シンジにとって第2新東京から第3新東京までの帰路を、特急あずさの切符を渡されて後は放置とされなかったのはゼーレに付け入る隙を与えないままに終わった査問の結果からすると、上々の待遇だった。とはいえ、キール・ローレンツほどの男が一局面の敗北という事実を受け入れず、その種の低級な意趣返しを以てするというのはシンジも本気では考えていなかった。もっと痛烈な形で、別の時間と場所で、彼らゼーレの敵意は示される筈だ。それが二十年近く前、戦自を使嗾したネルフ本部急襲という形で示された彼らの意志だった。
送迎車が昔の松本ナンバー相当の第2新東京ナンバーなので、送迎を担当する例の黒服2人の在勤地がそもそも第3新東京市だという可能性は低い筈だ。相変わらず寡黙な運転手とは異なり、助手席の黒服が上機嫌なのは時間的に今からだと後泊が付くからだろう。
帰りの車窓から流れる景色の飛び去っていく速さが行きのそれよりも早く感じられるのは、シンジの解放感からばかりではなく、彼を降ろした後は送迎任務の二人がオフになるからで、実際に追い越し車線を積極的に活用し、制限速度もかなり上回っていた。その心理はゼーレの黒服と言えども当然のものだった。シンジを送り届けた後は、宿泊先のホテルのバーで一杯、二杯ときこしめす予定なのだろうか。助手席のゼーレ職員は目尻が露骨に下がっていて、声も朗らかで、新生ネルフの司令の送迎任務でなければ、鼻歌混じりにでもなりそうな気配だ。
シンジはその機嫌の良さに干渉するつもりはなかったし、自分を降ろす場所をリニアレール環状七号線の最寄り駅と指定したのも、恐らくは彼らを早く任務から解放してやりたいというシンジの好意の一環だっただろう。
環状七号線はシンジたちが中学生の頃からある路線で、第3新東京市とジオフロントを結び、更にジオフロント内周を螺旋状に巡っている。シンジが公用車で送迎される立場になってからは駅を見ることも少なかったが、駅舎に近づきシンジの胸に湧き起こったのは懐かしいという感情よりも、むしろ、尽きせぬ後悔に近いものだった。駅こそ違うが新箱根湯本で、全てを捨てて逃げ出そうとした事。ケンスケから電話でなじられ、アスカは見送りにも来なかった事が思い出された。僕はあの頃からボタンを掛け違えていたのだろうか?
リニアレールは、シンジたちが学校からネルフ本部に移動する時も何度も利用したものだった。毎回不思議と判を押したように、他の乗客が一人もいない車両で、アスカは車窓に背中をもたれかけさせたりしながら、いつもぶつくさと文句を言っていた。
例えば、世界を救う運命を担うエヴァパイロットなんだから、保安部に車で送り迎えさせればいいのに、と。その時には、子供のシンジは、アスカの放胆な発言に呆れながらも一理あると思ってもいた。僕らは使徒との闘いに命を賭けているんだから、それぐらいしてくれても罰は当たらないのに、と。ただしシンジは、そんな不満をアスカのように口に出すことはなかったし、アスカの発言に同調や迎合を示すことも無かった。
シンジが隠蔽した心中の特権意識を、アスカは露骨に口に出すことで常に形而下に立ち上らせ──まるで下に向かって生えるジオフロントのビルのように──、忘れまいとしていたが、シンジはそうではなかった。大人の顔色を窺って、黙って要求をこなすことが大人なんだと思っていた。主張を遠慮なく吐き出すアスカの事を子供っぽいとも思っていた。しかし、分別くさい振る舞いが大人であることを保証するわけではない。そして大人の振る舞いだと呑み込んだ要求に時折堪えきれなくなって爆発した時、シンジは一層、自分が子供であることを惨めに自覚する羽目に陥った。
──それに、ミサトさんがそうさせなかった理由は今なら、何となく分かる気がする。
葛城ミサトは僕らをなるべく特別でなく、普通の中学生として扱いたかったのだろう。公共交通機関を使わせることで僅かながらに高まる安全保障上のリスクを呑み込むために、ミサトの業務上の労苦は増えることはあっても減ることはなかった筈だ。そこまで考えると、シンジは一刻も早く黒塗りの車から降りたくなった。自分が新生ネルフの司令であるという不似合いの立場にも居たたまれない心地がする。
「駅より手前でも……適当な所で降ろしてくれればいいよ」
「そうですか? 構いませんが」
ミラーを通して窺われる助手席の男の表情は満更でもなさそうだ。駅前から家まで歩いて二十分程の距離だ。ベッドに寝ていた筈のシンジが外から帰宅した事について、もう帰っているであろうアスカに対する言い訳の準備も必要だった。
車を降りて、駅前通りを駅とは反対方向にゆっくりと歩いて向かいながら、シンジは将補の階級章の付いた軍服を手早く脱いで、上衣はワイシャツ姿になった。夏の夜風が長袖のシャツに心地良いが、シンジがジャケットを脱いだのは暑いからではなかった。制服姿の軍人が肩身の狭い思いをする時代はこの国で何度もあった。賛否はあるだろうが、シンジは将官でありながらも、どちらかと言えばそんな時代の日本が好きだった。しかし、そんな時代は急速に失われつつある。
ネルフ本部からは少し距離のあるこの区域では、夜道ということもあり、殆ど知り合いを見かける事はなかったが、たまたま同年代の男性ネルフ職員が制服姿ですれ違い、ぎょっとし慌ててシンジに向かって敬礼をした。答礼すべきところだがネルフ本部でもしばしばしているように会釈をもって代えた。「今日はこれから夜勤で」と彼から言わでもの弁明があった。
ネルフはその前身のゲヒルンが、研究機関であったことから、極端に士官待遇の職員や研究職が多く、再建後も職員構成は大きく変わっていない。この男も一尉だった。だから自宅から通っている。本部に警備隊の小規模な駐屯はあるものの、その多くは戦略自衛隊からの出向や転属であった。
かつて演習の準備中に、ネルフの自衛力を瞥見した戦自の春日陸将にやんわりと、碇司令は放胆ですなと言われたこともある。戦略自衛隊内部には様々な派閥があり、一枚岩ではない。必ずしもその全てが旧敵であったネルフに対して好意的でないことと、かつての本部決戦の悲惨な結末を示唆したものだった。はっきりと言葉には出来ないが、陸将の彼自身がナンバー2を勤める戦自の裏切りに備えて、自前の防衛力を備えるべきではないかという、彼の立場を超えた誠意ある指摘だ。シンジにもそれはすぐ分かった。春日の真剣な視線を受け止めて、シンジは言った。
──もう人間と戦うことはしたくないんです。
それはシンジの心からの実感であったが、私的な心情の吐露に過ぎないとも直ぐに気付いて、「通常戦力を整える事よりも、エヴァを強化する事が抑止力になるでしょう」と言葉少なに付け加えた。無策ゆえの楽観と理想論ではなくて、リソースの集中だと春日はシンジの企図を受け取った。シンジの念頭には自衛隊ではなく、もう一つの潜在的敵対勢力の存在があった。セフィロトという進化の樹形図=階梯を人為的にアップリフトし、単一生命体という人類を超えた存在になることを目論む彼らを、もはや人間とは見做さないというシンジの酷薄な決意だった。
男性士官に休日にご苦労様と言って、シンジは抱えていた上着を持ち替えて、改めて今度は答礼した。士官は、いや子供みたいですが、宿直は妙にワクワクしますし、明日のラッシュアワーに合わせて通勤しなくて済みますから、と冗談めかした。そして、女房に初めての子供が出来まして、と腹を膨らませるジェスチャーで付け加える。5ヶ月後に生まれる未だ見ぬ子を背負って、爛々と眼光を輝かせる彼の志気は弛緩していなかった。
使徒──渚カヲルの再出現に、人類の闘志は決して萎えていなかった。使徒と人類の生存闘争に落伍するのは使徒と呼ばれる化け物どもだと信じて疑わなかった。守るべき存在のない、独りぼっちで充足して在る使徒などに負けるものかと歯を食いしばっていた。人類は未だに敗れざる存在だった。万物の霊長で、地上の唯一の支配者だった。ネルフはどこまでも、人類のためのネルフだった。
部下と別れて、遠ざかる彼の背中を暫し見送ってから先はずっと登り坂だ。高台にシンジの官舎はある。ついこの間まで、家で待つものなど誰もいなかった広壮だが、寂しい屋敷だった。しかし、今はそうではなかった。シンジは腹を括った。気が進まないが、アスカには真っ赤な嘘をつく積もりだった。ゼーレに彼女を巻き込まないようにするにはそれしかない。嘘のストーリーは考えてあった。何となくミサトさんに対して後ろめたかった。普通の中学生として生きられるよう気遣ってもらっていたのに、普通の大人になれなかった。嘘つきの大人になってしまった。
◆
シンジの思惑の全ては破壊された。照明の落ちた玄関で明かりを付けずにそっと革靴を脱いで、スリッパに履き替えると、進んだ廊下を曲がった明かりの先に、腕を胸の前で組んで、ピンクのアウターとライトグリーンの組合せの登山ウェアを身に付けた女性がショートパンツの片脚を向かいの壁に突き、廊下を塞いでいる。アスカだった。
「おかえり」
「た、ただいま……アスカ」
「ふーん、今朝より大分元気になったみたいね」
「お、お陰様で……」
シンジが表情筋の引きつった顔で要領の得ない返事をすると、しかし、アスカは暫く無言だった。皮肉な笑みを口許に浮かべ、更なるシンジの反応を罠に掛かった獲物を見つめる猟師のような視線で落ち着いて待っている。
「その、ちょっと出掛けてて……」
「スラックスにくっきり折り目の付いたクリーニングしたての幹部制服で? コンビニに煙草でも買いに行ったのかしら?」
「う、えっと……」
色々言い訳を考えていた筈なのだが、頭の中から全て飛んでしまい、言葉が出てこない。シンジが喫煙者でないことぐらい、重々承知している筈のアスカには、小動物をこれから嬲りものにしようとするイタチにも似た薄笑いが浮かんでいた。
だが、やがて青くなっているシンジの表情観察に飽きたのか、興が冷めたように無表情になって肩を竦めた。
「あのね……あたし、あんたが今日どこに行ってたかは別に聞かないわよ」
「ど、どうして?」
それは意外な言葉だった。今アスカが問い詰めようとするのはその事だけだろうと予測していた。ゼーレと全く無関係のダミーの回答もその為だけに用意していたのに。
「聞いたら考えてきたウソを見てきたように付くんでしょう。だから聞かない。あたしはあんたにウソを付いて貰いたくはないの。少なくともあたしに対しては。分かるでしょ?」
「うん……」
「そんなに心細そうな顔、しないでよ。泣きたいのはこっちなんだからね。不実な夫……いや、愛人か。まあ、もうどっちでも良いんだけど──に仮病を使われて、デートをすっぽかされて……」
シンジは俯いた。何も言い訳が出来るものでは無かった。しかし、それにしても疑問がないわけではない。
(……デート?)
今日予定していた戦場予定地の現地踏査をデートだと考えたことは無かった。確かに、登山ウェアを登山用品店に二人で買いに行った時、アスカが妙にウキウキと機嫌が良かったので、不思議ではあったのだが。だが、次のアスカの言葉は聞き捨てならないものだった。
「だから──代打を頼んじゃった」
「え?」
「デートの代打よ。あんたが居ないんだからしょうがないでしょ?」
アスカがニンマリと、口角を吊り上げた。シンジは半ば何かの罠だと予感しつつ、自然の勢いで声を硬く尖らせる。
「だ、誰だよ代打って」
「別にいいでしょ、誰だって。とっても可愛いお相手よ」
「可愛いって……どこの誰だか知らないけど、男に対してなんだよ! いつもベッドで僕のこと、可愛いって言ってくれたのはウソだったの──かよ」
最後に取って付けたように付け加えられたマスキュリンな語尾は、およそシンジらしくないものだったが、それは彼の怒りを表現するものなのだろう。握りこんだシンジの拳が、アスカの不実を想像して怒りに震えている。
本当に久し振りのシンジの激昂と嫉妬に、アスカは充分に期待以上の反応を引き出せたと感じて、態度を改めた。廊下の壁に掛けていた足を床に付けて、シンジの顔を真っ直ぐ見つめ、彼女からは見上げるような位置にある肩を優しく叩く。
「落ち着きなさいよ、シンジ。男に対してじゃないわよ。デートの代打は女の子」
「え?」
「アイを連れて行ったのよ、あんたの代打として」
「……」
シンジの養女にして、その実は、シンジの異性型クローンという出自を持つ少女の名を告げて、アスカはシンジの反応を見る。明らかに安堵したシンジの表情は、怒りの行き場を失って、やがて赤面に変わった。
確かにアイなら正しく代打を務められるだろう。彼女はシンジのクローンなのだから。その精神は女性化されているとはいえ、シンジと同じだった。だけど、あえてそんな風な表現をしたのはアスカの嗜虐的な──勿論アイではなくシンジに対する──いたぶりのように思えてならない。
「その──アイを連れて行ったのは知ってたけど、僕の代打だなんて──そんなワザと勘違いさせるような言い方をして、酷いよ……」
「酷いのはお互い様でしょ。まあ、あんたのウソなんて最初から分かってたし、何をやっていたのかもおおよそ察しは付くけれど。女を守ろうとして、蚊帳の外に置くのは、かえって酷い話じゃないの。あんたは自分の女をバカにしているの? この惣流・アスカ・ラングレーの能力を甘く見ているの? あんたの背中を守ることも出来ない女だって思っているの?」
「アスカ──」
かつてゼーレがリツコさんを呼び出して、恥辱を与えた辱めを今のシンジは知っていた。そんなことをアスカにさせる訳には絶対にいかない。しかし説明することは出来なかった。シンジは二の句も継げなくて、ただアスカの正面からの視線を避ける。だが、アスカはそれを許さない。シンジの顔を見上げるように、自分の顔を近づけて、利き手でシンジの手首を握る。
「あたしは嘘つきシンちゃんと違って、ウソはつかないわよ。ベッドの上でもいつだって真実を語っているの。セックスで昂奮するために、その場限りで思ってもいないことを言っている訳じゃない、──少なくとも単なるメイクラブのスパイスとしての睦言ってだけじゃない。バカシンジは可愛い。これはあたしにとっての本当なの。だからいつも可愛がってあげてるでしょ?」
アスカはシンジの頬に白い手を差し伸べた。それはアスカが夜に寝台の上で与えてくれる熱とは対称的にひんやりと冷たくて、シンジを現実に引き戻してくれる。
「たとえそれがあんたにとっては、過去に別れた女への憐れみであり、アフターケアであったとしても。あたしは全力で愛しているつもりなのよ」
「でも僕は──」
「男だから女を守らなきゃいけない、過去にはそれが出来なかったから。ずっとそう思ってるんでしょ? それが碇シンジという男の子の後半生のテーマだって知っている。もしかしたらそれのみが今のシンジの生きる意味なんだろうなって。でも──ベッドの上ではしょっちゅうあたしにリードされてるじゃないの。それが少し恥ずかしいと思いながらも、結局あたしに甘えてるじゃないの。一度として拒まなかったじゃないの。さっきみたいに他の男の影が忍び寄ることさえ許せないじゃないの! あたしの挑発に震えるほどに嫉妬してて、あたしのことを自分の──自分だけのものだって信じてるんじゃないの!」
それが本当に大事なのだ。シンジがアスカを守ってくれるだけではなくて、彼の手から奪われまいと闘ってくれることが。
シンジはぎゅっと唇を噛んだ。同時に手首を握るアスカの手にも力が籠もる。完璧なユニゾンのように、二人のタイミングは一致している。
「ごめん……」
「謝ってほしくなんかない! 一度甘えたなら、突き放すのは止めて」
「でも──アスカを守りたいんだ。二度と失いたくない」
シンジの声は涙混じりになっていた。自分の無力さがいつも、彼を責め苛む。その責めが無ければ、きっと自分は、世界に、ゼーレにとうの昔に敗れていたことだろう。
「私は喪われてなんかいないわよ」
アスカは能面のような顔をして、突き放すように言った。量産型エヴァは弐号機を屠ったが、アスカを屠れはしなかった。あの砂浜に、アスカとシンジは生き残って二人ぼっちだった。アスカにとってそれはとても大切な事実だった。
しかしシンジはアスカが一度は失われた事を知っている。彼の手から零れ落ちた少女。失った恋。永遠に叶うことのない、初めての恋。もしかしたら、時の永劫の牢獄の中で、シンジは繰り返し、何度も何度も、アスカを失い続けているのかも知れない。
二人の言葉は微妙にすれ違っていた。考えればいつもシンジとアスカは、そうだった。しかし、二人の別個の人間の考え方がピッタリ重なる訳がない。そのズレこそが、二人の人間が互いを求める理由に他ならない。同じ人間になってしまえば、相手を求める必要はない。人類補完計画にシンジたちが命懸けで抵抗する理由だ。
「でも、僕は失ったんだ。一度──。そしてもう二度と手に入れられないって思っている」
「あたしはここにいるじゃないの。ここにいるんだよ! シンジ!」
アスカはずっと握ったままだったシンジの手首に一層力を込めた。
「──アイは今お風呂に入っている」
アスカは怒りを蒼い瞳の眼差しに込めて、斬りつけるように言った。シンジはなぜアイの話が今出るのか分からず混乱する。
「アイとひとつ屋根の下にいる間は、あんたと寝ないと決めていた。お互いにそれで納得したと思っていた」
もちろんそれはシンジも承知していた。アイを挟んで擬似ながら、父親と母親のような関係を築きつつあった。それはいつまでも大人になれない二人が、次の階梯には進まずに、モラトリアムの中で演じる家族ごっこに過ぎないのかも知れなかった。アイをエゴイスティックに巻き込んだむしろ残酷な行為なのかも知れなかった。しかし、アスカのことをシンジと同じ様に想うアイの傍らで、そんな事をする気にはなれなかった。
「でもね──愛人なんだよ、あたしたちは。家族じゃない。愛人関係からセックスを抜いたら、何が残るっていうの? そんなの只の他人じゃない。結局こんなやり方じゃ、家族にはなれないよ。それに本物の家族でだって、親同士はセックスをしている──」
親同士がセックスをしない家庭で育ったアスカとシンジ──それは冷め切った愛や、死別の結果ではあったが──は、家族ごっこをする時さえ、その在り方を間違えていたのだ。
「アスカ──」
「前にクリスマスの夜を、アイがお膳立てしてくれた事があったね。アイはちゃんと分かってるんだよ。男と女がしていることを。大人の男と女がするべきことを」
中学二年生の時のシンジをそのままに甦らせたような存在であるアイがそれを知らない筈はない。だが──。
シンジの表情を窺って、アスカは言った。
「やっぱり、アイに後ろめたい?」
「うん……」
「だったらあたしを悪者にすればいい。あたしはあんたがいないと壊れる。性欲と寂しさからあんたの身体を貪欲に求めた──アイのことなんか丸きり無視して──淫乱な女のせいにすればいい。それをケアするのは、あんたのあたしへの約束なんだから」
シンジには分かっていた。アスカがそんな理由からシンジを求めているのではないのだと。アスカはシンジを現世に繋ぎ止めようとしていた。自分は確かにここにいて、シンジの手からは一度たりとも失われてはいないんだと自分の身体を使って、証明しようとしていた。
「違う、アスカはそんな、淫乱なんかじゃない。アスカ自身の言葉でも、アスカを侮辱するのは許さない。──そんな事は言わないでよ。自分で自分を悪者にしないでよ。アスカにそんな真似をさせるなら、僕から誘うよ。今晩、アスカを抱きたい。抱かせてよ」
そう言って、シンジは彼の手首を掴んでいたアスカの手のひらを掬い、しっかり握り直した。アイに対する罪はシンジ自身が背負う。アイは彼が作り出した彼の娘だからだ。
アスカは首を横に振ってにじり寄り、シンジのワイシャツに顔を埋めた。1日闘ってきた男の体臭が鼻腔内の嗅神経細胞を刺激するが、その臭いは嗅ぎ慣れており、決して不快ではない。
「淫乱なのは本当よ。シンジがほしいの──今すぐに」
「その……
恐る恐るシンジが聞いてきたが、アスカはまた否定の首振りをする。
「ホテルはイヤ。シンジの寝室のベッドでいい。早いし、大きいし」
「貶されてるんだか、褒められてるんだか」
「ばかね──ナニの事じゃないわよ。尤も、早いのは自覚があるなら治したら? もっとあたしで練習してさ」
アスカはクスッと笑って、上気した頬をシンジの頬にすり寄せた。
◆
「やっぱり早かったじゃないの」
シンジの平滑な胸を枕にして、目許を紅くしたアスカは軽く愚痴った。シンジの寝室のベッドはキングサイズで、アスカの言うように大きくて快適だった。
「一発目だけだよ──」
頬を紅潮させて、シンジは抗弁した。必死というよりは、どこかアスカに許してもらえると初めから分かってるような甘えがその抗議には混じっていた。
「へぇ。一発目だけなら、早漏じゃないとでも? おまけに只の早漏じゃなくて、何だっけ──まんま、三擦り半とか言うやつ? シンちゃんってば、一回、二回、三回ちょっと擦って、『うっ』となったよね。こっちが盛り上がる前に。いつも以上にちょっとヤバいんじゃない?」
アスカはシンジの胸に人差し指で円を描きながら、追い討ちをかける。シンジはしゅんとなった。
「ごめん。でも久し振りだったし、アスカと1つになれたから感激しちゃったのかな……」
「そうなんだ」
シンジの言い訳に少しうるっと来たのか、アスカの舌鋒が緩む。
「それに我慢したんだよ。二回目ぐらいで逝ってもおかしくはなかったぐらいで……アスカには悪かったけど」
「そんな調子なら、これからは一発目はカウントに入れるの止めようかしら」
シンジはもう忘れているだろうが、アスカは初体験からシンジと結ばれた回数を全て数えていた。友人に話したら、例外なくドン引きされたので、もう他人に言うことはないが、カウントを中断したことはなかった。メモ帳に今でも正確に回数を記録している。シンジは案の定、アスカの言葉にキョトンとしているが、多少気まずそうだった。
シンジは自慰行為を行わないと堅く誓って、実践しているので、禁欲期間が長かったことを考えると、今回の早漏には情状酌量の余地がある。アスカは不意に過去の贖罪にどこまでも拘るシンジが可哀想になって、その背中に両手を回して、ポンポンと叩いてやった。
「うそうそ。気にしてなんかいないよ。一発目はしょうがないよね。結局、合計三発も頑張ってくれたし」
「本当に……幻滅してない?」
上目遣いの確認が、子犬のようで、シンジの少年的な魅力を強調している。同い年だからまだいいが、これで年下だったら些か犯罪的なのではないかと余計なことを考えたりもする。
「シンジが必死に名誉を守ろうとしてくれたさっきの言葉によるとあたしは淫乱じゃないんでしょ? 実際、セックスは必要なことだけど、肉の快楽を貪るのは本質じゃないと思うわよ」
シンジは顔を赤らめて、口の中でアスカの発した肉の快楽……という言葉をぶつくさ呟いていた。
──バカシンジのやつ、ムッツリだけど案外助平なのよネ。アスカはそんな感想を抱きながらも、そんなシンジがみずから自慰を禁じ、禁欲を貫いている健気さに改めて愛おしさを感じた。
「あたしはね──シンジと繋がりたいだけなのよ。そして、あんたの色々なもやもやを受け止めてあげたいだけ」
「それだと──やっぱり正常位の方がいいってことかな」
シンジが鬱屈した表情を浮かべながら、ズレたことを言い出した。今日は珍しく、正常位で頑張っていたシンジだが、メンタル的な問題で「立ち向かう」のが難しい時がある。そういう時はアスカがリードする騎乗位で交わることが普通だった。
それにアスカは面と向かって言ったことはないが、シンジを観察していると──こいつ、絶対、騎乗位の方が好きでしょ? と思うときが度々あるのだ。
軽度のマゾヒズムなのか、若干マザコン気味なのかは分からないが、女に主導権を握られている方が、性格的に安心するらしいのだ。勿論、重度なものではない。今日みたいにアスカに反論したり噛み付いて来ることもある。シンジにとって体位やセックス中のやり取りの好み程度の話しではあるし、本人さえ自覚してない様子だが、もうこれだけで駄目だと言う五月蠅い女もいるだろうから、アスカとしては内心、──バカシンジはあたしにもっと感謝すべき!と一人ごちるのであった。
実はそれが根本的には、アスカの性格と態度とセックススタイルの好みに合わせて、シンジの方が知らない内に適応した結果だということにはアスカは全然、気付いていなかった。
◆
アスカはその夜、ピロートークとして、シンジの腕の中で、長い金髪を彼の指に梳かれながら、幼い頃の昔話を語った。
子供の頃、西ドイツの首都ボンに住んでいたこと。ボンから車で20分も走れば行けるレマーゲンという古都によく連れて行って貰ったこと。
手入れの行き届いた城や教会がその街の名物だったが、アスカはそんなものにはちっとも興味がなかったこと。だけど、そこに家族で旅行した日は、仲が冷え切っていた父と母が表面上、明るく、楽しく、仲の良さそうな理想の家族として振る舞っていたので、アスカはそれが見たくてしょっちゅうレマーゲンに行きたがったこと。
シンジはアスカの話を聞くだに、その家庭的不幸に身につまされる思いだった。
そして、そこに通ううちにアスカが地元の老爺に聞かされた話だが、レマーゲンにはこんな伝説があった。
「──ローラン? それってシャルルマーニュ王の
ベッドの中で、シンジがアスカの言った言葉を繰り返して確認する。ローランはパラディンの筆頭として謳われた高名な聖騎士の筈だ。
「そうよ──シンジはよくお勉強しているわね。いい子、いい子──」
既に眠気が相当入り込んで、判断力も低下している口調でアスカは言い、最後には勉強のご褒美と言って、シンジの唇に自分の唇を重ねた。シンジは目を白黒させた。アスカはシンジの様子に頓着せず、説明した。
「うん──ドイツの伝説だから、シャルルマーニュでなく、カール大帝と言うべきだけどね……。ローランはヒルデグンデという美人に、求婚をしてたのよ。ところが、ローランは戦争ばかりしていて、女の所にじっとしていられなかった。遠くスペインまで、ムーア人との戦争に遠征したりして、帰って来た時には、ヒルデグンデは尼になっていた……」
「尼に……。それで、ローランはどうしたの?」
シンジの質問に応じてトロンとするまぶたを半ば閉じながら、アスカは話を続けた。
「……レマーゲンにお城を作ったのよ。そしてそこに引きこもって、ヒルデグンデが尼僧院で亡くなるまで嘆き続けた。なんにもせずにね。そしてヒルデグンデが亡くなるとまた戦争に行ってしまった。それで戦死したそうよ……」
「なんでこの話を、僕に?」
「シンジに教訓を教えてあげたかったのよ」
「教訓……」
アスカは欠伸をかみ殺しながら言った。先ほどのシンジとの複数回に及ぶセックスの疲労感が全身を心地良く覆っていた。
「簡単な事よ。1つは、女が待つにも限度はあるってこと……何事にも時間切れはあるのよ。お婆ちゃんになるまで待つわけには行かないんだから……。そしてもう1つは、ローランが帰ってきた時、ヒルデグンデが尼になっていたのを知って、ローランはどうすべきだったのでしょう?」
2つめは教訓というより、質問だとシンジは思ったから、答えを尋ねた。
「どうすればよかったの?」
アスカはシンジの胸に顔を埋めながら、ほぼ睡魔に囚われたまま答えた。
「それは自分で考えなさい……シンジが自分で……」