跳べ、ウラヌス ~ウマ娘オリンピック物語~   作:空見ハル

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 ヨーロッパでの国際競技会で善戦しついに日本へ向かうことになったバ術ウマ娘「ウラヌス」と、そのトレーナーで日本軍人の「西竹一」は、あと半年を切ったロサンゼルスオリンピック予選会を考えていた。
 しかし、強力なライバルウマ娘「ソンネボーイ」とそのトレーナー「今村安」少佐の活躍を前にウラヌスは圧倒されてしまい、オリンピックへの重圧に押しつぶされそうになってしまう。日本でトレーニングするが調子が上がらないウラヌス。そんな彼女が東京の建設現場で出会ったのは、一人の栗毛のウマ娘だった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。


#3 敵は幾万

 欧州で半年間戦った後、私とトレーナーは日本の”浅間丸”という豪華客船に乗って、トレーナーの祖国である日本に向かっていた。

 しかし、ヨーロッパを転戦していたときの列車旅もそうだったけど、トレーナーと一緒にいるとまるで自分も大富豪になった気分だなあ。

 ……とにかく私はきらきらとした客船で海を見ながら、トレーナーとヨーロッパでの戦いを振り返っていた。

 

 特にあのトリノ大会。ソンネボーイとイマムラは印象的だった。

 

「ははは! そうか、ソンネボーイの代わりに、違うウマ娘を表彰式にね。豪胆な今村さんらしい」

 

 いや、笑いごとじゃないでしょう。ソンネボーイだって、折角勝ったのに。

 

「ソンネボーイなら、後から今村さんが直々にブルーリボンを耳に結んであげていたぞ。何度か会ったが、彼女の笑った顔は初めて見たな」

 

 一応、ちゃんとリボンはあげていたのね。

 ソンネボーイが良かったのなら、それで良いけれど。

 

「……それで。どうだった? 半年間私と一緒に戦ってきた感想は」

 

 そうねぇ……。

 正直、”世界”を知ったわ。

 

「”世界”を?」

 

 今まで”世界で一番強いウマ娘になる”って言い続けてきたけど、やっぱり世界はそう甘くない。実際、ヨーロッパで転戦してきたけど、1番になれたのは少しだけだった。

 

「それでもほとんど入賞したけどな。あんなに沢山の大会に出て沢山入賞できたウマ娘はそうそういないぞ」

「それにほら、今欧州のウマ娘の間では私たちの話で持ちきりだ。この新聞記事を見てみろ。『絶世の美男子とウマ娘、ヨーロッパを転戦』、『東洋の貴公子、愛バと共に国際競技会で好成績』」

 

 ……ほとんどトレーナーの顔の話ばかりじゃないの。

 

「はは、顔には確かに自信があるからね。でも、欧州で大きな話題になるほど良い成績を残せているってことだよ」

 

 ……まったく。

 でも、本当に大丈夫なのかな。私、上手くやれているのかな。

 

「ああ大丈夫だ。私もいる。 どうした、折角これから日本だというのに」

 

 別に。

 ただ、少しだけ心配なの。日本に行ったら本格的にオリンピックに向けた準備が始まる。オリンピックの審査会まではあと半年もない。そして、オリンピックまでももう2年を切っている。確かに私たちは良い成績を残せたけど、それでも……

 

「なるほど、”ソンネボーイ”だな」

 

 え?

 

「いや、さっきからよく彼女の話をするからね。気にしているのかと思って」

 

 そ、それは……少し、少しだけね。

 だってあの子、凄いじゃない。沢山の人がいる大きな大会のトリノでも1位になって、他の大会でもいい成績を残していた。トレーナーのイマムラだって……

 

「確かに彼女の走りや踏み込みは素晴らしい。スマートで欧州人好みの動きだ。トレーナーの今村さんも強敵だな。なんたって私の恩師だ」

 

 ソンネボーイは日本に行ってもきっと良い走りを続ける。私たちと同じか、それ以上に。

 

「そうかもしれないな」

 

 あの子は、”もう後がない”と言っていた。

 一体あの子は、どうしてこんなにも凄い走りを続けられるんだろう。一体何のために……

 

「……そういうことなら、直接本人に聞いて見ると良い」

 

 本人?

 

「ああ、一緒に乗っているだろう。浅間丸に」

 

 

・・・・・・

 

 

 ……見つけた。

 

 私はトレーナーの言う通り、浅間丸の中を歩き回ってソンネボーイの姿を探して歩いていた。豪華客船と言うだけあって、大理石がふんだんに使われたその豪華な船内の眩しさに眼を覆った。

 ”豪華疲れ”して甲板に出て見ると、そこにソンネボーイはいた。海の波をただぼーっと見つめている。

 

 ねえ。

 

「……あなたは、ウラヌス」

 

 ヨーロッパではお世話になったわね。イマムラは一緒じゃないの?

 

「はい。トレーナーは”船内の貴婦人たちとポーカーをしに行く”とのことです」

 

 はあ。日本のトレーナーって何でこうも遊び好きなのかしら。うちのトレーナーも私と話した後に”船内の貴婦人がたにご挨拶をしてくるよ”とか言ってどっか行っちゃったわ。

 

「でも私はそういうところが良いと思います。良い意味で軍人らしくないところが」

 

 まあそうね。変にがちがちなトレーナーだったら、それはそれで嫌だわ。

 ……隣、良い?

 

「ええ、構いませんよ」

 

 ありがとう。

 

「……」

 

 …………。

 

 私とソンネボーイはしばらく穏やかな海の波波を見つめていた。

 大きな波をいくつも越えて、私たちは日本へと行く。まだ見たこともない、遥か東の島国に。まるで、長い長い海で行われる障害跳越のようだ。

 そんなことを思っていると、ソンネボーイはゆっくりと私のほうを見て口を開いた。

 

「……ウラヌスは、オリンピックが不安ですか?」

 

 どうしたの、急に。

 

「ボクは少しだけ不安です。オリンピックの審査会まであと少し。審査会は通過しても、慣れない国でちゃんと練習できるのか」

 

 何言ってんのよ。あんたはトリノであんなにも良い結果を残せているのに。

 

「それだけじゃありません。もしも、ボクがオリンピックに負けるか、最悪出られなくなったら、どうなってしまうのか」

 

 どうなってしまう……?

 そういえば言っていたよね。あんた、”もう後がない”って。

 

「はい」

 

 あんたは……”ソンネボーイ”は、どうして走るの? どうしてそうまでして、オリンピックを目指すの?

 

「……それは、誓ったからです。絶対にオリンピックで勝つと。私の祖国……イギリスで」

 

 イギリスで?

 

「はい。私はイギリスの田舎町で生まれたんです。とても小さな田舎町。狩りで生計を立てていている、イギリスでは一般的なウマ娘の家系に生まれました。そのためにいつも野原を駆けまわっていたんですけど、倒木とかを跳び越えながら走るボクを見た軍人さんが障害飛越競技に向いていると言って、陸軍に誘ってくれたんです」

 

 なるほど、あんたは家で狩りをしていた頃から、軍に認められるほどに良い走りをしていたわけね。それに、狩りの走りが原型のイタリア方式のバ術も上手かった。

 

「家もそこまで裕福ではありませんでしたから、必死になって狩りに必要な走りの勉強をしたお陰かもしれません」

「とにかくそこから陸軍寮に入って、障害跳越競技のウマ娘として育てられて、トレーニングでも良い結果を残すことができました。自分で言うのも何ですけど、イギリス陸軍では話題のウマ娘だったんですよ?」

 

 ……凄いわね。あんたは、沢山の人からの”期待”に答えられたわけだ。

 

「”期待”、ですか。そうかもしれません。だからこそボクは世界で一番のウマ娘になろうと思ったんです。私を応援してくれた人たちや、ウマ娘のために。だけど、その夢をイギリスで叶えることが難しくなりました。あの、憎き”暗黒の木曜日”のせいで……」

 

 ”暗黒の木曜日(ブラックマンデー)”?

 

「去年のアメリカで起きた恐慌ですよ。あなたの国も大変だと聞いていましたが……」

 

 私はあまり軍の寮から出なかったし他の人と話さなかったから詳しくは知らなかったけど、そういえばトレーナーから聞いたことがあったかも。

 

『それにこの新聞記事を見てみろ。昨年からの不況で世界中が滅茶苦茶だ』

『今は世界全体がどこか苛立っているような、疲れているような、そんな具合だ』

 

 今は世界が疲れている、だからこそお前はただ自由に走れとトレーナーはそう言っていた。

 

「”先の大戦”(第一次世界大戦)が終わって陸軍も予算が削減された上に不況の連続。私たちを寮で置いておいたりトレーニングするだけでも軍ではお金がかかる。ましてや国際競技会で実践を積むのも……」

「ぼくの周りでも満足にトレーニングできずに辞めていくウマ娘も沢山いて……ボクはまだある程度の成績があったから残れましたが、それでも満足なトレーニングもできなくて、気づいたらボクを見てくれる人はほとんどいなくなりました」

 

 ……あんたも。

 

「……?」

 

 あんたも……”孤独”だったのね。

 

「”孤独”、ですか……そうかもしれません。……悔しかった。ボクは……」

 

 うん。

 

「4月になると、リヴァプールのグランドナショナルのニュースが新聞で出てくるんです。バ術じゃない、レースのニュースが」

 

 グランドナショナル……イギリスの障害”競走”。バ術じゃない、レースはずっと盛り上がっていたのね。

 

「恐慌で不況になった中でも一攫千金を目指してスターを目指すウマ娘たちが沢山いましたから。でも、ボクらバ術のウマ娘はほとんど軍人。軍縮や予算削減が進むイギリスでは盛り上がりも薄くなってきて、レースに出るウマ娘のようにはいきませんでした」

 

 それであんたは満足に走れなくなって、イギリスに来たイマムラに誘われた?

 

「はい、ボクはそこでトレーナーと誓ったんです。絶対に世界で一番のウマ娘になって……ボクを見てくれなくなった沢山の人たちを見返してやるんだって」

 

 …………。

 

「それに、ボクをここまで育ててくれたトレーナーやウマ娘たちの分も走りたかったんです。無念の中で満足に走ることができなかったイギリスの……いや、この恐慌の中で無念の中に走ることができなくなった、全ての国のウマ娘とトレーナーのために。そのためならボクは、イギリスから出て別の国のウマ娘にもなれる。そう思ったんです」

 

 そう、なんだ。

 

 この眼はあの時と同じだ。

 トリノで見たあの美しい走りをしながらも光っていた強烈な眼光。誰にも一位を譲らないという、あの眼だ。

 ソンネボーイは私と同じ”孤独”だったと思っていたけど、違う。

 

 ソンネボーイは……孤独を”背負っていた”。

 

 満足に走れないままに表舞台から去ったバ術のウマ娘、そしてその無念を晴らせてあげられなかった沢山のトレーナーたちの意志を。それも、煌びやかなレース場の盛り上がりの裏の世界ともいえる場所で、ひたすらに。

 

 ……そういえば。

 

 あんたは前に”後がない”と私に言っていたけど、あれはどういう意味なの?

 

「そのままの意味ですよ」

 

 そのままのって...

 

「トレーナーから聞いた話ですけど、日本もボクのふるさとに似た状況......いや、もっと悪いらしいです。関東大震災、知っていますか?」

 

 ......いいえ。

 

「日本は今も恐慌と災害に苦しんで、職を失うどころか身売りをする人までいるそうです。日本は、ボクがいたイギリスと同じく苦しんでいる。だから、もしボクが結果を残せなかったらイマムラは日本にボクを残してくれるのか……」

 

 それは……

 

 ……私は何も言えなかった。

 

 ソンネボーイが言っていたことは、私も他人事ではないから。

 トレーナーは、もしオリンピックで私が結果を残せなかったら、もし負けたら……私と一緒にいてくれるんだろうか。トレーナーは”一緒に世界一になろう”と言ってくれた。でも、その”期待”をもし私が裏切ったら……?

 

 でも”それ”を、ソンネボーイは覚悟してこれから走ろうとしている。

 

 私は、ソンネボーイに勝てる?

 

 

 ……トレーナーと、一緒にいられる?

 

 

・・・・・・

 

 

 1931年3月。

 ヨーロッパを発ち、日本に着いた私とソンネボーイは、陸軍から熱烈な歓迎を受けて入国。”日本のウマ娘”として迎えられた。

 通った東京の町では、ヨーロッパ転戦で好成績を上げたトレーナーと私の活躍は、遥か海を越えた日本でも伝わっていたようだった。そんな私たちを称える人々が沢山、港や東京の町で日の丸を持って出迎えてくれた。

 

 東京は、日本は不思議な場所だ。木造や煉瓦の建物がいり混じり、西洋風の紳士服を着て歩いている人がいるかと思えば、本の中でしか見たことがないキモノを来ている婦人もいる。イタリアにいた頃に読んだサムライの話とは大違いの光景だ。

 

 ……でも、そんなのは今はいい。

 

 トレーナーと出会った時は楽しみな日本だったけど、今はそんなことを考えている暇はなかった。

 

 私たちとソンネボーイは千葉県の習志野にある兵や陸軍ウマ娘兵学校の寮に入った。

 戦場で戦うウマ娘兵である”キ兵”やその担当兵を育てる学校だけど、私やソンネボーイのような競技ウマ娘も名義はウマ娘兵としてここに入る。

 

 しかしそこでやるのは戦う訓練じゃない、誰よりも美しく走り、誰よりも高く跳ぶ……”オリンピック”に向けた、そんな訓練だ。

 

 日本に来てしばらくして分かったのは、日本はロサンゼルスオリンピックにかなり”本気”でだということだ。

 

 今まで日本はオリンピック選手団を何度か送ってきたけど、今までの会場だったヨーロッパからは遠く、またそこまでスポーツが普及していなかった日本はあまり大きな結果を出していなかった。出していたのは、陸上や水泳くらいのものらしい。

 だから今度のロサンゼルスオリンピックは海を挟んだお隣のアメリカということもあり、一番に大きな選手団を派遣するのだという。お金もなかったそうだけど、トレーナーが言うには、”タバタ”という騒がしい男がどうにかしたとか。

 

 とにかくも、そんなオリンピック競技の中でも”華”である障害跳越。

 

 私は私自身のためだけじゃなく、そんな日本の威信を背負っていかなければならなのだと今更思い知らされた。

 

 だから、絶対に負けられない。毎週、オリンピック予選を想定した模擬コースでソンネボーイと戦う時、そう心に決めて走った。跳んだ。

 

 

 ……だけど。

 

 

「ウラヌス、西竹一、減点8!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なぜ。

 

「ウラヌス、西竹一、減点12!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なぜだ。

 

「ウラヌス、西竹一、減点14!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なんで。

 

「ウラヌス、西竹一、反抗2、失権!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なんで上手く跳べない……!!

 

 

 ”反抗”は、障害を前に大きく後退したり、障害前で円を描くように大きく退くことだ。1回なら減点4、2回なら失権……早い話失格だ。

 

 力が抜ける。手をつき、ただ視界に広がる地面を見続けるしかなくなる。

 

「大丈夫か、ウラヌス」

 

 コースで見守ってくれていたトレーナーの言葉も今は耳に届かない。

 ”反抗”2回。今までの私ならありえない失敗。

 どうしてだ、どうして……

 

 ……いや、分かっている。

 

 私は恐れているんだ。

 

 ソンネボーイを。

 

 私の夢を。

 

 日本中からの”期待”を。

 

 

「ウラヌス?」

 

 ねえ、トレーナー。

 

「どうした。あまり気を落と……」

 

 少し、歩いてきても良い?

 

「え?」

 

 ちょっと疲れちゃったから、一人で町を歩きたいの。

 

「でも寮が……」

 

 お願い。

 

「……分かった。外出許可は私が申請しておく。夜までには帰ってくるんだよ」

 

 ……うん。

 

「そうだ、ウラヌス!」

 

 ……なに?

 

「今夜、うちでパーティーをしようと思うんだ。良かったら、一緒にどうだ?」

 

 …………。

 ……考えておく。

 

 

・・・・・・

 

 

 ……こんな時にトレーナーはパーティーとか、何やっているんだか。

 イタリアではあんなにも応援してくれたのに……トレーナーは、私のこの不安とか気づいてくれていないのかな。

 

 そんな思いのままひたすら走って、歩いていたら、いつの間にか千葉県を抜けて東京に出ていた。

 

 競技から抜け出して、ただぼんやりと街並みを眺めていたら気づいたことがある。

 

 東京の町は、今もひび割れている。

 

 あらゆる建物のところどころにひびが入っている。郊外には今も傾いている塔が建っていた。関東大震災……ソンネボーイやトレーナーから聞かされて知った大災害。

 不況、失職、身売り……日本の人々は、8年前の災害に今も苦しめられている。

 

 でも東京の人々からは、そんな悲惨な過去を笑い飛ばすかのような活気を感じられた。

 町ではバスや車が入れ替わるように走り、その車窓から私に手を振る。

 

「あ、ウラヌスだ!」

「ウラヌス?」

「知らないのか? ヨーロッパで勝ちまくっていたヒーローだよ」

 

 ……と。

 私を見て手を振るとき、彼ら彼女らは笑顔になった。そして言う。”頑張ってね”と。

 トレーナーとのヨーロッパ転戦で私もすっかり有名人だ。

 

 でも、私はあのヨーロッパ転戦の私では……いや、最初から私はそこまで強くなかったのかもしれない。

 あのトリノ大会だってそうだった。ソンネボーイが優勝。でもあの子はすぐに競技場を出た。思えばソンネボーイは、最初から今まで、ずっとオリンピックの勝利しか見ていなかったんだ。

 そしてきっとそれは、あのヨーロッパの幾度の大会の中で何度も勝ちを取ってきたイタリアのウマ娘たちも同じなんだろう。

 

「応援してるぞー、ウラヌスの姉ちゃん!」

 

 東京の人々の声援が、今は痛い。

 このひび割れた東京で頑張っている人々のほうが私よりも遥かに強い。そんな人たちの”期待”を、私は今……。

 

 お願いだよ、私はそんな、”期待”を受けるほどのウマ娘じゃ……。

 

 早くどこかに行こう。

 そう思って、私は再び東京の町を駆けた。

 

 ……あれは?

 

 しばらく逃げるように走って”府中”という町まで来ると、巨大な建設現場が視界に入ってくる。イタリアでもなかなか見ない巨大な建造物が建とうとしているのが分かった。

 そのとんでもなく巨大な建設現場に圧倒され、思わず足を止める。

 

「あれ、君もレースに出るウマ娘かな? ここら辺では見ない顔だねえ」

 

 立ち止まりぼんやりと建設現場を眺めていると、後ろから声をかけてきた女の子が一人。

 ……ウマ娘だ。栗毛のおっとりとして、私よりも細くてすらっとしたウマ娘。

 

「君も見に来たのかな。 “東京レース場”」

 

 ……東京レース場?

 

「そう。再来年、1933年の秋にできるんだって。目黒から移ったんだよ。ほらごらんよ、こんなに立派なレース場、中山以外で初めて見た。目黒の3倍なんだって。大きな駐車場だってある。ここはきっと、100年後も立派なレースができるような凄い場所になるんだろうなあ」

 

 私は、レースに出たことがないからよく分からないけど、でも確かに凄い場所ね。私の故郷でもこんなに立派な走る場所はなかったかも。

 

「ねえ。ところで君もレースに出たことがないんだ? 実は、私もなんだあ。今年がデビューでね。中山の新バ競争に出るんだよ。君も?」

 

 私は、そもそもレースに出るウマ娘じゃないの。障害跳越のウマ娘。”ウラヌス”っていうの。知らない?」

 

「そうかあ、どうりで。レースに出るウマ娘にしてはがっしりしていると思ったよ。わたしはそういうニュースには疎くてね。いっつもトレーナーに”レースに出るウマ娘たるもの、世間を知らんでどうする”って怒られるんだ。わたしのトレーナー、すっごく怖いんだよ」

 

 そうなんだ。私のところのトレーナーとは大違い。

 私のトレーナーはいつも夜はパーティーだ、競技中もお前はいけるだろうとか何とか、色々とテキトーでね。紳士と言えば紳士なんだけど、ちょっと変人だし。酒好きだし。

 

「良いなあ、優しそうで。でも、私のトレーナーもお酒を飲んだらとても優しくなるんだよ。優しんだけど、お話が止まらなくなって大変なんだあ」

 

 ふふ、そう。でもあなたのトレーナーもきっと悪くない人なんでしょうね。

 

「うん。とっても厳しいけど、優しいんだあ。君も、トレーナーのことが大好きなんだねえ」

 

 だ、大好き!? いや、そんなんじゃ……

 

「でも、さっきまで怖いくらいの顔をしていたのに君、トレーナーの話をしている時だけ笑ってた」

 

 ……っ! あ、ああ、そうだ!

 ……しかし本当に立派なレース場になりそうね! レースが大盛り上がりなのは、日本も同じか。こんな大きなレース場ができるほどなんだもの。

 

 レース、レースか……そういえばとソンネボーイの言葉を思い出す。レースが盛んなイギリス。その陰でひたすらに生き残りを駆けて走り、跳び続けていた彼女の話を。

 ”期待”を裏切ったら、私は日本にいられなく……トレーナーと一緒に走ることができなくなるかもしれない。

 ……ああ、頭が痛くなってきた。

 

「あー、うん本当にね。最近のレースは大盛り上がりだよ。中山レース場も毎週人がいっぱい。でもわたしはね、そんな大盛り上がりのレースの中で走るのが不安なんだ」

 

 不安?

 

「普通に走るのも不安だけど、私の姉さんが凄いウマ娘でねえ。だから、私もそんな凄い姉さんと同じで、沢山速く走らなければいけないんだよ。それに、私のトレーナーは姉さんのトレーナーでもあったからねえ」

 

 そうなんだ。それは、あんたも不安になるわね。そんな不安を抱えながら、一人で走らなければいけないなんて。

 

 ……”期待”だ。

 血、家族、過去の栄光……私たちのように陽の下で走る者たちが背負う宿命。私たちはそれを

 そうか、それは、バ術のウマ娘もレースのウマ娘も同じか。

 

「でもね」

 

 ……え?

 

「そんなトレーナーに言ったら、こう言ったんだよ。”馬鹿者。姉と同じ走りができるのかとか、まだ本番のターフを走ったこともない者が考えるなんて驕りも甚だしい”って」

 

 手厳しいわね。

 

「”関東の鬼”って言われるくらいに厳しいトレーナーだからねえ。でも、その後にすぐ笑って私にこう言ったんだよ」

「”お前は一人で走っているわけじゃない。もしそんなことで何か言う輩がいたら、私が許さん”」

「”だからお前は、ただひたすらに走れば良い”って」

 

 厳しいけれど、優しいトレーナーなのね。

 

「うん。トレーナーはね、私に”一人で走っているんじゃない”って教えてくれたんだよ」

「それでトレーナーと約束したんだあ。中山を走って目黒を走って、そして東京レース場も新しくできたら一緒に走ろうねって。だからここに来ると、このおっきなレース場で走っている自分が思い浮かんできて、少しだけ不安が消えるんだよ」

 

 一人で走っているんじゃない、二人で、トレーナーと……。

 

 東京レース場の建設現場を眺める栗毛のウマ娘の眼は、愛おしいものを見るように、そしてキラキラとしていた。

 彼女はそのトレーナーとの約束に救われて走っているのだろう。きっとその約束を胸に、これからデビュー戦を走るのだろう。きっとそこには、血もプレッシャーも関係ない。彼女はきっと、トレーナーとの楽しみな約束だけのために走るんだ。

 二人で、レース場のターフを。

 

「ふふ、初対面なのに少し話し過ぎたね。でも、君のことは他人のようには思えないな。何だか、君も不安そうな顔をしていたし」

 

 不安、か。私は……

 

「それに、私と同じで大好きなトレーナーがいるようだし」

 

 なっ! だから大好きとかじゃ……

 

「それじゃあね、ウラヌス。お互い、頑張ろうね」

 

 ちょ、待ってよ。あんたは——

 

「私は”アスコツト”! ウラヌス、君とはまた、会える気がするよー!」

 

 ……行っちゃった。

 

 栗毛のアスコツトは、何やら清々しい顔で走り去っていった。流石レースに出るウマ娘。あの走りができる彼女ならきっと、レースも心配いらないだろう。

 

 ……私は……どうかな。不安が消えて心が癒えたわけではない。

 私は予選、本番のオリンピック、そして国の”期待”を背負っている。

 まるで、一人で沢山の敵に囲まれているかのようだ。

 

 一人……

 

 ……トレーナー、か。

 

 そういえば、トレーナーが家でパーティーをするって言っていたっけ。

 最初はこんな時にパーティーなんて、トレーナーはちゃんと競技のこと考えてくれているのか、と思ったけど、もしかしたら、元気づけてくれようとしていたのかな。

 もう日が暮れそうだし、言ってみようかな。もし元気づけてくれようとしているなら、トレーナーにも悪いし。

 

 ……別に大好きとかではないけれど。

 

 

 私は東京レース場の前に停めてあった黒いオープンカーを景気づけに跳び越え、東京の笄町にあるトレーナーの家に向かった。

 




西さんとウラヌスは史実でも出会ってすぐのヨーロッパ転戦では大活躍でしたが、今村少佐とソンネボーイも大会で優勝するなど凄まじい活躍を見せていました。史実の西さんやウラヌスが今村・ソンネボーイコンビをどう思っていたかは詳しくは分かりませんが、強力なライバルだったのは確かですね。

さて、次回からはついにロス五輪予選会。ウラヌスはどのようにオリンピックへの不安を乗り越えていくのでしょうか。乞うご期待。
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