくキール・ローレンツもゲンドウと同じような性格の人間なのだろう。才気煥発で人を人とも思わない。野心により上り詰めたから、野心が旺盛な後進の登場に激しく動揺する。それは過去の自分であり、やがてはかつて自分がそうしたように、今の自分の地位を襲う人間かも知れない──、と。

 

「所属を名乗らなかったんですか?」

「ああ。互いに初対面の人間が多く、だからゲヒルン側の者は皆当然にその六分儀ゲンドウという男を、人工進化研究所──当時はどちらのグループもそういう名称ではなかったがな──の研究者だと思った。そして人工進化研究所側の連中は皆、ゲンドウをゲヒルン側の日本人研究者だと思った訳だ。国籍ではなく業績のみが物を言う研究者の世界では有り得ない事ではないからな」

 

 しかし、六分儀ゲンドウはその時何者でも無かった。ゲヒルンや人工進化研究所の前身どちらとも関わりがなく、京大大学院の学籍を持ちながら、論文も書こうとせず、博士後期課程でぶらぶらするだけの男だった。それがゲヒルンと人工進化研究所の初顔合わせにしれっと顔を出して、その中心人物となっていったのだ。

 

 心理的陥穽を巧みに突いたと言えるが、それはシンジにも馴染みのあるテクニックだった。学際的に貪欲に知識を追究していたシンジの学生時代、受講登録をしていない教科、学部外の授業に「もぐり」をするために必要だったのがそれだった。ゲンドウがやったことはそれの応用といえる。出席などを取らない講義に潜り込む際に必要なのは、悪びれず、堂々としていることだ。初回で通せれば、二回目からは普通の学生と同じになる。

 

「クローズドな合同研究会だった、開催日時も場所も外には明かしていないから外部の人間が入り込んでいるとは誰も思わなかった。内容的にも荒唐無稽なテーマで外に洩れれば、我々研究者の命取りに成りかねなかったからだ。そんな機微な研究会の開催をゲンドウは何故か知っていて、あっという間に座の雰囲気を掌握したのだ。やつがどちらの研究組織にも属さない野良の研究者──あるいは研究者未満──だと判明したのは、会議が終わる間際の事だったが、その時にはもはや彼をその事で追い出せる雰囲気では無かった。彼の論旨が明晰で、人類補完に至る道程にも深い知識を有している事が分かったからだ」

「父さんが──」

 

 シンジはしばらく考え込んだ。父の知識の源泉についてだ。あるいはその時のゲンドウは既に何ループ目かで、チートな手段で知識を蓄えてきたのかも知れない。ゲヒルン(仮)と人工進化研究所(仮)のジョイントセッションも、前の周回で開催された事実を知っていれば、事前に潜り込む事は決して不可能ではないだろう。

 

「南極に覚醒前の光の巨人──アダムが存在しているという状況はその日の会合で直ちに諒解された。速やかに調査を開始しなければならないが、問題はどの国をスポンサーとするかだ。我々の故国ドイツか、それとも日本か。国家を後ろ盾にしなければ、我々の危険で大規模な調査は一歩も進まない。しかしゲンドウは事も無げに言ってのけたよ。──キール先生、飛び越える事です、と。あの皮肉な笑みを浮かべながらな」

 

 キールは謎かけのように言葉を切って、シンジに向かってニヤリと笑いかけた。バイザーの下の視線は分からないが、その意図はシンジにも分かった。──また、試されているな。出来の悪い学生みたいに。

 

「つまりドイツと日本の両政府を飛び越える、ですか」

「その通りだ。流石に息子だけあって察しがいいな」

「──父ゲンドウは超国家機関である国連に直接調査委員会を立ち上げるように主張したんですね」

「そうだ。彼は日本政府もドイツ政府も何ら信頼していなかった。国際社会で真の大国にヘゲモニーを握られる偽りの大国。腰が引けており、いつ我々を売るか分からない。といって、日本やドイツの上位の地位を占める真の大国にアダムの情報を流せば、我々は御礼状を一枚貰って終わりだ。あとは新大陸のあの国が美味しいところを全て持って行く。大統領主催のパーティーに一回ぐらいは招待されるかも知れないがな。だからゲンドウの提案に乗るしか無かった」

「美味しいところなんて、あの後に有ったのでしょうか? セカンドインパクトの地獄の後に──」

 

 シンジはキールに注ぐ視線をまっすぐ逸らさない。キールはそれに動じる事もなく、頷くように言葉を返した。

 

「学者にとっては真理への好奇心が満たされることがその第一だ。そして、国連の権威は実際効果があった。我々一介の研究者では国の説得に何年もかかったプランが、国連から話を下ろすと、あれよあれよという間に日本やドイツで具体化、法制化されたのだからな。つんぼ桟敷に置かれる事を恐れた両国政府からは、政府の委員会やアドバイザーへの就任を求められるようになった。前は大臣に会うだけでも一苦労だったのだが。──結局、大衆は本質や真理を見極められず、ただひたすらに権威に弱いのだ。それが国民が求めるものならば、ゲンドウの──いや、我々の作戦は図に当たったというわけだ。デモクラシー様々だな」

「昔から、貴国はデモクラシーを勘違いされているようです」

 

 キールはシンジの辛辣な指摘に鷹揚に応じた。

 

「かも知れん。我々ドイツ人は実際的だからな。カイザーを追い払って、オーストリア出の伍長勤務上等兵(ゲフライター)を選んだ時は些か失敗だったがな」

 

 それはキールの悪趣味な冗談のようだったから、シンジは冷たく無視した。先の大戦における判断ミスの惨禍を考えればそれは決して些か失敗などと言えるものではない。──ドイツも日本も。

 

「いずれにせよ、それからのゲンドウは雲蒸竜変と言っていい活躍ぶりだった。博論を3日で書き上げたとか、京大始まって以来の博論だとかもてはやされたという噂を聞いたが、冬月研に出入りを始めたのもその頃からだろう。すぐに院を修了し、しかし大学や研究所のポストは求めようとしなかった。それでいて、いつの間にかあの碇ユイに手を出し、碇と名を変えたのだから、我々研究者仲間は唖然としたものだ」

 

 碇ユイこそはキールが束ねた二つのグループの中で最も才覚に恵まれた研究者だった。研究者としての才覚、それはすなわち洞察力と独創性そして着眼点だった。

 

「碇ユイに比べれば、所詮ゲンドウなど1.5流の研究者に過ぎない」

 

 そう断言してキールは首を振った。

 

「母さんが──父さんより──遥かに優れた研究者だった……?」

 

 前に聞いたアスカの話を連想して、シンジは思わず声を上げた。アスカの両親も、その父よりも母が研究者として抜群に優れていた。──そうアスカからは聞いていたからだ。まるで今聞いた、ユイとゲンドウの関係にそっくりだった。

 

「もちろん、1.5流でも研究者として没頭すれば、ノーベル賞の一つや二つは取れただろう。ゲンドウにもその程度の能力はあった」 

 

 キールは事も無げに言って、しかしそんなものは特筆すべき才能ではないと切って捨てた。一山いくらのありふれた能力だというのだ。

 

「むしろ、ゲンドウの才能の本質は政治的才覚だった。やつはプロモーターであり、アジテーターであり、コンポーザーだった。尻込みする研究者に対して皮肉な笑みを浮かべ挑発するキャラクターは、多くの敵と、それ以上に多くの信奉者(ファン)を作った。国連の人類補完委員会の構想を練り上げたのもゲンドウだったし、そのメンバーの構成を決めたのも実質的にはヤツだった。──独・英・米・露・仏。自分の出身国日本を落とした理事国の構想を説明してきたから、私は当然疑問に思って、思わず口に出して尋ねたものだ。なぜ日本を入れないのだ、と?」

「父は──どう、答えたのですか?」

 

 いつの間にかシンジもキールの語る父の物語に引き込まれていた。

 

「それでは、日本が勝ち過ぎます。──ゲンドウはそう言ったのだ」

 

 箱根の下に眠るリリスの卵──黒き月があり、その空隙として広大なジオフロント空間があり、そこをネルフの本拠地として整備してエヴァを二、三機も投入して籠城すれば、難攻不落の要塞となる。それが初めて世に問われた第3新東京市の建設構想だった。だからその実現のためにも、理事国は他国に譲るのだ、と。

 

 シンジは流石に明敏だった。素早く反応して、分析を口に出した。

 

「そうか──父さんの策は、理事国になった列強が日本を共通の敵にしないよう、勝ちを譲る、ということか──合従連衡で、秦が六国の合従を妨害し、各個撃破したように」

 

 キールは応じて、「碇もその東洋の故事を持ち出して私にそう説明した」と肯く。

 

「ゲンドウの思惑としては、エヴァは世界全体で七機程度作られると構想していた。それ以上の財政負担はセカンドインパクト後の世界経済には耐えられないとかなり精緻なデータを用いて分析しておった。その条件下では、理事国と日本の計六国の各支部で一機ずつ分け合っても、一機が余り、また何れかの友邦一国のエヴァを借り受ける事で、三機程度を使徒正面迎撃の担務に当たる日本が保有するのは列強諸邦の許容範囲内だと考えていた。その上で勝ち過ぎることを避けて、常に合従策の分断を図れば、エヴァ戦力のいわば二国標準主義を維持できると考えたのだ」

 

 本来の二国標準主義は、大英帝国がその海軍力をつねに他の二つの国の海軍の合計力以上に維持する事を目指した軍事政策の事だ。つまり、二国標準主義を保つ限り、英国は同時に二国の軍事同盟を敵に回しても敗れないということになる。それを上回る想定──三国以上の軍事同盟を敵に回さない事については、軍事ではなく政治と外交の領分となるだろう。ゲンドウはそれをエヴァでも実現しようと試みたのだ。彼にとってエヴァは単なる使徒迎撃専用の決戦兵器ではなく、パワーポリティクスの力の源泉となる通常兵器や核兵器あるいはN2兵器の延長上の新たなる力でもあったのだ。

 

「それなら、バチカン条約の第13条1項に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──」

 

 すぐにふと気付いてシンジは指摘する。言葉を継ぐのはやはりキール・ローレンツだった。

 

「よく見た。その条文はゲンドウの二国標準主義の実現にとっては何ら支障とならない、列国を宥める為だけの空文ということになる。3体でもネルフ日本本部の絶対的優位は揺るがないのだからな。しかし勿論、その3体のエヴァがきちんと稼働しなければ、ゲンドウの思惑も画餅であり、彼の陰謀も水泡に帰すことになる」

 

 シンジは思わず声を出すことなく、唸った。ゲンドウがシンジたちの知らない所で画策していた構想の一端を知り、またその父の計画を破綻させたのが、シンジやアスカ、綾波レイらのエヴァンゲリオンパイロット適格者(チルドレン)の青春の蹉跌だったと知って。

 

「だがリスクはあっても野心を捨てようとしないのがゲンドウだった。ヤツはある時、私と二人きりの時に鋭い目で敬語も省いてこう言いおった。キール──オレの身体は空けておく。いつでもオレに相応しい、予算と権限が十分にあるポストに就く用意はある。しかし何時までもは待てない、猫の首に鈴を付けるなら今のうちだけだ、とな。私は自分の研究をほっぽりだして真剣に検討を始めたよ、大学院を修了したばかりの若造の就職先の手配を最優先事項としてな……」

「それで用意されたのが人工進化研究所の所長ポスト……」

 

 シンジは首を横に振り我が父の事ながらやれやれと嘆息したが、キールはそれを鼻で笑う。

 

「横紙破りの性格は血筋だろう。ゲンドウの息子も初対面の私に向かって吐いた言葉は、新生ネルフの司令職を用意しろという脅迫紛いのものだったからな。ステップを幾つも省いている辺り、父親よりも性急で更に性質(たち)が悪い。君の組織の再生とポストの為に、小国の予算が数年分飛んだ。どうやら私は、碇父子にとっては便利な打出の小槌らしい」

 

 しかしそう言ったキールの口調はゲンドウとシンジの挑戦的な行動を面白がっている雰囲気が感じられた。

 

「……僕らには時間がありませんから。性急なのは所与の条件からです」

 

 シンジはそこでニヤリと口許を歪め、暗い笑みを浮かべてみせた。そんな表情をしたらきっとアスカにすごく怒られるだろうな、と頭の片隅で考えながら。アスカは昔のシンジを思い起こさせるようなシンジの態度にはいつもダメ出しをしている。少しぐらいの落ち込みなら、励まし慰めてもくれるだろうが、世界そのものを呪うような暗い笑いには──サードインパクトを引き起こした時のシンジのような退嬰には、本気で怒るだろう。いや、怒ってくれる、と言うべきだろうか──。

 

「君だけが知る裏死海文書の示す、人類の残り時間だな──しかし碇シンジの取る日々の行動がその文書の秘せられた内容を、我々全員の残り時間を、人類の運命を左右する最期のイベントの発生時期を──君が我々に渋々と開示した僅かばかりの情報以上に雄弁に物語る──少なくとも理屈ではその筈だ」

「当然、僕の行動にはブラフも含まれます。申し訳ないですが、それは裏切りというよりも、僕の自己の生命を守る為の保身です」

 

 シンジは静かにそれを指摘した。

 

「それはよい。しかし、お前はそのために無辜の人類の犠牲を増やすようなブラフは選び取れない。我々ゼーレは慎重に時間をかけて、お前の性格を見極めてきたのだ。碇シンジよ。人によっては優しさと錯覚するかも知れない遅疑逡巡を。二度と犠牲者を出すわけにはいかないかつてサードの贄となったことのある元少年の立場を。目の前にある背信さえも放置して、素知らぬ振りをすることしか出来ないその惰弱さを」

「……遠未来の破滅に向けて早めに備えているだけなら、たとえ準備の始期がブラフであっても別に犠牲は増えないでしょう。犠牲を最小化するために常に実際よりも先に備えるだけだから、未来はその先のいつかに、その破局が起こるとしか規定出来ない。つまり人類に未来予測は出来ないんです。僕以外には──誰も」

 

 シンジの反駁は、むしろ哀しげだった。彼だけが持つ未来の知識は彼を人々の中で孤独にする。彼はそれをアスカとさえ共有出来ないのだ。だがキール・ローレンツはさらに食い下がった。

 

「カッサンドラーが予言を黙ったままにしていたら、その結果が亡国であっても誰も予言を成したとは思わないだろう。また、未来が成就した後にそれを明かしても、本当に予知の能力があるのかは証明出来ない。君がゼーレに非協力である事は、君の優位な立場を喪わせ、忠誠心ばかりではなく、その特殊な未来予言の実在それ自体を疑わせる事に繋がっているのだぞ。そうなれば君は最早、用済みだ」

 

 今まで平静の仮面を装ってきたキールの苛立ちが露わになった瞬間だった。考えれば、キールは既に八十も半ばだ。そこに表れたのは焦りだった。彼がシンジの秘す人類の残り時間をそこまで気にする理由には、彼個人の残り時間の問題があった。人類補完計画の成就により永遠を生きるか──さる試算ではこれまで1千億人を越えたとも言われている人類の名も無き墓標の一つに無造作に加わるか。

 

「未来予言の不実在。その疑惑は──僕には──否定できます」

 

 シンジは胸ポケットに親指と人差し指を入れ、目の前にそこから取り出した切れ端のような細長い紙を突き出した。

 

「何だ、それは」

「クリーニングのタグです。店の名前と受付番号が書いてある」

「意味が分からんが──?」

 

 キール・ローレンツのバイザーをした顔の下半分に当惑の色が浮かぶ。シンジは今度こそ人の悪い笑みを躊躇いなく浮かべる。

 

「僕はこの査問会が行われることを予め知っていたんです。これは重要なイベントらしく、裏死海文書にもはっきりと細部が明記されていた。だから僕はあなたたちが会への召喚を通告してくるちょうど1日前にクリーニングに査問会出席用のスーツを出しておいた。番号を問い合わせれば、いつ僕がスーツを洗濯に出したのか、クリーニング屋が答えてくれる」

「ただの……偶然だ」

 

 キールの声が嗄れた。

 

「パリッとしたクリーニングしたてのスーツのポケットに外したタグをわざわざ入れておく偶然がありますか? 普通はすぐ棄てるのでは? 僕にとってはこれが重要な未来視の証拠になるからわざわざこの場に持参したんです」

 

 シンジはキールの目の前で、服からむしり取ったタグをクルクルと回す。

 

 悪戯っぽい目で、老いたるキール・ローレンツを試すように覗き込む。

 

「むろん、全てを偶然だと決めつけても自由です。徒手空拳の僕を殺すのは至極簡単だ。ただし、床にぶちまけてしまった後で気が変わっても、脳味噌から裏死海文書の内容を引き出すのはちょっと難しそうですね。掃除も大変そうだ」

 

 既に自分の脳味噌がぶちまけられている床を幻視し、微笑みと共にそれを眺めてからキールを見つめ直すシンジを前に、ゼーレの議長は暫く沈黙に沈んでいたが、やがて口を開いた。

 

「碇司令には何か誤解があるようだ。これは査問会ではない。このようなお互いの誤解を解くための──意見交換会だ。裏死海文書の存在や君の忠誠心を疑っているように見せたのは、決して我々の本意ではない」

「そうでしたか」

 

 シンジの顔面に貼り付いたような微笑みは変わらない。まるきりキールの言い分を信じていないという凄みのある笑顔だった。キールの声はいくらか自信を喪っているように力が抜けていた。

 

「我々ゼーレとネルフは究極の目的の解釈に相違があったとしても、まだまだ共に歩める存在の筈だ。ネルフにはスポンサーとバックアップが必要だし、我々の人類補完計画にもネルフは欠かせない」

「少なくともネルフの方から、ゼーレへの義理を欠いたことはない筈です」

 

 シンジは穏やかに言った。そこで、この場に映像付でただ一人出席していたキール以外のゼーレ幹部──例のフランス代表だ──鷲鼻でネズミのような印象の丸眼鏡の老人が、脳天を突くような甲高い声で、初めて口を開いた。

 

「左様。両者の協力関係は今のところ上手く行っている。しかし防諜については気になる事もないではない。何故碇司令は最近のネルフの防諜上の問題点の発見とその解決について我々に報告をしようとはしなかったのかね。──我々にも目があり、耳がある。これは、碇司令のゼーレに対する忠勤、忠誠心を疑わせる事案ではないか?」

 

 シンジはようやく表情を改め、深刻そうに眉根を顰めた。

 

「やはりお聞き及びでしたか。実はネルフ本部司令室内に大規模な盗聴設備が見つかったのです。申し訳ありません」

「なんと! それは組織の安危に関わる由々しき問題ではないか! 碇司令は何故それを直ちに報告しなかったのか! ……あるいは、ゼーレに二心でもあるのではないか?」

 

 ゼーレ自身が設置したと思われる盗聴器の撤去の件で、甲高い声は白々しさを隠そうともせず糾弾する。とはいえ、シンジの深刻そうな顔も、お世辞にも真に迫ったものではなかったから、交わされる言葉の重大さとは裏腹にこの二人のやり取りは滑稽さも帯びていた。もしもアスカがこの場に居たのなら、白けた顔をしながら、二人の大根役者の三文芝居に早々にダメ出しをしていたかも知れない。

 

「報告しなかったのではなく、報告できなかったのです」

「──どういう訳だ?」

 

 しかし恭しく申し開きをするシンジの説明に、そこで初めて鷲鼻のゼーレ幹部の鼻の頭に汗が浮かぶ。

 

「司令室に大規模で放胆な盗聴装置が見つかった以上、他にも盗聴手段が残っている蓋然性は高く、どんな方法でネルフ内からゼーレに報告させていただいても、それは盗聴される恐れがありますから。我々はネルフでもなく、ゼーレでもない第三者に常に監視をされていたんです。それを把握した以上、更なる被害を抑止する為にも簡単には連絡が取れませんでした」

 

 シンジは司令室の盗聴が九割九分ゼーレの仕業だと百も承知の上で、虚構の第三者の脅威を唱えて、抜けぬけと開き直った。これでは、ゼーレ自身が自ら盗聴を仕掛けたとは決して言えない以上、例えば──もう盗聴器など無いではないか!といった──有効な論理的反論は難しい。

 

「い、言い訳だ! それならいつ我々はそれを知れるのだ! 永遠に報告されないままではないか!」

「今日です」

「ほ?」

 

 落ちかかった丸眼鏡を特徴的な鼻の上にずり上げながら、ゼーレは絶句した。

 

「先ほども僕は言いましたが、僕は今日この査問会──いや、失礼。意見交換会でしたね──が開かれることを裏死海文書で予め知っていたんです。だから焦る必要はなかった。この場で国連管理の最上級の秘話回線を通して、直接ゼーレの幹部の皆さんにご報告するのが、一番盗聴に対して安全で、最もゼーレに対して忠実な対応です」

「ばかな──その場しのぎで苦し紛れの言い繕いを!」

 

 鷲鼻ががなり立てるそのタイミングを見計らったようにシンジは折り畳んだ紙を、先ほどクリーニングのタグを取り出したのとは別の──今度は内ポケットから取り出した。シンジが畳まれた紙を開いていくと、その表紙には、左上に「機密性3情報」と機密行政文書である事を指定する記載があり、「ネルフ司令室盗聴・情報漏洩事案報告書」と横書きのタイトルが書いてあった。

 

「これもその場しのぎで、今作った報告書ですか?」

 

 シンジは広げた報告書をモノリスのカメラアイに向けて近づけた。鷲鼻のゼーレは「むむ……」と口ごもったきり、黙り込んだ。

 

「勧進帳ではないから、白紙でない中身もお見せします。1ページごとにそちらで人工知能が自動的にOCRするので、読み取れると思います」

 

 それからシンジは一枚一枚ページをめくって、その中身をカメラに向けて報告していった。二十ページほどはある文書の、ある意味でアナログ的な手段によるリモートスキャンには三十分以上が掛かった。しかしこの方法ならば盗聴、傍受の可能性はほぼない筈だった。

 

 さらに二十分ほどの沈黙があり、そこでようやくキールはスキャンされた報告書の内容を全て読み終えたようだった。シンジが保安諜報部長の剣崎キョウヤと協力して作成した報告書には可能な限り真実を書いた。それが一番簡単で矛盾もないからだが、盗聴器が発覚した経緯はシンジ自身による偶然の発見のように欺瞞してある。その欺瞞は巧緻な欺瞞である必要は全く無かった。ゼーレのスパイを懐柔して裏切らせ、盗聴器の存在を自供させ、その事実を隠蔽しているとも取れるようなレベルの不自然な発見経緯の説明にあえて留めてある。ゼーレの諜報網内部に相互不信と疑念を植え付けるのが差し当たっての狙いである。

 

「相分かった。報告は確かに受けた。防諜の更なる改善と再発防止を期待するぞ。本件のこれ以上の詮議は不要だ」

 

 キールは断言するように言った。

 

「しかし……」

「不要だと言った」

 

 鷲鼻はまだ不満そうだったが、キールの裁定は絶対のようだった。シンジは己がゼーレの仕掛けた罠からギリギリ脱した事を知った。査問会は形式的な確認事項を二、三、やりとりした後で、すぐに解散となった。

 

 開放感とともに国連本部ビルを出たシンジは、護衛兼送迎係の黒服をしばらく遠ざけ、独り、第2新東京の空気を大きく吸った。空は夕焼けの色に染まりつつあった。

 

 先ほどのタグをまだ手に持っていたので、無造作に側溝に棄てた。

 

「ただのブラフだよ──父さんが好きそうなやつだ」

 

 単に、タグを外したときに無意識にポケットに入れてしまっていたようだ。車に乗ってから気付いたが、棄てる暇が無かった。ゼーレの喚問が伝えられる前日にスーツをクリーニングに出したのは本当だ。裏を取られても問題はないが、喚問の翌日にクリーニングに出していてもおかしくはなかった。

 

 裏死海文書には個人の動きは記載されない。あくまでエヴァの建造計画や使徒の来寇などのイベントだけが描写され、各人がそれにどうリアクションするかは、おそらくはその周回の「登場人物」たちの自由意志に委ねられている。ゼーレはそれを知らなかった。近日の査問を予測し備えていたのは、単なるシンジの情報収集と推論の結果だ。予言書の知識など別に必要ない。

 

 予言を心から信じるものは、段々と人間の自由意志や努力を軽んじるようになる。予言に縛られるようになるのだ。

 

 ゼーレの老人の衰えを憐れむように、シンジは静かに呟いた。

 

「だけどこれじゃ勝ち過ぎだ」

 

 シンジとしては危うく虎口を脱しただけに、勝ち具合や相手の自尊心に配慮する余裕はなかった。いや、あるいは配慮出来たのかも知れないが、シンジもまだ若かった。つい、勝利の美酒を味わうために、反駁を強め、落とし穴を深く掘りすぎてしまった。

 

 しかし老人は議論に敗れた屈辱を忘れない。特に若者に敗れた屈辱は。

 

 ゲンドウの達した、己の能力の韜晦の境地には程遠い。

 

 だからそろそろ手切れか──とシンジは思った。

 

 これから始まる過酷な闘争の予感に、碇シンジはぐっと唇を噛みしめ、口を引き結んだ。

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