私は電車の席に座っていた。乗客は少なくてまばら。みんな座っている。電車内は走行音をBGMに心地のいい静けさに包まれていた。しかしながら私の心境はこの車内の空気とは全く正反対で落ち着きを忘れていた。理由はなにか。
向かいに座る男からの視線であった。
乗客は男の人。瘦せ型で40代くらいだと思う、スーツを着ているから仕事に向かうところだろうか。その人はさっきからじーっと途切れることなく私に視線を向けていた。気づいたのは、流れゆく窓の景色を何ともなしに見ている時だった。視界の横から視線を感じた。それでちらりと瞳だけを動かすと、男の人がじっとこちらを見つめていた。その時は別段気にも留めなかった。まあ、意味もなく乗客に視線が向く事はあるし、それも数秒で終わることだろうと。そう思ってたのだが、、その人はずうっと私を見てた。瞬きもせずにまるで縫い付けられたようじっと私を見ていたのである。その瞳が段々ビー玉のように見えてくる。私は恐くなって逃げるように手元のスマホに視線を落とした。指は動かさず画面はずっと同じページのまま。それどころじゃないから当然だ。心の中で見てませんように、見てませんようにと何度も繰り返し祈った。そうしてばっと顔を上げた。
見てた。
ぴえええええん。
怖すぎた。私はますます動揺する。
何で見てるんだ。私何かしましたか、あなたに。してませんよね。そうですよね。ね?
当然返答はなく、レーザーのような視線だけが返ってきている。
私は今絶対緊張した表情をしている筈だ。会社の面接の時くらい顔を強張らせてると思う。でも男は一切反応を示さないでただ見てくる。ガン見。。怖い。。
私は冷や汗を掻きながらとりあえず視線をずらした。原因を考える時間が欲しかった。ここまでくるとほんとに私が何かしたかもしれないという、謎の強迫観念に駆られていた。私が悩んでいる間にも電車は穏やかに進んでいく。乗客たちはすやすや眠っている。羨ましい。私も眠りたいよ。そう思っているところ、席に座る一人の女性と目が合った。女性は私の縋るような視線に気づくと、視線をずらして恐らくは男の方を見た。それでまた私を見て男を見て私を見て、と視線を交互させる。ですよね、おかしいですよね。私ピンチですよね。そう共感を求めた私の問いかけはしかし、女性の曖昧な苦笑いで止む無く霧散した。ぬああああその笑みは何だあああ日本人嫌いいいいいいい。
私は原因究明を諦めた。意識しないことにした。気づかなければ無いのと一緒だ。目を閉じて男の視線を忘却の彼方に追いやってやり過ごす。いや、意識の端っこにはいるんだけども。気分はいくらかマシだ。
やがて車内放送が私の最寄り駅を読み上げた。私は救われた思いで立ち上がる。ドア近くに移動する。これで男の視線ともおさらばだ。
と思って、既にホームに入った電車のドアが開くのを心待ちにしていたのだが、突然男の立ち上がる気配がした。咄嗟に顔をちょっとだけ後ろに向けて、視線をちらりと背後にやれば近づいてくる男の姿があった。
ひいいいいいいいい。なんで来るの。あなたも降りるの?それとも私何かされるの?後ろからナイフで刺されるううう。いや絶対ないけど。あるかもおおお。
心拍数が高まる。ドア早く開け早く開け。とひたすら念じた。ここまでドアが開くのを待ち遠しいと思ったことは未だかつて無かった。やがて電車は動きを止めた。少し間をおいてぷしゅーと空気を吐き出す音と共に扉が開いた。
素早くホームへ一歩を踏み出す。その時、横を誰かが通った。
無論、男だ。
息を呑む。
男は私の耳元で、こうつぶやいた。
「寝癖」
・・・ねぐせ。ネグセ。寝癖ええええ!!???!?!?それだけええええええ!!???ぴえええええ!?!?!?!?うびびびびびびびいいいいいいっっっっ!!??!?!?!?!?
男はそのままスタスタ歩いていき、気付けば人並みに消えてった。
私はどうすればいいかわからず、とりあえずホームに立ち尽くしていた。