跳べ、ウラヌス ~ウマ娘オリンピック物語~   作:空見ハル

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 突如世界を襲った恐慌によって多くのものを失ったとあるウマ娘。そこに現われたのは、日本陸軍のバ術トレーナー・今村安。それから彼に連れられ欧州へと渡り、世界を驚かせたのが"ソンネボーイ"だった。そしてソンネボーイは夢の舞台であるロサンゼルスオリンピック・大賞典飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)で立ち止まる。彼女はトレーナーと共に、何を思うのか。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。


#7 ユーカリ林の少女

「単刀直入に言おう。私と、世界を目指さないか?」

 

 もう全てが嫌になって陸軍の競技ウマ娘を辞めようと思った1929年の終わりの隊舎。

 連隊長室に辞表を出しに行ったら、知らない謎の中年男性が一人。

 

「……ふ」

「ふ?」

「不審者だああぁ!!」

 

 知っている部屋に見知らぬ男。まごうことなき不審者だった。

 

「いや待て、誰が不審者だ! どう見ても素敵な好青年じゃあないか」

「どこがですかっ! それに青年というほどの歳でもないでしょう!」

「……ぐ。痛いところを突きおって」

 

 改めて見ると軍服らしきものを着ているけど、見たこともない服装。しかも明らかにヨーロッパの人間ではない、恐らくアジア人だ。ボクよりも少しだけ背が高い。

 

「あなた、まさか異国のスパイか何かですか」

「こんな堂々としたスパイがいたらとしたら、そいつは転職をしたほうがいいかもしれんな」

「異国の服を着ていますし、この国の人ではないみたいです」

「……まあそうだな。スパイというのは半分あっているかもしれんな。だが、ウマ娘競技の、だがね」

「やはり……。やはり本部に通報しなければ……!」

「おいおい、まあ待て! 冗談も通じないのか君は」

 

 だっていかにも怪しいから。

 

「ここに入るには君の上司の許可は得ているどころか歓迎されていたんだぞ。目的は……君だ」

「え? ボク、ですか」

「うむ。言うなれば、君の実力を見させてもらいに来たんだ。そのためにここへ」

「それだけのために?」

「ああ、それだけのために」

 

 そう言って口上の整った髭を触って笑う男。よく手入れされた髭。貴族か何かなのだろうか。

 

「さっき、”世界を”と言いましたけど、どういうことですか?」

「ああ、それじゃあ言おうか」

「は、はい」

「私と、オリンピックに出てほしい」

「……オリンピック?」

 

 予想外の単語が出てきて拍子抜けしてしまう。

 なんかもっとこう、切羽詰まったようなこととか、とんでもないことを言われるのだろうと思っていたから。

 ……いやあまあ、オリンピックはとんでもないことか。

 

「その、よく分からないのですが。オリンピック? ぼ、ボクが?」

「ああ、君だ。君が良いと思った。あ、まさかオリンピックを知らないか?」

「失礼な、それくらい知っていますよ」

 

 確かにボクは、イギリスの小さな大会で優勝した経験はある。

 けれどもオリンピックといえば世界中の猛者が集うスポーツの祭典。そこで戦い、勝つというのは並大抵のことではない。そんな大会に出るのは、本当に昔からバ術を嗜む家系で幼いころからバ術のトレーニングを積んでいるウマ娘が出るべき場所。

 たまたまスカウトされたようなボクが行くべき場所では……。

 

「なぜ自分が、と思っているだろう」

「……え?」

「見れば分かるさ」

 

 そんなに分かりやすいだろうか。

 ボクは自分でもあまり自分の表情が分からない。だからいつも固いと仲間たちにも言われていたくらいだった。

 

「確かに、君は昔からバ術をやっているような血筋でもないようだね」

「……はい。実家で狩りの手伝いを」

「なるほど。君の健脚はそこからきているわけだ」

 

 ボクの周りのライバルたちもそうだったが、レース然りバ術然り、あらゆる勝負に挑むウマ娘はその家系や血の繋がりが重視される傾向にある。バ術競技を嗜んでいたウマ娘の子はまたバ術を目指すのが定番。だからそういったウマ娘たちは貴族であることも多く、バ術がしばしば”貴族のスポーツ”と言われる所以でもある。

 そんな中でボクのような庶民の生まれは異端とも言える。しかし障害飛越の動きの源流は、かつて狩りをしていた頃のウマ娘の跳び方や走り方。ボクのように地を駆けまわっていたウマ娘にも大きなチャンスがある競技だった。

 ……そして結局、ボクだけが残ったわけだ。

 

「君の飛越するときの安定した姿勢、けれど前へ前へと走るその美しさ。他では見ることができなかったものだ。聞くとイギリス陸軍内での評判も良かったそうじゃないか」

「……それでも庶民出のボクにはバ術の血は巡っていない。ついこの前まで、もっと競技会で成果を出していたウマ娘はここに沢山いました。きっと探せばまだ見つかるでしょう。なのになぜ?」

「真のトレーナーは血で相手を選ばない」

「……え?」

「例えどんなウマ娘だろうと、共に上を目指す。それが真のトレーナーというものだ。そう、君の前のトレーナーと同じように」

 

 ”必ず君は、世界一のウマ娘になれる!”

 

 かつての自分のトレーナーを思い出す。

 あの人はいつもボクと真っすぐ、優しく向き合ってくれていたけど、きっと色んな苦労があったに違いない。

 貴族ではないウマ娘であるボクの、優しいトレーナー。陸軍内でも浮いていたに違いない。それでもボクをいつも気にかけてくれて、ボクも陸軍内で浮かずに沢山の仲間に恵まれることができた。きっとボクが高く跳べることができたのは、トレーナーのお陰だったんだ。

 ……でも、それなら尚更。

 

「残念ですが、お断りします。ボクはもう跳ばないと決めたんです」

 

 トレーナーがいないこんなボクは、もう跳べなくなったということじゃないか。

 

「その手に持った紙は?」

「除隊申請書です。ボクはもう、陸軍を辞めるつもりで来ました。なぜあなたがボクを選んだのかは知りませんが、他を当たってください」

「ここを辞めてどうするつもりだ? 最近は不景気だ。行く当てなんてあるのか」

「実家にでも帰りますよ。やっぱり、ボクがここにいるのは間違いだったんですよ」

「ふむ、言っても無駄か?」

「ええ、決めたことですから」

 

 どうせこの男の言う通りに着いていったとして、こんな一人ぼっちのボクが走ったところで期待に答えられるはずがない。

 除隊申請書を机に置いて、連隊長室から出ようとしたところだった。

 

「……そうか、分かった。それなら乗っていくと良い。実家まで送ろう」

 

 男は窓の外にある車を指して言った。

 

「…………」

「そんな不審な目をするな。別にどこかに連れ去ろうと言っているわけじゃあない。ここで会った縁というものだ。それにここの連隊長とは気が合ったからね、除隊に関しても私が説明しておいてやるから」

 

 そう言って半ば強引に外に出て車に乗せられた。

 普通ならこんな見ず知らずの男についていくことはないけど、どうせ実家以外に行く当てもない身だ。除隊もしっかり連隊長と話をしてけじめをつけようと思ったけど、この男が除隊の世話をしてくれるとか何とか言っていて、なんだかどうでも良くなった。

 

 ボクは荷物をまとめてオースティンの古い車に乗った。

 持っていく荷物は整理すると、背負い鞄一つに収まった。何もない実家から着の身着のままトレーナーに誘われて来たことを、昨日のように思い出せた。

 

 もう全て忘れよう。トレーナーやライバルたちのことも、自分がバ術ウマ娘だったということも。

 母さんや父さんはどう思うだろう。そんなことを考えると少しだけ後ろめたくも思うけど、それでもこれもけじめだ。

 ひとまず実家に行くべく、この男の車に乗る。

 

「思えば、何であなたがボクの実家の場所を知っているのですか」

「いや、知らない。だから君が教えてくれ」

 

 この男は……。

 そう思いながらも助手席で案内をしながら座った。

 

「そういえばあなた、名前は?」

「私か? 私は今村だ。”今村安”。日本陸軍でバ術のトレーナーをしている」

「そう、ですか」

「私も良いが、君の話も聞きたいね。どういう風に英陸軍に?」

「ボクは……」

 

 実家までの車内では、面接のようなやり取りがずっと続けられた。ボクがどうやってイギリス陸軍に入り、仲間に恵まれ、そして別れてきたのか。

 全く、色々あって落ち込んでいるのにこの人ときたら……。どこかで日本はレイギの国と聞いたけど、日本のトレーナーには気を遣うという文化はないのだろうか。

 

 そんな不思議な空間で2時間ほど走り続けて着いた先、そこにはボクのよく知る草原そのままの景色が残っていた。

 

「……ここであっているか。君の故郷は」

「はい。……1年半ほど空けていましたが、何も変わっていません」

 

 競技場にも植えてあったユーカリの木々。いつも家の犬と追いかけっこをして過ごしていた、沢山の木が横たわる穏やかな草原。

 今は冬で雪が少し積もっているけれど、そんな中でもいつも走って跳んでいた小さなころを思い出す。

 ボクが大きな一歩を踏み出す前の、”小さな世界”。

 

「ボクが生まれ育った、故郷です」

 

 まるで時間が止まったかのよう。

 今目の前にした実家も、ボクが家を出てから全く変わっていない。草原の中にぽつんと佇む木製の家。ところどころ前より痛んでいるところはあるけど、ほとんど変わらない。

 ……そう、不自然なほどに。

 

「お母さん、お父さん、ただいま」

 

 家のドアを引くと、鍵もかかっていなくて、ぎいと音をたてて開いた。

 

 ドアの向こうにいるはずの人に一刻も早く話をしたかった。

 陸軍のバ術ウマ娘になれたことを誰よりも喜んでくれた、お母さんとお父さん。まずは二人に伝えたかった。

 

「あれ、お母さん? お父さん?」

 

 ごめんねって。

 ボクは結局、立派なウマ娘になることは叶わなかったよ。

 

「いないの? いつもここにいるはずなんだけど……」

 

 でもボクを連れてくれたあのトレーナーはとても優しくて、とても楽しくトレーニングができたんだよ。そしてそこで活躍して、沢山の仲間とライバルができたんだよ。

 

「お母さん!」

 

 手紙にも書いて送ったけど、ボク、本当にそんな仲間たちのお陰で、小さな大会だけど優勝もできたんだ。そしたら寮の仲間やトレーナーも、沢山褒めてくれたんだよ。

 

「お父さん!」

 

 でも皆いなくなっちゃった。あの貧乏の波のせいで。トレーナーも、仲間の皆も。それでもボクは残れたけど、ボクは自分から諦めちゃったんだ。もう疲れたんだよ。

 

「ねえ、どこにいるの……?」

 

 お母さんとお父さんは何て言うかな。優しく抱きしめてくれるかな。それとも頭をなでて笑ってくれるかな。でも不思議だな、ボクが悲しむようなことをする姿が思い浮かばないよ。二人はいつも、ボクに優しくしてくれていたから。

 

「ねえ……」

 

 ああ、でもどうしてだろう。

 

「返事をしてよ!」

 

 ここにいるはずの二人の声が帰ってくることも、目の前に現れることも、決してなかった。

 

 

・・・・・・

 

 

 家の裏にあった墓石に、ボクと、あとずっと傍にいたイマムラという男は近所でもらった花を手向けた。

 

 ……お父さんとお母さんがもういないと聞かされたのは、少し離れたところにあった農家の人からだった。この花も、気の毒にとその農家の人からもらった。

 

 ちょうどボクがあの家を出て陸軍に入ってから半年くらい経ってからお母さんが流行りの病気にかかったらしい。お父さんも治療費のためにも炭鉱に出て働いていたけど、そこでの環境が悪かったせいかお父さんも流行りの病にかかった。お母さんが亡くなった後、お父さんも後を追うように亡くなったらしい。

 

「……君はこのことは?」

「知りませんでした。たぶん、ボクに心配をかけないために黙っていたんだと思います」

 

 お父さんもお母さんも、ボクが”世界一”のウマ娘に慣れるように優しく背中を押してくれた。陸軍に慣れ始めてから送られてきた一通の手紙にも、ただボクを応援してくれる優しい言葉がひたすらに詰まっているだけだった。

 まさか、こんな、こんなことになっているなんて……。

 

「これも天罰なんですかね」

「……え?」

「さっき車で話した通り、ボクはこの小さな世界から抜け出して、バ術という大きな世界に飛び込んだ。そしてそこで少し成功したからって調子に乗ったからきっと、神様からお叱りを受けて……」

 

 大切な人に背中を押されて、そしてイギリス国内の小さな大会で優勝して、それでトレーナーと”世界一のウマ娘になれる”と言い合って、その行き着く先がこのざまか。

 

「ボクのお母さんとお父さんは何も悪いことをしていない。むしろボクをいつも支えてくれた、この世で一番素敵な人たちだった。トレーナーも、寮の皆もそうだった。それじゃあ悪いのはボクしかいないじゃないですか。きっとボクが……」

「……日本生まれの私には君たちの言う神がどうというのは分からない。そんな外の人間である私が言うのも何だがね」

 

 墓石に置かれた花を見つめてただ俯くことしかできないボクの肩に、イマムラは手を置いた。

 

「世界を目指したから、強いウマ娘になろうとしたから、沢山の人に応援されたから……そんなことで不幸が訪れるような世界があったとしたら、そんなの理不尽だとは思わないか?」

「……そうですね、理不尽。理不尽中の、理不尽です」

 

 当たり前じゃないか。

 ボクは前にレースに出るためのウマ娘が楽しそうにトレーニングしているのを見かけた。彼女らは民衆の大歓声の中をひたすらに駆ける存在。ボクらのように気難しいルールの元跳んだりすることはない。民衆のスターだ。

 

 ライバルが去り始めた後、ボクらバ術のウマ娘は段々と世間から注目されなくなっていった。大会で良い成績を出したウマ娘がいても、新聞に大きく載るのは稀。

 イギリスが近年世界大会の成績が芳しくないというのもある。しかしこの不況の中、より民衆に近いスターが大勢いるレースに、世間の多くの目が向いていったんだ。

 同じく彼女らもきっと、レースの頂点を、果ては世界を目指しているのだろう。

 

 ……それなら、おかしいじゃないか。

 なぜボクが、ボクらだけがこんな目に。どん底に落ちなければならない。それこそ理不尽の塊じゃないか。

 

「でも、それならどうしたら良いんですか。ボクにはもう一緒に跳ぶ人もいない。それどころか、帰るところさえ……」

「一緒に跳ぶ人ならここにいるさ」

「……え?」

「それに、帰る場所もある。もちろん、この国ではなくなってしまうがね」

 

 振り返ると、イマムラが微笑んでボクを見ていた。

 ……最初は怪しいと思った、というより今も少し思っているけれど。でも考えたら、この人くらいじゃないかとも思う。イギリスでもがくたった一人の小さなウマ娘のボク。そんなボクの走りを、飛越を、真っすぐと真剣に見てくれていた人は。

 

「君がおかしいと思うこんな世界ならば。そんな世界そのものに報いるしかないじゃないか。君が、君たちが世界を目指して走り、跳んでいたことは決してムダではなかったと、証明するしかないじゃないか」

「……できますかね」

「ああ、できるさ! 君と、私なら! 必ず」

 

 なれる、ボクが? “世界一”の、ウマ娘に……。

 

「この暗くなった世界の中で、君が太陽(Sonne)のように輝く飛越を見せ、少年(boy)のような笑顔を人々に届けることができれば、必ず」

 

 ボクはもう一度彼に向き直る。

 

 これが最後のチャンス。

 そう感じた。もう故郷も、ライバルも、よりどころさえ失ったボク。

 これからのどこかで躓き、膝をついてしまったのならば、もうボクはどこにも行くことが出来なくなる。全てがおしまいだ。

 

「……分かりました。それなら賭けてみます。イマムラ。ボクの、新しいトレーナー」

 

 それでも全てを失い、何もかもが亡くなったボクに残された唯一の道だ。ここで賭けに出なければ、いつ行動を起こす?

 

「ああ。今日から君は、”ソンネボーイ(Sonne Boy)”だ」

 

 今だ。今しかない。

 

「見返してやろう。君を見てくれなかった者たちに。この理不尽な世界に!」

 

 ボクは、”ソンネボーイ”。その名に恥じない競技をする。

 

 それしか道がない。

 

 やるしかないんだ。

 

「君の除隊の話は連隊長にしておこう。今日から君は、日本陸軍のウマ娘、私の相棒だ」

 

 この男と。

 

「この、理不尽な世界で、輝く……日の出の国、日本のウマ娘……」

 

「そうだ! 君は間違いなく世界で戦える。……そうだな」

 

 トレーナーと一緒に。

 

 

「あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね」

 

 

・・・・・・

 

 

 ロサンゼルスの真ん中にあるコロシアム。

 

 グランプリ・デ・ナシオン(大賞典障害競技)。

 

 ここまで2組のウマ娘とトレーナーが挑戦し、2組が失格となった難関。その最難関、第10障害。前人未踏の壁。

 

 トレーナーの声も聞こえなくなるほどに疲弊し、拒止してしまっていたボク。

 だけどまだ間に合う。拒止は3回まで許されている。まだ跳べる。跳べるはずだ……。

 

 昔を思い出して再びその決意を思い出した。

 

 そうだ、ボクは決めたじゃないか。

 

 ボクにはもう家族も友人もいない。

 

 ボクにあるのは、”日本代表”という肩書と、イマムラというトレーナーだけ。

 

「……ン…」

 

 だからボクはイマムラと一緒にどこへでも行って戦ってきたじゃないか。

 

「……れ……」

 

 ドイツ、フランス、ポーランド、スイス、イタリア、そしてロサンゼルス。

 どこへ言ってもボクは良い成績を収めることができた。だからこそボクはトレーナーの隣で跳ぶことができた。

 

 ボクはまだ、トレーナーの隣で跳んでいたい。まだ世界で”最強”のウマ娘になる夢を果たせていない。

 

「……まれ、……」

 

 

 だから、だからボクは……

 

 この障害も、超えていかなければいけないんだ……!!

 

 

「止まれっ、ソンネ!!」

 

「トレーナーっ……?!」

 

 

 反転し、第10障害に向き直って再び越える……その時だった。

 

 トレーナーが、大きく手を広げて、ボクと障害の間で立ち塞がった。

 

 トレーナーを突き飛ばすわけにもいかず、ゆっくりと立ち止まる。

 

 それでも膝はつけない。ついたら失格だ。

 

 肩で息をする。かなり辛い。苦しい。でも勝たなければいけない。なのになぜ……。

 

 

「主審、この競技は棄権します」

 

 

 トレーナーはボクの飛越を見ていた審判に手を挙げ、そんなことを言い出した。

 

「なっ……!」

 

 審判もあまりに突然の行動に、驚いた顔で固まる。

 

「トレーナーの私の判断です。どうか……」

「ま、待ってください!! トレーナー、ボクはまだ跳べます! そこをどいてください!」

「ダメだソンネ、動悸や発汗が異常だ。このまま続けるのは危険すぎる。今日はもう休もう。十分だよ」

 

 もう……? もうって……。

 

「ダメなんですよ。ここで勝たないと、ここで一番にならないと!」

「また挑戦すれば良い」

「”また”なんてないんです! ここで勝たないと……!!」

 

「……主審、少し時間をいただいてもよろしいですかな」

 

 トレーナーは主審が頷いたのを見ると、ボクの肩に優しく手を置いた。それでも決して、ボクと障害の間から動こうとはしない。

 大勢の観客が見守るスタジアムの真ん中、まるで時間が止まったかのように静寂に包まれていた。

 

「なあソンネ、覚えているか。私と一緒にイタリアに渡った日のことを」

「……なんですか突然」

「いいから。覚えているかい」

 

 大勢の観客が静まる。まるでボクとトレーナーだけの世界。

 

 覚えているかって? そんなの……

 

「忘れるはずがないじゃないですか。トレーナーはボクと一緒にイタリアへ行って……」

「ああ、競技会のために、色んな所に行ったよな。イタリアはもちろん。ドイツ、フランス、オーストリー、ハンガリー、ベルギー、チェッコ、スイス、ポーランド、ルーマニア。ヨーロッパ中を周った」

「ずっと一緒でした。ボクも忘れませんよ、トレーナーと一緒に行った場所と、その思い出は、絶対に」

 

 ボクとトレーナーはイギリスを出て、イタリア陸軍のキ兵学校に留学。そこからヨーロッパの国際大会を転々とする日々が続いた。

 トレーナーと一緒に出場するのはもちろんボク。

 

 ”世界一のウマ娘になる”

 

 今まで世界どころかイギリスの小さな町からさえ出られなかったボクにとっては、そんな夢に大きく近づいた日々だった。

 

「あの時は大変だったなあ。まさか欧州のバ術家は、大会前でも深夜までパーティーに出るなんて知らなかったからね」

「はは、トレーナーはいつも大変でしたよね。いつも二日酔いで頭を痛くして。それに、ダンスもちょっぴりへたくそで」

「笑わないでくれたまえよ」

 

 慣れない国、慣れない習慣。庶民出のボクも不安なことだらけだったと思う。

 それでも、一度協議に出て、トレーナーと一緒に沢山のウマ娘と競い合ってしまえば、そんな不安もいつの間にか消えていたんだ。

 

「毎日が楽しかった。制服も2着しか持っていなかったから、いつも膝が擦り切れたボロボロの軍服でパーティーに出ていて恥ずかしかったよ。西君にもよく笑われたものだ」

「ええ」

「それに、君も私が見込んだ通り大層強かった。障害を跳び越えるときの体勢、心持ち、全てが良好だった。イタリア軍の優秀なトレーナーとウマ娘たち相手に良く良くあそこまで戦えたものだった」

「……ずっとこうだったかのように、安心する、良い思い出です。でも……」

 

 トレーナーにノせられて危うく話し込んでしまうところだった。

 障害飛越は制限時間を超えても減点されていく。こんな競技場のど真ん中で話し込んでいる場合ではない。

 ……でも、トレーナーはじっとボクの顔を見つめている。なぜかボクはそんな彼の目を見ると、無理やりにでもどいて行こうという気にもなれなかった。

 

「今はとにかく、どいて、ください、トレーナー。ボクは、行かなければ……」

「ただ一つ、私はずっと気になっていたんだ。ソンネ」

「……何、ですか」

「君は、何を考えていつも障害を跳んでいた? 何を考えて、ヨーロッパを駆けまわっていた?」

「……え?」

「そしてソンネ、君はそうになってまで、今何を考えて跳んでいる?」

 

 スタジアムの真ん中で立ち話をしているトレーナーとボク。

 そしてその一方は汗が吹き出し肩で息をして声が震えていて、今にも膝がつきそう。きっと瞳孔も開き切っているだろう。

 この異様な光景を、何万もの人々が見守っている。変な具合だ。

 

 でも、それでも、ボクが走り続けているのは……。

 

「そんなの、決まっているじゃないですか」

 

 そう、決まっている。

 

「失いたくない。見捨てられたくない。もう二度と、大切なものを……あなた、トレーナーを、帰る場所を、失いたくない……」

「それは今もかい?」

「……イギリスから旅立つとき、言いましたよね、トレーナーは」

 

『あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね』

 

「ええ。あの時の言葉は本当でしたよ。あなたの言った通り、イタリアに留学してすぐの林。そして、その障害の木……」

 

 ユーカリの花。

 ヨーロッパに渡って半年も経たずして、ボクの日常は、世界は大きく変わった。

 せわしなく過ぎていくトレーニングと競技会の日々、勝利と敗北の連続、でも何よりも、いつも笑いながら寄り添ってくれるトレーナーがいた。いつも一緒の、帰る場所があった。

 イタリアで学んだトレーナーのバ術があれば、ボクは今までよりも強くなることができた。この人の隣ならば、ボクは”世界一になる”という約束も果たすことができるだろうと……この人と出会ってから、帰る場所がないなんて思わなくなった。

 でも……。

 

「でも、今度は怖くなったんです」

 

 かけがえのない居場所ができたら。

 

「もう失いたくない。トレーナーに会う前の、ボクみたいな風には、なりたくない」

 

 それを失いたくないと思うのは当然じゃないか。

 

「もしボクがここで負け続けたら、世界で勝てないウマ娘になってしまったら!! 世界を目指すあなたの……トレーナーの傍にいられなくなるかもしれない……だから……!」

「ソンネ……」

「もう誰にも見放されたくない。もう一人ぼっちは嫌だ。嫌だよ……」

 

 なんて弱いのだろうと思う。

 日本初の国際大会優勝ウマ娘。自然バ術の先駆者。日本代表。

 そんな仰々しい栄光を並べたとしても、ボクのよりどころは一つしかない。ボクはただ、怖いものから必死に逃げてきてここまで来てしまっただけなんだ。

 

 ああ、ボクは、ボクは……。

 

「バカだなあ。ソンネは」

 

 トレーナーはボクをイギリスのあの小さな世界から連れ出してくれた時のように、優しく微笑んで……ボクの頭に掌を置いた。

 

「私が、世界一になりたいだけのために君を選んだと思うのか?」

「だ、だって、トレーナーは、オリンピックに出たいからボクを……」

「私は、”君と”オリンピックの舞台に立ちたかったんだよ。イギリスで見た君の真っすぐな走りと飛越。その姿を見てソンネ、私は君と一緒にバ術をしてみたいと思った。私は君と一緒にこの舞台にいることができる。それだけで幸せだったんだよ」

「でも、恐慌の今、ボクとトレーナーも結果を残さないと……!」

 

 世界恐慌。貧困の時代。それによって奪われたボクの家族や友人たち。もしかしたら、今のボクのトレーナーも……。

 

「そんなの心配しなくても良いに決まっているじゃないか。私はあの西君の上司だぞ? 仮にカネがなくてソンネと離れなければいけないようなことになったら、恥を忍んで西君に土下座してでもカネを借りるさ。何も心配いらないんだよ」

 

 トレーナーは優しくボクの頭を撫でる。

 

「全く、ソンネは真面目すぎる。君はまだ学生くらいの歳だろう。そういうのはな、私たちのような大人に任せておけば良いんだよ」

「子ども扱いしないでください……」

「子供でも、大人でもさ。少しは頼ってくれると嬉しいな。私は君の居場所を作るだけじゃない。君の相棒、トレーナーなんだから」

「トレーナー……」

 

 ああ、なんだったんだろう。そうだよ。少し考えたら分かることじゃないか。

 トレーナーだけじゃない。ウラヌスやそのトレーナーのニシを見ていたら分かる話だったじゃないか。

 

「ごめんな、ソンネ。もっと君と話していれば君に必要以上のものを背負わせることもなかった。イタリアに留学して君が不安だった時、ヨランダ王女杯で君がいち早く立ち去っていた時、オリンピック直前まで一人で猛練習をしていた時……」

「そ、そんな、トレーナー! 違うんです。それも全部、ボクが、先走っていたから……!」

 

 イタリアに留学して不安だったけど、それはトレーナーと一緒に競技会に参加しているうちに段々となくなっていったんだ。

 

 オリンピック直前まで過度な練習をしていたのも、世界の舞台を前にボクが勝手に先走っていたから。

 

 ヨランダ王女杯でいち早く競技場から出たのも……あれも、うっかりだけじゃない。きっと心のどこかで怖がっていたんだと思う。

 欧州の大きな大会での優勝。形だけを見れば圧倒的なボクの勝利に見えるかもしれない。でも違う。欧州勢、特にイタリアチームの圧倒的な技術と力。ギリギリだった。圧倒的な力を前に、”一人”でどうやって立ち向かえばいいのかと。

 

 そうなんだよ。トレーナーはボクの”帰る場所”だけじゃない。

 

 ボクの、相棒だ。

 

「ごめんなさい」

「うん、私こそ、ごめんな。トレーナー失格かな」

「ううん、そんなことない。ごめんなさい……」

「良いんだよソンネ。泣いても良い。弱音を吐いたって良い。時には膝をついて、助けを求めたって良い。これからは”一緒”に、ゆっくりと”世界一”のウマ娘に向けて走り出していこう」

 

 今思い出す。

 

 一昨年のヨランダ王女杯。ユーカリの花が咲く、誰もいないイタリアの競技場。

 

 ”もらい忘れていたぞ”と優しく笑いながらトレーナーがつけてくれた、ヨランダ王女杯の優勝ブルーリボン。

 

 ”おめでとう。凄いなソンネ。本当に君は、誰よりも美しく強いウマ娘だ”

 

 そんな言葉ももらったボクは、イギリスから出て初めて笑った。

 

 それは世界一に近づいたことの達成感だと思っていた。自分の力が欧州でも通用するという優越感だと思っていた。でもそれだけじゃない。

 

 嬉しかったんだ。楽しかったんだきっと。

 

 一緒にヨーロッパ中を駆け回って得た努力の証を、大切なトレーナーから直接もらえたことが。

 

『あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね』

 

 きっとあの時初めて実感していた。自分に帰る場所ができたのだと。

 そのユーカリの花が枯れ、新しくユーカリの花が咲いた今、またボクは変わったのだろう。

 もう帰る場所のために”一人”で戦うボクはいない。

 時には頼り、時には甘え、時には助ける、ボクのトレーナー。この人と”一緒”に、世界一のウマ娘を目指していこう。

 

 だから今は……。

 

「ありがとう、トレーナーぁ……!!」

 

 ボクは泣きながら、トレーナーの軍服に顔を隠し、

 

 そして、膝をついた。

 

「日本代表、トレーナー・イマムラ、ソンネボーイ、失権!」

 

 審判が旗を上げて宣言する。

 

 失権。この大会での勝利はあり得ない。

 

 しかし長い長い静寂を破り、ボクとトレーナーを中心に、会場は万雷の拍手と歓声で埋め尽くされた。

 

 

・・・・・・

 

 

 第3走目のボクの出番は終わり、スタジアムの真ん中から退場する。

 前のチームと同じく第10障害前で膝をついたことによる失権。言ってしまえば完全な敗北。オリンピックで、トレーナーと一緒に世界一のウマ娘に輝くという夢は残念ながら果たせなかった。

 でも泣いてトレーナーと話して、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 

『オリンピックは、参加することに意義がある』

 

 誰の言葉だったか、オリンピック会場にある碑に刻まれた言葉を思い出した。

 

「あ、あの、ソンネボーイ……」

 

 思いふけっているところに駆け寄ってきたのは、ウラヌス。

 

 思えば、この娘とも、同じ日本代表でもまともに話し合ったことがなかったかもしれない。トレーナーとニシはよく話し込んでいたけど。

 

「ウラヌス、一つだけ良いですか」

 

 そうだ。もう意地を張っても仕方がない。時には頼る。時には手を取る。トレーナーと話してそう心に決めた。

 だから……。

 

「ウラヌス! 一つだけ、お願いがあります」

「あ、は、はいっ!」

 

 ボクはウラヌスの肩をがっちりと掴んで、ただ一つだけの大切なお願いをした。

 

「勝ってください。あの第10障害、難関ですが、必ずあの障害を越えてゴールにたどり着いてください」

 

 きっと今のボクは、目が赤くなって本当なら人前に見せたくない姿だろう。それでもボクはウラヌスに託さなければいけない。

 

 ”オリンピックは参加することに意義がある”。

 でも、ボクの夢はまた別だ。この暗い世界で、今まで勝ったことない日本のウマ娘として勝利し、バ術で光を灯す。そうすればきっとイギリスで離ればなれになった仲間たちも、不況にあえぐ日本も、少しは報われるはずだ。

 

 だから、一つだけ。

 

 勝て。

 

 走れ。

 

 

「跳べ、ウラヌス!!」

 

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