「……ドーゾ」
「あ、ありがとう……」
目の前に置かれたのは、ホカホカと熱い湯気を立てている炒飯だ。海老やら卵やらが彩り豊かに混ざっていて、食欲をそそる。いきなり飯にがっつくのは抵抗があったが、胃袋が負けた。
「…………すごい美味しいね」
「お、おお。サンキュ」
「これ、火神君が自分で作ったの?」
「まあ一応。親父がずっと仕事でいねーから、料理とかは自然に出来るようになってたっつーか、です」
火神はとってつけたように畏まって言った。
どういう敬語だよ、それは。でも身近にはもっと変な語尾を使う奴がいたから、大して気にならなかった。そんな事より、この飯が美味い。何でいかにも脳筋そうな癖にちゃっかり料理出来るんだよ。むしろお前は卵とか割ろうとして握り潰すタイプだろ。
コート上では鋭く吊り上がっていた眉尻も今は下げて、火神は俺の対面にゆるく座っている。よく見ると眉の先が二股に分かれていた。……あれって自前なのか?
「……泊まるなら、親父の部屋が余ってるからそこ使ってくれていいぜ、です。俺も部活とかで寝に帰るくらいだし」
「あー平気平気。どうせうちの爺さんがまた勝手な事言っただけでしょ? ご馳走にもなったし、僕はもう行くから」
「……行くったって、冬まであんたの所の家って使えねーんだろ?」
「まあそうなんだけど……」
とある事情のおかげで冬まで家が使えなくなってしまった俺は、爺ちゃんから教えられた仮宿に辿り着いていた。驚くべき事にそこは誠凛高校の10番──―火神大我の家だったが。
お互いに状況が全く呑み込めなかったし、俺は俺で、即刻爺ちゃんの言い分を聞かないと気が収まらなかった。そしてこのややこしい現場を作った元凶と話が出来たのは、十三回目の電話をかけた時だった。
「……もしもし、爺ちゃん? おい、誠凛の奴の家なんて聞いてねーぞ」
『あ、
「おい、耳聞こえてんのか。な・ん・で、誠凛の奴の所にしたんだよ」
『……何でって、大我君はサーシャのお弟子さんですよ? だったら瑛君にとっても家族みたいなものじゃないですか』
──―ああ、タイガというんだが、知らないか?
──―背が高くて赤髪だから分かりやすいと思うぞ。
タイガ。大我。
サーシャとの会話の一端が蘇り、点と点が繋がる。偶然で片づけるにはあんまりにも出来過ぎた状況に目眩がしてきた。マジかよ……。
「つまりこいつも爺ちゃんの迷惑な知り合いになるのかよ……」
『人聞きが悪いですね……。私の友人に迷惑な方なんていませんよ?』
「迷惑かけてんのはあんた……いや、それはいい。とにかく俺はここに泊まる気はねーからな。どこかでホテルでも借りるから、金だけは送ってくれよ」
『んーでも、子供がホテル住まいなんて危ないですし……そのマンションはセキュリティもしっかりしてますから、やっぱりそこに泊まって下さいな』
今になって思い出したみたいに常識的な事を言うんじゃねーよ。
が、結局のらりくらりと躱されて、元凶である爺ちゃんとの会話は終わった。
そして俺の様子を不審そうに見つめていた火神と目が合う。一瞬、互いの出方を伺うような沈黙が降りた。今日の錦佳戦の前に顔は会わせたが、喋っていたのはほとんど緑間と高尾だったからこいつと二人になると距離感が分からねえ……。
改めて見るとでかい奴だった。バスケ部も190㎝超えの奴がゴロゴロ居るから感覚が麻痺してたけど、こいつもそれぐらいありそうだ。緑間相手にも強気に絡んでたし、こういう喧嘩っ早そうなタイプとあんまり関わりたくねぇなーとか思っていたら、腹から盛大に音が鳴った。
「…………何か食ってく、ですか?」
「…………。……迷惑じゃなかったら」
渋々、と言った感じの火神の提案を受けて、今に至る。
恥も外聞も言ってられるか! 空腹には勝てないんだよ!
「何か……本当にごめんね。うちの爺さん、突然思い付いて行動する所ある人だから……」
「いや……気にしてねえっスよ。ガキの頃もそうだったけど、ダイスケさんって自由な人だったし」
「そうなんだよ! いつも迷惑かけられるのは僕……。え、爺さんと会った事あるの?」
火神は冷蔵庫からお茶を持ってくると、律儀に俺にも注ぎながら言った。
「ガキの頃にちょっとだけ。バスケ始めた時はアメリカに居たんスけど、俺にバスケ教えてくれた師匠の知り合いだって言って、何度か会って」
「ああ、サーシャ……アレクサンドラさんの弟子なんだっけ? 火神君は」
「! アレックスを知ってんのか? ……です」
「会ったのはこの前が初めてだけどね。自分の弟子が日本に居るから知らないか、とか言ってたし、会ってないの?」
火神は、初耳だ、と言うように目を瞬かせていた。何だよ日本に来てたなら一言くらい言えよ……、とサーシャへの不満なのかブツクサ呟いている。
けど俺にしたって、爺ちゃんがこの一年坊主と昔の知り合いだったって事にも驚いている。世間は狭い。つーか爺ちゃんのネットワークがおかしな所でおかしな人間に繋がり過ぎてる。
「じゃあ、お言葉に甘えて少しお世話になるけど、この事は部のチームメイトとかには、特に知られないようにしようね」
「え? ……何で?」
「だって今は
「あぁ……まあ」
釈然としない様子ではあったが、火神は納得したように了解した。
まあこれも、火神の事を気遣ってっつーより、ほとんど俺の保身だ。
只でさえ、緑間の加入で秀徳バスケ部の二軍や、一部のレギュラーは気が立っているのに、これ以上波乱を作る要素になりたくない。
夕飯の礼を言ってから、俺は自分のエナメルバッグを担いで立ち上がった。
すると火神が俺のスーツケースを片手で持ちながら、「こっちスよ」と空室の部屋に案内する。ちょっとホッとした。爺ちゃんの迷惑な思い付きだったけど、少なくとも緑間よりは話が分かりそうな奴みたいだ。
◇◆◆◆◇◆◆◆◇
今年度のIH予選、秀徳はAブロックに振り分けられた。
普通ならこっから地道に試合をこなさなきゃならねーけど、前年度の成績の甲斐あってシード枠だ。だからこの前の錦佳戦を入れても、決勝まではあと三回しか試合が無い。サクサク進んでくれんのは楽でいい。
……何て思ったのは甘かった。その代わりに練習では、決勝での対策を本格的に取り入れるようになったから、ハードさは何も変わらない。それどころか予定より増していた。
理由は簡単だ。トーナメント表を配られた時に俺もちょっと驚いたけど、今年は同じAブロックに正邦も入っていた。去年は秀徳と並んで決勝リーグに進んだ強豪校。
監督も上級生も、決勝までの残りの練習時間を対正邦の対策に割く予定らしい。そう言われて基礎練をサラリと三倍にさせられた日は、汗とか涙とか体中の水分が干からびるかと思ったけどな。宮地(兄)なんかは、サボってる奴を扱く理由が出来て、後半は逆に生き生きしてるようにすら見えた。気のせいだと思いたい。
空に夕陽が差し掛かり始めたある日の放課後、俺が図書室の机で一人、三角関数に白旗を上げそうになっている時だった。
目の前にふっと影が落ちた。
「ああ、雪野。ちょうどよかった、こんな所にいたのか」
「……監督、どうしたんですか? 今日部活は休みでは?」
近頃の地獄のロードワークから解放されると思って、心の中で万歳三唱をしたから間違いない筈だ。まあ、それなのに課題忘れで捕まってんだから、プラマイはゼロだ。
「うん、まあ部活に関係ある事ではあるんだがね。
今課題をやってる最中だろう? だったら他の奴に頼むから──―」
「ああー! 終わりました終わりました! 丁度今終わった所です! いやー秀徳生なら文武両道でなくっちゃいけませんね! それで? 部活の事ってなんですか?」
大慌てで残りの問題に書き込みをしてプリントを片付けたが、監督は非常に疑わしそうだった。一応全部終わったのは本当だからな。正解してるかは知らねーけど、うん。
俺の満面の微笑みが成功したかは分からないが、監督は一枚のDVDを差し出した。
「……何ですか? これ」
「撮影班がスカウティングしてきた正邦と北和田の試合だ。三年のレギュラーは全員見たようだから、緑間と高尾にも声をかけておけ。正邦のDFは独特だから、映像はよく見ておくように」
「はあ……」
いつまでも他校への関心が薄い俺には、正邦の事も曖昧なままだった。
東京三大王者の一つ、という知識として記憶しているだけの存在だ。
「そういえば新しい家は慣れたのかい?」
「ああ、まあ何とか……えっ?」
うっかり手でまとめたプリントを取り落としかけた。
動きがぎこちなく固まる俺を他所に、監督は世間話でもするような気軽さで話してくる。
「それならいいが、まあ悩みがあればすぐ言いなさい。環境が変わると、誰でも最初はストレスを感じるものだからね」
「……あの、ちょっと待って下さい監督。僕、引っ越したとかそんな事一言も言った覚えが無いんですが……」
「この間君のお爺さんに説明されたよ、メールで」
あの爺!! という罵倒は心の中に留めたが、手にしていたシャーペンの芯を折っていた。
あれから突然の下宿生活が始まっていたが、他人との生活の割には何とか上手く回っていた。とりあえず火神が食事担当、俺が掃除や洗濯担当って事で今は分担を決めた。まあ仮にも先輩だし、下宿させてもらってる身だから家事くらいは色々引き受けるつもりだった。(つーか俺は料理がさっぱりだった事もある)けど火神も俺に気を遣ってんのか、ゴミ出しとか雑用は自分から色々やってくれている。
第一印象こそ喧嘩っ早くて不良じみてたが、あの同居人は思ってたよりずっと素直で礼儀のある奴だった。何でもこの前までアメリカにいたらしく、日本語が慣れないからおかしな敬語を使ってしまうらしい。……ちゃんとした敬語を使ってる緑間は何で反感買いまくってるんだろうな。やっぱり不遜さとか滲み出てんのか、うん。
けどそれはそれとして、監督には口止めしとかねーとマズい。
「あ~あのですね、監督……。僕から言うのが遅れてしまったんですが、うちの祖父が急遽アメリカに出張する事になって、その間仮住まいする事になった先がたまたま誠凛生の家で、その……」
「ああ、うん。事情は分かってるからそんな気にする事はないよ。部の奴らも知らないから安心しなさい。それに、他校生の家だからってお前自身がそこまで神経質になる事はないから、気楽にしてた方がいい」
「はあ……」
合宿している、くらいの気持ちがいいのかもな。と監督は思い付いたように言って、図書室から去っていった。
妙に俺を労わるような言い方が気になったが、まあ変に言いふらさないなら良かった。手元に残った一枚のDVDを眺め。ややあって俺もまた立ち上がった。
図書室から出て、一年のクラス棟に行ってみると、探していた内の一人はすぐ見つかった。
俺よりも小柄なその姿が、都合のいいタイミングで真正面から歩いている。
「あー雪野さん! お疲れ様でっス! ……もしかして部活で何かありました?」
「正解。良かったよ、高尾君がまだ残ってくれてて」
「いや~オフだとやる事がなくって。そしたら委員会の仕事押し付けられちゃいました」
高尾は人好きのする表情で笑って言った。要は雑用をやらされてたのだろうが、こんな風に笑い飛ばせる辺り、こいつはクラスでも上手く立ち回っているんだなと思わせる。
「じゃあこれ、正邦の試合の記録なんだけど、緑間君と見てもらっていい? 決勝に備えて研究するようにって、監督から」
「正邦の……分かりました。緑間もまだ帰ってない筈っスから、呼んできます」
と、試合の事を持ち出した時、高尾の特徴的な吊り目に、一瞬猛禽類のような鋭さが走ったように見えた。多分気のせいじゃあない。強豪校のレギュラーを獲得しているような連中は、誰も彼も表には出さないだけで好戦的だ。室田なんかは表に出し過ぎだけど。
さてこれで用は済んだ、と思っていたが、またしてもそう簡単に引き上げる事は出来なかった。
「あれ、雪野さんはもう見たんですか?」
「いや、まだだけど……高尾君達が見てからでいいよ」
「じゃあ一緒に見ましょうよ! 俺達が見終わるまで待つ方が手間じゃないですか? 今日時間あるなら、このまま部室で!」
「いや、僕は……」
何かこの展開前にもあったな!?
高尾はそのまま俺の背を押して強引に部室へ向かわせる。そして廊下を少し進んだ所で、一人、窓の外を眺めている人物に出くわした。
と言っても、緑髪の長身なんてこの学校には一人しか居ない。
緑間が無表情のままこっちに目線をやったが、俺の存在に気付くと、少し眉を寄せたように見えた。悪かったな、俺が居て。
「よっ、お待たせ真ちゃん。雪野さんが正邦の試合のDVD持ってきてくれたんだってよ。
一緒に見ようぜ」
「興味ないのだよ」
高尾が掲げたDVDを一瞥するなり、切って捨てる。
そこまで全身全霊で無関心オーラを出さなくてもいーだろ。
爺ちゃんも監督も、俺が火神の家に下宿する事を心配してたけど、俺としてはこの後輩との会話の方がずっと神経を使う。何が地雷で何に食いついてくるのか、未だに分からないから警戒して言葉を選んでしまう。今振り返ると、こいつをバイクに乗せて試合観戦したなんて奇跡的な出来事だったように思えてきた。
「黒子や火神がいないからってそういう事言うなよー! 決勝はむしろ、こっちが本命なんだからな。今日オフだし、帰っても暇だろ?」
「いや……」
「決まり!」
「おい!」
……とか考えていたら、いつの間にか高尾が話を進めていた。
高尾は心臓に毛でも生えてるのかっていう図太さで緑間の冷たい視線を受け流し、部室棟に向かっていく。図太過ぎるっつーか逞し過ぎる。
そして緑間も不機嫌そうな表情は変わらないが、肩で溜息を吐きながら後に続いた。結構押しに弱いな、こいつも。
「そういえば、緑間君。今日はあれ、無いんだね。ラッキーアイテム」
「……いえ、持っています。今日のかに座のラッキーアイテムは「数珠」です」
分からない事だらけだが、とりあえずおは朝について聞けば緑間は勝手に喋る。これだけは確実な事だった。
にしてもラッキーアイテムってのは毎日趣向を変えてくるよな。数珠って葬式じゃあるまいし。緑間がズボンのポケットから取り出したのは、何とも霊験あらたかそうな数珠だった。……え、これ玩具とかじゃなくて本物だよな? 珠とかすごく綺麗だし。
「いくらするの、これ……」
「確か大体八万くらいだったと思いますが」
「八万!?」
何てもん学校に持ち込んでんだよこいつは!! つーか金のかけ方!
前にいた高尾も流石に爆笑せず、失笑している。うん、やっぱりこいつの思考回路は訳分かんねーよ。
オフの日の部室は、空気が死んだように静まり返っている。
その静寂を遠慮なく破った俺達は、適当にパイプ椅子を引いて、部屋にある小さなテレビ台の前に各々座った。俺に遠慮してるのか、高尾はやや後ろに陣取ると、パイプ椅子の後ろ向きにして背もたれに両肘を乗せた。緑間は……なんか座ってても偉そうだ。
「そういえばこのテレビって動くんですっけ? 何か前に木村さんが壊れたとか言ってませんでした?」
「多分大丈夫だと思うけど……」
そういやこのテレビ最後に動かしたのっていつだっけ。
デッキはちゃんと接続されてるから動くんだろうけど、どうも不吉な予感がする。何しろ秀徳はボロっちい……もとい歴史ある高校なだけに、あちこちの備品に気が付いたらガタが来てましたなんて事はよくある話だ。
幸い、デッキにDVDを入れたら画面に映像が映ったので、まだ寿命は先らしい。
俺達は自然と会話を中断して、三つの視線が試合映像に注がれた。
正邦と北和田の試合は、最初から正邦が優勢で進んでいた。
ボールを持った選手に即マークして
「……何だかこのチーム、変わった動き方するね」
「忘れちゃったんですけど、ここは何か練習が特殊らしいですよ。他と比べても、機動力がやけに高いし」
「ああ、それで……」
高尾の補足に、そういえば前に宮地(兄)が正邦の事について話していたのを思い出した。
DFだけなら東京最強。本気でかからないとあの鉄壁は崩せねーんだお前も手ぇ抜いたら刺すぞコラ、と黒い笑顔を向けられた事も記憶に新しい。
あの三年は会話を進める為にいちいち脅してくるから困る。
「正直、俺もあまりやりたくないな。彼とは」
「緑間君、この10番の人知り合い?」
「中学時代に一度だけ対戦した事があります。試合自体は勝ちましたが、終始黄瀬がマークにつかれて攻撃を封じられていました」
金髪を鬱陶しいくらい煌めかせたイケメン一年の顔が思い浮かぶ。
女子にやたら騒がれていたあいつが凹まされたのかと知ると、男としてはちょっと気分が良かったりする。
「けど相手するとしたら緑間だぜ? ってか、お前でも止められかねねー」
高尾が揶揄するように言ったが、緑間は反論せず黙って画面の試合状況を見つめたままだった。
高尾の言ってる事はそう的外れでもない。映像では、正邦の10番がまたしつっこくDFをかけている。相手の選手なんかもう疲れ果ててんじゃねーかよ、見てられねえ……とか思ってたらチラリと10番の顔が画面に映った。
……何かすごいキラキラした笑顔をしていた。近所の子供が虫取りで駆け回ってるみたいな、そんな雰囲気が被って見える。相手してる選手は真逆のテンションだけど。
こいつは俺もやりたくねーわ、と心の中で思った。
その時丁度映像の中でも、試合が終わる。勝敗は正邦がダブルスコアで北和田を下し、圧勝だった。結末を見届けて、高尾が口を開く。
「誠凛じゃこの鉄壁は崩せねーでしょ。やっぱり、決勝の相手はこっちですかね」
「どうだろうね。始まってみないと分からないけど」
「またまた~雪野さんだって誠凛には勝ってるじゃないっスかー」
だからその話を持ち出すなっての。
それに試合なんてのは本当に何が起こるか分からないもんだ。予想出来てたら、去年の誠凛との試合でこっちに怪我人も出なかったし、俺が急遽スタメンになる事もなかっただろう。
個人的には正邦に勝ってもらいたいけどな。決勝の相手が誠凛で、それで勝ちでもしたら、気まずくて火神の家に居られなくなる。俺はどっかの爺ほど面の皮が厚く出来ていないんだ。
「おーい、真ちゃん。対策ちゃんと考えとけよ」
「分かっているのだよ」
微動だにせずに映像を見続けていた緑間を横目で見ながら、俺はDVDを停止させた。
****
正邦の試合研究を手短に終えると、もう下校時間が迫って来た事もあって俺達は帰宅した。
って言っても、この前から帰り道が変わったから途中であの凸凹一年コンビとは別れたけど。「あれ? 雪野さんってそっちの方向でしたっけ?」とか高尾が聞いてきた時は、声がひっくり返りかけた。何であいつは妙な所で目敏いんだ……その辺は緑間の無関心っぷりと足して二で割ってくれと思う。
まあ、前に比べると確かに学校までの行きの時間は十五分くらい短くなったから、そこだけは爺ちゃんの目の付け所に感謝してもいい。そこだけは、な。
にしても正邦の対策に普段の基礎練習と、あと夏の初まりの暑さが加わってるこの時期は体が怠くて死にかける。宮地の物騒な脅し文句が比喩に感じられなくなってくる季節だ。特に今日は妙に空気がじめじめして暑苦しい。涼が欲しくて、俺はふと駅前のコンビニに足を伸ばした。
そう思った時、自動ドアの前でいきなり見えない何かに阻まれた。
つーか、突然何かにぶつかった。は? 何? ここにガラスの壁でもあるのかよ。
「あの、すいません。ここです」
「うおっ!?」
随分下の位置から声が聞こえたかと思うと、目の前に先客が立っていた。
水色がかったつむじが先に見えたが、そいつが顔を上げると、空のように透明感のある両目に俺が映った。
「……確か君、誠凛のバスケ部、だよね……?」
「黒子テツヤです。秀徳の雪野さんですよね? 緑間君と同じチームの」
淡々と名乗られてやっと顔と記憶が繋がった。
誠凛の11番で、緑間の元チームメイト。錦佳戦の前に初めて顔を合わせたけど、俺は直接喋ってなかったし、何より緑間や火神の存在感があり過ぎてこいつの事なんてすっかり抜け落ちていた。
黒子は夏の陽炎のように薄ぼんやりした印象で佇んでいたが、静かな口調で言った。
「すみません、ちょっと進んでもらってもいいですか?」
「え? いや……コンビニ、入らないの?」
「入りたいんですけど、ドアが開いてくれないんです」
「……嘘でしょう?」
思わず苦笑したが、黒子は至って真顔だった。
確かに黒子が突っ立っている癖に、コンビニの自動ドアは何故か固く閉ざされたままだし、店員も気付く気配が無い。ドアの故障か何かか?
仕方なく俺が黒子の前に割って入ると、その途端にドアが開き、来店を歓迎するメロディが聞こえる。ええ……マジかよ。
何て感想を言っていいのか分からず、隣にいる小さな一年坊主を見ようとしたら姿が消えていた。──―かと思ったら、さっさとコンビニに入ってやがった。っておい! この距離で見失うって何だよ! 迷子になるガキか!
黒子は俺に小さく頭を下げると、どこまでも温度の無い声で言う。
「ありがとうございます。お陰で助かりました」
「いや大した事してないから……。……というか黒子、君? もしかして気配を消したりとか、そういう事が出来るの?」
「いえ、そんな事出来ません。僕は元々影が薄いので、店員の方に気付かれなかったり、ドアに認識されなかったりっていう事はよくあるんです」
よくあっていいのか、それ!?
そもそも機械に認識されない程存在感無いってあり得るのかよ……。感情の乗らない喋り方といい、神出鬼没さといい、まるで幽霊みたいな奴だと思う。
黒子はそのまま雑誌売り場のコーナーに向かって、本を物色し始めた。何となく、俺もそこに向かう。涼みに入ったようなものだから、元々大した用事は無い。
黒子は一冊の文庫本を立ち読みし始めたが、そうしてるととてもバスケ部のレギュラーには見えない。秀徳のバスケ部にもそりゃ小柄な奴はいるけど、こいつ本当にモヤシ……いや貧弱だよな。
「あの、僕に何か用ですか?」
「え?」
無意識に見てしまっていたらしい。水晶玉みたいに透明な黒子の目が、また俺を見つめた。
「ああ、気を悪くさせたならごめん。……黒子君って緑間君と同じ中学だったんだよね?」
「はい、そうですけど」
「緑間君って昔からあんな感じだったの? その……占いとか」
「そうですね。僕が彼と知り合ったのは中学一年の頃でしたけど、その時からラッキーアイテムとかは持ってました。……僕も緑間君は苦手なので、あまり詳しくは知りませんけど」
無表情は全然変えない癖に、サラリと毒を吐いたぞ、こいつ。それに確か高尾が、「緑間が黒子を気にするから誠凛の予選一回戦も付き合わされた」とか言ってたような。
それなのに苦手に思われてるのかよ。……まあ、チームメイトだからって仲が良いとは限らねーか。
「そう言えば、雪野さんは火神君の家に住んでるらしいですね」
「ああ、うん。……って、え!? ちょ、何で知って」
「この前練習が遅れた時に火神君が「同居人に連絡する」と言った事があって、気になって聞いてみたら、白状しました」
火神ぃ──!?
ダメだ、どんなに俺の方で黙秘してても他の連中が頼んでもいないのに広めていく。
つーかこの一年も、大人しそうな顔してちゃっかりしてるな!?
「あー黒子君。確かにちょっとした事情で火神君の家に住まわせてもらってるけど、変な勘繰りは止してね? 別に僕は、誠凛の事とか探るつもりはないし、試合とは無関係だと思ってもらえれば」
「はい、それは分かってます。試合とは別問題ですし、火神君の事情になりますから」
と、黒子はあっさり引き下がった。
一言二言は文句でも言われるんじゃないかと思ったから、少し意外だ。
「……まあ、僕も不本意なんだけどね。お互い予選を控えているのに、モチベーションに影響しかねないし」
俺のモチベーションなんて、実際は有るか無いか分からねーくらいだけど。
「そうですね。でも、試合で当たる事になったら、お互い全力を出す事が一番だと思います。どんな事情があるにせよ、悔いを残さない事です」
「……全力ねえ」
随分優等生的な事を言ってきたが、こいつは、今の秀徳の全力を受け止める気でいるんだろうか。正直俺が相手校だったら、緑間みたいな次元の違う奴が敵にいるだけでやる気を失くしてる。それとも元チームメイトだから、秘策とか対策とか考えてるのか。
「それじゃあ、僕はこれで失礼します」
「あ、ああ。じゃあね」
黒子は文庫本を一冊だけ買うと、俺に軽く会釈だけしてコンビニから出て行った。
その小さい姿が店から出て、通りの人混みに紛れるとものの数秒で見失う。背景に溶け込んでしまったように姿が消えた。俺は狐につままれたような気分になりながら、立ち寄ったついでに適当な雑誌を物色する。
影が薄いって言う割に、ズケズケものを言う奴だった。
どっちにしても俺には分からない話だけどな。
バスケなんて平和に楽しくやれれば、それでいい。全力でやる、なんて、今の俺には更に高いハードルに思えてならなかった。