むせるような草いきれが顔を包み、蝉が合唱する程集まっている。こめかみをシャツの袖で拭い、背中にぬるい風を浴びていた。
「うげぇ……」
そんなのとは無関係に発された可愛げのない呻き声に、俺は顔を上げ、視線を右斜め前方へと向けた。
「今の声は女子としてどうなの……」
「セクハラですよ先輩」
「あ、はい……」
部活の後輩の裕理がむくれていた。そこらにいる男子生徒にでも聞かれたら結構シャレにならないんじゃないか。幾ら取り繕ったところで日々の積み重ねは如実に現れてしまう。
裕理はそんな俺の心配を余所に、机に突っ伏した体勢で口を尖らせている。
「なんですかそのぞんざいな扱い方。訴えたらお金取れるんですよ♪」
「何それ、冤罪脅迫なの?」
まさか言葉一つでふっかけられるとは。女の武器って涙だけじゃなかったのね……。
「誠意見せてくださいよー。せーいーいー」
誠意って、『言葉ではなく金額』と言ったあのプロスポーツ選手か。……いや、元は『評価は〜』だったっけ? それとも坂上田村麻呂か? 後者は北東北地方だと怒られても文句言えないぞ。
「誠意っつってもなぁ……、頭でも下げりゃいいのか?」
「先輩知ってます? 頭って下げる価値がないと謝罪にならないんですよ?」
「まあな」
俺は顎に手を当てる。誠意。日本語の中でも特に扱いの難しい言葉の一つである。相手が何を指して”誠意”と言っているのかを察することが非常に難しい。
そんなわけで、この後輩の言う誠意なるものを俺は掴めてないわけで。
にしても、先程からこの子は何故アヒル口で待機しているのだろう。今更流行りでもないのにねぇ……。
あ、ちょっと眉下がった。文句ありげに。
なんで主導権ずっと握られっぱなしなんですかねぇ……。
「……せーいーいー」
不満そうに尖りを増す唇。軽く身を乗り出してくる彼女を手で押し留め、俺は席を立った。
「……何。こういうとこでやるのに興奮するタイプなのお前」
「うわ、本気でセクハラですよ先輩。ちょっと引きました」
「……すまん」
照れ隠しのつぶやきに、裕理は何か言いたげにジト目で身を引いてから、照れ臭そうな顔で続ける。
「……先輩とキス、したくなっただけです」
えへ、と綻ぶ可憐な表情。男子高校生を軒並み悩殺するであろうそれを、俺は軽やかに受け止める。
「あざとい。そんなんで男の気を引けるって思ってるの?」
「そういう割には顔真っ赤ですけど?」
「……言わせんな」
全然軽やかじゃなかったです、はい。
「つか、もういいだろそれ」
「それって?」
いやなんでそこでキョトンとするの。ああ、分かっててやってるのか。
「そのあざといやつ。色々と心配になるわ」
心配しながら言う俺。
「……えへ」
色々、と濁した部分を、しかし彼女は確かに受け取ったのか、薄気味悪く頬を緩ませだした。
「い、いきなりどうした……」
あまりの変貌にマジで仮面でも脱いだのかと思ったがそんなことはなかった。
ただ純粋ににやにやとだらしなく笑ってるだけ。
普段の彼女を知る者としてつい警戒態勢に入ってしまうが、可憐さにブーストをかけるその表情には見惚れずにはいられない。
「そうですかー、心配ですかー……」
からかっている高◯さんばりににやついて緩む頬。これ以上なく垂れ下がる目尻。
……とても人様にはお見せできない、緊張感皆無なお顔だ。
「……あー」
しかし、そんなありふれた言葉とは裏腹に、彼女は両手で顔を覆った。頬の赤みはそのまま、いや、少しだけ色を強めているものの、その表情から温かさが抜け落ちている。
彼女、守谷裕理はどちらかと言えば主導権を握るタイプの人間だ。
下手に出たとしても、いつの間にか人を手玉に取っている。だが、一度舐められてしまえば、彼女のスタイルは成り立たない。
なので彼女は弱みを見せられないし、見せてはならない。
だからこそ、後悔する。あけっぴろげな態度を。
「頬肉って鍛えられるんですかね……」
未だ両手で顔を覆った裕理がつぶやく。その耳は赤く染まっている。
「勝手に緩んじゃうんでなんとかしたいんですけど……」
「お前で無理なら無理なんじゃねえかな……」
しかし、突然裕理は指の間から恨みがましげな視線を俺に送ってきた。
「……先輩のせいですよ」
「……はい?」
俺はつい、とある警部補ばりの声を発する。
「廊下ですれ違った時無意識のうちに笑顔になったり、教室から体育の授業を眺めたり、勘のいい友達に危うく気づかれかけるし」
「え、待って」
困惑する俺の眼前、裕理はまたも机に突っ伏し、頬を乗せて、こちらを見上げてくる。
「だから、わたしが恋する乙女みたいな扱い受けてるのは先輩のせいって話ですよぉ」
「話繋がらない……」
「だから困ってるんじゃないですかぁー」
むすっとした顔で裕理が言う。
「こんなの、初めてですよ。……顔が、言うこと聞いてくれないなんて」
「顔って言うこと聞いてくれるものだったんだ」
実況を無くしたラジオの野球中継ばりな斬新な考えに心底感心していると、裕理が畳み掛ける。
「先輩のせいですからね」
吐き捨てるように告げて、いよいよ彼女は押し黙った。こちらに、不満そうな視線を向けたまま。
ここはひとつ、機嫌を直してもらうとしよう。
「裕理……」
その肩へと手をかける。眉は文句ありげに下がっているものの、机から起き上がり、真っ直ぐにこちらを見据える瞳。
その中に映る己から目を背けるようにして、座ったままの彼女の、その唇に触れた。
「セクハラですよ。……でも、見逃してあげます」
返ってきたのは恥じらいを滲ませる顔。
彼女らしくない。必死になって感情を押し留めているようなその表情と言葉に、思わず苦笑してしまう。
「な、なんで笑うんですか!」
「いや、なんでもねえよ。……まぁ、今はいいだろ。猫被らなくても」
「被らないんじゃなくて被れないんですよ!」
「あれだ、切り替えすれば、ちょっとはマシになるだろ」
「……切り替え、ですか?」
「ずっと猫被ろうとしてるから疲れるんだ」
「……つまり、先輩の前ではありのままでいろと? ……うわー、キモいです」
あ、これ、冗談抜きのやつだ。
「それじゃ不満か?」
気を取り直してこう言う。羞恥に染まる表情は、やはりこちらを睨みつけている。
「……猫被らなかったら、主導権握れないじゃないですか」
涙を目尻に浮かばせる。紡がれる不安の声。
「それしか知らないんですよ、わたし……」
俺はその手を握った。
「……ほれ」
「先輩……?」
「どうせ握るなら、俺のでも握っとけ」
言ってやったぜ……。さぁ、底冷えするような冷たい目付き来いやぁ!
「うっ、ぐすっ……」
えっ、やだ、マジ泣きじゃないの。ここに来て被った? 猫被っちゃった?
「……あー、はいはい」
溜息を吐きながら、鳩尾辺りに食い込んでくるその頭を撫でた。
「……逃げちゃ駄目ですからね」
可愛さをかなぐり捨てた鼻声でシ◯ジ君みたいな要求をされた。
「……ああ。むしろ自分に言い聞かせてる」
言って、その背中を軽く叩いた。
「ほら、そろそろ泣き止め。帰るぞ」
俺の言葉に素直に従い、裕理は袖口でぐいと目元を拭って微笑んだ。そして席に座ったまま睨みつけてきたかと思えば、両腕を広げてきた。
「ん」
「え?」
「ん!」
裕理が素直になれない男の子ばりな攻めで何かをご所望のようだ。
「いや、待て待て」
「『やーい、おまえんち、おっ化け屋敷ぃ〜』、……じゃなくて、寄ってくださいっ!」
冷静さを取り戻した〜が俺に近寄る。
「こうでいいのか……?」
首に抱きついてきて言い放つ。
「お姫様抱っこお願いします」
「マジかよ……」
「誰も見てないじゃないですかー。あ、それとも照れ臭いんですか?」
「お前なぁ……」
苦い顔をする俺に、裕理はいつもの可憐な笑みを見せた。
「やってください。不安で揺らぐ可愛い後輩を安心させられるんですよ?」
「……まぁ、そういうことにしとくわ」
溜息を吐き、その膝裏へと腕を入れる。
「ちょっ、くすぐったいですよ先輩!」
「ほら、しっかりつかまってろよ」
ぐいと力を込め、その軽い身体を抱き上げる。
「うわぁ、ホントにやってくれましたね、先輩」
こんなところで何してんだろうと疑問も浮かんできたが、心底楽しげな裕理の顔を見てすぐに吹き飛んだ。
「このまま外に行くか」
「嫌です」
「そこで素に戻るのか……」
裕理はくすくすと笑ってから、胸の中で俺を見上げた。
「代わりに、もうちょっとだけこのままでいてください。せっかくの機会なので」
「え、そろそろ腕痛いんだけど」
「……わたしが元気、注入しますから」
「……なら、仕方ねえ」
蜩の鳴き声を聞きながら、触れてくるいい香りに苦笑しつつ、改めてその身体を抱き上げた。
◇
俺は裕理と二人でプールに来ることになってしまった。それは、あいつから誘われたからだ。
どうやら友達と日程が合わず、でもどうしても新しくできたプールには行きたかったらしい。『せーいーいー』と念も押されたがな。
「うわぁ……」
賑わっているプールを目の前にして、声を漏らす。今日はよく晴れているので、プールには多くの人が遊びに来ている。パッと見た感じ、家族連れやカップル、学生と思われる若い連中のグループが多い。
俺は更衣室で着替えをさっさと済ませ、プールサイドで裕理を待っていた。
「先輩……」
裕理の声がいつもの三分の一くらいだった。それでも来たことはちゃんと分かったから俺は裕理の方を見た。
「水着姿を見せると思うと緊張しちゃって。あんまり可愛くないわたしが着て、合ってるか分からないですよね……」
そういう裕理は、赤いパレオ付きビキニの水着を着ていた。
いやー、あざとい。これが可愛くないんなら、嫌味にも程がある。癪だが、可愛い要素しか挙げようがない。
まず、髪をまとめて後ろに留めてるから、それがちょっと元気な女の子っぽさが出ている。それに、なんか、胸のふくらみ方とかが分かっちゃうし、それが控えめなようでよく見るとなんか大きいし……。
でもそれでもやっぱり、裕理の顔をいつも見てるからこそ、映える。
部活の時いつも楽しい時は笑い、からかう裕理。俺がこいつに救われたことも何回かはあるんだぜ。言わないけど。
でも、裕理が笑えば、大体の確率で、俺は笑う。そんな裕理が、自信なさげにちょっと微笑んでいるのがいじらしかった。可愛すぎる。
「先輩! 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ……」
「な、なんでいきなり倒れたんですか……」
「いや、あの。可愛すぎてやばくなった」
「え?」
「あ、だから、可愛いよってこと」
すると、裕理はにんまりして胸を逸らす。
「当然です! ……あ、あと、ありがとうございます」
そしてそれから、少し落ち着いた俺と裕理は二人でプールに入っていた。
あいつ、思ったよりも可愛らしいんだな、と思いながら彼女を見ていると、冷たい水が顔にかかる。
「それっ!」
裕理は両手で水をすくい上げ、俺の顔にかけてきた。
「おっ!」
突然だったからか、甲高い声が出てしまった。そのことに裕理は『あはっ!』と大きな声を出して笑う。
「先輩、いい反応ですね!美味しい場面、いただきぃ!」
楽しげにそう言う裕理。今の彼女の笑顔を見ていると、心の底から楽しんでいることが伝わる。猫被らなきゃもっといいのに。
「もしかしてさ、最近、ここ来たことある?」
「……どうして、そう思ったんですか?」
「なんとなく」
「そうですか。実は来たことあります。友達と来ました」
「なんだ。結局日程は合ったんだな。てか、女友達いたんだ」
「はい。って、失礼ですよっ!」
裕理が頬を膨らまして睨みつける。
「いや、ごめん」
「いえ、まあ、確かに、猫被るの少しだけやめたんです。それでも付いてきてくれた子たちなんで、まぁ大事にしたいかな、って思いまして」
裕理ははにかみながら俺のことをチラチラと見てくる。
「先輩とは、プールじゃないところに行く約束をした方がよかったかなって思ってました。わたし、友達に比べて、水着姿、全然可愛くなくて」
「ええ、それ嘘でしょ」
「いや、友達はみんな可愛いんですよ、すごく。先輩、多分見たら惚れちゃうんじゃないですかね」
裕理は、そんな風に言う。水を手ですくって、俺にかけた。そんな裕理の手を見て、俺は言った。
「それはないだろうな」
すると裕理は自分の手を握る。
「先輩の好きな人って、どんな人なのかなって」
「そうだな。ちょっと一緒にいるだけですごく楽しくなる、素敵な人かな。あざとくて、猫かぶりで、だけど、自信なさげで、すごく可愛いのに可愛くないって言ったり」
裕理の握る手が、ゆるまった。
「……そしたら……じゃあそしたら、もしその女の子が先輩のことを好きなら、あざとくても、猫かぶりでも付き合いますか?」
「あたぼうよ!」
「なんですかそれ」
こんなに人が賑わっていても、俺たちの会話は妨げられない。だから、もう最後まで行こう。裕理が再び、口を開いた。
「なら……わたしは、先輩が、好きです」
そして、自信なさげな様子ではなく、うれしそうにはにかむ。
俺は裕理をぎゅっと抱きしめる。とても温かくて、甘くて、柔らかくて……愛おしかった。
いかがだったでしょうか。