※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。
『トレーナーはね、私に”一人で走っているんじゃない”って教えてくれたんだよ』
府中で出会った栗毛のウマ娘、アスコツトの言葉でふとトレーナーのことを思い出した私は、パーティーとやらに参加するために麻布、笄町のトレーナーの家に来ていた。
来たのだけれど……
”なんじゃこりゃ……”
そんな言葉が自然と口から漏れ出した。
いくらトレーナーはお金持ちの貴族と言っても、東京の笄町と言えば一等地で地価も高いらしいし住んでいる家も少し大きめくらいだと思っていた。
しかし目の前に広がるのは、”庭”と言っていいのか分からないほどにだだっ広い芝。ゴールを置けばサッカーが出来そうだ。しかもその中心に建つのは、庶民を威圧するかの如く佇むこれまた巨大な家。家と言うか邸。豪邸。
西洋風の豪邸の周りには立派なスーツを着た貴公子や貴婦人がお行儀良く歩きながら談笑している。幸い私はトレーニング中も軍服を着ていたから浮かないし問題ないだろうけれど、ドレスコードがありそうな家って何よ。
しかし、信じられないけど前に教えてもらった場所で間違いないし、どでかい門の表札に堂々と”西家”と書かれていたから本当にトレーナーの家なんだと。
こんな家、私なら年中住んでいたら気が休まらなさそうだ。
「ごきげんよう」
ゴ、ゴキゲンヨウ……。
素敵なドレスを来たご婦人に挨拶を返す。
日本語はトレーナーと出会って日本へ行くと決めてから必死に覚えたけど、やっぱりまだぎこちない発音になってしまう。特に上流階級の言葉なんて何も知らないから挨拶なんかはオウム返しするしかない。
ちなみにイタリアにいた頃は英語で話していた。トレーナーはイタリア語も全然話せたみたいだけど、私はイタリア軍のウマ娘学校に通った時に英語を習っていたし、初対面のトレーナーは英語を話していたから私もずっと英語で話している。
しかし、ここにいる人は皆英語くらいぺらぺらと話せそうだけど……。
そんなのはどうでもいいとして、ひとまずトレーナーの姿を探すことにする。トレーナーは日本陸軍の制服がお気に入りで、いつも襠が高い大きな帽子を被っているからすぐ分かるはずだ。なんでもあれは、最近日本の青年将校で流行っている”チェッコ式”というようだ。イマムラもそうだったけど、軍人のくせに皆やけに洒落ている。
しかしそんな洒落た軍帽を被った姿は見つからず、そびえ立つ豪邸の中に入っても同じだった。ホールでは、庭と同じく沢山の貴族らしき人たちがこれまた歩き回っている。
「おや、その軍服、君がウラヌス君かの?」
ひとまずトレーナーを探して豪邸の中をぎこちなくうろうろしていると、隅の方で一人座っている老人に話しかけられた。流暢な英語だ。
大きなひげを蓄えた白髪の老人は他の貴族たちとは違い、質素な黒いスーツを着ている。
……私?
「ウラヌス君、西君から君の話はよく聞いているよ。オリンピックに向けて頑張っているようだね」
あなた、トレーナーの知り合い?
「知り合いに家を貸してくれた縁がある。それに西君はオリンピックにも出場する予定らしいから挨拶にと思ってね。急になってしまったから、今思えば申し訳なかったかのう。西君は君との時間もあっただろうに」
い、いいえ……あの、オリンピック関係の方?
「いいや、ただロサンゼルスのために金を寄越してほしいという男がいたから、大蔵大臣になる知り合いに紹介してもらって話しただけだよ。そうそう、その”田畑”という記者が面白い男でねえ。口は相当悪いが、スポーツに対する情熱では、彼にかなう者はいないかもしれんなあ……と、ああごめんね。関係のない話を」
……はぁ。
”タバタ”という男の名前、そういえばトレーナーも言っていたな。オリンピックに関係がある人だそうだけど、いつか私も会うことになるんだろうか。
……じゃなくて。
大蔵大臣になる知り合いって……あの、あなた、何者?
「私かい? 私は”犬養”という者でね。あまり外で姿を見せたら驚かれるからお忍びで来ているんだよ。知らないかな?」
”イヌカイ”……お忍びということは有名な方なんでしょうけど、ごめんなさい。日本に来てからはほとんどトレーニングしかしていなくて。
「いいや良いんだよ。こうして私の孫と同じくらいの娘と普通に話せる機会なんてなかなかないからね。私も嬉しいよ。よければ、どうぞ」
え、ええ。どうも。
優しい顔でにっこりと笑うお爺さんに促されるまま、テーブルを挟んで向かい合わせになって座る。
大蔵大臣がどうとか言っていたから、ただ物ではないから何となくかしこまってしまうけど、雰囲気的に普通の優しいお爺さんにも見えるからこれが分からない。
「時にウラヌス君は最近トレーニングを頑張っていると西君からも聞いていたけど、たださっきからの様子を見たところ、何か気になることでもあったかな」
え?
「いいや、急でごめんね。何か不安そうな顔をしてそこらを歩いていたからね。……もしかして、オリンピックのことかな」
す、鋭い……ですね。まだあまりお話もしていないのに。
「はは、そんなかしこまらなくていいよ。いやね、職業柄、人の様子をまじまじと見てしまうのが癖でね。少し気になってしまったんだよ。もしかしたら私たち国民が君に、いらぬ重圧をかけてしまっているのではないかとね」
重圧というか何というか……。
でも、少しだけ正解かも。私はオリンピックに出るために沢山トレーニングをして少しでも勝てるように努力してきました。でもなかなか成果がでなくて……それで少しだけ不安なんです。私が、この日本という国のウマ娘になった私が、皆からの”期待”に答えられるかどうか。
「”期待”?」
ええ。
だって、ロサンゼルスオリンピックは、日本にとってとても大切な大会だと聞いた。今までよりも沢山の選手団を送り込んで、沢山メダルを取りに行くんだって。そんなオリンピックの最後を飾るのが私たち障害跳越競技のウマ娘。だから負けられない。私たちは。もし負けたら……
「ふむ。なるほど、君の悩みは”それ”か」
うん。だからどうしても不安で。
「時にウラヌス君。君はオリンピックとは何だと思う?」
え? オリンピック?
「そう。君がこれからそんな”期待”を背負っていくのだというオリンピック。それは一体なんだと思うかね」
オリンピック……。
世界中の人々が集まってスポーツで戦う、世界で一番の、大会。
……平和の、祭典。
「そう。”スポーツの祭典”であり”平和の祭典”、それがオリンピックなんだよ」
「最近は恐慌で世の中が暗くなり、近頃満州の方では戦争やら何やら騒ぐ軍人もいる。そんな彼らが訴えている”戦争”というのは、勝つほうも負けるほうも苦しく、気持ちも晴れることは決してない。だけどね、スポーツは良い。スポーツは国がどう、政府がどうというものではない。一対一、チーム対チームの真剣勝負。勝つほうも負けたほうも清々しい気分になれる。時には負けて悔しく心が曇ることもあるだろうけど、それでも最後には潔い。それがスポーツ、オリンピックだよ」
国がどう、政府がどうではない、か。
でも、私は日本代表のオリンピック選手のウマ娘。だから勝たないと……
「私はね、ウラヌス君。君が国の威信だとか、国民の期待だとか、そんなことのために最初から走っていたわけでないことくらい分かる。そんなのはまるで戦争ではないか」
「あくまで一国民としての私の意見だけどね、君たちに求めるのは国の期待でも、更に言うと金メダルでもない。君がロサンゼルスという地に立ち、沢山の力で競技場を走って跳んで競い合うこと。そして、沢山の人と輪になることだよ」
輪になる?
「そう、五輪。オリンピックの”五輪”だ。日本人、アメリカ人、イギリス人、イタリア人、中国人……。黄色人種、白人、黒人……。皆が一緒になって手をつなぎ、お互いの功績を称え合う。そうして海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる。私はそれで良い。それが良いと思っているよ」
国のためじゃない。ただ自分の出せる力を全力で出して競い合う。そして、最後には皆で笑い、語りあう?
……できるかな。私に。
「少なくとも、ウラヌス君には難しい事ではないと思うよ。君にはあの豪傑の西君もいるだろうからね」
…………。
「なるほど、西君とも何かあるわけだ」
……そう、かもしれません。
“もしボクが結果を残せなかったらイマムラは日本にボクを残してくれるのか……”
何度も蘇る、あのソンネボーイの言葉。
結果を残せなくて国の人たちから後ろ指指されるのは、本当言うと別に良かったんだ。イタリア軍の寮にいたころの私なんて、誰から見向きもされなかったんだから。
それでも、トレーナーは私をどう思うんだろう。もしトレーナーに見捨てられたら……。
ああ、これじゃあ、アスコツトとかいうウマ娘が言っていて言い訳した”トレーナー大好き”が本当みたいじゃない。
「おせっかいだがね、その悩みは、西君本人と話したかな?」
……え?
「でもウラヌス君、私はね、さっきの五輪の話もそうだけど、きっと世の中の暗い話や大きな問題も、一人一人が抱える問題もね。全てではなくても、きっとそのほとんどは一つの言葉で終わる話だと思うんだよ」
一つの言葉? まるで魔法みたいな話。
イヌカイという老人は穏やかな顔を浮かべて席を立ち、”そんな難しい話じゃないさ”と言い、笑った。
「”話せばわかる”」
・・・・・・
イヌカイの不思議なお爺さんとお話をした後、豪邸のベランダにようやくトレーナーを見つけた。気づけばもう夜になってしまっていた。
”話せばわかる”
そんな中でもイヌカイのお爺さんの言葉が、ずっと胸に残っていた。
思えば、私は日本に来てからまともにトレーナーと笑いあったこともなかった。……いや、思えば出会ってからちゃんと笑いあって、話したことってあったっけ。
そう思いながらも私は、普段通りにトレーナーの前に立つ。
「 来てくれたのかウラヌス。来ないんじゃないかと心配したよ」
……ま、全く、夜でホームパーティーなんていうから私とトレーナーだけかと思ったのに、なんであんなに知らない人が沢山いるのよ。
「あ、あー、すまない。本当はそのつもりだったんだが、えらい来客が来たもので、そのための会場準備をしていたら人が集まってしまってね。本当はこうして、ウラヌスと二人で話したいと思ったのだが」
何よ、話したいのなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。本当を言うと、行こうかどうか迷ったくらいなんだから。こんなオリンピックの審査会前にパーティーなんてーって。
「はは、すまないすまない」
全く。
ベランダの柵にトレーナーと並んで寄りかかる。もう太陽は静まって、東京の街の明かりが少しずつ灯されていく様子が綺麗だ。……初めてかもしれない。こんなに落ち着いて、日本の景色を眺められたのは。
「ところでどうだ、東京の街を歩いて、うちに来て、少しは心休まったか」
……いいえ。
全っ然。街を歩いていたら変に注目されるし、変なウマ娘にも会って変なこと言われるし、ここに来たら知らないお爺さんとも話すことになるし、気は休まらなかった。
「そうか。まあ騒がしい街だからな」
そんな街の中でも毎日騒がしいのはあなたでしょうけどね。
まあでも、気は休まらなかったけど、外に出られて良かった。少し頭を冷やせたわ。
「そうか。それなら良かったかな」
結果的にはね。
「……なあウラヌス。その何というか、私は無理をさせすぎていないだろうか」
……え?
「時々思うんだ。君とは一年ほど一緒に競技をしてきたけど、思えばオリンピックや競技のこと以外で君と正面から話したことがほとんどなかったとね。君と話すとき、私はいつも君とちゃんと話せている気がしないんだよ」
……そうかも。トレーナーと一緒にいて楽しいけど、遊びに行ったりとかもしてなかったし、なんだか競技ばっかりになってしまっていたわね。それでもちゃんと話せていなかったのは、私も同じよ。
「だから、何か大切なことを君が一人で抱え込んでいる気がして、私も少しだけ不安だったんだ。私はトレーナーとして、しっかりと君と向き合えているかどうか。君に重荷を背負わせてしまってはいないか。……君と最初に出会ったときに話しただろう? 私の過去を」
ええ。”貴族”としての”期待”、そんな期待に反抗しながらもなった軍人。それがあなた。
「そうだ。私は君、ウラヌスに、そんな私の過去と全く同じ重荷を背負わせてしまっているのではないかと思った。だからしっかりと話したかった。だがほら、私の口下手は知っているだろう?」
女を口説くのが上手い遊び人が何言ってんのよ。
……でも、それは私も同じだった。
さっきね、ある人と話して気づいたの。私、これからロサンゼルスで一緒に走るのに、トレーナーとちゃんと話せていなかった。だから話したかった。
「ウラヌス……君は、私に何を話したかった?」
私が話したかったのは、一つだけ。
「ああ、何だい」
トレーナー、あなたは……
私がもしオリンピックで良い結果を残せなかったら、どうする?
「え?」
ソンネボーイが言っていたわ。この国は今大変で暗い話ばかり。ソンネボーイ自身も、不況のせいでイギリスから出るハメになったんだって。
だから……もし私がオリンピックに負けるようなウマ娘だったら、トレーナーだってきっと日本の人たちに酷いことを言われるかもしれない。不況だから私のトレーニングの世話をするだけでもきっと大変だよ。私といたら、迷惑がかかることになるかも。
もしそんなことになったらさ、トレーナーはどうする?
「ウラヌス……君は、ずっとそんなことを思っていたのか」
う、うん。
「ふむ」
それで、どうなのよ。
「……ふ、ふふふ」
な、なによ。
「……はははははははは!!!」
ちょ、何笑ってんのよ!! こっちは真剣なのよ!
「ははは、いやァ、すまない。そうだよなそうだよな」
むぅ、本気で蹴ってやろうかしら。
「だってなウラヌス。不況がどうとかいうけどな、それを今の私に言うか? 真昼間から貴族たちと高級酒で飲んだくれて麻布の街で高級車を飛ばす私に。いいか、西家が貧乏になるのは、私が死ぬまであり得ないぞ」
でも、でも分からないじゃない。もしそうだとしても、もし私が原因であなたが後ろ指を指されるようなことがあれば……
「それも杞憂だ。私は日本陸軍一の暴れん坊、西竹一だぞ? 今まで後ろ指を指されることなんて散々してきた。だから私は良いんだ。もしそんなことでウラヌスに酷いことを言う輩がいたら、私が決して許さない」
……!
アスコツトのトレーナーが言っていたんだっけ。
”お前は一人で走っているわけじゃない。もしそんなことで何か言う輩がいたら、私が許さん”
……おんなじだ。
私のトレーナーもおんなじ。トレーナーは、私のことをちゃんと、見てくれていたんだ。
「それになウラヌス。私は出会ったとき、君に言ったはずだぞ」
「”一緒に世界一になる”って。だから私は、少なくとも君と世界一になるまではずっと一緒に走り続ける。約束だ」
トレーナー……。
トレーナーは笑いながら私の頭に手を置き、撫でてくれた。
そして優しい顔で笑った。
「だからさウラヌス。これからは、楽しいことも苦しいことも、一緒に走って跳び越えていこう。私と君は、世界で一番の、”相棒”だ」
……っ!
と、トレーナーぁ……っ……!
「あ、ああ、撫でられるのは嫌だったか」
ううん。嫌じゃない。やめないで。
「泣いているのか、ウラヌス」
な、泣いていないっ……!
「ふふ、そうだな。そうだな、ウラヌス」
……うん。
それからしばらく、トレーナーは笑いながら、でも私の頭をずっと撫で続けながら東京の街並みをずっと眺めていた。まるで、私が泣き顔を見られたくないのが分かっているかのように。
本当にバカ。いつもそれくらい紳士でいろっての。
恥ずかしさから心の中で悪態を吐きつつも、トレーナーの大きな手のひらに心が洗われていくようだった。
それからしばらくして、私の頭から手を離した後にトレーナーが私の顔を見て口を開いた。
「なあウラヌス、今日の最後にさ、君の言葉で聞かせてくれないか。私と一緒にこれからもずっと走り、跳んでくれると」
私の言葉で?
「ああ。今まで正直私も不安だったんだ。君と話をするたびに、私が君のトレーナーとして君の本当の言葉を聞けているのか」
本当の、言葉……。
「”相棒”としての言葉だ。今までの君と話すときは、まるで”君の繊細な心を覗き見なければいけない”ような、そんなぎこちなさがあったように思うから。だから私は……」
ねえ、トレーナー。
「……うん」
私はね。
「私は……
そうか。
本当に私は今までトレーナーと本当の意味で話せていなかったんだ。相棒だと、これから一緒に走る一生の仲間だと頭では分かっていても、きっと私はどこか怖がっていたんだ。トレーナーと一緒にいることに。
でももう大丈夫。私はトレーナーの”相棒”。
だからこれからは”本当の私”でトレーナーと向き合おう。
”話せばわかる”
……本当だね。お爺さん。
「私はトレーナーの一生の”相棒”よ。だからトレーナー、一緒に行きましょう。世界一のステージ、ロサンゼルスに!」
本音で心から話せば、きっとどんな障害も乗り越えていけるんだ。
「ああ! ……はは、やっと笑ってくれたな、ウラヌス」
「これからはもう逃げないから」
「ああ」
「全く、口下手なのは、誰かさんと一緒ね。誰かさんが言ってたな。”私と君は似ている”って」
「そうだな。だからこそ私は、君を選んだんだ」
その日、街の光が照らす夜の東京の真ん中で、私とトレーナーはいつまでも笑いあっていた。
・・・・・・
トレーナーと笑いあい、本音で話し合った夜からすぐに私とトレーナーは毎日トレーニングをする日々に戻った。
それでも、あの夜の前の私とは違う。
40kmもある東京から習志野までの道のりを毎日超えてきてくれるトレーナーがいるから。私たちには心配することがない、絆があると知ったから。
それに、あのアスコツトというウマ娘、そしてイヌカイのお爺さんの、応援のような言葉が胸に残っていたから。
「ソンネボーイ、今村安、減点8!」
「ウラヌス、西竹一、減点4!」
「……良い目になってきましたね、ウラヌス」
そんな風に言って汗をぬぐって毎日競い合う、ライバルがいるから。
そして遂に迎えたロサンゼルスオリンピックの国内予選審査会。
この審査コースを最後まで跳ぶことができれば、晴れて日本の”オリンピックウマ娘”として堂々とロサンゼルス入りを果たすことができる。
場所は習志野原と中山レース場の間の道路。沿道には沢山の人たちが応援に訪れていた。
「ついに予選審査会……」
「調子はどうだ、ウラヌス」
「絶好調に決まっているじゃない! 当然よ」
何せライバルであるソンネボーイと幾度も戦ってきて、高め合ってきた。
それに私にはトレーナーがいる。あの夜に話し合ってから、きっとそれを本当の意味で確信できたんだ。
あの夜から、何だか胸がわくわくとしてしょうがないんだ。
「なあウラヌス、そういえば聞きたいことが」
「なに?」
「あの夜、私と話したときにウマ娘と爺さんがどうとか。あれって何のことだ?」
「え? あー、”アスコツト”っていうウマ娘と、あと”イヌカイ”っていうお爺さんと話したのよ。知らない?」
「アスコツトという娘は知らないが、イヌカイさんは知っているよ。……なあウラヌス、その爺さんに何か失礼なこととかしていないよな」
やっぱりあのイヌカイのお爺さん、只者じゃなかったのね。
というか失礼なこととかしていないかって……トレーナーらしくないけど、これは相当な大物っぽいわ。
「大丈夫、少し話をしただけ。応援してくれたの。私たちのオリンピックを」
「そうか。それなら、しっかりと恩返しをしなくちゃな」
「この予選会を通過したらまた会えるかな」
「うーん、そうそう会える人ではないからね。ああ、でも……」
「でも?」
「”オリンピックで勝てたら”、会えるかもしれないな」
なるほど、”それだけ”のお人だったってことね。私、失礼なことしなかったかな。
でもそうか。
私が走り跳ぶ理由。それは国のためじゃない、トレーナーと離ればなれにならないためじゃない。それは分かった。でも何のために走るのか。何のために跳ぶのか。それは正直ぼんやりとしていた。
私はそれでも良いと思ったけど、でも段々と霧が晴れてきて、分かってきた。
”贈るため”。
私を応援してくれたトレーナー、そして応援してくれたアスコツトやお爺さん、沢山の日本の人たちがいた。でも、そんな人たちの期待に答えるためじゃない。
私が走るのは、跳ぶのは、そんな人たちへの、私にとっての一番のプレゼントなんだ。
「トレーナー、私、走るよ。私を応援してくれた人たちに贈らなきゃ。私たちの勝利を」
それがきっと、私が走り、跳ぶ理由なのかもしれない。
「ああ。……よし、行くぞ、ウラヌス!」
「うんっ!!」
その日、私は一番の走りと跳びを見せた。
ロサンゼルスの風景と、沢山の人の笑顔を思い浮かべながら。
・・・・・・
「(ウラヌス君、西君とよく話ができたようだね)」
『ウラヌス、ソンネボーイ、オリムピック予選審査会に合格』
華やかとはほど遠い質素な日本間の一室で、老人・犬養毅は新聞の一面を大きく飾る、障害を勢いよく跳び越えるウマ娘の写真を見て笑った。
「(オリンピック……か)」
犬養は新聞の写真に写るウラヌスと、そして前に知り合いの政治家から紹介された男の顔を思い出していた。
「(オリンピックを目指す者たちは、皆輝いた眼をしておるな)」
犬養毅は追い詰められていた。
犬養は軍部側を擁護したのにも関わらず、内閣が軍縮条約を締結した時に起こった統帥権干渉問題について青年将校から反感を買っていた。更に世界恐慌による貧困も前内閣の政策が上手くいかないまま、何度も断った総理大臣になってしまっていた。相当の重みを背負わされてしまったというわけである。
そんないつ爆発するか分からない軍部や国民をいつも相手にしていた犬養にとって、オリンピックというのはどこか煌びやかな、美しいものに思えたのだった。
「(そういえば、西君にオリンピック後のパーティーに誘われていたのう)」
つい先日西邸を訪れてウラヌスに言葉を贈っていた犬養は、西からオリンピックが終わった後のパーティーに招待されていた。招待状には”祝勝会”と書かれていた。気が早いものだと、犬養はテーブルの上に置かれた招待状を見て笑った。
犬養は他の日本人と同じく、スポーツとはどういうものか最初は分からなかった。庭瀬藩の藩士として少年期は刀を振る術を学んだが、学生となりその後政界に入ってからは運動をする暇もなく日々が過ぎていった。
しかし最近は剣道も競技化しているらしく、声をかけてきたとあるオリンピック男は、もし日本でオリンピックをやるのなら剣道も競技にできるのではないかと言っていた。それなら自分も引退してそういった競技に打ち込むのも悪くはないのではないかと、せわしない日々を送りながらも犬養はぼんやりと想像した。
「(まあ、この老体だと身体がもたんだろうけどのう)」
だからこそ犬養は、選手たちを含め、オリンピックへ行こうとする多くの者たちを応援し、後押しするのだった。自分には見ることが難しい世界を、その目で見てきてほしい。今まで国のため、国民のためという感情を半ば強制されてきた世界から、多くの人々が競い合い笑いあう輝かしい未来を。
それがウラヌスや西の背中を押した理由の一つでもあった。
「(しかし、そうか。東京で、オリンピックか。それは良いものだ)」
熱心な記者のあのオリンピック男、それに続き都知事まで言っていた、”東京オリムピック”。
関東大震災に揺れその復興もままならず、国内不安が漂う中では本来考えられないオリンピック。しかし、それでも犬養はそんな夢のような提案に一種の希望のようなものさえ抱いていた。
先月に満州で起きた関東軍による暴挙とも言える武力行使。そこから連なる上海での武力衝突。もはやこの国の軍部は正常とは言えず、にもかかわらず国民でさえこれを称賛する有様だった。その一見強くて輝かしい行動の下には、数千の屍が眠っている。本来民が望むべきはずの平和はそこにはなかった。
だからこそ犬養はスポーツで、オリンピックで、競技を通して互いの技で”語り合い”、少しでも平和の花道を、この日本という国の国民たちが理解し約束してくれないかと些細な願いを持っていた。
もちろん犬養は首相として、そんなことで事態が収まるほど甘いものではないということはもちろん分かっていた。けれども例え他国に矛を向けなどしなくとも、あらゆる問題について話し合えば分かり合えることもある。それを示したかったのだ。
そしていつかは、国も人種も思想も違う相手と握手をして、日本国民の歓声の中競い合える日がいつか来るのだと、犬養は心の底から願っていた。
だからこそ犬養は都知事とも密かな約束を交わした。自分が生きている限りは、必ず”東京オリムピック”を叶えようと。
「(楽しみだね、オリンピック)」
犬養はそんな”東京オリムピック”の願いを叶えるためにも、西やウラヌスたちの背中を押した。オリンピック男や都知事の声を聞いた。そのためにロサンゼルスから積み重ねていこうと考えた。
犬養は西の招待状とは別にテーブルに置かれた、雑な文字で書かれた別の”招待状”を眺めていた。
「(あのオリンピック男め、字くらい綺麗に書けないものかね)」
それは”オリンピック男”から渡された、オリンピック開催地への赴く選手たちに向けて作られた、”国際オリンピック派遣選手応援歌”のお披露目会。発表の式典だった。
新聞の一般公募で選ばれたその歌は、君が代の旋律を取り入れた、けれども逞しく清々しい気分になれる、正に”オリムピックの歌”なのだという。
力強く勇ましい、けれど正々堂々と勝負し最後に笑いあう、平和の歌だ。きっと交響楽団の指揮と演奏によって奏でられるその歌は、何よりも素晴らしいものになるだろうと想像できた。
”走れ大地を”
招待状には、達筆すぎる文字で、でかでかとそう書かれていた。
犬養は招待状を眺め、今日の午後七時に行われるその式典を想像し、少年のような気持ちで待っていた。
……その時だった。
「失礼いたします!!」
大声を出し、部屋の扉を勢いよく開けたのは、血走ったとも言えるほどに切羽詰まった表情の、護衛のために表にいた巡査の平山だった。
「どうした」
「軍服を来た暴漢が侵入してきました、どうかお逃げください!」
犬養は表情一つ変えなかったものの、”ああ、ここまで来たか”と一つ息を吐いた。
犬養は軍縮条約や満州の武力行使の政府の対応のせいか多くの軍人から反感を買っていた。剃刀か何かの刃が入った脅迫状がこの総理官邸に届いたのも一度や二度ではない。
だから、いつかこうなるだろうとは思っていたのだ。
「逃げない。会おうじゃないか」
そう言って平山を外にやった。
そうした中でも犬養は心の中で、ウラヌスに贈ったあの”言葉”を心の中で何度も復唱していた。それが犬養の意志であり、矜持のようなものだった。
その後、間も置かずに海軍の少尉服を着た者が2人、陸軍士官候補生の服を着た者が3人、拳銃を向けてどたばたと押し入ってきた。いずれも険しい顔をし、犬養を睨んだ。
そして一団の代表者らしき海軍少尉服の男は何も言わずに拳銃の引き金を一度引いた。
かちっ
しかし不発。
男は拳銃を犬養に向け、睨んだまま固まっていた。
「まあ、そうせくな」
犬養はいつも議会で野次を収めているのと同じく手を振り、一団を見まわした。
「なあ若いの。撃つのならいつでも撃てる。こっちで話を聞こうじゃないか」
犬養は日本間の真ん中に置かれた椅子に向けて歩いた。
内心、犬養はもう生きてこの邸宅を出ることができないのだと悟っていた。
そしてテーブルの上に置かれた達筆すぎる招待状を見て、約束を守ることができないことを詫びた。
”走れ大地よ”
その歌をこの耳で聞くとができない、少しの未練を感じながら。
犬養は目を閉じて、床の間を背に、一団に囲まれながら椅子に座った。
そして考えた。日本の未来を、平和を。
「靴くらい脱いだらどうだ。ここは家の中だ」
ああ、オリンピックへ行くあの男よ、ウマ娘よ。
西よ。
ウラヌスよ。
沢山の選手たちよ。
「総理、靴の心配など後でもいい。私たちが何のために来たか分かるだろう」
この暗闇を抜け出し、海を越えてあのロサンゼルスへ着いたなら。
どうか平和の花道を辿ってほしい。
だから。
「そうか」
走れ、大地を。
力のかぎり。
泳げ、正々。
飛沫をあげて。
「なあ、若いの」
君らの腕は、君らの脚は。
我らが日本の。尊い日本の。
「まあ、靴でも脱げや」
”腕”だ。”脚”だ。
「話せば、わかる」
……犬養は目を開き、一団の中心に立つ男に真っすぐ目を向けて言う。
しかし、その男は睨んだ目の色をも変えずに叫んだ。
「問答無用。撃て。撃てぇ!!」
五月一五日、総理官邸。
テーブルに置かれた、西とウラヌスの写真が載った新聞は、薄黒い血に濡れた。