シェリンの頭の中はパンク寸前だった。
聞いたこともない人名。思わぜぶりな剣持の態度、『消えない死神』に怯える神田。
何もかもがわからない中で、一つだけ確かなことがあった。
それは気が付かぬ内にミステリートレインは走り出していたということだ。
発車を知らせるベルを聞き逃してしまっていたようだが、幸か不幸か乗り遅れてはいないようだ。
分からないことを深く考えても仕方ない。とシェリンは何とか頭を切り替えると、
当初の予定通りに早瀬に会うためにシェリンは二号車まで戻ってきていた。
一号室のドアをノックして、しばらく待っていると中から早瀬が出て来た。
「はーい。ってシェリンやんか。どないしたん? 」
部屋から出てきた早瀬の髪は若干濡れているように見えた。
「あ。ごめん。こんな時間に。ちょっと聞きたいことがあってさ。」
シェリンが自分の髪を見たのが分かったのか、早瀬は一度自分の髪を軽く撫でるような
仕草を見せると笑顔で話を続けた。
「あー。これね。気にせんでええよ。で、聞きたいことって? 」
「『クサガ ティアリス』ってどこかで聞いたことあるかな? 」
「『くさがてぃありす』? 」
例の単語を聞いた早瀬は目を瞑り首を傾げるような仕草を見せた。
「いやー...聞いた覚えはないかな? ティアリスかアリスか分からへんけど誰かの名前なん? 」
同じ言葉を聞いた前の二人とは明らかに反応が違っていた。
知らない振りをしている可能性もあるにはあったのだが、デヴューから彼女を近くで見ていた
同期の一人として彼女の表情や反応に偽りはないようにシェリンには思えた。
「そう...ですか。いや、こんな時間に本当にすいません。実は...。」
シェリンはこの数時間の間に自分に起きた出来事を簡単にだが説明した。
剣持が訪ねてきたこと。草賀ティアリスという謎の人物。神田と死神と赤いロングコートの話。
無理もないことだが不思議そうな顔でシェリンの話を聞いていた早瀬が神田の話になった時、
初めて手ごたえのありそうな反応を示した。
「それって...『死神』やんな。」
「んん? どういう事ですか? 」
シェリンの言葉を聞いた早瀬は急に床に屈みこんだと思ったら、その場で正座をしだした。
何をするのかと不思議そうに見つめるシェリンの前で早瀬はそのまま深々と頭を下げた。
「ら、らんねぇーちゃん。何を? 」
慌てて頭を上げさせようとするシェリンの動作に合わせるようにゆっくりと早瀬は頭をあげた。
「もー。鈍いなー。
「落語...ですか? 」
「そう! 私も詳しいわけじゃない。確かー...ある男の前に死神が現れて他人の生死を
見分ける方法を教えてもらうんやけど、その方法の中に呪文を唱えたり手を叩いたりってのが
あったはずだよ。」
シェリンにとって落語という全く想定していなかったジャンルから答えが出てきた。
まだまだ全体像は見えていなのだが、パズルのピースが繋がる音が聞こえた気がした。
「それって具体的にどんなお話なんですか? 」
シェリンの声のトーンとボリュームがワンランク上がっているようだ。
それを察した早瀬も「よいしょ」と言いながら立ち上がり、先ほどの様に少し何かを考えるように
目を瞑った。
「えーっとな。確か...自殺しようとしているダメ男の前に死神と名乗る老人が現れてな
他人の生死を見分ける方法を教えてくれるのよ。で、それを使ってダメ男は医者として
成功するんだけど、有名になってから金に目が眩んで死神を騙して生死を胡麻化すっていう
ズルをしちゃうのよ。それに怒った最初の死神が男を洞窟に連れて行くとな、
その洞窟の中には何本もの火のともった蝋燭があるの。そこで死神が目の前の蝋燭の火は
全てこの世の人間の寿命を表していると死神が教えてくれる。そんで、その中の今にも
火の消えそうな蝋燭を指して、あれが男の蝋燭だ。つまり寿命だってね。
ズルをしたから極端に短くなってしまったと。助けを請う男に死神は新しい蝋燭を渡して
こう言うの『燃え尽きる前に火を移すことが出来れば助かる』とね。
男は急いで火を移そうとするんやけど、緊張と焦りで手が震えてしまい...。」
そこで早瀬は自分の口の前に両手の掌を持ってきた。
両方の掌はちょうど水を掬う時のような形になっており、その何も無い掌の中に向かい誕生日の
蝋燭を消すかのように短くフッと息を吹きかけた。
「...死んじゃったってことですか? 」
「私の知っている話ではね。なんや色んなパターンのオチがあるって聞いたけどね。」
「えっと...その話に『クサガ ティアリス』とか『赤いロングコート』なんて出ませんよね。」
真面目な顔で突拍子もないことを言い出したシェリンに早瀬は思わずプッと吹き出してしまった。
「『死神』は古典落語。アレンジとかはあるだろうけど、基本的にコートだのティアリスだのは
出てこーへんと思うよ。」
話を聞かせてくれたお礼とお休みを伝えて、シェリンは早瀬の部屋の扉を閉めた。
早瀬から得られた情報は少なかったのだが、何かとても重要なヒントを貰えた気がしていた。
シェリンが時計を確認してみると二十二時半となっていた。
早瀬の部屋に長居し過ぎてしまった事を再度反省しつつ、部屋に戻ることにした。
シェリンの頭の中では今まで出てきた単語たちがメリーゴーランドの木馬のようにぐるぐると
同じところを回り続けていた。
「うわっ! すいません! ってシェリンさんか。」
シェリンが一号車へと続くスライドドアを開けのとほぼ同じタイミングでドアを開けようとした
人物がいたことに考え事をしていたシェリンは気が付かなかった。
相手も考え事をしていたのだろうかシェリンの存在に気付かず驚いている様子だった。
「おおっと! なんだ星川さんじゃないですか。」
一号車側に立っていたのは星川だった。
「あれ? 星川さんの部屋は二号車ですよね。こんな所で何を? 」
「ええ? んー...ちょっとねー。」
正直な事を言ってしまえば、シェリンは星川が一号車で何をしていたかということに
さほど興味や疑念を持っていたわけではなかったのだが、星川の受け答えの覚束無さが
薄ぼんやりとしていたはずの不審さに実体を持たせていった。
「じゃ! お休みー。」
シェリンの心も透けて見えていたのか、シェリンが口を開こうとしたのを見た星川は逃げるように
シェリンの脇を足早に通り過ぎ二号車へと向かって行った。
「あ! 星川さん。『クサガ ティアリス』という言葉に聞き覚えはありませんか? 」
「...えっ?
ほんの一瞬だった。本当に一瞬だけ星川は立ち止まった。
シェリンの方を振り返らずに返事をしていたので、星川の表情を確認することは出来なかった。
「いえ。ご存じないなら大丈夫です。」
「そっか。なんか役に立てずにごめんねー。」
最後まで星川は振り返ることなく、そのまま二号車へと戻って行った。
シェリンはしばらく二号車の方を見つめたまま、さっきまでの早瀬との会話を思い出していた。
「『