純白の傍若無人の訪れは、血の臭いと共に月夜を穢して貶めた。
寒冷諸島。夏でも洞穴の中では雪が残っているような冷たさを残すこの地に、一匹の雪鬼獣が住んでいた。
強さを誇示する事にそう強い関心を抱かなかったその個は、縄張りというものにもそこまで興味を抱かず、日々をその風貌に似合うようにのっそりと過ごしていた。
昼は人魚竜が気ままに歌うのに耳を傾け、上機嫌に唸っていれば怒って出てきた河童蛙を殴って返り討ちにする。
時折ポポを食べに来る轟竜が図太く眠る、その大きな鼻風船を割りたい衝動を抑えながら、今日は自分もポポを食べようかとのんびり思う。
鎌鼬竜や眠狗竜が群れを率いて縄張り争いをしている様を高みから眺めて、傷付き置いていかれた子分を美味しく頂く事もあれば、どこからともなく現れた金獅子や爆鱗竜が目に付く全てを滅していくのをひっそりとやり過ごす。
狩人がやって来る事もあるが、基本はそれもやり過ごす。並の狩人ならば倒せるとは思うし、食らったところで満腹にもならないだろうという理由もあったが、それ以上にその自らが敵対する事を選ばない金獅子や爆鱗竜、時に怨虎竜から鋼龍までを打ち倒してしまうのを見てしまえば、戦おうとは思えなくなった。
そんな日中を終えれば狩りの刻。唸り声を上げながら耳を済ませば、草食の獣達が逃げていく音が漏れ出して来る。如何に気をつけようとも、全ての獲物が草を掻き分け、枯れ枝を一本も折らずに逃げていく事はほぼほぼ起こらない。
そして狙われた獲物は、その風貌とは似合わない俊敏さを以て確実に仕留めて見せた。
口周りにべっとりと付いた血を拭いながらふと空を眺めれば、冷たい空気に月明かりと散り散りの星が鮮明に映る。分厚い雲に丸々覆われる事もあれば、霧のような雲が淡くぼやかす事もある。そんないつ見ても同じ様子を見せない空は、どれだけ見ても飽きは来ず。
後片付けは血の匂いに連られてやって来る肉食獣や奇怪竜に任せて、満腹になった腹を擦りながらゆっくりと眠る。
そんな悠久の日々をただただひたすらに過ごす事。雪鬼獣にとっては、それのどこにも不満はなかった。
ある時、その寒冷諸島に一匹の氷牙竜がやって来た。
氷牙竜自体は良く見かける特段珍しくない竜ではあったが、それは初めて見る個体であった。
先ほど見つけたとても汚いガウシカの捕食痕は彼のものなのだろうか? 見せつける事を目的としたのだろうかと思う程に血が撒き散らされており、食しにくい部分に関しては丸ごと残されていたその捕食痕。ポポを余す事なく味わい尽くす轟竜とは全く正反対な食事であり、もしその轟竜がこんな痕跡を見たならば怒り狂って叩き潰すかもしれないと思う程。
全身を余すところなく使う苛烈な攻めを見せながらも、種としては落ち着いた振る舞いを見せる個しか見る事がなかった雪鬼獣にとっては、それが氷牙竜のものだとは最初は信じられなかった。
しかし、未だ赤さを残す血が顔にこびりついている様を見てしまえば、否定の余地は殆ど失われてしまう。
さっさとどこかに行って欲しい。もしくは轟竜とか、金獅子や爆鱗竜やらに殺されて欲しい。それが第一印象だった。
だが、その氷牙竜は、そんな思いとは裏腹にこの地に留まり続けた。
そしてそれは、時折訪れる竜達よりも遥かに厄介な存在だった。
轟竜はポポを一匹食べて寝て帰るだけ。満足気に帰って行く時に鉢合わせても、何もして来なかったりする。
金獅子や爆鱗竜に対しては、一時、長くても半日程度でも身を潜めていれば勝手にどこかへと行ってくれる。怨虎竜や鋼龍も似たようなものだ。
けれども氷牙竜は、どこにも行かなければ、ひたすらにこの地を唯我独尊に闊歩し続けた。
己の存在を知らしめるようにわざと音を出しながら、痕跡を強く残しながら歩き、食事はそんな誇大した自尊心をそのまま表すかのように酷く汚い。
ある時、ざぱざぱと水辺で態々音を立てながら歩いている様を耳障りに聞いていると、河童蛙が飛び出してきたのが聞こえた。
「……」
聞いていれば、ぶづぅ、と無情に牙が肉に突き刺さる音から、一気に切り裂かれる音までが届いてくる。
一瞬遅れて寒冷諸島一帯に響いた断末魔は、途中で途切れた。
後は、立ち去っていく音ばかり。覗いてみれば、腹を上から下まで深く切り裂かれたその河童蛙。内臓ははみ出し、喉をも食い千切られており、その水辺は一気に赤く染まりつつあった。
……別に殺す程の相手じゃなかっただろう。
幾ら殴り返しても数日後には忘れたように怒って出て来るその河童蛙の事を、僅かながらでも好ましい存在だと思っていた事に雪鬼獣は今更気付いた。
死んでくれないだろうか? 今となってはただただ素直に、それだけを思った。
*
それから数日が経った。
しんと静まり返る夜に雪鬼獣は歩いている。今となっては乾いた血の臭いが辺り一帯を薄らと覆い続けている。
歩いていれば、食い散らかされたポポやガウシカ、それから食われてもいない翼蛇竜が地に墜ちている様を頻繁に見せつけられる。
命の気配はめっきりと失せてしまった。
いつも争っている鎌鼬竜や眠狗竜はこの一大事に身を潜めようとしたが、鎌鼬竜はばったりと出くわしてしまい、子分諸共、戯れにその氷海へと弾き飛ばされた。
必死になって岸へと上がろうとするその鎌鼬竜達はその氷牙竜に執拗に押し戻され、そして力尽きて沈んでいった。
人魚竜はその紫のヒレを引き千切られながらも辛うじて逃げ出し、それっきり帰って来ない。
奇怪竜は目を背けたくなるほどにズタズタにされていた。
そんな時に限って、他の厄介な竜や狩人、古龍と言った存在はこの地を訪れてはくれなかった。
時折ポポを食べて帰って行く轟竜がこの惨状を見たならば、毛皮なしにこの地で平然と出来る程の桁外れな膂力を以て破壊してくれただろう。けれど、今はポポを食べたくなるような気分ではなかったらしい。
また、狩人は秩序という事柄に極めて敏感だ。こんな事態になっているこの地にやって来る事を期待していたのだが、そんな事は無かった。認識を改める必要があるかもしれない。
そして、金獅子や爆鱗竜、怨虎竜や鋼龍もやって来てはくれなかった。
雪鬼獣に残された選択肢は、この地を去るか、自らで片をつけるか、そのどちらかしかなかった。
残念ながら、氷牙竜は弱くはなかった。
しっかりと成長しきったその体躯は地を駆け、空を飛び、壁面を這う事のどれをも精到にこなして見せた。
その口から放たれるブレスは鋼龍のように、とまでは行かないにせよ、それによって発生する気流に巻き込まれた翼蛇竜が何も出来ずに地面へと堕ち、そして飛び立てないままに屠られる程に激しい。
そして一番の特徴である長く伸びた琥珀色の牙は言わずもがな、河童蛙や奇怪竜を容易く引き裂いて見せる程に鋭く頑丈だ。
この地にやって来てからは弱者を甚振る姿しか見ていないが、少なくとも争い事をそう好んでいない自分が楽に勝てる相手ではない事は確かだった。
だからこそ、誰かが殺してくれる事を期待していたのだが。
それが叶わず、長くに過ごして来た、荒らされまくったこの地を放ってしまえる程、この雪鬼獣は矜持を捨ててはなかった。
氷牙竜も長い時間をこの地で過ごしている。この辺りの地理もすっかり理解したその氷牙竜がいつ、どこで何をしているのかは雪鬼獣にとって大体察しが付いている。
覚悟を決め、殺意を固めた雪鬼獣は、今、氷牙竜が寝ているであろう場所へと歩みを進めていた。
白い息が口から漏れる。周りの無音さがやけに耳に響く。
最後に命を賭す程の殺し合いをしたのはいつだっただろうか。思い返して、爆鱗竜に狙いを定められた時の事を思い出した。
最終的に爆鱗を使い切ったその顎をかちあげて、喉から頭へと氷の刃を貫いた感触。
達成感よりも、ひたすらに爆発を避けながら勝機を伺い続けた徒労感の方が強かった。
……あれはどれだけ前の事だっただろう?
それは思い出せなかった。ただ、それでも、その夜に眺めた月はとても美しかった事は覚えていた。
振り返って、月を眺める。薄らと漂う血の臭いが果てしなく邪魔であった。
その事実を確認すると、殺意を固め直して前を向く。
月を見る為にも、あの氷牙竜は生かしておけない。
その氷牙竜が寝床に選んでいるのは、高低差の激しい、入り組んだ岩場のその中だ。
視界は開けず、縦横無尽に駆ける事の出来る氷牙竜が全力を出せる場所でもある。そこへと、雪鬼獣は辿り着いていた。
四つ足でゆっくり、ゆっくりと。慣れないながらも慎重に草木や枯れ枝を踏み抜かないようにその地を探って行く。
出来れば、寝込みを襲って片付けたい。
手強い相手にそう思うのは、必然だっただろう。しかし、氷牙竜の動向を雪鬼獣が理解していたのと同時に、その逆も然りであった。
すぐに刃向かっては来なかったとは言え、この地で最も強いのはこの雪鬼獣である事を氷牙竜も理解していた。そして、自分がこの地を荒らしている限り、いつかは襲って来るだろう。
そう氷牙竜は信じていた。
岩場に登り、その中を見渡す雪鬼獣。しかし、幾ら目を凝らしても、その中に氷牙竜の姿は見えなかった。雪にその白い姿を上手く溶け込ませているのだろうか? それとも、今日はここで寝ていないのだろうか?
何にせよ、嫌な予感がする。そうして体を起こした時。風切り音が自らに向かって聞こえて来た。
振り返ると同時に腕を振るう。
ーーぶぢゅぅ。
滑空して襲いかかった氷牙竜のその双牙が、右腕を貫いた。
「ゴッ、アッ」
反対側まで双牙が飛び出している。
理解しきれない現状に、脳に弾ける痛みに、しかし砕けんばかりに歯を食いしばる。引き千切られる前にその頭を左腕で掴み、一緒に倒れ込む。
岩場から転がり落ち、その弾みで右腕から牙が抜けた。しかし肉を残酷に引き裂きながら、骨を複雑に削りながら。
何を叫んでいるのか自分でも分からない。涙が抑えきれずに視界が歪んでブレる。呼吸が乱れに乱れて起き上がれない。
けれど、それでもその氷牙竜が転がり起き、そのまま飛びかかって来たのに雪鬼獣は反応した。反応しなければ殺されるだけだという事は、今までこの手で数えきれぬ程の命を奪って糧にしてきた雪鬼獣にとっては理解しきっている。
素直に首へと向けられたその牙を、側頭を殴りつけてずらす。眼前を牙が通り、角を深く削った。
しかし同時に翼腕のスパイクが体に突き刺さる。前足が胸ぐらを掴み、氷牙竜はそのまま抑え込んで馬乗りになろうとする。
だが当然、雪鬼獣もやられっぱなしではない。側頭を殴った左腕、逸れた氷牙竜の頭。その左腕の前には氷牙竜の首があった。伸ばして掴む。
みしぃ。
氷牙竜は咄嗟に飛び退いた。首から、つー、と血が垂れる。少しでも遅れていたら首の肉を抉られていたその恐怖は、再び襲いかかるのを思わず躊躇う程だった。
その間に、雪鬼獣はよろよろと立ち上がった。ぼだぼだと数多に血が垂れ続けるその右腕には、もう指に力が入らなかった。
「ゴアアアアアッ!!」
「ゴゴガガガッ!!」
互いに自らを奮い立たせるように咆哮をし、氷牙竜は跳ねるように飛び上がり、すぅと息を吸う。
それに対し、雪鬼獣は氷のブレスを自らの両腕へと吐き掛けた。
パキ、バキバキキッ!
瞬く間に腕から氷が生え伸びる。
氷牙竜が氷弾を放つ頃には右腕には貫かれた腕をも覆う巨大な氷の拳が、左腕にはずらりと太く長く、そして鋭い氷の刃が形成されていた。
そして、氷弾はその刃で弾き飛ばされ、誰も居ない岩肌に当たって砕けた。
躱された事はあれど、弾かれるなど初めての事だった。思い描いていた次の選択肢のどれもが掻き消され、氷牙竜は思わず硬直する。
だんっ!
その次の瞬間、跳躍した雪鬼獣が氷牙竜の目前まで迫っていた。掲げられる氷の刃は心の根を凍らせるには十分過ぎる脅威、咄嗟に躱そうとしてももう遅く、氷の刃は氷牙竜の片翼腕のスパイクを一気に砕き、そしてその先端を折り飛ばした。
互いが着地する。今度は雪鬼獣が追撃を仕掛けた。痛みに叫びながらも氷牙竜は飛び退き、壁に張り付こうとする。しかし、ずるりと滑り落ち、そこへと雪鬼獣は氷の拳を叩きつけんと追いかける。
咄嗟に振われた氷牙竜の尾、それを氷の刃で受け止めれば、ざくりと切り裂きながらも雪鬼獣もよろけて止まる。
再び氷牙竜が痛みに叫ぶ。叫びながらも、スパイクを砕かれ自慢の機動力を削がれた氷牙竜は怒り頂点に達しており、もう既に次の行動に入っている。
雪鬼獣が殴りつけるよりも早く、その腹に氷牙竜のタックルが見舞われた。
氷牙竜の純粋な膂力は雪鬼獣を下回っている。しかし今は二足と四足、雪鬼獣は後ろへと崩れ、一旦そのまま転がって体勢を立て直そうとする。
氷牙竜がそこへと飛びかかった。雪鬼獣は先程と同じく右腕を前に出してガードし、そこへと再び牙が突き立てられた。
それは氷の拳をも容易く突き破り、再び雪鬼獣の右手を貫いた。
「ギュ、ガアアアアア?!」
叫ぶ雪鬼獣。氷牙竜は強引に引き千切りながら牙を抜く。どばどばと血が吹き出し、指の何本かが千切れて飛んだ。
ごきゅり。
氷牙竜は血を、肉片を飲み干し、そして今となっては滅多矢鱈に氷の刃を振り回すだけの雪鬼獣にじっと向き直る。
そしてその氷の刃が振り抜かれたと同時に、今度こそ止めを刺そうと飛びかかった。
三度目。しかしそれも、もうボロボロになった右腕で受け止められた。また一度目とも二度目とも違うのは、雪鬼獣の体勢が全く崩れていない事。雪鬼獣がそれを覚悟して受け止めた事。
叫ぶのを止めて、歯を食いしばって堪え、赤く染まった雪鬼獣と目が直近で合う。震えるその全身。
……誘われた。
そう理解した時にはもう遅く、強烈な頭突きが見舞われる。
ぶぢぶぢ、べりり、びぢぃっ!!
右腕が引き裂かれるのも厭わず、雪鬼獣はそのまま怯んだ氷牙竜を岩肌へと叩きつけ。そして、もう使い物にならなくなったその右腕を自らの氷の刃で切り落とした。
崩れる氷牙竜。目が回り、藻掻くその間に切り落とした右腕の先へと再び氷の拳が象られていく。
逃げなければ、逃れなければ!
だが。やっと視界が整ったその眼前に迫って来たのは、自らの頭程にもある氷の塊だった。
ゴシャッ。
その氷牙竜にとって一番の武器であり、また番を見つける為にも最も重要視される琥珀色の牙は、二本とも砕けて飛んだ。
からんからんと虚しく音を鳴らして落ちるその牙の音が鳴り響く頃には、もう氷牙竜の耳はそれを受け取る事は出来なかった。
しかし雪鬼獣はびくんびぐんと震えるだけの氷牙竜の頭を未だ抑えつけながら左腕を、氷の刃を高く掲げて、振り下ろした。
ボコォッ。
首の骨が砕ける音と共に、氷牙竜の四肢が跳ねて落ちる。そしてもう一度、左腕が掲げられた。
ベチャァッ!
首の筋肉が叩き切られると同時に、氷牙竜の四肢がびくんと小さく震えた。更にもう一度。
ガズバァッ!!
氷牙竜の胴体と頭は離れて、そうしてやっと、雪鬼獣は息を吐いた。長く長く、痛みを堪えながら、目を閉じて。
勝鬨を上げる事もなく、静かに、静かに身を落ち着けていった。
*
……ずっ、ずず。……ずっ、ずず。
体を引きずるように雪鬼獣は歩いていた。千切れた右腕には氷を纏い、左腕には牙が折れた氷牙竜の頭を掴み。
ここまで手痛い傷を受けるくらいだったら、別の場所に行けば良かっただろうか? そう思ってしまう程に、右腕からは未だ泣き叫びたい程の痛みが伝わって来ていた。
けれど。
月の良く見える岬へと着き、雪鬼獣はどさりと座る。そして、持って来た氷牙竜の頭を海へと投げ捨てた。
ぼちゃん。
ただそれだけの音を鳴らして、後は波打つ音ばかり。
前を向く。
散りばめられた星々。ゆっくり、ゆったりとただ浮かぶだけの雲。空高くに登る月と、それを揺れながらも海面に映し出す月。
これにはそれだけの価値がある。
氷に包まれた右腕を撫でながら、雪鬼獣は徒然にそう思った。
それから暫く。
横たわり、意識が眠りへと誘われて行く頃。
どこかからか、聴き慣れた歌が聞こえた。
ある方の絵へのファンノベルだったりする。