※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。
壮大な夜の荒野の道。
無限かと思うほどに続く砂とバラックの数々は、不思議と眠りを誘わせずに見つめてしまうような魅力があった。日本やイタリアでは見られないような、そんな風景だからだろうか。
とにかくも私とトレーナーは、そんな場所を意味もなく車で走っていた。
トレーナーがアメリカに来るなり早速と買った、パッカードのコンバーチブル。しかもラジオ付き金色塗装のオリジナル。若干趣味が悪いことに目をつむれば良い車だ。それに加えてトレーナーも私も、立派な礼服を仕立てて着ている。
洒落た服装にアメ車で二人きりのドライブ。気分は一流ハリウッドスター。少し洒落ている。
「バラックが多いわね」
「恐慌の影響だよ。あっちやそっちで職を失った者たちが隙間風の入る家を建ててそこに住んでいるんだ」
「アメリカも世知辛いのね。街はなんなにも煌びやかだったのに」
「えてして、大国というのはそういうものだよ」
日中の暇な学生がしそうな会話をしながら、ぼんやりと助手席に座って景色を眺める。
アメリカの、ロサンゼルスの景色だ。
私とトレーナーは、秋に行われていたロサンゼルスオリンピックの予選審査会に合格。イマムラとソンネボーイも同じく合格。それは当然、ロサンゼルスへの切符を手に入れたということ。無事、ライバルと共にロサンゼルス行きが決定したわけだ。
私とトレーナーはいたく喜んだ。ソンネボーイはいつも通りすんとしていたけど、イマムラの笑顔に答えて少しだけ微笑んでいたのを覚えている。
それからはまたソンネボーイと競い合うように、習志野を走って跳びまわる日々に戻った。毎日泥だらけになり、お互いに強がりを言いながら走る。疲れたらトレーナーと並んで座り、何気ない話をする。夜は寮に戻ってフォームや体力づくりの勉強をする。まるで大学進学前の受験生のように熱心な生活。でも、そんな生活もトレーナーと話し合う前に比べれば遥かに苦ではなく、むしろ心地よささえ感じられた。
そしてそんな日々を一年半ほど過ごした後の1932年の5月28日、ついに待ち望んだロサンゼルスオリンピック前夜。陸軍ではトレーナーの同期や他のウマ娘たちが軍歌を歌って応援してくれていたのを覚えている。
私たちウマ娘競技選手団は沢山のオリンピック選手たちに先駆け、真っ先にロサンゼルスへ向かう競技団だった。私とトレーナー、ソンネボーイとイマムラ以外にも、何人かのウマ娘とそのトレーナーも総合競技とかに出場するようで、支援の人たちも含めると結構な大所帯だ。
とにかくオリンピック開幕の2ヶ月も早い出発。それでも浅間丸に乗り込もうとする私たちを見送りに、横浜の港は日の丸を持った人々で埋め尽くされていた。
今でも思い出す。
”走れ、大地を”
中学生で17歳の男の子が考えた、勇ましく、でも清々しい歌。
大地を駆けるウマ娘や陸上選手たち、飛沫をあげて泳ぐ水泳選手たち、そして日本代表として正々堂々と競技場で戦う全てのオリンピックに関わる人たち。そんな人たちに贈られた歌だ。
その歌を胸に波に揺られ、航海中もトレーナーやソンネボーイと一緒に船内トレーニングを続ける。それからしばらくして浅間丸から降りればそこはアメリカ。からっとした晴れ空で、涼しい風が吹く快適な場所。
本番まで2ヶ月あるけど、それまでの練習場所も確保されていた。流石アメリカ。習志野の陸軍学校よりもはるかに広い、リビエラ・カントリークラブの広大なポログラウンド。そこで沢山の選手とウマ娘たちがオリンピックに向けた練習に勤しんでいた。アメリカ、メキシコ、スウェーデン、そして日本。名だたるライバルたちが揃った練習場。気分も上々。
これなら何の気兼ねもなく爽やかにオリンピックを迎えることができる。
……そう思っていた。
それは、ポログラウンド入りして練習を始めたばかりのこと。
私と西はイマムラ・ソンネーイと合流し、アメリカやメキシコの軍人やウマ娘たちと交流した。他のライバルたちもバ術を嗜む紳士淑女たちで、嫌味のない清々しい雰囲気の中練習が行われた。
障害跳越競技はイギリス貴族の流れを汲む競技。競技の重要な項目の一つには審判や観客への礼儀も含まれる。だからオリンピックのウマ娘競技では新参者である私たち日本の選手団も親切に受け入れてくれたのだろう。
日本のウマ娘競技選手団がオリンピックに参加するのも珍しいのか、トレーナーとイマムラは沢山の新聞記者からインタビューを受けていた。何を聞かれているのかわからなかったけど、何やらトレーナーが変なことを言って皆が笑っていたのは覚えている。
でもそんな中、どうしても気になる存在があった。
ふと練習コースの外側を見ると、今すぐにと、すたすたと歩いて帰ろうとするウマ娘がいた。しかも見たところ、トレーナーやイマムラと同じような肌色のウマ娘。どうやら日系のようだった。
「どうして帰るの? ねえ、一緒にトレーニングしないかしら」
今は私も同じ日本のウマ娘。だから、少しだけ親近感を覚えて話しかけた。
社交的でいつも色んな人と仲良くなれるトレーナーを見習って、私も和やかに現地の人とお話の一つでもしてみたかったのだ。
「なに?」
しかしその日系のウマ娘は、予想に反して鋭い目で睨んできた。
「え? あ、ああ、私はウラヌス」
「知ってる。日本のウマ娘だろう。オリンピックの」
「うん。知っていたのね。嬉しいわ」
「別に、新聞とかに大きく載っていたし、当たり前」
「あなたもオリンピックに?」
「違う。ここら辺に住んでいるだけ」
「そう。ねえ、どうして帰るの? 来たばかりでしょう。一緒に走ってもいいじゃない」
「別に。帰っちゃ悪いのか?」
相変わらず相手の反応は冷たく棘がある。
「いえ……ねえ。何をそんなに怒っているの」
「何をって。そんなの、お前たちがいるに決まってるだろう」
こちらを振り向いて私を睨む。
「あ、ああ。もしかして前までここで練習していたの? それなら大丈夫よ、遠慮しないで一緒に走れば…… 」
「そうじゃなくて……」
相手は指をさす。相手はもちろん私。
「お前たち、”日本人”がいるからだよ!」
そう叫んで、私に指さしたウマ娘は不機嫌そうに走って帰ってしまった。
「どうした、ウラヌス」
何が何だか分からずにぽかんとしている私を心配して駆けよるトレーナー。
心配をかけまいと話そうか迷ったけど、もやもやを抱えたままではいたくなったからトレーナーにさっきのことを正直に話した。
「そうか。日系のウマ娘が?」
「ええ。どうやら私たち日本人を快く思っていないらしいの」
「そうか。珍しいな、港では日系人たちが私たちを熱烈に歓迎していたがな」
そう。
私たちが浅間丸でアメリカ入りしたとき、それはもう割れんばかりの歓声が響き渡っていた。その主は日系のアメリカ人たち。自分たちのルーツや生まれ故郷である私たち日本の選手団来米に怖いほどに熱狂しているようだったのだ。
「まあ、世界は人種では区切れない。色々ってことだな」
「それは、そうね……」
その時は驚いて少しもやもやするくらいだった。
練習は午前だけなので、午後はトレーナーと一緒にロサンゼルスやその近郊に出かけることにした。私たちは1930年のヨーロッパ転戦のせいもあって特に名前を知られているのかあちこちで声をかけられた。
そしてその夜、道端で会ったとある日系の奥さんが、自分が手伝いをしている美味しい小料理屋があるので来ると良いということでお邪魔させてもらう。
ちなみにトレーナーは、美人なアメリカの女の人に囲まれていてどこかに行ってしまった。後で蹴ってやる。
とにかく、日系の奥さんを見て思い出すのは、ポログラウンドにいたあのウマ娘。
料理を出しながら談笑していた奥さんに、何となくその時の話をした。
「……たぶんそのウマ娘の子はね、日本人が嫌いなんだねえ」
「でもどうして? 同じルーツの日本人を嫌うの?」
「ふふ、ウラヌスちゃんは本当に、差別もなく育ったのかしら。そういえばウラヌスちゃんも、イタリアから日本に行って日本人になったのよね」
「そう、トレーナーと一緒に日本に行った」
「ヨーロッパでは、アジア人差別はなかった?」
「あったかもしれないけど、分からない。私はそういうの分からないから」
例えあったとしてもトレーナーは貴族で性格もあんなだし、当人も気にしないどころか逆に丸めこんでしまうだろう。
それに私も陸軍のウマ娘寮からほとんで出てこれなかったし、それどころではなかったから人種がどうとか政治がどうとかよく分からなかった。
「ウラヌスちゃんにはそのままでいてほしいけれど、でも知っていたほうがいいかもねえ」
「うん、なにを?」
「私たちと、このアメリカのことを、ね」
奥さんは私の向かいに座って話を始めた。
「私たち日系アメリカ人はね、家を持つことができないの」
「家を持つことができないって、自分の家を? アメリカ人なのに、そんなの変だ」
「ねえ。でも、それが現実のお話なの。私たち日系アメリカ人は、他のアメリカの人たちと同じバスに乗ることも、同じプールに入ることも、そして同じオリンピックスタジアムに入ることもできないの」
「オリンピックスタジアムにも?」
「そうなの。本当は私もウラヌスちゃんの活躍を間近で見たいけど、見られたとしてもあまりよく見えないかもねえ」
そんなの悲しい。だって、港であんなにも私たちを歓迎してくれて、行く先々であんなにも沢山の日系の人たちが私とトレーナーを応援してくれたのに。
「それは私たちだけじゃない。ウラヌスちゃんが練習していたところの門番さん、大きな黒人さんじゃなかった?」
「あ、そうだった」
私たちが練習していたリビエラ・カントリークラブの門番は、私よりももっと背が高い黒人の男の人だった。声をかけてもあまり振り向いてくれないけれど、いつも仕事を全うしているしっかりとした人だった。
「その人のような黒人もそう。アジア人も黒人も、他のアメリカ人たちと同じように過ごすことはできない。まるで日本人でもなければアメリカ人でもない、”異邦人”みたいだねえ」
「そうなんだ。オリンピックも、他の人たちみたいに見ることができないんだ……」
オリンピック。平和の祭典。沢山の国、人種、民族の人たちが全力で競い合い、輪になって踊る。そんな大会。
そう聞かされていたはずなのに。
「だからそのウマ娘の子はきっと、自分がそんな差別を受ける原因の”日本”を、恨んでいるのかもしれないね」
「でも、そんなのおかしいよ。だってその差別の”原因”は日本じゃなくて、そんな差別をする人たちじゃない」
私はイタリアのウマ娘寮での生活にあまり良い思い出はない。でも私はイタリアを恨んだことはなかった。私が障害跳越を覚えられたのはイタリアにいたお陰だし、嫌なことも沢山あったけど、それでもイタリアに生まれたことを後悔したことはない。
あのウマ娘が自分のルーツである”日本”を恨んでいる。それが本当ならあまりにも悲しい。国が全てではない。でもそんなの、まるでそんな生まれを持つ”自分”さえも嫌っているようで……。
「いつか、こんな話をしなくても良いような。そんな世界が来ると良いねえ」
そう言って困ったように笑う奥さんの顔が、どうしても忘れられなかった。
それから奥さんにお礼を言って、トレーナーに倣って少しだけ多めにお金を払った。奥さんは”勝てると良いねえ”と言いながら、ずっと手を振ってくれていた。
手を振り返して大通りに出た後、私は外で待っていたトレーナーと合流した。
ちなみに一発蹴った。
それでも何となくもやもやとした気持ちを抱えたまま、私とトレーナーは夜の荒野のドライブに洒落こんでいたというわけだ。
「なんか、分からなくなっちゃったな」
「何が?」
珍しく自分で運転すると言い出してハンドルを握っていたトレーナーが私の方を見る。
良いけど前見なさいよ、危ないでしょうが。
「……オリンピックが」
トレーナーの家で会った、あのイヌカイのお爺さんも言っていた。
平和の祭典。沢山の人々が輪になる、それがオリンピック。
私はそう思っていた。なのに、こんなのはまるで”逆”じゃないか。
「全てが理想通りにはいかない。特にこのアメリカでは」
「自由と夢の国なのに?」
「だからだよ。皆好き勝手なことばかり言うんだ。それにな、ポログラウンドにいたオリンピックのライバルたちだって、私たちのことを裏でなんて言っているかもわからん」
「そうなの?」
「ああ、跳越競技選手の上に貴族だから、表立っては紳士淑女ぶってはいるがね。私や今村さんはアジア人な上に、障害跳越ではほとんど実績がなかった日本の選手だ。内心、私たちには勝てると思っているだろうさ」
どこへ行っても人種の話ばかり。いつもただ走って跳び越えてに全力だった私にとっては、どんな理由があろうともそれは理不尽なものにしか思えなかった。
「他の競技でもそうなのかな。陸上とか水泳とか」
「そうだろうなあ。オリンピックにこんなに沢山の選手団を送ったのは日本にとっても初めてだからね。色々言われるだろうさ」
私たちが戦わなければいけないのは、競技そのものだけじゃない。偏見や差別といった理不尽な価値観からもだったんだ。
「……そういえば水泳で思い出したが、もう少ししたら水泳の日本選手団が到着するみたいだから見に行ってみるか」
「え? うん。良いけど、どうして?」
「同じ境遇の中で戦う日本の仲間たちを見るのも、いい刺激になるだろう」
・・・・・・
私は翌日、トレーナーと一緒に先日到着したばかりだという水泳日本選手団の一行を尋ねた。
ロスの選手村の近くに置かれた屋外大型水泳競技場。そこには沢山の人々が集まり、フェンス越しに観戦していた。その中心は大型プール。
競技場に着くと黒人の門番さんに事情を説明し、入れてもらう。
私は”着いたばかりなんだから本格的な練習はまだなんじゃない”と言ったけれど……
「いけー宮崎! スピード落とすなよ! おいおい北村、落ち着け、落ち着いて泳げー!!」
ブレザー姿に眼鏡の男の大声に答えるように、必死に大きなプールを泳ぐ水着姿の男の人たち。日本の水泳選手たちは、既に練習に全力で打ち込んでいた。
「……凄い。水泳って私、初めて見たかも」
「ああ、ウラヌスが見ているのと言ったら、いつもの水泳練習くらいだものな」
あれはクロールだろうか。
水をかきわけて筋力を鍛える泳法とは違う。本当に速さで勝負するための、真剣勝負のための泳ぎ。
「綺麗」
思わずそんな言葉が出てくるほどに洗礼された動き。
機械の歯車のように一つ一つのフォームにこだわりを感じる。まるで職人だ。
「……あっ! おい宮崎、北村、女子が見に来てくれているぞ! ウマの女子だぞおい!! 頑張れ頑張れ!!」
あっ、皆フォーム乱れた。
なんだあの男は。
「あー、ユー、アメリカン、ウマムスメ、ガール、オーケイ?」
さっきまで大声を出していた監督らしき眼鏡の男は、下手クソな英語を喋りながらこちらに歩いてきた。
「私たちは日本人よ。こっちは私のトレーナー」
「なんだい日本人……あー! ウマ娘競技の娘かい。何でこんなところに来たんだい。なあ、そっちの洒落た軍人さんよ」
「うちのウマ娘……ウラヌスの良い刺激になればと思ってね」
「あー、そうかい。まあ、見て行きなよ。こっちは最高の盛り上がりだかんねえ!」
プールを見渡して見ると、確かに凄い人たちがフェンスの外から日本の水泳選手たちの泳ぎに声援を送っていた。その殆どが恐らく日系のアメリカ人。
……ただ、プールの中で泳いでいるのは日本人だけだ。
「ねえ、どうしてプールで泳いでいるのは日本人だけなの? プールサイドにはアメリカの選手もいるようだけど……」
「あー、あいつらかい」
眼鏡の男は、プールサイドにいる水着姿の白人を見て笑った。
「ヤンキー、ね。俺の付き添いが言っていたんだけどね。何でもこっちでは有色人種と白人は一緒に泳がないらしいんだよ。見てごらんよ、フェンス周りに集まる日系人。あの人らも言っていたんだよ。プールサイドへ行くことすらできないんだってさ。だから今だってフェンスの外から眺めてんのさ。それにあのヤンキーたち、さっきから俺たちが泳いでいるところをじろじろ見ていやがる。だから当てつけに思いっきり泳いでやってんのさ」
「……そうなんだ」
あの日系の奥さんが言っていたとおりなんだな。有色人種と白人は一緒に泳げない。
「……なるほどね」
少しだけがっかりしていると、トレーナーだけはプールサイドのアメリカ選手団をじっと見ていた。
「なんだい軍人さんよ、ヤンキーのカッパたちを見つめて」
「Japanese style crawlとか何とか……。あれは君らを見て研究しているんじゃないかね」
「研究? あのずっと見てくるヤンキーらがかい」
「ああ、だから君らと泳がずにずっと見ているのさ。日本選手団の動きを」
確かに、プールサイドのアメリカ人たちはプールには入らないものの、日本人選手たちの動きを見て何やら真剣に話し合っているようだった。その瞳はばかにしていたりといった印象は微塵もなく、ひたすらに真剣だった。
「前に新聞で見たけど、君らは去年にアメリカ人チームと戦っているんだろう」
「ああ、よく知っているね。そうだよ。日米対抗水上競技会! あんときは水泳大国アメリカに大勝利だったねぇ!! 神宮プールのスタンドは満員御礼! 40対23の大差でうちらの勝利! 特にうちのかっちゃんが…… 」
「あ、ああ。そう、それだ。とにかく、アメリカの選手たちはよっぽどそれが悔しかったんだろうさ。人種がどうこうじゃなくて、一人一人が水泳選手としてね。ほら」
見てみると、日本選手の分析が終わったのか、アメリカ選手団たちが次々と真剣なまなざしでプールに入っていった。そのまなざしに日本人選手たちは圧倒されつつも、負けないとばかりに更に速く泳ぎ始めた。
「彼らにとっては、人種がどうこうなんてどうでも良い。一人一人が選手として、負けられない戦いなんだろうね。だから……」
「そうかい、なんだいなんだい、それならそうとヤンキーらもそう言えば良いじゃんねえ! あ、ヘイ! アメリカンオリンピックチームキャプテン、キッパス君! キッパス君!」
口が悪いなあ……。
トレーナーの話も聞かずに、アメリカ選手団に駆けよっていく男。どうやら前の競技会で知り合ったらしく、男とアメリカの総監督は何やらにこやかに、けれど真剣に話し合い始めた。
「”話せばわかる”……か」
「え?」
「いいや、誰かさんが言っていたと思ってね」
「私が言ったんじゃなくて、イヌカイのお爺さんよ。この世の問題の大半は、話せばわかる。オリンピックは、そんな風に”語り合える”一番の大会だって」
皆が輪になって、競い合う、平和の祭典。
勝つほうも負けたほうも清々しい気分になれる。時には負けて悔しく心が曇ることもあるだろうけど、それでも最後には潔い。
それがオリンピックなんだって。
「あー! そうだ、ウマの娘と軍人さんよ。言いたいことがある」
アメリカの監督とは話が終わったのか、眼鏡の男が再びこちらに駆けてきた。
「勝てよ、絶対。金メダルだ」
「え?」
「出るからには金メダル! 我々日本は一種目も失ってはならん! 当然だよね」
突然の応援? だ。もちろん金メダルは目指すつもりだけど……。
「君らウマ娘たちがどんな練習をしてきたか分らんけどね。ウマ娘競技というのはオリンピックの華なんだろう? それならもちろん勝ってもらわなきゃ困るじゃんねえ! まあ日本のバ術は世界相手には大したことないと聞いたけどもね」
「な、なんですって?」
「あー、気を悪くしないでほしい。でもこっちの水泳はもちろんアメリカに勝てる見込みがある。でも水泳だけ勝っただけだと日本の選手団として面目が立たないのだよ。な、だから、うん。取れっ、金メダル!」
あー、これは応援ではない。催促だ。
「なああんた、私はとにかく、うちのウラヌスにあまりプレッシャーをかけないでくれよ」
大会前のプレッシャーになるからと止めるトレーナー。
「私は大丈夫だけど、それでも何よ。メダルが全てではないでしょう? どうしてそこまでメダルに拘るの、メダルの亡者さん」
「はは、別にメダルの亡者になったつもりはないんだけどねえ。強いて言うならだけど、理由はあるよ」
「なによ、その理由って」
オリンピックには順位があるし、メダルもある。だから皆が競い合う。
でもただただメダルに拘るのは、それはイヌカイのお爺さんが言っていた平和の祭典とは少し離れてしまうのではないかと想い、むっとしてしまった。
その理由は何なのだろう。それが気になった。
「ああ、勝ちとか負けとか、ただそれだけなら本当はどうでも良いんだよ。でも、今の時代、大事なことがあるそれは……」
それは、意外な答え。
「世界中の、”日本”を明るくするためだよ」
まるで、高尚な新聞記事の一面のような答えだった。
「世界中の、日本?」
「そう! 見てみなよ。このプールの周りは差別されて競技場にすら入れない日系人だらけ。オリンピック前の新聞は日本を叩く記事ばかり。この国、アメリカだけでも日本や日系人への差別、差別、差別、差別だらけ。でもそれは、ある意味では俺たち日本人がしけた面して暗い顔してばかりなせいもあるんだよ」
「……そうなのかな」
「そうに違いない! 満州やら上海やら暗殺やらで日本はもう滅茶苦茶だ。だけどね、今ここで俺たち日本人が沢山のメダルを取って、世界中の新聞で”日本勝利”、”金メダル大量”と書かれればさ、少しは証明できるじゃんね。俺たち日本人や日系人は武器を持って人を脅さなければいけないほど軟弱者じゃない。スポーツで正々堂々と戦える、立派な奴らの集まりなんだってね。それに日本でも盛り上がればさ、きっと戦だなんだなんて馬鹿らしくなるかもしれないじゃないか」
私たち”日本”が勝つ。そうすれば、差別を受けた日系人にとっての光になる。それだけじゃない、きっと今戦争だと盛り上がっている日本人もきっと、平和の祭典に盛り上がり、戦争すらも馬鹿らしくなるかもしれない……か。
「何よあんた急に、そんな高尚なこと言って。新聞記者にでもなったつもりなの?」
「まあ、新聞記者だからね」
あ、そうだったんだ。
「さすが、”オリンピック男”だな」
そう言ってトレーナーは笑った。
オリンピック男……あ、もしかして。
「もしかして、あんたが”タバタ”?」
「なんだい、知ってたのかい。ああ、”田畑正治”だよ」
トレーナーやイヌカイのお爺さんが言っていた、騒がしい”オリンピック男”。
なるほど、それが日本水泳選手団の総監督というのなら納得かもしれない。
「だから、そんな”オリンピック男”からの頼みだ。勝てよ、”ウラヌス”とやら」
そう言って笑う”オリンピック男”、タバタ。
その顔は、さっきまでの騒がしい男じゃない。オリンピックに本気で挑む、一人の男の顔に思えた。
「言われなくても、勝つわよ。絶対に」
「そうか、よく言った! 信頼しているよ、これで逝っちまった犬養の爺さんも報われるだろうからね」
……え?
「今、なんて?」
「日本にいたのに知らないのかい? バカみたいに新聞でやっていたのに」
「いえ、トレーニングばかりしていて、新聞とか見れていなかったから……」
犬養って……あのイヌカイ?
「殺されて死んじまったよ、総理大臣の、犬養の爺さんはさ」
・・・・・・
後日、ポログラウンド。
最近の日課どおり、微動だにしなかった守衛さんに挨拶をして一番にトレーニングに入る。最近は守衛さんも少しだけ話しかけてくれるようになった。
もちろん一番だからポログラウンドには誰もいない。本来なら清々しく練習できる最適な環境だ。
けれど、相変わらず少しだけもやもやする。昨日のタバタから聞いた話。
「ねえ、何で教えてくれなかったのよ」
そう、トレーナーは知っていたはずだ。
私のトレーナーでいつもふらふらしているとはいえ軍人。イヌカイのお爺さん……一国の首相が暗殺された、軍人に。しかも私たちがいた習志野からそう遠くない東京の真ん中で。
「オリンピック前の大切な時期だ。ウラヌスのトレーニングに支障をきたしたらいけないと思った」
”だから私にも言わなかった?”と確認すると、トレーナーはまた”そうだ”と言った。
「あのねえ、私がちょっと落ち込んだのは、そうやって隠し事されたのもあるのよ? 何でも本音で話し合うって。誓いを立てたじゃない」
「別に隠し事ってほどでもないがな」
「分かっているけど……」
それにしても、イヌカイのお爺さんが総理大臣で、死んだ?
”海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる。私はそれで良い。それが良いと思っているよ”
そう言っていたお爺さんが、そんな”暗い世の中”に殺されてどうすんのよ。
このロサンゼルスで、あのオリンピック男や私が金メダルを取って、世界中の選手と手を取り合って……そうすれば日本が少しでも平和になるかもしれない。そんな世界を見たいんじゃなかったの?
悲しさよりも、悔しさが募る。
なんでもイヌカイのお爺さんが死んだ事件について、日本では軍人の行動を称賛するような声も少なくないらしい。
病んでいる。狂っている。
お爺さんが殺した人間が叫ぶのは戦争まっしぐらの日本。戦争は勝つほうも負けるほうも苦しく、気持ちも晴れることは決してない。そんなのは、どう考えても認められていいはずがない。
もし日本が、そんな争いばかりの国になったら?
私たちは、オリンピックの選手たちは、私のようなウマ娘はどうなる?
平和を望む沢山の日本の人々は、どうなる……?
「なあ、ウラヌス、大丈夫か?」
そうだ。
「大丈夫。別に悲しんだり落ち込んだりしているわけじゃないから」
勝つんだ。
”期待”のためじゃない。
”国”のためでも、
ましてや”民族”のためでもない。
死んだお爺さん。
応援してくれた沢山の人。
私を受け入れてくれた、日本の沢山の人たち。
そしてトレーナー。
そして、私。
皆のために。
「ちょっとごめん、トレーナー」
「え、あ、ああ。どこに行くんだ?」
「あの子のところよ」
私はポログラウンドの端っこで帰ろうとしている、あの日系のウマ娘を見つける。
「ねえ、あんた」
「……なに? しつこいんだな、お前も」
「それくらいじゃないと、オリンピックのウマ娘は務まらないの」
前と同じで、また私のことを厳しい目つきで睨んでくるウマ娘。
でも、前にあれだけ私たちが嫌だと言っているのにここに走りに来ているということは、きっと彼女も走るのが好きなんだろう。
……それなら、なぜ走って跳ぶことを辞めてしまう。
「また帰るの?」
「白人と日系人は一緒にターフも走れないんだよ。それに、お前がまた来たから」
恨めしそうに私を見るウマ娘。何だかこっちが差別を受けている気分だ。
「喧嘩をするつもりはない。でも、一つだけ聞いてもいい」
「なんだ?」
「あんたは、私たち日本に金メダルを取って欲しいと思う?」
「金メダル? そんなの、無理っていうのじゃだめか?」
「当たり前でしょう」
”今から金メダルだなんて、なんて驕りだ。”とでも言いたげな顔だ。
それは仕方がない。トレーナーも言っていたけど、日本のトレーナーやウマ娘はウマ娘の競技においても新参者で未熟者。このウマ娘じゃなくても、誰も勝てるなんて思っていない。
「なあウラヌス、この際だからはっきりと言う。あの軍人にも言っておけ」
「うん」
「金メダルなんか取るな。お前たちが調子に乗って勝ったら勝ったで、俺たち日系人が酷い目に会うに決まっている。それにどうせ勝てないんだ。だからそんなできないことを口にするな!」
ああ、予想通りだ。
彼女は私たちが勝つと思っていないどころか、私たちに”勝ってほしくない”とさえ思っていた。
私たち日本人がオリンピックで勝てば、その腹いせに自分たちが攻撃されるかもしれない。だから勝たないでほしい。
思えば、前に差別の話をしてくれた料理屋の奥さんもそうだった。私たちが勝てるようにとは言っていない。”勝てるといいねえ”と、曖昧な言葉。きっと、どこか思うところがあったのだろう。
「……ねえ、あんた、名前は?」
「あ? 何だよ、急に」
「いいから、大人しく答えなさいよ」
「……ぅ」
少し強気にどっしり構えると、少しビビられる。
私は身体が大きい上に軍服を着ているから怖いのだろう。思わず故郷でしばらく一緒だった寮の管理人を思い出した。
「……イノウエ」
「名前を聞いたのだけれど……まあ良いわ。イノウエ」
「な、何だよ」
「私もあんたに言いたいことがあるの」
このイノウエは、もしかしたら他の日系の人も、私が勝てるはずがないと思っているんだろう。一部は勝ってほしくないとさえ思っているんだろう。
でも、そんなことに私は……
「ふざけるな!」
「ひぃ……!」
無性に腹が立っていた。
「なぜ勝てないと決めつける? まだ日本人になったばかりの、見習いの私でさえトレーナーとの、”日本人”としての勝ちを信じているのに、何で!?」
そうだ。彼女らは何も悪くない。日本という国の一部の軍人がどんな暴挙を起こそうと、他の国と仲が悪かろうと、それで日系の人々が差別を受ける筋合いなどありはしない。
そのはずなのに、何だこれは。
日々の差別を恐れるのは分かる。それは仕方ない。でもあろうことか私たちに負けろとまで言い出す。ありもしない罪に身を縮めるばかりで、同胞に酷い言いがかりまでつける。
「あんたが何といおうが関係ない。勝つんだよ、私は! 私たちは! 私も、あんたも!!」
「……ぅ、でも、本当に勝てるのか? 日本のウマ娘が、アメリカの、ヨーロッパのウマ娘に……?」
もはや私に押されて縮こまっているイノウエ。
はあ、もはやさっきまでの威勢のよさはそこにはない。
「勝てる」
そんな弱気のウマ娘の代わりに、私が言い切った。
「勝ってやる。日系人だとか白人だとか関係ない」
私が必ず、それを証明してやる。
「だからあんたも見に来なさい。オリンピックの最終日、大賞典障害跳越(グランプリ・デ・ナシオン)。必ずそこで勝ってやるわ」
「で、でも、私たちは競技場には……」
「そんなのうちのトレーナーが開けてあげるだろうから、後は押し入るなりなんなりしなさい」
「そんな乱暴な……」
「とにかく、私が言えるのはただ一つ」
そうだ、彼女も私も、同じウマ娘。ウマ娘なら、やることは一つ。そこには国も民族も人種も関係ない。
「勝つわよ、”私たち”は」
正々と跳べ。
走れ、大地を。