「相談があるそうなんです」
アズール・アーシェングロットの言葉に、イデア・シュラウドが頷いてやる道理はなかったし、本当のところは頷くつもりもなかった。けれどこうしてイデアがよりにもよってモストロ・ラウンジまで来ているのは、まあ一つには相談と言うほどのものでなくていいという
昼夜の開業時間の隙間を縫うようにモストロ・ラウンジに訪れたイデアを迎えたのは、アズールではなかった。いらっしゃい、と音声ベース言語に魔力の乗った人魚特有の声。フロイド・リーチの
両手に抱えたタブレット。オーバーサイズのパーカー。デザインよりも履き心地と手軽さを優先しただろうことのよく分かるスニーカー。温度なく燃えるあの髪が隠れると十把一絡げのイグニハイド生の一人にしか見えないな、とフロイド・リーチは思った。
動いたかも分からないような僅かな頷きにも、細く途切れがちで独り言なのか話しかけているのかも分からないような呟きにも、落ち着きなく辺りを見回して肩を跳ねさせることにも、フロイドは努めて何も言わなかった。深々と被ったパーカーのフードは
イデア・シュラウドが呪文もなしに喚び出した広口瓶の中身は歴然だった。巣蜜の特徴的な構造と、菫や薔薇、それに錬金術で使うような魔法植物の花々。それらが一緒くたにボルドー・レッドに沈んでいる。天界山の麓で
「話すには話すけど、吞まなきゃやってらんないから」
というのがイデアの主張だった。
きっと、イデアはイデアで心の淵のところぎりぎりにいるのだろうとは思う。兄に輪をかけて、オルト・シュラウドからは
いくらモストロ・ラウンジでも海産物ばかりがメニューというわけではない。フロイドが運んできたのはカルパッチョではなく生ハムだったし、ちょうどキッチンで仕込みの最中だった今日のスープは南瓜のポタージュであって海老のビスクではない。グラスを二つと大皿二枚分の前菜。
「ま、いつものよく分かんねえ菓子よりかマシでしょ」
「あれはあれで企業努力の結晶ですが……」
正面の二人がけソファに座った後輩に反射的に言い返して、イデアはグラスにワインを注いだ。縁を二度叩いて水魔法。イデアの好き嫌いに合わせたのか、魚の類いは
フロイドは自分のグラスに並々と赤色を注ぐと一息に飲み干した。イデアが口を挟む間もなかった。
「あっま。なにこれ。ホタルイカ先輩舌も馬鹿なの?」
酷い話だ、とイデアは思った。
「ちょ、それ水で半分より薄いくらいにするものなの!え、拙者の所為?」
「たぶんそう。どちらかと言えばそう」
頬を膨らまして言った後輩の機嫌は恐れていたほどには落ちなかったようだ。イデアはフロイドのグラスの四半分まで
「そっかー。ごめんね。……このくらいかな。言っちゃえばサングリアみたいなものだから炭酸水でも美味しいよ」
フロイドは頷いた。サングリアならばモストロ・ラウンジでも提供している。花々を沈めて香りをつけ、巣ごと切り出したたっぷりの蜂蜜で甘味を補うのは、確かにフルーツを漬け込むのと同じようなものだ。
「ふーん。天界山のワインって渋いし酸っぱいしで飲めたもんじゃねーと思ってたけど、カクテル用なの?」
イデアは驚いて琥珀金をぱちぱち瞬かせた。イデア・シュラウドは蜂蜜を加えないでワインを飲んだことがない。
「うん。
何かないのかとばかりのフロイドの視線を受けて、イデアは続けた。
「変わりどころだと《オケアノス》だったかな、白岩諸島の……頂の島のワイン工房なんだけど、そこのワインは人魚向けの展開もしてるとかなんとか」
大陸部ならばいざ知らず、諸島にはワインに僅か海水を垂らす習慣のあるものも多い。菓子にほんの少しばかり塩を加えて甘味を引き立てるのと同様に、それも元は甘いワインを求めてのことだった。中でも
「それで?」
できるだけフロイドを見ないようにしながら、男が言った。
「……兄弟と番うってどんな感じ?」
二十秒も前に手に取ったはずのオリーブとクリームチーズのカナッペを無傷で手にしたまま、フロイドはそう聞いた。陸に上がったフロイドはαだった。
もっと沢山の兄弟がいた頃、ジェイドがフロイドを選んだあの日には想像もしなかったけれど、フロイドは頑強で、覚えが早く、守護する側に当たるのだそうだ。
フロイド・リーチは、雌の人魚だ。きっと卵を産むのだと思っていた。陸に上がってα性の
靭の
「……しあわせ、だったよ」
絞り出すような声に、フロイドは気が付かないふりをした。傷口を広げるばかりだと分かっていたからだ。
「結婚云々は場所にもよるけど、医療機関から形質相性証明書出れば大抵の国は認める。熱砂は駄目だけどまああそこは国教があるからね……」
イデアはチーズを口中でもむもむ弄びながら続けた。行儀の悪さは今更だ。
「フロイド氏も分かるでしょ。分化が早いってことはそれだけ一緒に居るってことだ」
卵生の
少なくとも人間において、通常形質が確定するのはおおよそ中等教育の間になる。イデア・シュラウドの分化はティーンにもならないうちのことだった。彼はきちんと覚えている。年子の兄と同時に形質に目覚めたオルト・シュラウドの、精通にも至らない未成熟な体は明らかに、不安定な発情を持て余していた。半ば仕組まれていたことは否定しない。それでも、常に隣に
「だから、合意が取れてて中長期で離れるつもりがないならさっさと結婚しちゃえばいいと思います、ハイ」
イデア・シュラウドはαだ。それも、「
「ケッコンの話じゃねえんだよ、分かって言ってるでしょ」
人魚は恋に生きるものだけれど、だからこそ結婚にはさして重きを置かないものも多い。書類の上の話なら、
イデア・シュラウドが、琥珀金を細めてフロイドを見た。フロイドの覚悟を問うように。あるいはもっと直裁に、過去の愚かな自分と同じ金の色をした、フロイドの片目を、地下の富の色をして彼はじっと見つめている。
「やめときなよ、パートナーなんてつくるもんじゃない」
それは、イデアにとって絶対に譲れない主張だった。二人が別の肉を持つ生き物である以上、いつかは終わりが来る。いつか終わりが来て、きっと不幸になる。イデア・シュラウドはそのことをよく知っている。誰よりも、よく知っている。
イデアは、ほんの七、八年前のことを思い返していた。恒常性が絶ち消え匂いの捩れ歪んでいく
「ωが死ぬんじゃない。αが死なない──死ねないだけ」
不満を隠そうとしないフロイドに、イデアはそう言った。
ω形質者がパートナーの手を離すのは、死ぬときだけだ。αの方が手を離すのも、ほとんどは死ぬときである。パートナーを亡くした、あるいは接触を断たれたωはあらゆる身体機能が低下し遠からず死に至るが、半身のフェロモンに触れられなくなることで分泌系に致命的な影響を被るのはαもωも同じことだった。ただ、αがωと違うのは。
「αは頑丈なんだ。どうしようもなく」
自死さえ選べないほどに憔悴してなお、最低限の栄養剤と清拭で生き残れてしまうくらいに、α形質者は頑健だ。骨と皮ばかりで薄っぺらい身体の、魔力がなければとうに入院しているだろうイデア・シュラウドでさえ、そうだった。
「あのさ、フェロモンとか言ってるけど要はドラッグだよ、ドラッグ。しかも離脱症状ありあり、
そう言いながらイデアはこれ見よがしにワインの入ったグラスを叩く。「シュラウド」は嘆きの島の管理者であり、外交官であり、また聖職者であるが、数千年ものの先祖返りであるイデアでさえ自発的な交神を試みるには薬の力が必要だった。
ニコチン、アルコール、カンナビス、オピウム。幻覚や酩酊の効果をもたらすのは麻薬や魔法植物だけではない。なんの変哲もない香草の組み合わせが薬効を持つこともある。この
それでも、イデア・シュラウドは
フロイド・リーチは雌で、αだ。
ジェイド・リーチは雄で、ωだ。
フロイドが卵を産んで、ジェイドが子を孕む。それに必ずしも
「……でも、ホタルイカ先輩はクリオネちゃんと番ったんでしょ」
結局のところ、フロイドが聞きたいのはそこだ。なぜ
「馬鹿だったからだよ」
思い出話でもしようか、というイデアの言葉に、フロイドは頷いた。
「話せるとこだけでいいよ」
「あー、うん。ありがとね。でもまあもう割と平気なんで」
「七年も前の話だし」
「僕は、思い出せる限りずっとオルトと同じ部屋にいた。嘆きの島じゃ、大体のαとωはそうやって育つんだ」
十二月の半ばに生まれた少年がイデア・シュラウドと名付けられて、八月の後にはもう次の子が生まれた。彼は当然のことながら所謂未熟児で、暫くは保育器の中で暮らしていた。
シュラウド一族は「嘆きの島」の管理者であるが、この場合の管理者とは
嘆きの島は、神代より残る非人格的なシステムによって統治されている。
遙かな、少なくとも三千年は昔に、
イデアとオルトは、《ピュティア》の導きに従って一つの寝室で育てられた。直接触れ合うような相手は他に生粋β*3の男が数人ばかりで、後は全てが画面越しだった。固定指向性フェロモン*4の形成には、最低でも道ですれ違う程度の関係性が必要だが、イデア・シュラウドにとってはその程度の関係すら、
接触する形質者が一人きりであれば自然の道理としてその人は「運命」となる。一つ屋根の下など非常に近しいところに「運命」がいれば形質の発現は通常よりも遙かに早くなりうる。互いに「運命」でありさえすれば、未だ形質の発現しない子供がこれまた未分化の子供の項に噛み付くのを契機にして分化と「生涯の番」の契約が同時に成ることもある。
イデア・シュラウドがその鋭い牙を弟の首筋に沈めたのは嘆きの島でも一際早く、彼らが未だ九つと八つの頃だった。
「好きだよ、オルト」
イデアは毎夜囁いた。恋と愛とを弁別する前に、彼は
この可愛らしい
幸いにも体の弱い
子供が学習に励むのは、成人の労働日と同じように基本的には日に六時間(休憩含む)、週に四日と決まっていた*5が、イデア・シュラウドはそれで満足しようとしなかった。オルト・シュラウドの支給端末に娯楽小説を入れさせて、オルトがそのあらすじと感想を言う間に兄の方は技術書理学書の類を読み漁った。七割くらいは単にそれがイデアにとって一番楽しかったからで、残りのうち半分は成果を自慢されたオルトが我がことのように喜ぶから。漠然ながらもう半分は、《ピュティア》への危惧だった。
「ずっと一緒にいようね、オルト」
「うん、兄さん。約束だよ」
イデアとオルトは《ピュティア》によって引き合わされ、番うよう誘導された。であれば《ピュティア》がそう判断した日には、イデアは大事な大事なオルトと引き離されてしまうかもしれない。そうなったときに気付いて逃げられるよう、イデア・シュラウドは
イデアたちは、《ピュティア》は人知及ばぬ完全なシステムなのだと教わってきた。イデアの手足の及ぶ全てに絶対者として君臨する
「……どうして?」
母がそう呟いたとき、オルト・シュラウドだった灰はとっくに、残らず島の地下に流れる境界の河に流され終わっていた。喪失に心を殴られたばかりのイデアの耳に、母の言葉はよく染みこんだ。
「どうして、せめて後五年、待ってくれなかったの?」
イデアは、聡明な子供だった。他人の心も自分の心も分かろうとしない子供だったけれど、それが純粋な利害の問題であるときなら話は別だった(それはそれとして理解はしても共感も解決もしないのも、常のことだった)。だから、その五年という年月の意味が、決して前期中等教育の卒業とか、そういう意味ではないことを、イデア・シュラウドは理解してしまった。
オルト・シュラウドは、終ぞ
そこから一年もあれば、
だからあと五年あればきっと、イデアには子供がいた。この手で抱けたかどうかは《ピュティア》次第にしろ、イデアが
「こども、なんて」
その夜、少年一人分には広すぎるベッドの上でイデアは吐き捨てた。部屋にはまだ、弟の匂いが染みついていた。イデアにとって、そしてイデアだけにとって、世界で一番効きのいい
「僕にはオルトさえいれば、それでよかったのに……」
それなのに、オルト・シュラウドは憎悪の河の向こう側に行ってしまった。
イデア・シュラウドが部屋の外へ出るのを拒絶するようになるまで、その夜から一週間と掛からなかった。失われた番の
イデア・シュラウドの記憶は、ここで一端途切れている。
次の記憶は、おおよそ三ヶ月後。医療機関の病床に寝かされているところから始まる。記録によれば、最初の二週間は散発的に暴れていたものの、その後は全くの無気力状態だったらしい。辛うじて自己と呼べるだけの意識を取り戻した後のイデア自身の感覚とも一致する。
起きていても寝ているのと変わらないどころか、夢を見るだけ寝ているときの方が活動的と言ってもいい有様だったイデアが、もう一度意図して外部の情報を得ようとするまで二週間はかかった。まともに会話が成立することは二度とないのではないかとまで、医師は言った。けれど《ピュティア》が治療の続行を指示するので、彼らも従わざるを得なかった。
控えめに言って地獄を見た。吐くわ幻覚は見るわ眠れないわ何もないのに気分は乱高下するわ体中骨は痛むし頭痛は止まないし極めつけにオルトはいないし。一晩中幻覚見て泣き叫んで馬鹿になった頭で「オルトは?」なんて聞いて現実突きつけられてショックで胃液吐いたりもした。片手の指で収まるか分からないくらいした。流石に
イデア・シュラウドが、元のように話すことは、医師たちの言うように二度となかった。外界の全てに怯え、とうに彼岸に渡った弟の魂がそこにあるように話した。外敵に相対したαの常として、いつも相手を威嚇し上位に立とうとした。しかし驚くべきことに、最低限の気力が回復した後も彼は身を投げようとはしなかった。彼の、魔導の技術に対する才覚は、むしろ益々先鋭化したようだった。
「管理者、エンジニア、なんでもいいけど。それが役目だって言うならやってあげるよ」
イデア・シュラウドは、システム管理者としてのシュラウドを継ぐと宣言した。《ピュティア》が追認したことで、それは完全に定まった進路となる。
イデアには、一つ確信していることがある。
「人につくれないものはない。きっと、このシステムだって」
神からの恩恵は、それが予言の産物である以上、いつか時代に置いていかれる日が来る。ただ時代遅れの遺物に成り果てる日が。
イデア・シュラウドの髪は、あの日から青く燃えている。いつかの過去に
それがお節介などこかの神の
光神の見たものを、きっと追い越して見せる。半世紀前まではどうやって動いている根本の原理からして分からなかったが、今と、そして半世紀後なら。イデアにとって《ピュティア》は天の星ではなく空の月くらいの距離感になっていた。つまりコスト度外視なら現実的な時間で辿り着ける場所に。
「回復しきらないで何年も入院させられたり終了処分になったりしてるα、いっぱいいるよ。ωでもうっかり生き延びて地獄見てる例もあるし。言っとくけど一般にフェロモン相性いいほど離脱は酷いからね」
オルトがあんな目に遭うかもしれなかったって知ってたら絶対噛んでない、とまで言い切った
「オレが苦しむ分にはまあ自業自得にしても、ジェイドが痛いのはやだ……」
人間雌の排卵システムの欠陥性を初めて痛感した去年の冬を思い出した(それまでは諸々軽かったが何故かその月だけやたらに痛んだ)。あれを劇症化させたようなものが最低でも数時間、出産時には伴うと聞いて「人間ってよく滅びないね?」と思ったことは記憶に新しい。それでもジェイドの子供なら産んでもいいと思った理由には、痛みに終わりがあるということが入っていたらしい。フロイドも今知った。
うん、とイデアは頷いて言った。
「そうしなくちゃ『今』狂ってしまうんでもなければ、
掛け値なく、それはイデアの本心だった。こう言うイデアとて、別段正気なわけではない。彼が窓の割れない病室に入れられていない理由が何かあるとすれば、自身の狂気に自覚的だということくらいだろう。それと、フェロモンの化学合成にまだ手を出していないことか。
彼が
それでも彼は、イデアが「
「飲みなよ」
今夜はともかく明日にはジェイド氏と話し合える程度でいいからさ。そう言ってフロイドの空のグラスに酒と水を注ぐ。魔力たっぷりのそれは、アルコール度数からすれば在り得ないくらいによく酔える。にや、と眼前の女が肉食の牙を剥き出して笑った。
「ん。ホタルイカ先輩がジェイドに妬かれないくらいに抑えるね」
「それはマジでお願いしますぞフロイド氏」
たぶん、というか考えるまでも無い話だけれど。フロイド・リーチを妻として見れる地上の男はまずいない。そりゃおっぱいは大きいけど、二メートル近い
イデアがじっと自分のことを見つめていることに気がついて、フロイドは目を瞬かせた。イデアの瞳は、珍しいことに金よりも蜂蜜の色に近く見えた。
「どしたのホタルイカ先輩」
「……や、お幸せにと思って」
「言われなくても幸せになるつもりだけど?あ、結婚式やるならたぶん呼吸薬配って海ん中な気ぃすっからクリオネちゃん泳げるようにしといてね」
「りょりょ。……卒業後だよね?」
「どーだろ」
「卒業後のつもりで造るからね?頼むよ?」
「考えとく。はい、ポテサラ美味いよ」
「うん……ポテサラってかタラモねタラモ。ん、このオリーブ美味しい。どこのだろ」