市民(ἐλεύθερος)、幸福は義務です。あなたにはこんなに素晴らしいパートナーが居るのですから。不可視なる方(ビッグ・ブラザー)はあなたを見ています。管理主義とオメガバースってそこそこ相性よさそうだなと思ったのでオメガバ時空イデオル(年子)と近未来風管理社会嘆きの島。※イデオル(α♂×ω♂)かつフロジェフロ(α♀とω♂の同軸リバ(出産的な意味で))世界線※フロイド女体化(α♀)※ツイステ受動喫煙※pixivにも投稿

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アルファ・コンプレックス

「相談があるそうなんです」

 アズール・アーシェングロットの言葉に、イデア・シュラウドが頷いてやる道理はなかったし、本当のところは頷くつもりもなかった。けれどこうしてイデアがよりにもよってモストロ・ラウンジまで来ているのは、まあ一つには相談と言うほどのものでなくていいという支配人(部活の後輩)の言葉もあるにせよ、相談者の、年のほど近いα性とω性の兄弟というのが、いつかのイデアに重なったからだ。その後輩が自分よりは苦しまないといいと願える程度には、イデア・シュラウドの人間性も磨り減っていない。

 

 昼夜の開業時間の隙間を縫うようにモストロ・ラウンジに訪れたイデアを迎えたのは、アズールではなかった。いらっしゃい、と音声ベース言語に魔力の乗った人魚特有の声。フロイド・リーチの(ほむら)は今日のこの日も孔雀石色(マラカイト・グリーン)に燃えている。

 

 両手に抱えたタブレット。オーバーサイズのパーカー。デザインよりも履き心地と手軽さを優先しただろうことのよく分かるスニーカー。温度なく燃えるあの髪が隠れると十把一絡げのイグニハイド生の一人にしか見えないな、とフロイド・リーチは思った。イグニハイド寮長(ホタルイカ先輩)は相談相手には向かない人間だ。それはフロイドだって知っている。それでもフロイドの知る限りにおいて、先人にあたるのはイデア・シュラウド一人だけなのだ。弟を、兄弟を自身の生涯の番(パートナー)として認めさせたα形質者は。

 

 動いたかも分からないような僅かな頷きにも、細く途切れがちで独り言なのか話しかけているのかも分からないような呟きにも、落ち着きなく辺りを見回して肩を跳ねさせることにも、フロイドは努めて何も言わなかった。深々と被ったパーカーのフードは個室(VIPルーム)に入ってからようやく上げられ、彼の弟(クリオネちゃん)に似た鮮やかな青が溢れる。

 

 イデア・シュラウドが呪文もなしに喚び出した広口瓶の中身は歴然だった。巣蜜の特徴的な構造と、菫や薔薇、それに錬金術で使うような魔法植物の花々。それらが一緒くたにボルドー・レッドに沈んでいる。天界山の麓で花蜜酒(ネクタル)と呼ばれる酒だった。

「話すには話すけど、吞まなきゃやってらんないから」

 というのがイデアの主張だった。この人(ホタルイカ先輩)素面でも腹立つ言い方しかしないのにオレのこと怒らせたいのかな、と頭に過ぎったフロイドは三回深呼吸をしてから「俺食いもん取ってくっから話整理しといて」と言い捨てて、二人分のグラスと軽食を取りにキッチンに向かった。パスタくらいなら作ってやるつもりだったけど気が変わった。

 

 きっと、イデアはイデアで心の淵のところぎりぎりにいるのだろうとは思う。兄に輪をかけて、オルト・シュラウドからは(ω形質)の匂いがしない。素面で喪失と断絶を語れるほどの浅い傷なら、フロイドがオルトに出会うことはなかったはずだ。

 

 いくらモストロ・ラウンジでも海産物ばかりがメニューというわけではない。フロイドが運んできたのはカルパッチョではなく生ハムだったし、ちょうどキッチンで仕込みの最中だった今日のスープは南瓜のポタージュであって海老のビスクではない。グラスを二つと大皿二枚分の前菜。

「ま、いつものよく分かんねえ菓子よりかマシでしょ」

「あれはあれで企業努力の結晶ですが……」

 正面の二人がけソファに座った後輩に反射的に言い返して、イデアはグラスにワインを注いだ。縁を二度叩いて水魔法。イデアの好き嫌いに合わせたのか、魚の類いは魚卵入りポテトサラダ(タラモサラタ)のカラスミくらいで、そのほかも輝石の国や水晶の氷原の料理が主軸のモストロ・ラウンジでは珍しく天界山の麓やその隣熱砂の国北西部のメニューが多いように思える。

 

 フロイドは自分のグラスに並々と赤色を注ぐと一息に飲み干した。イデアが口を挟む間もなかった。

「あっま。なにこれ。ホタルイカ先輩舌も馬鹿なの?」

 酷い話だ、とイデアは思った。天界山の麓(イデアの地元)ではワインは水で割るもので、この花蜜酒(ネクタル)も3:2で水を混ぜるのを前提に計量している。それをそのまま飲むとなったらそりゃあ甘ったるいに違いない。

「ちょ、それ水で半分より薄いくらいにするものなの!え、拙者の所為?」

「たぶんそう。どちらかと言えばそう」

 頬を膨らまして言った後輩の機嫌は恐れていたほどには落ちなかったようだ。イデアはフロイドのグラスの四半分まで花蜜酒(ネクタル)を注ぎ、単純な水生成の魔法を使う。

「そっかー。ごめんね。……このくらいかな。言っちゃえばサングリアみたいなものだから炭酸水でも美味しいよ」

 フロイドは頷いた。サングリアならばモストロ・ラウンジでも提供している。花々を沈めて香りをつけ、巣ごと切り出したたっぷりの蜂蜜で甘味を補うのは、確かにフルーツを漬け込むのと同じようなものだ。天界山(オリュンポス)の麓のワインと言うとあまりいい評判は聞かないが、ワインではなく甘めのカクテルだと思えばこの花蜜酒(ネクタル)はフロイドの舌にも美味であった。

「ふーん。天界山のワインって渋いし酸っぱいしで飲めたもんじゃねーと思ってたけど、カクテル用なの?」

 イデアは驚いて琥珀金をぱちぱち瞬かせた。イデア・シュラウドは蜂蜜を加えないでワインを飲んだことがない。 花蜜酒(ネクタル)とは神酒(ネクタル)であり*1、シュラウド、すなわち父祖たる不可視なる方(アイデース)の祭祀者たちは皆魔力を多量に含む花蜜酒をこそワインと呼ぶ。それだから、イデアにはこれがカクテルだという認識がなかったのだ。

「うん。天界山の麓(あっち)のは基本水で薄めたり蜂蜜入れたりを前提に造ってるから、そのまま飲むのはお勧めしないかな。蛮族飲み(そのまま)前提のお酒も売ってはいるけどあんまり多くないから……」

 何かないのかとばかりのフロイドの視線を受けて、イデアは続けた。

「変わりどころだと《オケアノス》だったかな、白岩諸島の……頂の島のワイン工房なんだけど、そこのワインは人魚向けの展開もしてるとかなんとか」

 大陸部ならばいざ知らず、諸島にはワインに僅か海水を垂らす習慣のあるものも多い。菓子にほんの少しばかり塩を加えて甘味を引き立てるのと同様に、それも元は甘いワインを求めてのことだった。中でも荒波の君(ポセイドン)を主祭神に掲げる頂の島ではかの神、またその子たる海王(トリトン)海の魔女(アースラ)に捧げるものとして海中で飲むためのワインを開発・製造する酒造がある。

 

 

「それで?」

 できるだけフロイドを見ないようにしながら、男が言った。明かり(ライティング)の不十分なケースの中で鎮座する黄金に、イデアの瞳は似ている。鬱屈と諦観とで満ちた金の杯を上から見たらこんな風だろうと思う。

 

「……兄弟と番うってどんな感じ?」

 二十秒も前に手に取ったはずのオリーブとクリームチーズのカナッペを無傷で手にしたまま、フロイドはそう聞いた。陸に上がったフロイドはαだった。兄弟(ジェイド・リーチ)は、ωだった。

 もっと沢山の兄弟がいた頃、ジェイドがフロイドを選んだあの日には想像もしなかったけれど、フロイドは頑強で、覚えが早く、守護する側に当たるのだそうだ。

 

 フロイド・リーチは、雌の人魚だ。きっと卵を産むのだと思っていた。陸に上がってα性の形質(ダイナミクス)を与えられるまでは、いつか来る未来としてそれを信じきっていた。

 

 靭の全身種(メロウ)は蛸ほど少ないわけではないが、半身種人魚(マーメイド)のように多くもない。卵生の人魚は兄弟で子を成すことも珍しくないし、ジェイド・リーチは互いに選り取り見取りの兄弟の中からフロイドを片割れに選んだ。けれど、生涯の番(αとω)となれば話は別なのだと、フロイドでさえ知っている。

 

「……しあわせ、だったよ」

 絞り出すような声に、フロイドは気が付かないふりをした。傷口を広げるばかりだと分かっていたからだ。

「結婚云々は場所にもよるけど、医療機関から形質相性証明書出れば大抵の国は認める。熱砂は駄目だけどまああそこは国教があるからね……」

 イデアはチーズを口中でもむもむ弄びながら続けた。行儀の悪さは今更だ。

 

「フロイド氏も分かるでしょ。分化が早いってことはそれだけ一緒に居るってことだ」

 卵生の人魚(メロウ)に本来、形質(ダイナミクス)はない。変身薬を服用して訓練所に赴き、陸に上がってこの学校に通い、一年も経たない頃の話だ。陸に居付いても生涯形質発現の起きないこともある人魚としては、リーチ兄弟の分化は異様に早かった。その理由を、アズール・アーシェングロットはおおよそ知っている。極度に近しい二人がαとωの形質をそれぞれ発現する例があることを、彼らが所謂「運命の」パートナーであることを。部活の先輩(イデア・シュラウド)が、まさにそのような例だったからだ。

 

 少なくとも人間において、通常形質が確定するのはおおよそ中等教育の間になる。イデア・シュラウドの分化はティーンにもならないうちのことだった。彼はきちんと覚えている。年子の兄と同時に形質に目覚めたオルト・シュラウドの、精通にも至らない未成熟な体は明らかに、不安定な発情を持て余していた。半ば仕組まれていたことは否定しない。それでも、常に隣に生涯の番(パートナー)が居るというのはそれだけで、何にも勝る幸福になる。

 

「だから、合意が取れてて中長期で離れるつもりがないならさっさと結婚しちゃえばいいと思います、ハイ」

 イデア・シュラウドはαだ。それも、「生涯の番(パートナー)」のいる。あの無臭の少年、オルト・シュラウドがω性をおそらく失っても、イデアは彼を手放さなかったのだと、フロイド・リーチは知っている。

 

「ケッコンの話じゃねえんだよ、分かって言ってるでしょ」

 人魚は恋に生きるものだけれど、だからこそ結婚にはさして重きを置かないものも多い。書類の上の話なら、その道の専門家(アズールの義父)に聞けばいい。フロイドが聞きたいのは、αの話だ。重力に囚われた陸の上で、肉体の匂いに呪われた、αとωの話だ。

 

 イデア・シュラウドが、琥珀金を細めてフロイドを見た。フロイドの覚悟を問うように。あるいはもっと直裁に、過去の愚かな自分と同じ金の色をした、フロイドの片目を、地下の富の色をして彼はじっと見つめている。

「やめときなよ、パートナーなんてつくるもんじゃない」

 それは、イデアにとって絶対に譲れない主張だった。二人が別の肉を持つ生き物である以上、いつかは終わりが来る。いつか終わりが来て、きっと不幸になる。イデア・シュラウドはそのことをよく知っている。誰よりも、よく知っている。

 

 イデアは、ほんの七、八年前のことを思い返していた。恒常性が絶ち消え匂いの捩れ歪んでいく番ったω(オルト・シュラウド)の肉体の冷たさ。奈落の底で凍りついて動かなくなった自分の情動。ベッドに縛り付けられていた切れ切れの記憶を。

 

「ωが死ぬんじゃない。αが死なない──死ねないだけ」

 不満を隠そうとしないフロイドに、イデアはそう言った。

 ω形質者がパートナーの手を離すのは、死ぬときだけだ。αの方が手を離すのも、ほとんどは死ぬときである。パートナーを亡くした、あるいは接触を断たれたωはあらゆる身体機能が低下し遠からず死に至るが、半身のフェロモンに触れられなくなることで分泌系に致命的な影響を被るのはαもωも同じことだった。ただ、αがωと違うのは。

「αは頑丈なんだ。どうしようもなく」

 自死さえ選べないほどに憔悴してなお、最低限の栄養剤と清拭で生き残れてしまうくらいに、α形質者は頑健だ。骨と皮ばかりで薄っぺらい身体の、魔力がなければとうに入院しているだろうイデア・シュラウドでさえ、そうだった。

 

「あのさ、フェロモンとか言ってるけど要はドラッグだよ、ドラッグ。しかも離脱症状ありあり、ω(ジェイド氏)は死ぬしα(フロイド氏)は死んだ方がマシだけど無気力天元突破して首も吊れないとこまで行くし、人物由来だからまず()()()は来るし」

 そう言いながらイデアはこれ見よがしにワインの入ったグラスを叩く。「シュラウド」は嘆きの島の管理者であり、外交官であり、また聖職者であるが、数千年ものの先祖返りであるイデアでさえ自発的な交神を試みるには薬の力が必要だった。

 ニコチン、アルコール、カンナビス、オピウム。幻覚や酩酊の効果をもたらすのは麻薬や魔法植物だけではない。なんの変哲もない香草の組み合わせが薬効を持つこともある。この花蜜酒(ネクタル)だってアルコール濃度は低くとも魔力濃度は一品級で、魔法士が酔うには不自由しない。そういったものに、骸布の子(シュラウド)は三つの頃から親しんできた。

 

 それでも、イデア・シュラウドは(パートナー)の体香よりも強力な陶酔薬を知らない。あれより強力な離脱症状も。

 

 フロイド・リーチは雌で、αだ。

 ジェイド・リーチは雄で、ωだ。

 フロイドが卵を産んで、ジェイドが子を孕む。それに必ずしも受容フェロモン固定化(番の契約)は必要ない。結婚と同じくらい必要はない。そんなものがなくてもωは孕み、雌は卵を産む。それは、イデアとオルトでも変わりない筈だ。

「……でも、ホタルイカ先輩はクリオネちゃんと番ったんでしょ」

 結局のところ、フロイドが聞きたいのはそこだ。なぜイデア・シュラウド(ホタルイカ先輩)オルト・シュラウド(クリオネちゃん)の項を噛むに至ったのか。地上の誰よりも死に近しいところに生まれた筈の男たちがどうして、と。フロイドはそこが知りたくて、散々苛立ちを飲み込んでいるのだった。

 

「馬鹿だったからだよ」

 α(イデア)が馬鹿だったから。(イデア)が考えなしだったから。いつか来る終わりを想像しようともしなかったから。

 

 思い出話でもしようか、というイデアの言葉に、フロイドは頷いた。

「話せるとこだけでいいよ」

「あー、うん。ありがとね。でもまあもう割と平気なんで」

「七年も前の話だし」

「僕は、思い出せる限りずっとオルトと同じ部屋にいた。嘆きの島じゃ、大体のαとωはそうやって育つんだ」

 

───***───

 

 十二月の半ばに生まれた少年がイデア・シュラウドと名付けられて、八月の後にはもう次の子が生まれた。彼は当然のことながら所謂未熟児で、暫くは保育器の中で暮らしていた。糸杉の血統(シュラウド)でなけれ彼に、オルトと名が付く日は来なかったかもしれない。

 

 シュラウド一族は「嘆きの島」の管理者であるが、この場合の管理者とは管理職(王侯貴族)のことではなくてシステム・アドミニストレータのことを指すので、彼らは為政者ではなかった。

 

 嘆きの島は、神代より残る非人格的なシステムによって統治されている。

 

 遙かな、少なくとも三千年は昔に、遠矢の君(ヘカエルゴス)は一つの技術体系を予言した。それはおよそ文明の光明の最たるものであったから、まさしく銀の弓引くアポローンの領域にあるものだ。輝ける方(ボイポス)の予言する未来の技術を喜んで受け入れる神々は少ないが、その少ない内の筆頭と言っていいのが、他ならぬ悲嘆の王(ハデス)であった。彼は冥界に機械的な管理システムを導入し、また嘆きの島にある自身の神殿にも()()を下賜した。

 

 巫女(ピュティア)の名を冠するシステムが、正しく働き続けるように。主には機材(ハード)の面倒を見るのが、シュラウドの役割の第二だった*2。極々稀に新機能の追加が検討されることもあるが、今に至るまでその全てで、方針が固まるよりも先に必要な機能を備えたアプリケーション・ソフトウェアが有効化されて人間(シュラウド)の話し合いは無駄に終わっている。

 

 イデアとオルトは、《ピュティア》の導きに従って一つの寝室で育てられた。直接触れ合うような相手は他に生粋β*3の男が数人ばかりで、後は全てが画面越しだった。固定指向性フェロモン*4の形成には、最低でも道ですれ違う程度の関係性が必要だが、イデア・シュラウドにとってはその程度の関係すら、八ヶ月違いの弟(オルト・シュラウド)の他にはあり得ない。

 

 接触する形質者が一人きりであれば自然の道理としてその人は「運命」となる。一つ屋根の下など非常に近しいところに「運命」がいれば形質の発現は通常よりも遙かに早くなりうる。互いに「運命」でありさえすれば、未だ形質の発現しない子供がこれまた未分化の子供の項に噛み付くのを契機にして分化と「生涯の番」の契約が同時に成ることもある。

 イデア・シュラウドがその鋭い牙を弟の首筋に沈めたのは嘆きの島でも一際早く、彼らが未だ九つと八つの頃だった。

 

「好きだよ、オルト」

 イデアは毎夜囁いた。恋と愛とを弁別する前に、彼は家族への親愛(ストルゲー)恋人への情愛(エロース)とを区別する術を失った。オルトが隣りにいるだけでイデアは幸せで、きっとオルトの方も同じだったに違いない。

 この可愛らしい()は、他の誰の目からも離しておかなければいけない。幼いイデアはそう思った。それがオルトから交流の楽しみを奪うことだとは分かっていたけれど、まだ性機能の成熟しないイデアにすればオルトが自分以外と手を繋いだり、あるいは目と目が合うだけでも一大事だ。

 幸いにも体の弱い()は大人しく仕舞われてくれたので、イデアは安心して思う存分、シュラウドの次代にと与えられる知識に溺れることができた。

 

 子供が学習に励むのは、成人の労働日と同じように基本的には日に六時間(休憩含む)、週に四日と決まっていた*5が、イデア・シュラウドはそれで満足しようとしなかった。オルト・シュラウドの支給端末に娯楽小説を入れさせて、オルトがそのあらすじと感想を言う間に兄の方は技術書理学書の類を読み漁った。七割くらいは単にそれがイデアにとって一番楽しかったからで、残りのうち半分は成果を自慢されたオルトが我がことのように喜ぶから。漠然ながらもう半分は、《ピュティア》への危惧だった。

 

「ずっと一緒にいようね、オルト」

「うん、兄さん。約束だよ」

 

 イデアとオルトは《ピュティア》によって引き合わされ、番うよう誘導された。であれば《ピュティア》がそう判断した日には、イデアは大事な大事なオルトと引き離されてしまうかもしれない。そうなったときに気付いて逃げられるよう、イデア・シュラウドはブラックボックス(ピュティア)の中身をばらばらにして暴かねばならない。あるいは、そんなことにならないよう、絶対に機嫌を損ねられないくらいの金の鵞鳥に成らなければ。

 

 イデアたちは、《ピュティア》は人知及ばぬ完全なシステムなのだと教わってきた。イデアの手足の及ぶ全てに絶対者として君臨する()()に人知の及ばぬことは、ひどく恐ろしかった。けれど恐ろしいなりに()()の完全性は信じてもよかった。あの十一歳の夏までは。

 

「……どうして?」

 母がそう呟いたとき、オルト・シュラウドだった灰はとっくに、残らず島の地下に流れる境界の河に流され終わっていた。喪失に心を殴られたばかりのイデアの耳に、母の言葉はよく染みこんだ。

「どうして、せめて後五年、待ってくれなかったの?」

 イデアは、聡明な子供だった。他人の心も自分の心も分かろうとしない子供だったけれど、それが純粋な利害の問題であるときなら話は別だった(それはそれとして理解はしても共感も解決もしないのも、常のことだった)。だから、その五年という年月の意味が、決して前期中等教育の卒業とか、そういう意味ではないことを、イデア・シュラウドは理解してしまった。

 

 オルト・シュラウドは、終ぞ求愛期(ヒート)を迎えることはなかった。あと二年あれば、話は違った筈だ。

 そこから一年もあれば、求愛期(ヒート)は安定したことだろう。生涯の番(パートナー)との間に限っては、求愛期(ヒート)での妊娠率は魔法薬や避妊具に頼らない限り99.98%を超える。

 だからあと五年あればきっと、イデアには子供がいた。この手で抱けたかどうかは《ピュティア》次第にしろ、イデアが世界で二番目(オルト・シュラウドの次)くらいに愛することのできる赤子が、きっといた。無理矢理にでも番わせねばならないくらいに減ってしまった冥神の裔(シュラウド)の、一等新しい世代が、きっと。

 

「こども、なんて」

 その夜、少年一人分には広すぎるベッドの上でイデアは吐き捨てた。部屋にはまだ、弟の匂いが染みついていた。イデアにとって、そしてイデアだけにとって、世界で一番効きのいい陶酔薬(ドラッグ)の成分が。

 

「僕にはオルトさえいれば、それでよかったのに……」

 それなのに、オルト・シュラウドは憎悪の河の向こう側に行ってしまった。α(イデア)を残して、行ってしまった。

 

 イデア・シュラウドが部屋の外へ出るのを拒絶するようになるまで、その夜から一週間と掛からなかった。失われた番の香り(フェロモン)をなんとか再現しようとする少年は、それと前後して食事を摂らなくなった。部屋に踏み入ろうとした者がほとんど暴走状態の魔法で叩き出されるに至って、《ピュティア》は薬剤の散布を行った。天井の散水機(スプリンクラー)から振りまかれた鎮静系魔法薬によって、少年は速やかに眠りに落ちた。

 

 イデア・シュラウドの記憶は、ここで一端途切れている。

 

 次の記憶は、おおよそ三ヶ月後。医療機関の病床に寝かされているところから始まる。記録によれば、最初の二週間は散発的に暴れていたものの、その後は全くの無気力状態だったらしい。辛うじて自己と呼べるだけの意識を取り戻した後のイデア自身の感覚とも一致する。

 

 起きていても寝ているのと変わらないどころか、夢を見るだけ寝ているときの方が活動的と言ってもいい有様だったイデアが、もう一度意図して外部の情報を得ようとするまで二週間はかかった。まともに会話が成立することは二度とないのではないかとまで、医師は言った。けれど《ピュティア》が治療の続行を指示するので、彼らも従わざるを得なかった。

 

 控えめに言って地獄を見た。吐くわ幻覚は見るわ眠れないわ何もないのに気分は乱高下するわ体中骨は痛むし頭痛は止まないし極めつけにオルトはいないし。一晩中幻覚見て泣き叫んで馬鹿になった頭で「オルトは?」なんて聞いて現実突きつけられてショックで胃液吐いたりもした。片手の指で収まるか分からないくらいした。流石に一般的な意味(二進数じゃない方)です念のため。

 

 イデア・シュラウドが、元のように話すことは、医師たちの言うように二度となかった。外界の全てに怯え、とうに彼岸に渡った弟の魂がそこにあるように話した。外敵に相対したαの常として、いつも相手を威嚇し上位に立とうとした。しかし驚くべきことに、最低限の気力が回復した後も彼は身を投げようとはしなかった。彼の、魔導の技術に対する才覚は、むしろ益々先鋭化したようだった。

 

「管理者、エンジニア、なんでもいいけど。それが役目だって言うならやってあげるよ」

 イデア・シュラウドは、システム管理者としてのシュラウドを継ぐと宣言した。《ピュティア》が追認したことで、それは完全に定まった進路となる。

 

 イデアには、一つ確信していることがある。

 

「人につくれないものはない。きっと、このシステムだって」

 神からの恩恵は、それが予言の産物である以上、いつか時代に置いていかれる日が来る。ただ時代遅れの遺物に成り果てる日が。

 

 イデア・シュラウドの髪は、あの日から青く燃えている。いつかの過去に光明の君(ファナイオス)が見たかもしれない、《ピュティア》管理画面のブルーライトの色をして燃えている。

 

 それがお節介などこかの神の祝福(余計なお世話)なのか、碌でもないことを目論んだ人間(地上のもの)に対する監視の目(マーキング)なのか、あるいはただ単に遅れてきた先祖返りなのか、イデアは知らない。そのどれにしたって、イデアがやることに変わりはないからだ。

 

 光神の見たものを、きっと追い越して見せる。半世紀前まではどうやって動いている根本の原理からして分からなかったが、今と、そして半世紀後なら。イデアにとって《ピュティア》は天の星ではなく空の月くらいの距離感になっていた。つまりコスト度外視なら現実的な時間で辿り着ける場所に。

 

───***───

 

「回復しきらないで何年も入院させられたり終了処分になったりしてるα、いっぱいいるよ。ωでもうっかり生き延びて地獄見てる例もあるし。言っとくけど一般にフェロモン相性いいほど離脱は酷いからね」

 オルトがあんな目に遭うかもしれなかったって知ってたら絶対噛んでない、とまで言い切った他寮の先輩(イデア・シュラウド)に、流石のフロイドも「それはちょっとどころじゃなく嫌だな」という顔をした。「終了処分」とかいう実験用の齧歯類でももう少しマシだろう表現に引いている暇もなかった。

 

「オレが苦しむ分にはまあ自業自得にしても、ジェイドが痛いのはやだ……」

 人間雌の排卵システムの欠陥性を初めて痛感した去年の冬を思い出した(それまでは諸々軽かったが何故かその月だけやたらに痛んだ)。あれを劇症化させたようなものが最低でも数時間、出産時には伴うと聞いて「人間ってよく滅びないね?」と思ったことは記憶に新しい。それでもジェイドの子供なら産んでもいいと思った理由には、痛みに終わりがあるということが入っていたらしい。フロイドも今知った。

 

 うん、とイデアは頷いて言った。

「そうしなくちゃ『今』狂ってしまうんでもなければ、生涯の番(パートナー)なんて作るもんじゃないよ」

 掛け値なく、それはイデアの本心だった。こう言うイデアとて、別段正気なわけではない。彼が窓の割れない病室に入れられていない理由が何かあるとすれば、自身の狂気に自覚的だということくらいだろう。それと、フェロモンの化学合成にまだ手を出していないことか。

 

 彼がオルト・シュラウド(自分のパートナー)ではないことくらい、イデアも知っている。そもそもオルトの髪はあんな風に燃えてはいなかった。ああやって元気に駆け回ったりもしなかった。匂いだって全然違う。彼はωではない。イデアの半身(ω)では、ない。大体のところ誰が設計からメンテナンスからやっていると思っているんだ。

 それでも彼は、イデアが「僕の弟(オルト)」と呼ぶと肯定の返事を返すし、フロイドが「クリオネちゃん」と呼ぶのも彼だけだ。

 

「飲みなよ」

 今夜はともかく明日にはジェイド氏と話し合える程度でいいからさ。そう言ってフロイドの空のグラスに酒と水を注ぐ。魔力たっぷりのそれは、アルコール度数からすれば在り得ないくらいによく酔える。にや、と眼前の女が肉食の牙を剥き出して笑った。

「ん。ホタルイカ先輩がジェイドに妬かれないくらいに抑えるね」

「それはマジでお願いしますぞフロイド氏」

 たぶん、というか考えるまでも無い話だけれど。フロイド・リーチを妻として見れる地上の男はまずいない。そりゃおっぱいは大きいけど、二メートル近い(肉食)全身種人魚(メロウ)の時点で大概の男は音を上げる。人格は尚更。止めに強めのαと来た。だがどうにも出産だか産卵だかへの憧れ(義務感?)はあるらしい。なので彼女の兄弟(ジェイド・リーチ)が捕まえておいてくれるのならイデアにとってそれに越したことはなかった。

 

 イデアがじっと自分のことを見つめていることに気がついて、フロイドは目を瞬かせた。イデアの瞳は、珍しいことに金よりも蜂蜜の色に近く見えた。

「どしたのホタルイカ先輩」

「……や、お幸せにと思って」

「言われなくても幸せになるつもりだけど?あ、結婚式やるならたぶん呼吸薬配って海ん中な気ぃすっからクリオネちゃん泳げるようにしといてね」

「りょりょ。……卒業後だよね?」

「どーだろ」

「卒業後のつもりで造るからね?頼むよ?」

「考えとく。はい、ポテサラ美味いよ」

「うん……ポテサラってかタラモねタラモ。ん、このオリーブ美味しい。どこのだろ」

 

*1
正確には、花蜜酒(ネクタル)のうち、不死のもの(アムブロシアー)と呼ばれる天の花々と魔力を大いに含んだ巣蜜(コムハニー)を酒神ディオニューソスやその眷属の造りたもうた酒に漬け込んだもののみが死にさえ打ち勝つもの(ネクタール)と呼ばれる。

*2
役割の第一は当然、冥神ハデスを筆頭とする地下の神々を祀ることである。

*3
フェロモン感受機能を持つ未分化型β形質者に対して、外分泌系のうちフェロモン分泌系およびフェロモン受容体を全く持たないか先天的に完全な失活状態にある者を指して不受容型β、あるいは俗に「生粋の」βと呼ぶ。

*4
所謂「運命の番」の関係性。

*5
今現在に至っても、嘆きの島は世界で最も自動化が進んでいる地域であり、また第三次産業の大半は《ピュティア》が担うことが可能だ。おおむね彼ら島民(エレウテロス)の言う「労働」とは頭脳(ホワイトカラー)労働であり、職務・研究の内容は《ピュティア》によって割り振られる。



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