川沿いの林道を、心地よいスピードで駆け抜けていく。しかしコンディションはあまり良くない。色とりどりの落ち葉が、絨毯みたいに敷き詰められているから。梢を抜けて差し込む日の光と影のコントラストは美しいが、少しでも油断するとすぐにリアタイヤが流れる。
アイツが青いヤマハで、オレが赤いホンダ。
五メートルくらい先を走るアイツが操る青いオフロードバイクの、サスペンションが伸び縮みする動作によくできているなと感心した。
オレは、ちょうど一年くらい前にTS症候群とか呼ばれる病気を患って、性別が女に変わってしまった。
最初は日中外に出るのも辛かった。でも今じゃ、こうやってツーリングをするくらいにはマトモになってきている。それもこれも、ずっと側で待ってくれていたアイツがいたからだ。——小学校からの友人で、親友と呼べるくらいには気の知れた仲の、カズキがいてくれたから。
『そこから河原に降りれるから、一旦休憩しようぜ』
「あいよ」
少し先を走るカズキが斜め前方を指差すと、ヘルメットに仕込んだインカムから声が出力される。オレは少し腰を浮かした状態で地面からの衝撃を逃すと、弾む息を抑えて返事をした。
意外と、林道をバイクで走るのは疲れるのだ。
バイクだから、極端なことを言えばスロットルを捻れば前に進む。しかし、そもそも二つしかタイヤが付いていない乗り物だ。普通に走るだけでも、砂利や泥で滑るタイヤを体全体でいなしていく必要がある。さらに前と後ろのブレーキの使い分けも車体のコントロールに重要だ。それに、マニュアル車なら左手のクラッチレバーに左足のシフトレバーの操作、もちろんハンドル操作もしなきゃいけないから忙しくてたまらない。特に、女になって貧弱になったこの身体じゃあすぐ全身筋肉痛になれるくらいに。
それでも、こうやって自然の中をカズキと走るのは掛け替えのない時間だった。
何もかも全部台無しになったあの日から、生きながら死んでるようなあの日々から。
そこから抜け出せたのも、アイツともう一度こうやってバイクを走らせたいが為だった。
◆
気付いたらオレは、なけなしの貯金を叩いて、新車のハンターカブを契約していた。
病気に理解のない同僚や上司。低くなってしまった視点で、埋もれるように乗らざるを得ない満員電車。好奇の目や根も葉もない噂話。それなりに信用していた友人からの下卑た視線。
年甲斐もなく他人が恐ろしくなってしまったオレは、半分泣きベソかきながら車体にヘルメットにブーツ、プロテクターを揃え直して、カズキの住むアパートに向ったんだ。
『今のオレにはこれぐらいがちょうどいいかなあ』
アパートの駐車場にカズキを呼び出して、新車を自慢してやったら、すげえ面白い顔しながら『いい色買ったな』と言ってくれた。たとえそれがネットスラングじみた定型文でも嬉しかったし、なんかお互いに泣きそうになってしまったのをよく覚えている。
◆
玉石が転がる河原に降りると、うまい具合に平らな場所を見つけたカズキがバイクを停めた。オレもその隣にバイクを停める。フルサイズのオフロードバイクとカブが並ぶと、車格に差があってちょっとモヤっとする。でも、今のオレじゃ何をどうやっても乗りこなせないだろう。これで十分分相応なのだと納得した。
オレはヘルメットを脱いで、首や腕を回して凝りをとる。川沿いの冷たい空気が頬を撫でて、耳の後ろを通っていった。涼しい。
「落ち葉めっちゃ滑るな」
「砂利とか泥とかとまた違うね。超スリッピー」
同じように肩を回すカズキに話しかけると、彼はタンデムシートに固定した専用のバッグからペットボトルのスポーツドリンクを取り出して、大きな石に腰掛けてそれを飲み始めた。
普通に走っていれば結構肌寒い季節になったけど、林道ツーリングはスピードも出ないしほとんど全身運動だ。お互いに結構汗をかいている。オレもリアキャリアに積んだバッグから飲み物を取り出すと、カズキと同じように手頃な石に腰を下ろした。
ふと視線を下に落とすと、泥で汚れたオフロードブーツが目に入った。テクニックが足りなくて、足を地面につきがちなせいで結構汚い。
それに比べると、カズキのブーツはまだ汚れが少ないように見える。
そうか。まだまだ余裕があるからか。下手くそなオレに合わせたルートに速度。もしかしたら、満足に走れてないんじゃないかって、胸が少しチクリとした。
「……いつもごめんな? オレのペースに合わせてもらって」
「んー? いいのいいの。俺もかっ飛ばすタイプじゃないしね」
「そうか。……ありがと」
「一回ショップの人と行ったら体力的に死にかけたことあるぜ。あのオジ様達やべえよ」
カズキは狐のロゴが刻印されたブーツのバックルを締め直しながら、自虐的な笑みを浮かべた。まるで自分がガチじゃないみたいな言い草だけど、ひざ下まで届くオフロード用のブーツに、ド派手なモトジャージで固めたその全身は十分に本気すぎる。……コンビニ寄る時とか、結構恥ずかしいもん。
「……もうしばらくしたら、林道も終わりだな」
フヘヘと笑うカズキが背伸びをしつつ、あたりを見回して、独り言のようにそう言った。
「うん」
冬はもうすぐそこまでやって来ている。川の流れで生まれた風が、体に篭った熱を奪っていく。このままじっとしていたら、少し冷えすぎるかもしれない。オレ達はもう二、三言葉をかわすと、お互いにヘルメットを被った。
そして、ゴーグルの位置を調整していた時。カズキの大きな手が、オレの肩を叩いた。
「おい、見ろ。カモシカだ」
カズキは川の対岸の斜面を指差して、オレと視線を合わせるように腰を屈めた。
「お、おお?」
——ミラータイプのレンズが嵌ったゴーグルでよかった。
手を置かれた肩に意識が集まって、顔が熱を帯びる。それなのにカズキは「ほらあっち、あそこ」とさらに目線の位置を合わせるように身を寄せた。
「あ、あれか」
正直、カモシカなんてどうでもよかった。胸が痛くなって、頬やお腹の方が風に奪われた熱を再生産し始める。
オレがこうやって、無様にも社会にしがみついて、もがき続けられる理由。それはカズキの存在だった。ずっとずっと一緒だったんだ。チャリに乗って遊びまわった少年時代。二輪免許を先に取得したカズキとニケツして、オレも免許を取ろうと決意した高校生の頃。何をするにも一緒だった。こいつだけが、共に過ごした時間だけが、今のオレがオレでいられる唯一の支えなんだ。
……それなのに、オレがアイツに向ける感情は、あっという間に醜く成長していった。体が女になったからって、自分でも笑ってしまうくらいに都合のいい話だ。でも、友愛と呼ぶにはグロテスクで、手のつけられない怪物は、オレの心の大切な部分をあっという間に食い尽くしていった。
「こういうのも林道のいいところだな」
派手なプリントが施されたヘルメットの中、オレのと同じようなミラーのレンズのゴーグルの下。カズキは人の気も知らずに笑っているんだろう。
「うん。いいよな」
風下に立っているせいで、アイツの汗を含んだ匂いが鼻先をかすめる。後頭部がチリチリして、胸の奥が絞られるような感覚。
オレは、できる限り素っ気なく返事をして。
今はただ、この怪物に名前がつかないようにじっと心を押し殺している。