春というのはなんとも心が穏やかにさせられるものだ。隣を見れば幼馴染の彼と彩ちゃんの眠そうな姿。未だ寝起きで歩きながらうつらうつらとしているせいか、あわや通学路と張り出された電柱にぶつかりそうにすらなっている。春の陽射しが寝惚け眼で半分ほど閉じかけられた瞼に刺さっている。
「……二人とも相当眠そうだけれど、大丈夫かしら?」
「うん……うん……大丈夫だよ、千聖ちゃん」
声をかければ反応を返せる程度には意識は保たれているらしい。少しだけ会話を挟めばなんとか眠気も吹き飛ぶ……まではいかなくとも、忘れられるほどには回復してきたようだった。
ちょうどその時、頬を撫でる感覚すら感じなかった空気の流れが急にスピードをもって風として一陣顔の横を、並んで歩く三人の間を通り過ぎていった。遠くの土手に生えた桜並木からここまで飛ばされてきたであろう花びらが彼の鼻の頭に乗って、わっと少しだけ驚いた声が通った。
「桜の花びら……、もう満開で春が来たことを実感するわね」
「ん……千聖ありがと」
「ふふっ、どういたしまして」
彼の鼻頭に座った桜の花びらを摘んで掌に乗せてみると、また風が吹いてどこか遠くの方へと飛んで行ってしまった。
「あぁっ、また飛んで行っちゃった」
「風が強いものね」
「この分だと桜も一気に散っちゃいそうだよな」
桜は満開になるまでも早ければ、満開になってから散ってしまうのも早いような気がする。確か朝の天気予報では今日の夜は雨こそ降らねど強い風が吹いてしまうから、お花見は今日がラストチャンスだとかなんて言っていたはずだ。勿論今から学校に向かって、放課後はレッスンに費やされる私たちPastel✽Palettesの面々には関係のないような話だけれど。
「そっかぁ……。……ねぇねぇっ! 今度お花見しようよ!」
少しもの寂しそうな顔を浮かべた彼を見かねた彩ちゃんはすごい名案を思いついたようにお花見の話をし始めた。今度の休みの時までに桜は残っているのだろうか。
「お花見か……、そりゃ楽しそうだな! 千聖もどうだ?」
急に呼ばれて話を振られたものだからぱっと顔が彼の方に向く。温かな目線を感じたら、何故か急に自分の体から力が抜けるような、リラックスしたように感じた。
「えっ? そうね、私も日取りが合うなら喜んで参加させてもらおうかしら」
「……そっか、そうだよね」
「ん? どうしたんだ彩?」
「何でもないよっ! みんなでお花見か〜、楽しみだなっ!」
取り繕うような彩ちゃんの口調。そうだ、分かってはいる。長い付き合いでもある。彩ちゃんはきっと彼を個人的に誘ったつもりだったのだろう。私のいる隣でそれを誘ったのは彩ちゃんらしいといえば彩ちゃんらしいだろうか。きっと誘ってOKを貰えれば更にその先まで……。
あぁやめよう、こんなこと考えてもなんの得にもならないし、陰鬱な気分になるだけだ。彼の顔から視線を少しずらして彩ちゃんの顔が視界に映った瞬間、私は体が硬直したように、力がキュッと入ってしまった。慌てて目をそらして二人の歩みに追いつこうとする。けれど、少し後ろから二人の姿を見るだけでさらに胸が締め付けられそうで、ふぅと息を一つ大きくついて思考をリセットすることにした。怪訝そうに見られたけれども、ただ少し誤魔化したらまた何もなかったかのように登校路を歩き出した。また今度は後ろから髪をさらっていくように風が一陣通り抜けていった。
学校こそ始業式とHRだけで昼過ぎぐらいに終わったものの、放課後のレッスンが終わる頃にはもうすっかり夜も遅くなっており、既に学校ならば下校時間が過ぎ去ってしまったほどの時間になっていた。この頃には天気予報が言っていた通りに雨雲は全く見受けられないのに、もっと言えば雲一つないのに、風だけがやたらと強く吹いていた。曇っていないからか、月明かりがたっぷり届いて、街灯がなくとも夜道が明るく照らされていた。
もう四月になったとはいえ、ここまで風が吹いていると少しだけ肌寒い。パスパレの四人とは既に解散していて一人でただ淡々と歩を進める。
「彩ちゃんか……」
いつも直向きにアイドルの道を邁進する彩ちゃん。そんな彩ちゃんにも春が来たということだろうか。本来であればアイドルに恋愛はご法度なのかもしれないが、幸か不幸かうちの事務所は恋愛の云々について明言はしていないし、節度を守った交際なら認めるという方針なのだろう。
彩ちゃんは……いや、彩ちゃんもまた彼が好きだということだろう。普段の彩ちゃんの言動からそういう心が読み取れてしまう自分もまた同じ気持ちの持ち主であることを自覚してしまって、余計に虚しくなってしまった。逆に彩ちゃんは私の気持ちに気付いているだろうか。彩ちゃんより気づいて欲しい人には、全く気づいてもらえていないようだが。
桜の木は花が咲いている以外の時期というのは比較的地味だと思う。ただ茶色の幹から伸びた枝のところどころに蕾がついて、なんとも地味な色合いのまま冬を越して春を待つ。そして暖かくなってきたら一気に鮮やかな薄桃色の花を纏って、花びらを散らして宙に舞わせるわけである。
私のこの想いも桜が花開くように成就してくれたら……と心のどこか奥底でひっそりと祈るわけだが、その一方ですぐにその花が散ってしまうことを恐れる自分もいた。花は咲いて、しばらくして散る。当然の自然の理なのだが、それに準えてしまう自分がいやに愚かで弱い人間だと再確認してしまって、泣きそうになってしまう。自分自身で言葉にすることが怖くて、桜の花にその想いを隠してしまっているのである。
そのような意味で、積極的に自分から攻めようとできる彩ちゃんが羨ましかった。私は一体こんなことに思い悩んで、何をしているのだろう。そんな風な考えばかりがずぅっと頭の中をぐるぐると回り続けていた。
不意に、背中から強い風が吹き抜けた。強いといっても、台風で体が飛ばされてしまうほどの強すぎる風ではない。けれど体が押されて、それに押されるがまま早歩きになってしまった。風が吹き止んだかと思えば、背中の方から散ってしまった桜の花びらが一気に私の体を通り過ぎて前方へと吹き飛ばされていった。月の明かりに照らし出された花びらは黄金の光を反射して向こうの闇に消えていった。
その風に押されるがまま、私は一人夜道を歩いた。幾度となく風が吹き付けてくるが、どの風もずっと後方から私を押しのけて吹いていった。
冷たすぎるほどのステンレスの柵に手をついて、脇にあるボタンを押した。呑気な音と共にガチャリと音がした。
『……はい、どちら様……って千聖?』
短く声が途切れると、数秒後に重たそうな玄関のドアが開いた。
「どうしたんだ、こんな夜に」
「……いいえ、少し近くを通ったから……」
「……そうか」
何も話すことを考えていなくて、ただ無言の時間が流れる。たった50cmほどしか離れていないはずなのに、何故か彼がとても遠く感じる。
「風、強いな」
「そうね。とても……」
「……桜、散っちゃうかもな」
「……そうかもしれないわね」
私が言い終わると同時に、また強い風が吹き込んできた。思わず目をつぶっていると、目の前から小さな驚きの声が聞こえてきた。目を徐に開くと、朝のように彼の鼻に桜の花びらが乗っかっていた。
「……ふふっ」
「わっ……、……ありがとよ」
朝の出来事を繰り返すように、私の人差し指が、冷たくなり始めた彼の鼻をそっと撫でた。風の音が変に耳の奥にまで通ってきた。胸の動悸がやけに収まらない。抑えなくちゃならないって理屈ではわかっているはずなのに、何故か体の動きは私には抑えることができなかった。
「……ねぇ」
「ん? どうかしたか?」
「お花見、したいかしら?」
「え? まぁ……もし出来るならな」
「そう……分かったわ」
「分かったって何が……ってえっ?!」
白く細い、華奢だと言われてしまいそうな腕が自然と彼の方に伸びた。鼻は冷たかったけれど、手はほんのり暖かくて、指先まで暖かそうだ。ほんの少し羨ましい。
「ちさっ……手っ、えっ?!」
「ふふっ、行きましょう?」
困惑する彼に何も言わないまま手を繋ぐ。決して離すことができないようにしっかり指の先まで絡めさせて。私の冷えた指が彼の熱で暖められていく。この満たされた感覚がたまらなく愛おしかった。
彼に比べれば私は力がないだろうけど、私がぐいっと腕を引き寄せて連れ出したら、彼は驚嘆の声こそ上げつつも、なんだかんだ私についてきてくれた。お互いの家からさほど離れていない地元の神社。普段はなかなか来ることもないし、せいぜいくるのは夏祭りの時ぐらいだろうか。長すぎるほどの石畳の坂を、彼と手を握ったまんま登り続けた。鳥居をくぐって境内に入る。もうこんな夜遅くだから人っ子一人見ない。社務所ですらしまっていて、ただ広すぎるほどの境内にいるのは私たち二人だけだった。
「ちょ、千聖。なんでこんなところまで……」
「はぁっ……はぁっ……、見たいんでしょう?」
「えぇ……? もしかして」
神社の中央にある社をぐるりと周り、小さな鳥居の横を通り過ぎると小高い山が目前に迫っていた。その手前にはポツンとたった街灯のオレンジの明かりが周囲の木々を照らしていた。なんとも頼りない明かりだったが、その明かりの先には今まさに求めていたものがしっかりと、そこにはあった。
「桜だ……」
「えぇ……」
大きな幹。ゴツゴツとした幹から伸びているであろう長い枝は全く見えなかった。ただピンクの衣が濃黄にところどころ染み渡りつつ咲いていたのであった。
「……お花見は今日がラストチャンスって聞いたから、ごめんなさいね、無理矢理連れてきてしまって」
「……いいや。むしろ、連れてきてくれて、ありがとな」
「優しいのね……本当に」
残酷なまでに彼は優しかった。私はいつしか彼の優しさに囚われてしまっていたのかもしれない。そして、それはきっと私だけではなく……。
「……彩がいなくてちょっと残念だけどな」
「……そう、ね」
全くこの男は、私といるのに他の女の子の話をしだすなんてお説教が必要かしら? なんて、言えるはずもなかった。
なかったけれど。
繋いだままの手をゆっくり解いて、上半身全てを、いや、体の全てを委ねるように、私は彼に寄りかかった。
「……ねぇ」
「千聖……? その……さっきからどう「桜って、桜って一体何がそんなに良いのかしら?」え……?」
きっとすぐには私の質問の意味が分からなかったのだろう。返答に窮した彼は少し押し黙っていた。けれど、暫くしてようやく口を開いた。
「桜は……咲いているところじゃないか? あと散っちゃうところも、その……風流だなって思う……ぞ?」
「……そう」
短く返しただけで私が押し黙ると、彼はさっき言いかけた質問らしきなにかをもう一度問うことはなく、ただ逞しい腕で抱きとめてくれて、私の様子を眺めるばかりだった。
「ねぇ、もう一つ。桜は好きかしら?」
「……え?」
「私はね」
どんな桜も好きじゃない、なんて答えたら彼は怒るだろうか。それともなんだそれと呆れて笑うだろうか。
もっと欲深いことを言ってしまえば、私は彼に桜を好きになって欲しくなかった。ピンクはやっぱり彩ちゃんをイメージしてしまうもの……なんて幼稚すぎるわね。
でも、私は彼に桜を好きになって欲しくもあった。だってもしそうだとすれば、もう私はきっと諦めがつくだろうから。諦めをつけて、もう忘れてしまおうと思ったから。
だから、だから聞いたんだ。諦めをつけるために。
「……いいえ、忘れて。それで、桜は好きかしら?」
「好きかって……まぁ、嫌いではないけどさ」
あぁどうして、どうしてそんな未練が沸き立ってしまうようなそんな答えを返してくるのだろうか。もうすでに気が狂いそうだと言うのに。
彼の腰に回していた掌をそっと彼の右頬に添えた。
「ねぇ、答えて? 桜は好き?」
「……だから嫌いじゃないって」
「……好き? 嫌い?」
『嫌いじゃない』なんて答えは求めていない。いいや、そもそも答えなんて求めていないのかもしれない。だから——。
「桜は……——」
答えの音が発せられる前に、唇を重ねた。聞きたくなかったもの。
諦められるわけないじゃない。例えその答えがYesだったとしても、Noだったとしても。好きなものは好きなんだもの。
もう風の音なんて聞こえない。桜の姿なんて映らない。全部全部、染まっていく。
ごめんね彩ちゃん。
奪っちゃった。