リノリウムの床に硬質な靴音が響く。研究所の長い廊下をイヴはどこへ向かうでもなく歩いていた。
壁も床も天井も真っ白なこの建物は表向きはとある会社の製薬研究所になっている。
機械音だけが辺りに響き高く設えた窓から冬の穏やかな日差しが差し込む。ここで行われている非人道な実験が嘘のように平穏が建物内を支配していた。
立ち止まり窓の外を仰いでいると廊下の奥から一人の職員が走ってきた。
職員はイヴを見つけると急いで立ち止まり乱れた息を整えようと荒い呼吸を繰り返す。
「ご報告が…アリスがまた暴走を」
どうにか言葉を話せる位まで呼吸を落ち着かせると一気にまくしたてる。
「手榴弾のピンを抜いてそのまま自分に…」
先程起きた光景を思い出して職員は胃の中身が逆流しそうになるのを感じた。
虚ろな目をした少年は何の躊躇いもなく爆弾のピンを抜くと抱え込んでしまったのだ。爆発音と衝撃波の後目の前には噎せ帰る血と焦げた肉の臭いがしていた。
「自死に繋がる物は遠ざけるように伝えてあった筈だけど?」
そう投げ掛けられ職員の体から血の気が失せる。恫喝された訳ではないイヴの口調はただ穏やかで責めるようなトーンでは無かった。
それでも職員の体からは冷や汗がでて止まらなくなる。イヴの持つ気配に圧倒され膝から崩れ落ちてしまいそうだ。本来なら顔を見て報告しなければならないのにずっと俯いていてしまっている。目を合わせるのが怖い。
「申し訳ありません。実験の仮定で致し方なく」
目の前の相手の得体の知れない雰囲気に飲み込まれる、自分とそう年も変わらない見た目なのに彼はこの施設の副所長を務めている。
若くしてのしあがった訳ではない、この施設に居る人間は自分が入ってきたときにはもうイヴは居て副所長になっていたと誰もが言うのだ。
「それでアリーシャは?」
「は?」
俯いていた視線を思わず上げてしまう。
顔の半分を仮面で隠しているがその顔立ちは恐ろしく整っている。
少し困ったような笑みを浮かべていたがその目の色は楽しそうにも見えた。
「アリスのことだよ、容態は?」
少しだけ混乱する。あの個体にちゃんとした名前があったのだろうか。それともペットか何かの代わりに勝手に彼がそう呼んでいるだけなのか。何にせよ職員が目を通した名前は「アリス」だった。気になりはしたがこれ以上詮索して彼の気に触るかと思うと体が震えた。
「現在応急措置中です。ただ予断はゆるさないかと」
どうにかそう伝える。早く報告を終わらせてこの場から逃げ出したいのが本音だ。
「分かった。直ぐに向かうからそのまま処置を続けて」
差し込む日差しと同じようにゆっくりと穏やかにイヴが答える。何故彼がそこまでアリスに
尤も壊したのは目の前の男であることも職員は聞いていた。
「それと、止めに入った職員が数名巻き込まれ重体ですが」
その報告にイヴは相変わらず困ったような笑みを浮かべていたがその目からは興味が失せているように見えた。
「そっちは任せるよ」
そう一言だけイヴは答えた。報告は終わった、えずきそうになる喉を押さえて職員は
「ああ、それと」
駆け出そうとする足をまとわりつくような声が止めた。
振り返りたくない気持ちをどうにか押さえてもう一度イヴに向き直る。
「あれの準備もしておいて」
「は?」
思わず聞き返してしまう。入ったばかりの下っぱの自分には知らされていないことが多すぎる。
困惑した表情を向けるとイヴは楽しそうに笑みを濃くした。
ー熱いー
身体中を炙るような熱が皮膚を引き裂いて痛みを植え付けていくような感覚を与えた。反射的に開きそうになる瞼を無理矢理閉じる。目を開けた所で見える景色は暗闇も同然だ。
痛みも熱もまだこの世に生きているからこその生体反応。それが何よりもアリーシャを絶望させる。
どうしてまだ生きているのだろう、心などとうに死んでいてあるのは死を
何も感じない、何も目に宿さない。痛みを覚える熱さとは裏腹に心は
このまま身体ごと冷たくなれば良いのに、そう願っても肉体は痛みに耐えようと短く荒い呼吸を何度も繰り返し筋肉を収縮させている。
(お願い、もう終わらせてー…!)
ふいに手が暖かな温もりに包まれる。
身体を
(……………だれ?)
この施設に
熱に魘されてバラバラになった記憶が時系列を壊して繋がる。
手を握ってくれる。それは懐かしてく愛しいヒトがよくしてくれていた。
(おにぃちゃ………)
違う、彼はもうどこにもいない。自分が殺してしまったのだから。
反射的に閉じていた目を開いてしまう。
いつの間にか目には涙が溢れていた。
視界はやはり黒くぼやけていた。アリーシャの死んだ心を、この世界の残酷さを映すようにただただ黒く輪郭を持たない姿。
意識が途切れそうになるのを必死で耐える。
知りたかった、誰に手を握られているのかを。
視線を移すとその姿が見える。
輪郭は相変わらずはっきりしない、それでもそこだけは黒くなかった。
イヴでもお兄ちゃんでもない。その子はいた。
視線が合う無防備なまでに優しい黄色の
ー大丈夫だよー
瞳はそういっているように思えた。
鉛のように重い瞼を開く。
目に写ったのは無遠慮な蛍光灯の灯りと無機質な白綾の壁だ。
変わることのない施設内の病室のベッド。また今生に引き摺り戻されてしまった。意識ははっきりと戻っても何も感じない。絶望することさえ煩わしくて
「よかった……目が覚めた…んだね」
ゆっくりと瞬きをしているとどことなくぎこちない、けれど安堵したような声が耳に届いた。
反射的に起き上がろうとすると身体中に鈍い痛みが走った。仕方なく首と視線だけで声のした方に向き直る。
そう広くない病室の端と端にベッドは並んでいる。いつもは誰もいないベッドに男の子が一人座っていた。
銀色の短い髪は透き通るようだが片方だけ無造作に伸びてしまっていて柔らかい黄色の瞳を覆い隠している。身体は頼りなく細かったがアリーシャとそう年は違わないように思えた。
「すごく
男の子は嬉しそうに話し始める。白い頬に少しだけ赤みがさした。
「あ、それでベッドから動くなって怒られちゃって……」
尚も男の子は話し続ける。まるで話すこと事態が珍しくて楽しいみたいだ。
「…だれ?」
アリーシャの小さな口からも言葉が漏れた。
今まで年の近い子供が生物兵器の実験対象として施設内にいなかった訳ではない、同じ年くらいの子やアリーシャよりもっと小さな子供も見掛けた事もあった。
けれど皆死んでしまった。実験の過程で戦いの中で、処分妥当と判断されて残っているのは自分だけ。アリーシャはそう記憶していた。
「あっ……ごめん!…なさい。そう…だよね」
何故そんなに慌てふためくのか分からないが問われた男の子はあわあわと取り乱している。
それからシーツを一度きゅっと握りしめるとアリーシャの方に向き直った。
「ボクの名前は…イキル」
「イキ……ル」
まるで言葉を覚えたての子供のようにアリーシャもその名前をぎこちなく
「キミは?あの……良かったらだけど……名前、教えて欲しい…な」
そう聞かれてアリーシャは開きかけた口を閉じた。暖められた筈の心がひゅっとまた冷たくなった気がした。
「アリス」
それだけ短く言った。
もう本当の名前を呼んでくれる人は何処にもいない。施設にいる職員でさえアリーシャと言う名前を知る人間は皆無だ。ならば
「…アリス君…」
それでも男の子、イキルは嬉しそうに笑う。これには少し面食らってしまった。今まで敬称を付けて呼ばれたことなどない。
「アリスでいい」
妙にむず痒くて突き放すようにそれだけ言うと目を閉じる。すると酷い態度を取ったのはこちらなのに申し訳なさそうに「ごめんね」と言われてしまった。
不思議な子だ、ここにあるのは職員達の無機質な視線か実験体の怯えきった瞳か絶望した目だけなのにイキルの目には僅かだが希望が宿っている。どうして光を失くさずにいられるのだろう、まだ絶望を見ていないから?それとも全てを忘れてしまったから?何れにしろたどり着く先は同じ、
(同じなのに…)
何かが違っていた。この施設には無いモノ、アリーシャが欠落してしまっていたモノをイキルは持っているような気がした。ふと沸き上がった感覚、それは。
(うらやましい?)
違う、自分が望むのは冷たい終わりだけだ。無い物ねだりなんて子供っぽい感情は無い筈だ、自分の中に沸いてしまった感覚が分からなくて再び目を開いた。
イキルが心配そうに首を傾げた。
「どこか痛いの?」
痛みなら絶えず全身を蝕んでいて寝返りをうつのも出来そうにないけれど今はそれも気にならなかった。
アリーシャが何も答えずにいるとイキルは益々顔を曇らせる。
「話してると辛いかな……あ、でも話してた方が気が紛れるのかな…?」
小さな頭を肩に付くほど傾いで真剣に悩んでいる。
そこまで
「お話……しても…いいかな?」
おずおずと出された提案に今度はアリーシャが首を傾げた。
話したいことがあるなら好きに話せばいい。ここにいる職員達は皆勝手な命令を押し付けて従わせる。実験動物に意思など無いと思っているのだろう、長い間そんな風に過ごしていたからイキルの行動は奇妙に見えた。
けれど
沈黙を了承と捉えるか拒絶と捉えるか、じっとイキルの方を見る。見詰められた方は何故か泣きそうな顔になっている。
「気が紛れる楽しい話……ごめん……どうしよう……ない…どうしよう見つからない」
早口で
「同じ位の子と話すの初めてだし…えっと…あ!そうだアリスくっ……アリスはいくつなの?」
必死に出された問いかけにもアリーシャの人形の様な顏は相変わらず凍りついたままだがそれでもまた小さな口が開く。
「…12」
その答えにイキルは安堵の息を漏らした拒否されて答えが帰って来ないと思っていたのだろうか。それから嬉しそうに眉尻を下げる、クルクルと変わる表徐をアリーシャは目を細めて見ていた。
「あ、じゃあ1個だけボクがお兄ちゃんだね」
どうしてそんな事がそんなに嬉しいのか分からない、アリーシャはまた小さく首を傾げる。
「崇敬すればいいの?」
暗に自分にも敬称をつけろと言うことなのだろうか。
「そっか…お兄ちゃん…ふふっ」
「もうすぐ13になるけど」
アリーシャが静かに付け加える。するとイキルはまたきょとんとした表情になってしまった。
どうしてこんな言葉を発してしまったのか自分でも分からない、完全に楽しい気分に水を刺すような一言だったろうに。
自分の行動にアリーシャが戸惑っているとイキルが面立ちを緩めて微笑んだ。
「おめでとう」
その言葉に今度はアリーシャがきょとんとしてしまう。
出会ったばかりの見ず知らずの、それもまだ先の誕生日を祝うものだろうか。イキルが変わっているのかそれとも自分が世間の事を知らないだけなのか首を傾けようとしたが身体に痛みが走ったのでやめた。
それにしても「おめでとう」と言われたのはどれくらいぶりだろうか。それでも一年前の誕生日はイヴとおめでとうを言い合った、その後に。
奥底に仕舞い込んだ記憶がほどけていきそうで反射的に身体が震えた、思い出さないようにきつく目を閉じる。
「痛いの?」
びっくりしたイキルの声が耳に届くと現実に辛うじて留まることができた。
「傷……」
イキルは苦しそうにそう一言漏らすと口をきゅっと結んでしまう。
「傷…は」
アリーシャが言葉を引き継ぐ。
「直ぐに治る」
相手に気を使った訳ではない、それがアリーシャにとって苦しい現実だったからだ。どんなに傷付こうとも身体を切り刻んでも銃で胸を撃ち抜いても崖から飛び降りても手首の傷を除いて全て修復されてしまう。
それはもう人間でない事を教えているようで身体以上に心を傷つけた。バケモノのような身体。一段と心が冷たくなるのを感じているとイキルは吐息を漏らした。
「良かった……。アリスくっ……!アリス凄く綺麗だから」
降って湧いたような言葉にアリーシャはきょとんを通り越してぽかんとしてしまう。
綺麗、ではないだろう。身体中ガーゼと包帯だらけで酷く痩せ細っていて、それでも相手の話を楽しそうに聞いたり笑ったりすればまだ可愛げがあったのだろうがそんな愛想なんて微塵もない。
いったい何処を見たらそんな検討違いな話が出てくるのか。
「綺麗じゃない…」
思わず否定しまう。本当に見てくれも内面も綺麗じゃない。当然だ、今までどれだけのモノを傷付け壊してきたのか、今だって目の前にいる男の子を否定で傷付けている。
何故だがアリーシャの胸にも冷たい痛みが走る。イキルの方は目をぱちくりとさせて不思議そうな顔をしている。
「そうなの?……お人形みたいで綺麗だなって…目も、髪もみんな綺麗」
人形ぽいと言うならイキルの方が人形ぽいのではないか。昔見た陶器のオータマタを思い出しながらイキルの方を見る。洗い流されたように清んだ瞳と目が合う。視線を落とすと喉元に大きな傷が見えた。その事に気付いたイキルはびくりと身体を震わせると両手で首を隠して俯いてしまう。
実験動物に傷が付くのは珍しい事ではない、アリーシャも戦いの中で何度となく大きな怪我を負った。それでも矢張り傷は何事も無かったかのように消されてしまう。「アレは副所長のお気に入りだから」職員達の嘲笑と共に向けられた好奇の目が頭を過る。
どうしてこの子といると仕舞っていた記憶が甦ってくるのだろう。何も目に宿さない、何も感じない。そう望んで決めた筈なのに。
これ以上記憶を呼び覚ましたくない。傷付いた男の子を残してアリーシャは意識を闇に沈めていく。瞼を閉じる瞬間に悲しそうなイキルの顔が見えた。何も感じない、そう決めた筈の胸がキリキリと音を立てた気がした。
雨音がする。
雨は嫌だ。
お兄ちゃんがいなくなった日もイヴが変わってしまった日も思い出を壊された日も全部雨の日だった。だからこうしてまた雨音が大切なモノを奪うような気がして。でも、大切なモノって何だろう。自分にはもう何も残っていないのに。
「おはよう」
虚無感を感じて目を開くと暖かな声が聞こえた。夢じゃなかったんだ。そう思いながら視線を横に向ける。ベッドに座る男の子は儚くて、本当に夢のように消えそうな気がしたがまたにっこりと笑ってくれた。
「今日は雨………だね」
イキルは天井を見上げながら呟く。窓の無い病室では時間も天気も見えないがそれでも壁に当たって跳ね返る水音と僅かな湿気で雨が降っているのが分かる。
「でも雨が降ると花も木も喜んでどんどん大きくなるんだって前に森本さんが話してくれた」
イキルがそう言って雨音に耳を傾ける。
「お日様も雨も皆が生きて成長するのに大切な空からの贈り物なんだって」
誰かが嫌っても誰かにとっては大切な一辺、そんな風に考えられたら良かったのに。凍りついてしまった心は何も必要としないし誰からも大切だとは思われない。
それでも昨日とは違って意識を闇に沈めようとはしなかった。気付かない内に耳は雨音でなくイキルが次に話す言葉を待っていた。
「あ、森本さんていうのは…っっ!!」
イキルがそこで言葉を飲み込んだ。アリーシャが眉根を寄せたからだ。部屋の空気がピリピリと張り詰める。アリーシャの心と同じ位冷たく身を切るような殺気が辺りを覆う。
ほどなくしてドアが開くと職員らしき白衣を来た男性が入ってくる。その目は他の職員と同じで無機質だ。彼等にとって自分もイキルも画面に映ったデータと同じでしかない。男性はイキルのベッドに食事と着替えを置くと直ぐに出ていった。
アリーシャは暫くドアを睨んでいたが足音は遠ざかり気配はなくなった。イヴではなかった、殺気を解くが部屋は静かなまま雨音だけが響いた。
怯えさせてしまっただろう。いきなり壊れるような殺気を放ったのだから。でも、だからとうだと言うのだろう昨日初めて会っただけの同じ実験体なだけで怖がられても
そう頭では思っていても何故か視線はイキルの方に戻す事が出来なかった。
「大丈夫だよ」
ふいに投げ掛けられた言葉にアリーシャは痛みを忘れて顔を上げる。イキル小さく頷くとアリーシャの方をじっと見ている、その目は
「あっ…!ごめん!!ボクも怖いとき大丈夫だよって言って貰えると落ち着くから…だから」
アリーシャは紫苑色の瞳を丸くする。あれほどの殺気なのにイキルの目には窮鼠のように怯えて見えていたのだろうか。本当の事を言えばきっとそうなのだろう、部屋の外に感じた気配にイヴが来たのではと思ったからだ。
心を殺した筈なのにまだイヴを恐れる感情とそれがイキルに分かってしまったこととで情けなくなってしまう。
それなのに何故だか先程の「大丈夫だよ」という言葉が耳から離れない。胸に宿ったその言の葉は遅効性の薬のようにじわじわと身体を温めていく気がした。
「ごはん…」
怯えているのを悟られてしまい更に
イキルのいるベッドのサイドテーブルには食事の入ったトレーが置かれている。
食べないのかと尋ねたかったのだがロクに会話をしていないアリーシャには思うように言葉が口から出てこない。
一方イキルの方はトレーを見ると小さく首を傾げた。
「これ、ボクの?」
他に誰がいるのだろうか、アリーシャが小さく息を漏らす。
イキルの方は何故か恐る恐るスプーンを手に取るとぎこちない手付きで食事を口に運ぶ。一口食べると頬が少しだけ赤く染まるのがアリーシャにも分かった、嬉しそうに目を細めるとご飯を飲み込むとまたぎこちない手が食事をよそる。幸せそうにご飯を食べるイキルをアリーシャが不思議な目で追いかける。どうしてそこまで楽しそうに食べられるのだろうか。
「おなか…」
そこまで言って首を傾げる。そこまで空腹だったのかと問いたかったのだが相変わらず尻切れ蜻蛉になってしまう。
「ふわぁっ!ごめん!!ボクだけ食べて…」
当然イキルに中途半端に伝わってしまいアリーシャがお腹を空かせているように思われてしまった。慌ててトレーを持って近寄ろうとするイキルをアリーシャは視線で制した。ゆっくりと首を横に降ると目線を自分の腕と腿に付けられている点滴に向ける。これで十分に栄養は取れている、そもそも食事をしたいという気持ち事態とっくに無くなっていた。
今度は伝わったようでイキルは申し訳なさそうにベッドに座り直すと食事を再開する。それでも矢張り嬉しいのか表情が緩んでくる。
その姿をみてアリーシャはもう一度首を傾げた。美味しくはないだろうに病院食だし栄養が取れれば味も見た目も関係ないような食事だ。実際にエネルギーだけ取れれば良いようにほぼ炭水化物の山みたいに見えた。
案の定三分の一程食べ終えたイキルが少し苦しそうな表情に変わる。
「…残せば?」
どう見てもイキルの細い体格には不釣り合いな量だ、食べた食事の量も記録されていても残しても問題ないように感じた。
けれどイキルは何度も首を降ると食事に真剣に向き合う。
「大丈夫、食べられるよ…。ごはん食べるの凄く久しぶりだから……嬉しいんだ…」
にっこりと笑うが思うように果が行かない。懸命に食事をする姿にアリーシャの方も身体を固くしてしまう。
「…オムライス……オムライス……」
イキルが小さくそう繰り返す。その言葉が耳に届いたアリーシャは眉を下げて困惑した。どう見ても白米なのだが。複雑な表情を向けられてイキルが慌てて弁明する。
「あっ…!え…と好きなの思い浮かべたら食べられるかなって……」
そう言うと恥ずかしそうに俯いてしまう。どうやら壮大な自己暗示を掛けていたようだ。
「アリスくっ…アリスはオムライス好き?」
言われてアリーシャは少し考える。
「レシピは…分かるけど作ったこと…ない」
以前読んだ料理の本を思い出しながら少しずつ言葉を繋ぐとイキルが驚いた顔をして目をキラキラとさせた。
「お料理、できるの?」
食事をした時よりも頬を赤くして羨望の眼差しを送る。けれどアリーシャ方は相変わらず不思議そうな顔をする。
「できないの?」
実験体に多少の個体差はあってもやらされることは同じだと思っていたからだ。武器の扱いも兵法も料理も全ては完璧なヒトガタの兵器を作る為に必要な事、そう言われ強要され続けて来たのだ。
「凄く難しいそうだよ?」
イキルが興奮を押さえようと必死に、けれど押さえきれずに少し上ずった声で尋ねる。
アリーシャは記憶を辿る、確かに複雑な技巧が必要そうな物もあったが子供が一人で作れるようなレシピもいくつかあった。
「炊飯器で炊けばそんなに難しくは」
「ほぇぇ」
「あ、でもご飯がパラパラしないのか…」
幾つもレシピを思い出しながら最適な調理法を思い浮かべる。何故そこまで夢中になったのかアリーシャ自信も分からないが話す度にイキルはニコニコとする。
「卵と3つと牛乳…」
「あ、たまご…しっかりした方がおいしい………かも」
「じゃあ卵と牛乳の量を減らして…」
先程の職員が戻って来たならきっと驚いたことだろう。傷だらけの子供二人がオムライスの作り方について真剣に話していたのだから。
完璧なオムライスのレシピが出来上がるとイキルから小さな笑いがこぼれた。
「アリス君が…あっ!」
慌てて口を押さえるとアリーシャは小さくため息を吐いた。
「もう好き呼べば?」
昨日から敬称を付けないと酷く呼びにくそうに話している。呼び付けを強制したい訳ではない、
イキルは申し訳なさそうに俯くと「ありがとう」と小さく口を動かした。
少しだけ沈黙が流れたが直ぐに嬉しそうな顔をイキルがする。
「でもアリス君がいっぱいお話ししてくれて嬉しい」
そんなイキルとは対称的にアリーシャは不思議そうな顔をした。レシピを言い連ねただけでお話になるのだろうか。疑問に思ったが今度は嬉しい気分に水を差すような事は口にしなかった。
「アリス君は何が好きなの?」
相変わらず食欲は湧かなかったが頭に思い浮かんだ物が口から漏れた。
「………いちご」
けれど言って直ぐに後悔してしまう。酷く子供っぽくて今までの反応に対してかけ離れているように思えたからだ。それでもイキルは少しだけ遠い目をして笑う。
「いちご……食べたことないんだ。でもアリス君が好きならきっとおいしいんだよね」
気恥ずかしさと受け止めてくれた安堵が
「いつかアリス君の作ったオムライス食べてみたいな」
イキルが天井を見上げながら小さくそう漏らした。その目は病室の天井よりももっと先を見ているようであまりにも儚く見えた。
その想いが消えてしまうような気がしてアリーシャは慌ててまた小さく頷いた。
頭では無理だと理解していた、今日命が潰えても明日存在を消されても不思議ではない。自分達の未来はどこにも希望がなくて黒一色に染まった世界しか待っていないのだから。どうせ打ち砕かれるなら最初から望みも夢も抱かなければいい、今までの経験がそう教えてくれる。けれども心の一部分がありもしない未来を描いてしまう。晴れて暖かい日差しが差し込む場所で料理をしてオムライスを食べてもらう。
「約束、だね」
イキルも思う所があったらしく寂しそうな微笑みを浮かべると細い小指をピンと伸ばす。
「あっ!」
伸ばした小指をアリーシャの方へ近付けようとした瞬間、肘がトレーの上にあったコップに当たってしまい中の水が勢いよく溢れた。水はサイドテーブルを伝いイキルのお腹周りを濡らしてしまう。
「どうしよう?」
一気に血の気が失せてパニックになるイキルにアリーシャは置かれた代えの服を視線で指し示す。
着替える前で幸いだった、着替えて今着ている服をタオル代わりにして拭けばベッドの上の水も乾くだろう。
「着替えるの………………怖い」
絞り出すような小さい声が口から溢れた。
イキルの放った言葉の意味を理解するのにアリーシャ酷く苦労していた、けれど今にも泣き出しそうな顔を見るとアリーシャの心も落ち着かなくなる。
どうして着替えが怖いのか、理由を問うべきなのか何を話したら良いのか分からない。当たり前だ昨日会ったばかりの全く知らない子なのだから、それなのに何故こんなにも気持ちがざわざわするのだろう。
ほとんど何も知らない、だから理解も出来ないそのことが何故だが苛立ちを覚えさせる。そんな考えの
着替えを怖がる理由なんて知らない、かける言葉なんて分からない。けれどー。
(きっと、これが正しい…)
心の中で呟きながアリーシャは瞼を閉じる。
僅かな沈黙のあと鼻を啜る音と「ありがとう」という声が耳に届いた。
暫くすると衣擦れの音が聞こえる、他人の着替えをしげしげと覗く趣味はないしカリギュラ効果も起きない。むしろ目を閉じていることで眠りの世界に入ってしまいそうになる。眠ってしまいそうになったので先程出来上がった最良のオムライスレシピを頭の中で反復する。
「あ…の…。ありがとう……もう、平気」
ゆっくりと目を開けるとイキルが申し訳なさそうに俯いている。イキルもアリーシャも俯いてばかりの気がする。
お互いに何を話せば良いのか分からなくて静寂が部屋の中に横たわる。
「ごめんね…着替えが怖いなんて変だよね」
先に口火を切ったのはイキルだった。悲しげに目を細めるとベッドの上で膝を抱えて小さくなる。
「でもアリス君は優しいね」
「優しくは…ない」
優しい子ならもっと暖かい言葉をかけて寄り添って心を落ち着かせられる、お兄ちゃんみたいに。
そう思ったのだがイキルは静かに首を振る。
「ううん、すっごく優しいよ」
そう言って浮かべた笑みは誰が見ても無理をしているように見えた。
「でも不思議だな。手も口も拘束されてないなんて」
イキルが自分の身体のあちこちを眺めながら話す。ベッドから動くなと言われたのだから拘束されているようなものだと思うがイキルは物珍しそうに見つめる。
「からだが自由に動かせるのって嬉しいけどちょっと変な感じ」
「どこか行く当てがあるの?」
小さな疑問だった。拘束が解かれればイキルには行ける場所があるのかと思ったからだ。けれど直ぐに後悔した、実験体にそんなモノある訳がないのだ。
生まれ育った周りの環境を壊し、心を粉々に砕いて絶望を見せつける。帰る場所も逃げ出す気力も奪って檻のなかに閉じ込める。それがこの施設の実験動物に対するやり方だ。
当然イキルも酷く辛そうな顔をして自分の膝をぎゅっと抱えてしまう。
悔やんでも放った言葉は返らない。先程まで気にならなかった傷が責めるように痛み出した。
結局その後お互いに何も話しだす事が出来ずに唯唯時間だけが流れていった。
(やっぱり優しくなんてない)
外の天気と同じような鬱屈とした想いに苛まれながらアリーシャは無理やり目を閉じた。
(眠れない)
瞼をぎゅっと閉じてはまた開く。何時間ともなくアリーシャは同じことを繰り返していた。既に病室の電気は消灯されていて常夜灯の頼りない灯りだけが室内を夢の中のようにぼんやりと浮かび上がらせていた。
体内時計の感覚だと深夜の1時頃だろうか。様々な考えや想いが浮かんでは消えていく、そのほとんどは隣で眠っている男の子のことだ。あの子が何者でどこから来たのか、どうしてここまで自分を気にかけてくれるのか、そんな優しい子を自分は何故傷付けてしまうのか。他人にここまで興味が沸くこと自体アリーシャには驚きだった。もう何も感じないと思っていたのに、今だって同じ部屋にいて感じるのは不快感ではなく安心感だ。
「んんっ……」
不意に先程まで小さな寝息を立てていたイキルが苦しそうな声を漏らした。思考を中断して首を傾けると目を閉じたままイキルがシーツを強く掴んでいる。何かの悪夢に
「っん…」
起こすべきか悩んでいるとイキルは更に呼吸を乱していく、不規則な呼吸音にアリーシャの心も落ち着きを無くし掻き乱されていく。これだけ
(どうして…)
「ごめんなさい」
苦しそうに出された
「あっ!」
冷たい床に無様にも腹這いに倒れてしまう。目の端に涙が浮かんだが痛みからくるものでは無いと理解していた。引き千切るようにして針を抜くと血と輸液が床を汚したが構わずに
未だイキルは悪夢の中に閉じ込められているようで短い呼吸を繰り返している。
(おなじなのに…)
同じ位傷付いて苦しんで心を壊されて運命を決め付けられて小さな身体をには大きすぎる業を背負わされて。
それなのにー。
(どうして)
どうして微笑んでいられるの。どうしてそんなに優しくできるの。どうして希望を持ち続けられているの。
どうして手を差しのべてくれたの。
手に痛みの熱とは違う暖かさが広がる。擦り切れたレコードのように途切れ途切れの記憶の中で優しい黄色の瞳だけが鮮明に残る。
「ごめんなさい」
尚も謝り続けるイキルの手に片手を重ねるともう片方の手で規則的に肩口を優しく叩く。記憶の中から思い出を探すのは
熱に
(もう謝らなくていいよ)
何に怯えて、何を苦しんでいるのかは分からない、けれど
イキルの寝息が落ち着くまでアリーシャは細い肩口をゆっくりと叩き続けた。
日が差し込まず鳥の声も届かない病室だがそれでも朝は巡ってくる。
「おはよ……って…どうしたの!?」
眠そうに目を擦っていたイキルがアリーシャの方を見てオロオロする。相変わらず包帯だらけの身体に今日は手足をベッドに拘束されていたからだ。
結局イキルが悪夢から抜け出した後も心配で離れられなかったのだが見回りに来た職員に早朝見つかってしまいベッドに引き戻されたのだ。
「何でもない」
こうなった経緯を聞かれたくなくて素っ気なく返してしまう、そもそも悪夢を見ていたことなんて思い出したくも無いだろう。
イキルの方も昨晩の事は覚えていないようでこちらを見る目は心配そうだがもう怯えも恐怖もなさそうだった。
小さく吐息を漏らす。昨晩のことを覚えていないのもそうだが見つめる瞳の中に嫌悪も憎悪もないことがアリーシャを安堵させた。
酷い事を言って傷付けたのだ、嫌われても仕方がないと思っていた。
(謝らなきゃ)
自由のきかない手足をどうにか動かしてイキルの方に向き直る。口を開こうとすると鼓動が早くなる。ごめんなさい、たった一言なのに何故か喉の奥に刺さって言葉が出てこない。一度落ち着かせる為に息を深く吸い込む、痛くなるほど肺に空気を入れると意を決して口を開いた。
「っあ…」
「…あのね」
声を出した瞬間イキルも同じタイミングで話しかけたので言葉が重なる。
「っごめん。なにかな」
お互いちょっと考えた後先にイキルが口を開いた。慌てているような申し訳ないような声音にアリーシャはゆっくりと首を振る。イキルに謝るのは大切なことだけどそれ以上に彼が何を話そうとしていたのかが気になった。
「あの、アリス君から先に話して?」
「イキルが先でいい」
そうお互いに言い合って相手の言葉を待っていたものだからまた沈黙が生まれてしまった。それでも昨日のように嫌な静けさではないとアリーシャは感じていた。
「……ふふ」
不意にイキルから笑い声が溢れた。
「ごめん。どうしてだろうね、凄くおかしくて」
イキルといると不思議な感覚になる、消したと思っていた筈の感情が胸の奥から滲むように広がって沢山の気持ちが溢れてくる。
アリーシャも自身が気づかない内に顔を
けれど穏やかな空気はドアが開く音で
医療用のワゴンを押しながら職員が入ってくる。昨日とは違う男性だったが相変わらずイキルとアリーシャを見る目は無機質だ。
食事や着替えの他にワゴンには器具が並べられていたがどれも冷たく光を反射的していた。
職員が淡々とアンプルから注射器に移し代える、その液体が何かは直ぐに分かった。薬に耐性が出来てしまったアリーシャ用に特別に調合された薬品で意識を残したまま身体の自由を奪うものだ。都合の良い事に痛覚だけは残るように
何度か打たれた事がある、抵抗をできなくして障害なく運び出せるようにと。連れ出される先は当然イヴの所だ。
そうなればまた犯され壊され心も身体も粉々に砕かれる。
心臓が締め付けられる、どんなに呼吸を繰り返しても肺に空気が入って来ない。
イキルと居て消したと思っていた感情が甦った、けれどそれは怖いという気持ちも同時に呼び戻してしまった。
身体を強張らせたアリーシャの事など気にも止めずに職員は注射液を満たしていく。
痛みと拘束されている所為で身体は思うように動かない。
(いやだ…)
絞り出されるようにして出た言葉は
針が肌に当たる。
拘束具がベッドにぶつかりかしゃりと音を立てた。
(い…や)
「やめろ!」
鋭い声が響いた瞬間、職員の体がびくりと揺れ手から注射器が落ちてしまう。何だか全てがゆっくりに見えた。床に落ちた注射器は粉々に砕けて硝子と液体が辺りに散らばる。
驚いたのは職員ばかりでなくアリーシャもだ。注射器が割れた事よりも響いた声に心臓を掴まれる。
(…イキル?)
三人以外他に人はいない。それでも自体を飲み込むのに時間がかかる。あんなにも強く憎むような声、それがあの子から発せられいるとは思えなかったからだ。
目線を上げると当のイキルは真っ青になって顔を押さえている。何が起きたのかはよく分からない、けれど昨夜の悪夢よりも酷い光景が目の前に広がっていた。
その後は職員が数人入ってきて床を掃除したりアリーシャの点滴を代えたりと目まぐるしく時間が過ぎていった。
何かしらのデータを書き込んでいたが終わると特にアリーシャやイキルを
遠ざかる足音を聞きながらアリーシャはイキルの方を見る。
ぼんやりとドアを眺めていたイキルが視線に気付いて微笑む。けれどその顔は今までのどんな表情よりも悲しく見えた。
胸に衝撃が走った。言葉を見失ってしまい、また長い長い沈黙が訪れた。
「何も、聞かないの?」
不意にイキルが口を開く。
「聞いた方がいいの?」
尋ねるとイキルは強く首を振った。膝を抱えて丸くなるイキルは本当に小さく見えた。
「希望ってもち続けなきゃいけないのかな?」
イキルがぽつりと言う。それは誰に聞かせる言葉でもなく唯唯気持ちが溢れ落ちた言葉の様に思えた。
それでもその言葉は甦ったアリーシャの心を深く
勝手に思い込んでいた。イキルは無条件に優しい子だって、傷付いても希望を持ち続けられているって。
でも違う同じだけ傷付いて絶望して希望が
謝らなくてはいけない事がまた一つ増えたのにアリーシャは顔を枕に埋めてしまう。
どんな言葉をかけたら良いのか分からない、静けさが今度は焦りを生んだ。
「まだ…」
どうにか言葉を紡ぐ。
「誰も死んでいないならやり直せる…」
放った言葉はあまりにも白々しくて寒気がした。
「………ありがとう」
イキルは小さくお礼を言ったが濃くなった瞳の色で全てを理解してしまった。
ここにいる実験動物は生物兵器として育てられてる。だから誰かを殺さない、何かを壊さないなんて不可能だ。それでも
でも答えは残酷だった。現実が無慈悲だと理解していたのに。
「そう…」
それだけどうにか言うとアリーシャはまた枕に顔を埋めてしまう。自分の
「神様は…いじわるだね」
もう全てを諦めようとしたアリーシャの耳にイキルの言葉が届く。
神様なんていないと思っていた、いたらこんな残酷な運命を押し付ける筈がないと。でも本当は居るのかもしれない。子供の様に無邪気で残酷な、運命を弄ぶ神様達が。
改めてイキルの方へ顔を上げる。責められてもおかしくないことを言ったのにイキルはまだ微笑んでいてくれた。
「あの…ね」
おずおずとイキルが話し始める。
「昨日ずっとアリス君に言われたこと考えてたんだ」
小さな手がシーツをきゅっと握る、緊張がこちらまで伝わってきた。矢張り思い悩ませてしまっていたのだと思うと空っぽの胃が傷んだ。
「ボクの行くべき場所」
顔を上げたイキルと目が合う。怒りも憎しみも無い瞳に引き寄せられそうになる。
「行くべき……じゃなくて行きたい場所になっちゃったけど」
恥ずかしいそうに小さく笑う。イキルはあんな心無い言葉にも真っ直ぐ向き合って答えを出してくれたのだ。
アリーシャの頬が熱くなる、後悔と恥ずかしさを押さえつけて嬉しい気持ちと
「考えたらいっぱいあって…止まらなくなっちゃって」
嬉しそうに話すイキルを見ているとアリーシャ自身も澄んだ気持ちが流れ込んでくる。
「海も見てみたいし公園にも行きたいなって。あとお星さま」
イキルが天井を見つめる、無遠慮な蛍光灯の灯りがそこにはあるだけだったがイキルはにっこりと笑う。
「冬のお星さまって凄くきれいなんだって。あと繋げると絵にもなるって」
イキルの興奮が波のようにアリーシャにも伝わって鼓動が早くなる。
ほんの僅かな時間でもこの部屋を出られたなら。
方角を知るため星の位地と名前は多少なりとも知っていた。星座の名前もそれに
イキルは知っているだろうか。
話したい事が沢山溢れ出てきて胸の中でぐるぐる回る。また酷い言葉を言ってしまうのではないかとちょっとだけ
「…っ!」
口を開いた瞬間ぐらりと世界が揺れた。
目を開けていられ無いほど瞼が重くなり視界が霞む。自分の腕に刺さった針をアリーシャは睨み付ける。どうやら点滴の中に鎮静剤を入れられたらしい。
意識の無い相手を犯す好みはイヴは持ち合わせていないらしく眠りに付いても彼の元に連れて行かれる心配はないがそれでも瞼がを閉じたくなかった。
どうにか言葉を繋ごうとするが舌ももう思うように動かなくなり噛んでしまいそうになる。
それでも視線をイキルの方へ向ける。意識は半分近く溶けていたが沢山の想いが溢れた。
どうか待っていて。
目が覚めたらちゃんと謝るから、酷いこと言ってごめんなさいって。
僕の本当の名前も言うから。
それからー。
目を閉じる瞬間に見えたイキルの顔はどこまでも優しく微笑んでいた。
夢を見た。
どこまでも続く星空の下でイキルと星座を見上げている。
オムライスとココアのお弁当を傍らに置いて正座盤と星を交互に見つめる。
無声映画のように何の音もしない静かな世界の中でイキルが星を指差すとつられてアリーシャも笑う。
夢だと分かる夢だった。
それでも心は幸せだった。
リノリウムの床をアリーシャはひたすらに走っていた。身体を動かすたびにバラバラになりそうな痛みが走ったが必死で堪える。
廊下の角を曲がると探していた相手の後ろ姿が見えた。むこうもこちらち気付いたようでゆっくりと振り返る。
顔の半分を隠す仮面の奥から射るような視線が飛んでくる。一瞬身体が震えたが拳を握るとキッと睨み付ける。
「イキルはどこ!?」
飛びかかる勢いでアリーシャがイヴに詰め寄る。けれどイヴの方は意に介していないようで相変わらずの困ったような笑みを浮かべる。
「イキルって?」
その一言に怯えていたことも忘れて怒りが込み上げる。名前も知らないくせに好き勝手に翻弄して弄んで。
「僕と一緒に居た子!」
朝目が覚めるとイキルはいなくなっていた。あの子が居たはずのベッドは冷たく整えられてまるで最初から誰もが居なかったようだ。
アリーシャの怒りなどまるで気にも止めずに頭から足先までイヴが嘗めるように見つめる。
「それでその姿で探してたの?」
包帯だらけの身体に裸足で、拘束を無理やり外した所為で所々に血が滲んでいる。そんなみすぼらしい姿を気に入ったのかイヴは楽しそうにも笑う。
「あれは……」
イキルがどこに行ったのか知りたくてイヴを探し回っていた。けれどいざイヴが口を開くと心臓が鷲掴みにされたように傷んだ。彼が真実を語ろうとすると怖くて目の前が真っ暗になる。
実質最高責任者である彼の
そして実験動物は用が済めばデータを残して処分される。イキルに何があったのか最悪を想像して呼吸が出来なくなる。
「…元の研究所に戻した。元々借りていたモノだったしデータは取れたから」
身体の力が抜けてその場に座り込んでしまう。絶望的な返答だったがそれでも最悪の答えではなくて心の底から安堵した。様々な感情がまぜこぜになって目の端に涙が滲んだ。
「友達だったの?」
イヴの何気ない一言に涙の溜まった瞳をアリーシャは大きく見開いた。
「………違う」
全ての憎しみにぶつけるようにイヴを睨み付けた。
「友達じゃない」
言えなかった。友達になって、そう言いたかった。でも拒まれるのが怖くて言葉を仕舞い込んでいる内にイキルはいなくなってしまった。
目が覚めたらちゃんと謝ってそれからー。
淡い期待は粉々に砕かれてしまった。
「ふぅん」
意味深な笑みを浮かべてイヴがアリーシャの髪を掬う。
目が合ったイヴの金色の瞳は深い闇のようにみえた。
ああ、また壊されるんだ。犯されて痛め付けられて絶望を埋め込まれて。
けれどイヴは立ち上がると何も言わずに歩いて行ってしまった。身構えていたアリーシャは呆然とする。こんな事は今まで無かったイヴが何もせず立ち去るなんて。
それはまるでいなくなってしまったあの子が運んでくれた僅かな幸運の様にも感じられた。
ー大丈夫だよー
まるで誰かに抱き締められているように背中に暖かさが差した。
「…イキル」
今はいない大切な人の名前を呟く。
きっともう二度と会えない。
それでも君がこの世界のどこかでまだ生きている。
あの優しい微笑みを浮かべて。
どこまでも続く絶望の中で咲いた小さな希望をアリーシャは感じていた。