「此処なら良いかな」
私とオオワシは、ピラミッドを後にして、聖域の森の一角に足を運んでいた。そこは、浅間浄穢山から漏出していた情報の吹き溜まりである。
「まるで異界だな」
変哲も無い聖域の森が、情報に上書きされて変容した成れの果てが眼前に広がっていた。繁茂している木々は、異常に巨大化して蔓のように幹を歪めており、枯れ木のような色合いで酷くささくれている。その有様は、巨大な茨のようだ。
「長居は無用だ。早く済ませるぞ」
オオワシの催促に従って、私は写し取った生命情報を解放した。ずっとこの目に写していたら、騒がしくて参っちゃうからね。
「此奴らも本望だろう。此処には仲間が多そうだからな」
解き放たれた生命情報は、森の各所へ散って行った。彼らは、いつか消えゆく残影に過ぎない。けれど、それは私たちも同じである。生命も情報も、その存在で世界を上書きしていく。地に満ち、変化を齎し続けるその過程は、とても賑やかで無秩序だ。
「帰ろう。オオワシ」
私は、オオワシと共に踵を返した。浅間浄穢山で写し取った情報は、これで全て処理完了である。全ての用事が片付いて、私は一息ついて肩の荷を下ろした。今は、清々しくて良い気分である。
「それで、明香は帰ってきたのね」
紫さんは、私に視線を向けて呟いた。彼女は、私の寝室に上がり込んで、畳の上で横になっている。その上、彼女は林檎を要求していて、私は仕方なく果物ナイフで真紅の皮を剥いていた。するうち、彼女は自身の長い金髪を指で弄りながら、あっけらかんとした様子で問いかけてくる。
「どうして、磐永阿梨夜に頼らなかったの?」
「生きた化石になりたくないからですよ。紫さんが、博物館に私を展示したかったのなら話は別ですけど」
私は、むすっとして口を尖らせた。磐永さんの力に頼ればどうなるか教えてくれなかったのが不満だと、態とらしく拗ねてみたのである。すると、紫さんも態とらしく苦笑した。
「展示したいと言えば、どうなるのかしら?」
「一番目立つ場所に飾るようにお願いします」
「それは無理よ。明香は見せ物じゃないもの」
「展示ってどういう意味でしたっけ?」
紫さんは、私の身体をつぶさに観察するように目を這わせる。けれど、目で見て分かる変化が無かったからか、彼女は安堵したように視線を離した。
「今はまだ、人間みたいね」
脱力した紫さんは、重力に身を委ねて畳に自らの頬を押し付けた。その頬は、餅のように柔らかに変形して、彼女の端正な顔立ちを可愛らしい印象に変える。
「例え明香がどんなに変わっても、最期まで一緒に居られれば、私はそれだけで満足よ。だから、何も心配はない」
私は、紫さんがまた本心を隠したと察した。きっと、この彼女の言葉は偽りでも真でもないのだろう。そこで、私は林檎の皮剥きを中断して、彼女の頬を優しく指で突く。
「──それだけで満足だけれど……欲を言えば変わってほしくないとも思っている。そんな紫さんの我儘を、叶えてあげられませんでしたね」
「そうね。埋め合わせを要求するわ」
「それなら、少しお待ちを」
私は、台所へ向かって戸棚を開き、茶筒と薬包を手に取った。それは、綿月豊姫さんから頂いたお土産である。
「月の茶葉でも如何ですか?」
私が紫さんにお土産を見せると、彼女は凍りついたように動かなくなってしまった。それから暫くの間を置いて、彼女は畳から飛び起きるように身を起こす。
「成程ね。全て理解したわ」
「さいですか」
「いや、ちょっと待ってやっぱり分からないわ」
二転三転する紫さんは見ていて面白いけれど、明らかに説明を求める目付きが私を貫いていたので、素直に経緯を明かした。即ち、後日談とも言える月都での綿月豊姫さんとの会食について。すると、彼女はお手上げだと言うように肩を竦めて見せる。
「この茶葉は有り難く頂くけれど……こっちのお薬は何?」
「豊姫さんからの頂きものです。穢れを抑制する月の都ではありふれた薬剤だそうです」
頭上にクエスチョンマークが浮かんで見える程に、首を傾げて呆然とする紫さん。そこで、豊姫さんと会食した時に酔い止めも兼ねて頂いたものだと私は説明した。すると、紫さんは合点がいったように頷く。
「つまり、その薬を飲めば暫くは人間でいられるのね。私は、月人にもその関係者にも頼りたくなかった。けれど、明香は豊姫と取引を交わして、自らが望むものを引き出した」
「いや、お酒を飲み過ぎて豊姫さんを心配させただけなのですけれど」
「結果良ければ全て良しよ」
紫さんは、パチパチと両手で拍手して満足げな笑みを浮かべている。
「合格よ。明香は優秀ね」
「不合格ならどうなったのですか?」
「勿論、明香が化物になってしまうのを胸を痛めながら見守るわ。最期の瞬間まで側にいて看取ってあげましょう」
「残酷ですね」
「まさか。これ以上に心を砕く事などありませんわ」
紫さんは、横になって寝室の天井をぼうっと見つめる。やがて、彼女は何処か安堵したような、上の空な様子でぽつぽつと言葉を漏らした。
「ゆっくりしたいわ。雑事は藍に任せて、一日中布団に包まって過ごすの」
「普段通りじゃないですか」
「それが良いのよ。普段通り、素敵な日々よ」
普段通り。紫さんのその言葉には、全てが移ろう浮世の大河に、沈められた碇のような重みが感じられた。
「明香にも付き合ってもらうわ。先ずは、寝起きにコーヒーを淹れて頂戴。細挽きにしたコーヒー豆があるの。部屋中に仄かに香るぐらいの芳香と、目が適度に醒めるぐらいの苦味があって、ブラックで飲むと美味しいのよ」
「紫さんが起床するのは──」
「昼よ。だから、昼食も一緒にしましょう」
紫さんは、彼女の普段通りの日々に、私を組み込んだスケジュールを語り続けた。彼女らしくない冗長で網羅的な語りであったが、そこからは日常を手放さない彼女の執念を感じられる。
「紫さんが、一日の半分も眠りこけていなければ、もっと一緒に居られますけどね」
「それなら、明香も一緒に眠りましょう。気持ち良いわよ」
「流石に半日も寝てられませんよ。途中で目が覚めます」
「何度も目覚めたり眠ったりを繰り返して、二度寝、三度寝するの。すると、次第に眠りが浅くなって、夢が良く見れる」
「贅沢な夢の見方ですねえ」
私は、紫さんを羨ましく思いながら林檎の皮剥きを再開した。ちらちらと、襖や障子の隙間から昼下がりの日差しが差し込んできていて、紫さんは心地良さそうな欠伸をしている。
「日が差すと、眠くなるわね」
「どうぞ。全部剥きましたよ」
「あら、ありがとう」
皮を剥き終えた林檎を小皿に載せて紫さんに差し出し、私は果物ナイフをしまった。シャリシャリと音をたてながら咀嚼された林檎は、あっという間に皿の上から姿を消して、微かな香りだけを残す。
「甘酸っぱいわね」
「噛み分けてくださいな」
「世知辛いわねえ」
にっこりした表情で、紫さんは布団の上でゴロリと寝返りを打ち、そのまま眠りについた。寝床を奪われた私は、手持ち無沙汰に座り込むしかなかったが、そのうち卓に寄りかかって突っ伏す。
「眠いなあ……」
目を瞑ると、残光が瞼の裏で明滅していた。紫さんの微かな寝息と、良い香りが更に眠気を誘う。遠くからは鳥の囀りが聞こえてきて、肌は陽射しの温もりを伝えてくる。
「昼寝日和だねえ」
ぽつりと呟いて、私もそのまま微睡んだ。なんとも贅沢な、夢の見方である。叶うならばどうか、一時でも永く穏やかな日々が続きますようにと、私は心中で磐永阿梨夜さんに願っていた。
私が、ではなく、この日々が
変わらずありますようにと。
fin. 2026/03/21