ざあざあ、ごおごお。
風の強い、新月の日。
木々はしなるように揺れ、竜達は息を潜めて眠りに就くその夜の事。
とある水辺に一匹の竜が訪れていた。
風が強く嗅覚は大して役立たず、月明かりは微塵もなく完全な闇夜に近い。しかし身に侍らせる雷光虫を光らせてその全身を仄かに映し出しながら、ゆっくりと迷いのない足取りで歩いている。
そんな巨躯の竜は一時足を止めて、何かを思い出していた。
普段ここらで魚を食み、時折鎌鼬竜などを泡まみれにして自由気ままに過ごしている淡い桜色をした泡狐竜は、この地の主、雷狼竜にとって至極頭を悩ませる存在だった。
縄張りを持って暫く、丸鳥を今日も頂こうと水辺に訪れれば、体を丸めてすやすやと眠っていたその泡狐竜。理解が追いつかなかったのは極僅か。マーキングを怠ってなかったかを思い出してそれはつい先日であった。
この竜はこの地が自らの縄張りであると理解しながら、堂々と惰眠を貪っているのだ。そう理解した瞬間に、雷狼竜は雄叫びを上げた。縄張り一帯に響き渡る、怒り一色に染まった咆哮である。
だがしかし。その泡狐竜はそれを聞いても目をしぱしぱとさせながら、ゆっくりと胴に包んでいた首を持ち上げるだけであった。
その様子が雷狼竜の感情をより逆撫でする。一っ飛びでその頭を叩き潰さんと前脚を掲げれば、するりと泡狐竜は動いて躱す。
その泡狐竜が眠っていた場所に着地した雷狼竜は、そのまま地面を叩き割り、そしてずるりと滑り転げた。
必死に立ち上がれば、その泡狐竜はそんな様子を近くで面白げに眺めているだけ。
怒りが我を失う程になった雷狼竜はしかし、そこからの事を余り思い出したくはなかった。
搦手を含めて自らの持つ全ての攻撃手段をどれもこれもを余裕綽々で躱されて、挙句の果てに息絶え絶えになった自らに手加減していると分かりきった水泡でばしゃりと全身を改めて泡まみれにされてしまえば。地から飛び立てない雷光虫と、そして滑る全身で立っている事もやっとな自らを認めてしまえば。
この泡狐竜が自らよりも格上であると今更に理解する。
その途端に恐ろしくなって及び腰になった自らに対して泡狐竜が近寄って来れば、ピンッとその頬を爪で弾いて、まるで楽しかったとでも言わんばかりに喉を鳴らして去っていった。
悔しくて情けなくて、その日は好物の丸鳥も叩き潰してしまって。そしてその泡狐竜は図々しく、そして勝者の権利だと言わんばかりにこの地に留まり続けたのであった。
自らを鍛え直す事に決めた雷狼竜は、しかし日々が過ぎ去ってあの時よりも如実に強くなったと断言出来るようになった頃にはもう既に、泡狐竜に再び戦いを挑もうとは思わなくなっていた。
泡狐竜は魚を食い、自らは肉を食う。食性が競合している訳でもなければ、泡狐竜はあれだけ強いと言うのに戦いを好む気質でもなくただただ惰眠を貪り、時々そこらの木端な竜に悪戯を仕掛けて楽しむばかり。
追い出す理由など強いて自らの矜持しかなければ、また一度生殺与奪を握られた自分が強くなったからと言って追い出そうとするその行為そのものが自らの矜持を傷つける事でありそうで。
そんな事に気付いてしまえば、詰まる所は雷狼竜は何の為に強くなろうとしたんだったかと強く溜息を吐いたのであった。
ただ、それでも泡狐竜より強くなりたいという気持ちばかりは残り続けて。
泡狐竜もそんな愚直に鍛錬を続ける雷狼竜を、当初のように物好きな目線で眺める事はしなくなっていた。
*
馴れ合う事はしない。かと言っていがみあう事もない。
刺々しくもなければ、柔らかくもない、そんな関係が季節が幾度と巡っても平行線のように続いたある日の事だった。
風が強い日が暫く続いている時に、泡狐竜はどこか元気無さげにしているのに雷狼竜は気付いた。
いつもは堂々として寝ているのに、今は岩場の隅や物陰に隠れて眠る事が多くなっている。また、眠りも浅いようでその目つきは今となってはどんよりと。そして、趣味と言っても過言ではない竜へのちょっかいなどは全くしていない。
それが数日であればそう大して気にする事も無かっただろうが、気付いた時にはもうそれが暫くの間続いていた。
どこか悪いのだろうか? そんな心配は気付いてしまえば、瞬く間に膨れ上がる。意を決して雷狼竜が近付いてみれば、ぱちんっ、と周りに撒かれている泡が弾けて、それと同時に泡狐竜は飛び起きた。
初めて見る泡狐竜の臨戦態勢は、雷狼竜も思わず肩を怒らせる程に気迫に満ち溢れており。しかし、来たのが雷狼竜であると分かればほっとしたように気を落ち着かせた。
大丈夫なのか? と聞くかのように雷狼竜が喉を鳴らせば、泡狐竜は暫く雷狼竜をじっと見つめた後にどこかへと去っていった。
大丈夫なんだろうか……? と思うのも束の間。より一層風が強くなりつつあった夜に雷狼竜の寝床、岩肌にぽっかりと空いた洞穴に戻ってみれば、その泡狐竜が丸まり直しており。
しかし久々に安眠出来ている様子を見てしまえば、追い出す事も憚られて。
そして雷狼竜は魚でも獲ってきてやろうか、と気紛れを起こしたのであった。
新月の夜。水辺までやってきた雷狼竜は、今更ながらに何故泡狐竜はあんな様子だったのだろう? と疑問に思い始めた。
何と言えば良いのか……。体が傷ついたとか、毒を身に受けてしまったとか、そんな様子では無かったように思える。
ひゅるるる、と風が吹く。強い風。ざわざわと揺れる木々。
今更ながらに雷狼竜は、そんな天候に不穏さを感じた。そう言えば泡狐竜の様子がおかしくなったのも、風が強くなり始めてからではなかっただろうか?
とりわけ風が強くなっているこの夜。泡狐竜がいつも魚を獲っている水辺までやってくれば、ゆっくりと爪先をその深みに浸した。
とにかく。魚を獲って戻ろう。
風が強ければ魚も深みに逃げてしまっていないだろうかと不安に思いながらも、そうして雷狼竜は強めに電流を流した。
ぷかりと浮かび上がってきた魚達にほっとしながら、雷狼竜はそれらを出来る限り口に含めて帰路に着いた。
ざあざあ、ごおごお。ざあざあ、ごおごおお!
風は更に強く、激しくなっていた。
視界の為に飛ばしていた雷光虫は瞬く間にどこかへと飛ばされていき、真っ暗闇の中を自らの雷だけで駆けていくしかない。
そんな中で自らは未だ、あの泡狐竜に及んでいない事を思い知った。
今の天気は明らかに異常だった。嵐のように風が激しいのに、雨は微塵も降っていない。雷が落ちるような事もない。ただひたすらに風ばかりが異様に強い。
この異変をあの泡狐竜は早くから感じ取っていたのだ。自分は感じ取れなかった。
木の根に転んで、けれど口に含んだ、咥えた魚は落とさない。噛み千切らない。危険を今更に感じているのも馬鹿みたいだが、何も持たずに帰りましたなんてそれも馬鹿じゃないか。少しは格好つけさせろ。
起き上がって走る、走る。
べきべきべきべき、ばきっ、ぼごぉっ!!
木が根本から抜け落ちているような、岩が持ち上げられているような、そんな信じられない音が響いている。
明かりを自らから完全に消した。何かが居る。きっともう近くに。見つかったら最期だと思った。
幸い、もう近くだ。自分の臭いが強く根付いた寝床の臭いも届いてきている。走れ、走れ!
「……! ……!?」
誰かが叫んでいた。
枝が、小石が、体にびしばしとぶつかる。鍛えた肉体に、容赦なく突き刺さるそれは甲殻越しでも確と痛みを感じさせる程に激しい。
駆ける、駆ける、曲がって転ぶ。魚は落とさない。再び立ち上がる。
「ギュウ、ギャウ!!」
泡狐竜の声だった。自らを呼んでいた。
雷狼竜が駆けて、着いた。鼻息荒く、そして何も言わない自分に噛みついて即座に洞穴へと引っ張っていった。
「キュゥ……」
心配したんだから、と言いたげに暗闇の中で声を出す泡狐竜に、雷狼竜は雷光虫を光らせた。
唐突に明るくなった泡狐竜の目に入ってきたのは、頬を膨らませてまで魚を口一杯に獲ってきた雷狼竜の姿。
一瞬呆然とした泡狐竜は次の瞬間、馬鹿じゃないのと言うように思わず尻尾でその頬を叩いていた。
バヂィッ!!
「ベッ?!」
岩肌に叩きつけられた雷狼竜は思わず全ての魚を吐き出し、目を回して倒れてしまう。
力加減を間違えた。そんな様子に慌てて泡狐竜は介抱し始めるも、その口元は緩んで暫く戻る事はなかった。
3時間クオリティ。
ジンオウガ: 下位 => 上位
タマミツネ: ヌシ