東京都港区新橋の一角に、豪奢に聳えるビルがある。
ビルのエントランスに飾られているのがウマ娘がモチーフとなっている銅像であるあたりで、このビルの持ち主が察せられる。
上層階に入るURA本部は、常日頃ウマ娘のレース開催に関わる様々な業務だけにとどまらず、ウマ娘が健全に育成され、資質、能力の向上へ取り組み、それによる魅力ある競走とライブステージを提供するべく日々、多くの職員たちがそれぞれの立場で奮闘していた。
職員の中には元、競走ウマ娘である者も在籍しており、文字通りそこはヒトとウマ娘たちが種族の垣根を越えて協力し業務にあたるというひとつの理想郷、その建前が達成されているとされる職場であった。
しかしそのビルの最上層階、そのひと区画にあるある男の個室では、些か様相が異なっている。
「だからどうしてこの案ではいけないんですか!」
耳を力強く跳ね上げ、前向きに倒して敵意を剥き出しにしたウマ娘が吼える。
「過去からの歴史と伝統、先達たちへの敬意、レースの公平性の担保、持続的な発展。これらを総合的に勘案しての判断だ」
吼えるウマ娘の上司の上司、一般企業であれば役員クラスとなる小役人のような風体をした中年後期の年齢に属する男は、その迫力に怯むことなく淡々と言い放った。
「上が決めたことだ。私に楯突かれてもどうしようもない。提案は部分的には認められて、その分の予算稟議が通ったんだ。今日のところはそれで聞き分けなさい」
話はおしまいだ、とでも言うように手を振り、退出を促す。
興奮冷めやらぬウマ娘は、傍らに立つ直属の上司である女性に宥められて部屋を出た。
URAの中に、不夜城と呼ばれる部署がある。
先ほど役員に食って掛かっていたウマ娘が在籍し、それを宥めた女性が率いている部署を指す言葉だった。
「総合企画室」
そう銘打たれた部署は、URAの中でも一際、浮いた存在ではあった。
特定の定型業務をほとんど持たず、そうであるがゆえに自由に発想し、ともすれば現在の隆盛にあぐらをかき、進歩をとめてしまうかもしれないURAにおいて、常に新しい風を吹かせることを目的としてつくられた部署である。
定時を随分と過ぎ、閑散とした中で、キーボードを叩き続けていたのは、室長である女性であった。
先ほど憤然と役員クラスの男に食って掛かったウマ娘は既に帰しており、今夜不夜城の灯りをともし続けているのは彼女が指を動かし続けるが故である。
傍らには、彼女たちが創り上げた提案書があった。
「ウマ娘競走総合研究所(仮称)設立に関する提案書」
室長の女性はキーボードを叩く手を止め、その表紙を眺める。
この提案書の顛末は、先ほどの役員室でのひと悶着であった。
まだまだ上を動かすには時間も労力もかかる。
そうこうしているうちにトレセン学園は自らの裁量で取り組みを加速させている。
秋川理事長からの矢のような催促もあり、一旦形を纏めてURA理事会に上程してみたものの、その反応はあまりはかばかしいものではなかった。
彼らの動きに枷をはめ、URAの管理下に置いてしまうべきか、あるいは協調してさらに推進してやるべきか。
彼女自身は取り組みを応援してやりたい。
そう考えていたが、組織全体の流れは保守的で、新たな投資に対しては懐疑的であった。
これ以上何を求めるというのだと言い出す理事すら存在した。
レースやイベント、ライブなどの興行収入の一定割合は国庫に納められる仕組みとはいえ、ここのところのURAは連続して出現したスターウマ娘たちの存在でURA自体の運営規模は拡大しており、上層部はそれに気を良くしている。
それがゆえに、ウマ娘たちが背負う影の部分に対する意識が相対的に低下していた。
その雰囲気に、彼女は危機感を感じている。
同じ雰囲気を感じ取った秋川理事長、さらに言えばURAに大きな影響力を持つ秋川家の後押しを以って作られたこの部署。
それを預けられた彼女は、学園から続々と届けられる報告書や連絡に励まされ、それ糧に業務をなんとか進めているような状態だった。
一息ついて華奢な身体を椅子の背もたれに預けると、ふと思い立ってポケットからスマートフォンを取り出す。
電話やメールの着信を示す知らせはなく、あるのはインストールされているアプリが彼女の気を引こうとしている通知のみであった。
「まったく…連絡のひとつも寄越さない…」
彼女はスマホのロックを解き、通常の写真とは別フォルダに保存してある一枚の写真を画面に表示させた。
それは彼女が最も幸福であった時期の一断面を捉えたものであった。
「…ぶえっくしょい!…いってぇ!」
後輩がアルコールの勢いを借りて今回の来訪の目的を果たした翌朝。
男はリビングのソファで毛布一枚という状況で寒々しい目覚めを迎えていた。
昨夜の後輩の独白からの号泣からの睡眠となった後、彼をシンボリルドルフ、エアグルーヴ両名の手を借りて男のベッドへ放り込んでもらった。
目を覚ましたおハナさんは涙を湛えたまま、
「盗み聞きしたみたいで悪かったわね。でも、あなたが救われたみたいでよかった」
という言葉を残し、ウマ娘二人とともに帰宅していた。
いつもどおりの一人のリビングは、まるで昨日一日の喧騒が夢だったかに思えるような、静かな朝だった。
男は昨日の一連の出来事が夢だったのではないかと疑いつつ、半身を起こして煙草を一本取りだし、火を点けた。
「…オハヨウゴザイマス…」
夢ではなかった証拠である後輩は、男が二口ほど煙を楽しんだ後によろよろと姿を現した。
「…お前、大丈夫か?」
後輩の顔色は目に見えて悪く、明らかに二日酔いの様相を呈していた。
「…大丈夫っス…お手数おかけいたしました…って、なんで俺先輩の部屋で寝てたんスか?」
胃か胸の具合があまり良くないのであろう後輩は、自らの手でそのあたりをさすっている。
「エアグルーヴがお前を担いでここまで運んでくれたんだよ。俺は腕がコレだしな」
男の話を聞いた後輩はびくりとする。
「は…まさか…エアグルーヴさんが……俺、エアグルーヴさんの背中で…?」
「寝てたよ。お前、昨日はたっぷり堪能したな…」
「…マジすか…なんて貴重な体験を俺は覚えていないんだ…」
後輩はがっくりと項垂れる。
「…てか、覚えてないの?昨夜のこと」
「なんか…先輩に土下座したのは覚えてるんスけどね…ちょっといろいろ記憶があいまいで…ってきもちわりぃ…あたまいてぇ…」
後輩はよろよろとした足取りでトイレに向かっていった。
あの様子だと、昨日この部屋での話も覚えているんだかどうなんだか。
男は苦笑しながらため息をつく。
しかしそれを問いただすのも野暮というモノだろう。あいつが抱えていて、それを吐きだせたのならそれでいい。
男はそう考え、何処まで本当かはわからないながらも後輩の告白を蒸し返すことなく、心に仕舞うことに決めた。
後輩と近くのファーストフードで適当な朝食を摂り、駅に送っていった。
「次は毎日王冠観に来るんで!その時はよろしくお願いしまっス!」
毎日王冠て、すぐじゃねぇか…。
男のそんなツッコミも届かぬほど、見事な杖捌きで健常者よりも速い足取りで雑踏に消えていった。
クルマを出す前にふと見たスマホには、たづなさんからのメッセージが届いていた。
[ 明日を以て工房の閉鎖を解除します。引き続き蹄鉄の整備は府中へ依頼しますが、その選別は先生にお任せしますので、できる範囲で業務を再開してください ]
どうやら休みは終わり、ということらしい。
男はセルを回し、愛車が機嫌よく目覚めたことを確認すると、クラッチを踏んで丁寧にギアを1速へ入れ、学園へと戻る道を辿りだした。