ある程度は覚悟していたつもりであったのだが、やはり辛い任務だ。
三枝は素晴らしい景観が真っ黒に塗りつぶされてしまった車窓をぼんやりと眺めていた。
そこから幾ら眺めても、黒い硝子には反射した自分の姿が映っているだけなのだった。
静寂に包まれた車内で三枝は暇を持て余していた。
スマホでネットサーフィンをしてみたり、目の前を通り過ぎて行く何人かのメンバーと
軽い会話をしたり、挨拶をしたりということを繰り返していた。
さっき通り過ぎた剣持も憐みの言葉を残して満面の笑みを残して部屋に戻っていったし、
どこかの部屋から出てきた星川も笑いながら二号車へ帰っていった姿を思い出していた。
シェリンが少し話し相手になってくれたのは嬉しかったのだが、まさか彼の口から
出てくるとは三枝にとっても蓄積しだしていた眠気も吹き飛ぶほどの出来事だった。
そう言えば、二号車の方から戻ってきた神田も様子がおかしかった。
死神がどうのこうのと独り言を呟きながら部屋に戻って行ったが、あの話題と何か...。
そこで三枝は考えることを止めた。
これ以上考えたところで、どうにかなる事でのないのだから。そう自分にあの時のように
言い聞かせていた。
「えーと...あ。いたいた。アッキーナ。」
真っ黒になった車窓に映る自分と対話していた三枝を現実世界に引き戻したのは神田の声だった。
三枝の座っていた場所は一号車の客室の前を真っすぐに伸びる廊下の二号車側の突き当たりだ。
声がしたのはその廊下の先。奥から二番目の部屋から神田は顔を覗かせていた。
「どうしました。神田さん。」
噂をすれば影とはよく言ったもので自分の思考との奇妙なシンクロに少し不気味さを抱きつつも、
三枝は神田の居る二号室へと向かった。
ふっと目に入ったスマホの時刻表示は『22:40』となっていた。
三枝が二号室へ向かうのとほぼ同じタイミングで二号車の方からひまわりが姿を見せた。
部屋に戻るかと思われたひまわりは何故か七号室の前で立ち止まった。
七号室は剣持が使用している部屋だった。
何か用事でもあるのだろうかと気になったのだが、今は神田の元へ向かうのが先決だ。
三枝がひまわりの存在に気を取られていると、目の前の扉が開いて中から慌てた様子の
アンジュが飛び出してきた。
「おっと! ごめんなさい! 」
「うわっ! あっと、私こそいきなりごめんなさい。」
アンジュも申し訳なさそうに何度も頭を下げると、二号車の方へ慌てた様子のまま二号車の方へ
去って行ってしまった。
彼女が出てきた部屋は四号室だった。それは間違いなく彼女が使用している客室だ。
彼女の後ろ姿を見送っている時もひまわりはまだ七号室の前に立ったままだった。
「何かあったんですかね? 」
アンジュの様子を見ていた神田も不思議そうな顔で彼女が消えた廊下の先を見つめていた。
「なんでしょうね。って神田さんはどうしたんですか? 」
「ああ。そうだそうだ。ちょっと部屋に入ってみてくれない? 」
そう言うと神田は部屋の扉を大きく開けて、三枝を室内へ誘導した。
三枝も不思議に思いながらも「失礼します。」と言いながら言われるがままに二号室へと
足を踏み入れた。
「うわー...良い部屋っすねー。」
二号車の自分の客室よりもワンランク上の豪華な内装に思わず心の声が口から出てしまった。
「まぁ。それは置いておいて、何か変な音が聞こえてこない? 」
「えっ? 音ですか? 」
三枝は自分たち以外誰もいない部屋の中を見渡した後で目を閉じて耳に神経を集中させた。
『...』
確かに何かが聞こえてくる。
漸く耳に馴染んできた列車の走行音に混じって、微かに何かが聞こえてきていた。
規則正しく刻まれるその音の正体は三枝にも直ぐに。
「これは時計ですか? 」
「ですよね! 良かったー。私だけが聞こえている幻聴なんじゃないかって
不安だったんですよ。」
「そうだったんですか。ちなみに備え付けの時計の音とかじゃないんですよね。」
そう言いながら三枝は再び部屋を見渡してみたのだが、壁には時計らしき物は
掛かっていなかった。
目に付く時計らしきものと言えば大きなベッドの横にあるサイドテーブルの上に置いてあった
アラーム付きの薄型デジタル時計だった。
黒い液晶部分に白い大きなデジタル数字で『22:45』と表示されており、そのすぐ横には
日付と英語表記の曜日も表示されていたが全て正確で狂いはなかった。
「デジタルじゃ秒針の音なんて鳴りませんもんね...ちょっと部屋の中を見て回っても
大丈夫ですか? 」
「ええ。構わないよ。むしろ、原因を見つけてくれたら嬉しいぐらいだよ。」
神田の許可を得た三枝はチクタクという音を頼りに部屋の中をゆっくりと歩いて行った。
耳を澄まして部屋の中を進んでみると、車窓の方へ近づくに連れて音が
大きくなっていくのがはっきりと分かった。
そして、その音が窓際に置かれている青色のソファから聞こえているということも。
三枝がソファの座面と背もたれの間の隙間に手を突っ込んでみると、手が何か金属のような
ものに触れた感触があった。
そのまま三枝は手を隙間から引っ張り出してみると、そこから出てきたものは
シルバーの縁に真っ白な文字盤の良く言えばシンプルな、悪く言えばどこにでもありそうな
デザインの懐中時計が出てきた。
「これが原因だったみたいですね。神田さんのですか? 」
三枝は救出した懐中時計を掌に乗せて神田の前に差し出した。
「いいや。私のじゃないな。前の利用客の忘れ物かな? 」
神田はそれを手に取ってみたりする事なく一目見ただけで判断していた。
そもそも懐中時計を元より所持していなければ、細部を確認するまでもないのも当然ではあった。
「それアッキーナが預かっててよ。忘れ物を『
それを言われてしまえば、三枝に選択の余地は残されてはいなかった。
取り敢えず、懐中時計をポケットに入れた三枝は笑顔の神田に見送られながら二号室を後にした。
誰もいない廊下を指定席に戻るために歩いている途中、三枝は時計をポケットから取り出した。
時計は相変わらずにチクタクチクタクと正確な時を刻んでいた。
時計の針は『22:50』を示していた。
三枝には時計を見つけた時から
その答えが気になってしまい、時計を見つめていたのだ。
しかし、幾ら時計を見つめようとも懐中時計からは時を刻む音しか返ってこなかった。
「はぁー...良かった。」
その声が聞こえてきたのは時計からではなく、三枝が向かっている先から聞こえてきた。
三枝の座っていた椅子のすぐ近くにある二号車側の入り口から姿を現したのは、
先ほどとは打って変わって落ち着いた表情をしたアンジュだった。
「何か良いことでもあったんですか? 」
「うわっ! さ、三枝さん驚かさないで下さいよー。」
「ごめんごめん。驚かすつもりじゃなかったのよ。さっき焦って部屋を飛び出してたから
気になっちゃってさ。」
三枝の言葉を聞いたアンジュの顔は何故か真っ赤になってしまっていた。
「えっと...その...まぁ良いじゃないですか! ね! じゃ、おやすみなさい! 」
そのままアンジュは四号室の中へと姿を消した。
何故なのだろうか。
三枝は指定席に座りながら考えていた。
何故忙しい時間はドミノ倒しの如く、立て続けに何かが起こるのに、
何も起きない時間は本当に何も起きないのだ。
うまい具合に分散して起こればいいのに図ったかのように同時に何かが起きるのには
何か科学的な根拠があるのだろうか。
そんなどうでも良い事を考えながら三枝は交代の時間を只管に待っていた。
スマホの時刻表示は『23:20』となっていた。
三枝の希望とは裏腹に交代までは、まだたっぷりと時間は残されていたのだった。
「三枝さーん...。」
「んっ? リゼ様? 」
微かに聞こえてきたのはリゼの声だった。
三枝は声が聞こえてきた時に、そのあまりの小さな声に空耳ではと疑ってしまった。
リゼは廊下の奥の方の部屋からひょっこりと顔を覗かぜていた。
暗くてはっきりとは判断出来かねたのだが、随分と顔色が悪い様に三枝には見えた。
急いでリゼのいる三号室へと三枝が向かった。
「どうしたんですか。顔色が悪そうだけど...。」
リゼは三枝に余計な心配をさせまいと、今出来る限りの精一杯の笑顔を三枝へ向けた。
「あはは...大丈夫なんですけど...ちょっと偏頭痛が酷くって...。
本来なら自分で取りに行かなきゃいけないんですが、もし良かったらミネラルウォーターを
持ってきてもらえたりしないかなーって...。」
「そんなのお安い御用ですよ。ちょっと待ってて下さい。」
「本当にありがとう。」と深く頭を下げながらリゼは三号室の扉を閉めた。
その時だ。三号室の扉と連動しているかのように隣の客室の扉が開いたのだ。
隣は二号室。つまり神田の利用している部屋だった。
しかし、部屋の中から出てきたのは神田ではなかった。
正確に言えば、神田ではなさそうな人物だった。
その人物は車内だと言うのに赤いフード付きのロングコートを着込んでいた。
それに付属のフードを目深に被っていたために顔も見えなければ、性別さえも判断できなかった。
赤フードは部屋を出ると不思議そうに見つめる三枝の横を何も言わずに足早に通り過ぎていった。
その赤フードが五号室の前に差し掛かった時に五号室の扉が開き中からちひろが出てきた。
ちひろも驚いた様子でフードの人物を見上げていたが、赤フードは構うことなく進んで行き、
そのまま二号車へと姿を消したのだった。