ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
次はアニメ2期が始まる頃を目安に再開予定です。
時代は動き続ける。
これは魔神族が案の定再活性化し、世界中の人々を追い立てて殺しまわる暗黒時代の再来の最中。
ヴァナヘイムの麓でパルテノスの張った結界に守護されて生活していたアウラ・エノクの末期の話である。
アウラ───ルファスの母は娘が世界から消えても表向きは何も変わらなかった。
恩人たちが消え去ろうと、夫が死のうと、ルファスが全てから拒絶されてこの世から追放されようと。
彼女は流されるままに変わらない。
そう。再びヴァナヘイムが襲撃され多くの天翼族が死のうと。
更に付け加えるならば自分を保護してくれているパルテノスが近々山頂の国を結界で隔離し、全ての天翼族を追い出す準備を進めていようともだ。
アウラはリュケイオンで生活していた時と同じく物静かで自己主張をせず、常に他人を思いやり自分のことは後回しにして生きている。
それは慎み深さとも言えたし、諦めとも言えた。
もう彼女には何も残っていないのだ。
夫も恩人も居場所も娘さえも。
もともと彼女は、そういう女だった。
強く自己を押し出せる性質ではない。
誰かに庇われれば、静かに頭を下げてその好意を受け取り、誰かが傷つけば自分のことのように心を痛める。
目立たず、争わず、柔らかく微笑み、居場所を作る。
おおよそ大貴族の娘とは思えない性分で、その優しさにかつてのジスモアは惹かれた。
アウラという女はそうやって生きてきた。
だが今の彼女の静けさは、かつてのそれとは少し違う。
穏やかなのではない。燃え尽きているのだ。
悲しみを超え、痛みを超え、抗う理由さえ摩耗しきった果てに残る静けさがある。
表面は凪いでいる。
けれどその底では、既に生きることを諦めた人間だけが持つひどく淡い死への傾斜が続いている。
ミズガルズでは何も珍しくはない。
やがて死に至る病に彼女も罹患しただけだ。
そんな彼女はいま、一人の赤子を抱きしめていた。
混乱し大勢の死人が出たヴァナヘイムから落ちてきた赤子だ。
まだ産毛さえ生えていない赤ん坊は無邪気に笑っている。
名はウィルゴという。
元の名前は判らなかったから、アウラとパルテノスが相談して付けた名前だ。
彼女は文字通り燃え上る国から落ちてきたらしい。
母親と思われる人物がしっかりと彼女を抱きしめて滑落してきたようだ。
結果、彼女の母は死んでしまったが、それでもこの子だけは守り通したらしい。
死に際の執念と本能が、ただ一つの命を生へ押し出したのだろう。
その姿を見た時、アウラは何も言えなかった。
少なくともこの子の母親はアウラには出来なかったことをやり遂げたのだ。
自分の命と引き換えにしてでも娘を守るという事をやってのけた。
これはアウラには絶対に出来ない事だ。
いま彼女の腕の中でウィルゴは何も知らず、何も理解せず、ただ無邪気に笑っている。
まだ世界の醜さも、天翼族という種の罪も、母が何を代償にして自分を生かしたのかも知らない。
白い羽毛の名残のような柔らかな毛が、頭にうっすらと生えているだけの本当に産まれたばかりの赤子だった。
アウラは、そっとその小さな頬へ指を添えた。
やわらかい。あまりにも、やわらかい。
まるであの頃の娘の様に。
仄かな熱があり、まだ雛の様な形にもならない翼が微かに動いている。
ちゃんとこの子は生きている。
胸が上下し、指が小さく動き、時折くすぐったそうに唇がゆるむ。
そのたびに、どうしても昔の記憶がよぎる。
幼かった頃のルファス。
まだ何も知らず、ただ母の腕の中で眠っていた小さな娘の姿だ。
だが、アウラはそこで自分を止める。
違う。
この子はルファスではない。
代わりでもない。
思い出をなぞるための……自分を慰めるための道具ではない。
そして当初のパルテノスは困惑していた。
思わず拾ったまでは良い。
しかしどういう風に接すればいいかなど判る筈もない。
何故ならば彼女に育児の経験などないからだ。
女神の聖域で当代の聖女/乙女として女神の巫女であった彼女は純潔なのだ。
それに何より、彼女にはやるべき仕事があった。
アウラに語ることはないが、彼女はヴァナヘイムの麓に染み込んだ莫大な量の怨恨や怨嗟といった負の感情を浄化する大仕事がある。
更にはヴァナヘイム山と同化する形で眠っている日龍の封印と隔離。
そこに加わるアウラの護衛。カルキノスやアリエスが助けてくれるとはいえ、余りにやることが多い
どれもが大仕事であり彼女をして全力を尽くさねばならない事案だ。
その上で近々その邪魔になるであろうヴァナヘイムという国をパルテノスを終わらせるつもりだった。
かつてルファスより話を聞いた時、とんでもない肥溜めと思っていたが、現実はそれを上回るものだったのだ。
更にそんな中で天翼族の赤子という見たことも聞いたこともない存在の育児など行ったら全てが破綻する可能性さえあった。
パルテノスは一度、本気で赤子を返そうかと考えた。
本来ならばそれが筋だったのかもしれない。
天翼族の子は天翼族の元へ、だ。
けれど、近いうちに国そのものを封鎖し、全住民を追い出すつもりでいる計画が待ったをかけた。
その判断はそのまま赤子の死へ繋がりかねないからだ。
母を失ったばかりの新生児だ。
乱れた国へ戻せば、次に誰の腕がこの子を守るのかなどわからない。
飢えるかもしれない。
捨てられるかもしれない。
混乱の中で踏み潰されるかもしれない。
だから手元へ置いた。
そして、仕事が多すぎることも、育児経験がないことも、自分に向いていないことも全部わかった上でウィルゴの世話はアウラへ一任した。
女としての勘だったのかもしれない。
もしくはソドムの多くの生きる意志を失った犠牲者たちを見ていた事から導き出された結論だったかもしれない。
パルテノスはアウラの生きる意志が欠如していたことに薄々気づいていたのだ。
何よりもアウラが望んだからでもある。
自分にできることがあるのなら、それをしたい。
そういう、ひどく小さな、それでいて切実な願いを、彼女は珍しくはっきり示したのだ。
だからパルテノスは預けた。
そしてアウラはそれを完全にこなしてのけた。
赤子はよく眠った。
よく泣き、よく笑う。
小さな手足を動かし、何も知らぬまま日に日に生きようとする。
アウラはそんなウィルゴを抱き、あやし、眠らせ、温めた。
抱いたまま窓の外を見ることもあった。
遠くで結界の光が揺れ、さらにその向こうでは魔神族の気配が濃くなっている。
娘も恩人が残してくれた安全装置も消え失せた世界ではもう誰も人類を守ってはくれない。
一日ごとに何処かで誰かが殺され、どこかで誰かが苦しめられている。
時代は確実に悪い方へ転がっている。
それでも赤子は世界の終わりなど知らない顔で食事を求め、眠り、また泣く。
「あぅぅ」
健気にウィルゴが小さな手を伸ばしてくる。
そっと握り返せば嬉しそうに笑った。
実の母ではない、言ってしまえば赤の他人に抱かれているというのに。
その無邪気さが時にアウラにはまぶしすぎた。
こんな子を自分が抱いていていいのだろうか。
そんな考えが、時折胸を過ぎる。
自分はもう半分死んでいるような女だと彼女は察してはいた。
深いところでは生きるのをやめている事をわかりつつ、まだ娘に会いたいという希望で世界にしがみついているだけだ。
そんな者の腕の中で育つことが、この子にとって本当に良いのだろうか。
けれど、ウィルゴはそんな迷いを知らない。
小さな指でアウラの服を掴み、安心したように体温へ身を寄せる。
そのたびにアウラは、少しだけ息を呑み、それから何も言わずに抱き直した。
アウラは、赤子の寝顔を見つめる時だけ、自分の内側へ差し込む死の影を一瞬だけ忘れることがあった。
それは救いと呼ぶには小さい。
しかし確かに生きる理由であり命綱だった。
だが少なくとも、その瞬間だけは彼女は“まだここにいる”と感じられた。
森の奥では、今日もパルテノスが多くの仕事をこなしている。
アリエスはどこかで結界の補強をしているかもしれない。
カルキノスはまた別の厄介事へ手を突っ込んでいるだろう。
そんな風に、奇妙で、けれどどこか穏やかでもある生活を送っていたアウラだった。
しかし当然ながら何も問題がないわけではなかった。
ある日のことだ。
その日もパルテノスはアウラが作った朝食をきちんと平らげ、森へ出る支度を整えていた。
結界の点検。
穢れの濃い地点の浄化。
日龍の封印と周辺の監視。
毎日内容は少しずつ違っても、結局やるべきことは山ほどある。
更にはいずれあの山の上の国を閉鎖して龍の封印環境も整えなくてはならない。
今、十二星天の中でも彼女はトップクラスに労働をしていた。
比較対象がいるとすれば国を運営しているエロスやアクアリウス、活発に動き回っているアリエスやカルキノスら位だろうか?
そんな中、気づけばパルテノスはアウラに家事などを任せるようになっていた。
彼女が出来ないわけではない。
むしろ、やろうと思えば何でも器用にこなせる方だ。
ただ、いつの間にか自然とパルテノスが外で働き、アウラがそれを内側から支える。
そんな形が出来上がっていたのである。
「行ってまいります。昼には戻ってきますね」
白いローブを整え、丸太――ではなく今日は地図と浄化用の諸々を抱えたパルテノスが微笑みながら言う。
アウラは赤子を抱いたまま静かに頷いた。
そんなアウラを見てパルテノスは改めて思った。
外見以外は全く正反対だな、と。
最初はあのルファス・マファールの母だというから、どれほど気丈で烈しい女なのかとパルテノスは勝手に身構えていた。
娘があの覇王なのだ。
ならばその母もまたさぞや強烈な個性を持つ女性だろうと。
しかし実際は似ていないというよりは正反対だった。
彼女……アウラはとても献身的で落ち着いている。
声を荒げることもなく、常にパルテノスが「あったら助かる」と思うことを言われるより先に静かにやってくれている。
朝には食事が整えられ、戻れば衣類は洗われ、赤子はきちんと世話され、寝具は干され、室内は清められている。
本当に大貴族の令嬢だったのかと思うほどに気が利くというか、何というか。
そこには押しつけがましさもない。
褒めてほしいとも言わない。
ただ、ごく自然にそこにあってほしいものが既にそこにあるのだ。
閉鎖的な聖域で暮らしていたせいで、パルテノスは実のところ女神へ捧げる供物や儀礼食以外の“日常の料理”をあまり知らなかった。
そもそも常に料理は召使が行っていた。
そして聖域は外部とは殆ど遮断された環境である故に外の技術を取り込むことなどもない。
煮る、焼く、蒸す、和える。
そういう当たり前の積み重ねが聖域には乏しかったのだ。
だからアウラが作る料理の数々は、彼女にとって新鮮だった。
飛び抜けて美味しい、というわけではない。
だが、食べていると不思議と安心できる。
身体の奥に、静かに熱が落ちる。
生きていていいのだと、そんな風に思えてしまう味だった。
パルテノスにそういった経験はなく聖域では家族という概念も希薄な共同生活空間だったが、きっとこれがそうなのだと彼女は思った。
けれど、今は違う。
今となっては、単純にひとりの人としてパルテノスはアウラを守護したいと思っている。
こういう人を守るために自分の力はあるのだと。
女神の巫女としてではなく、十二星天の一人としてでもなく、もっと単純にそう思っていた。
「あの……戻ってきたら……昼はパンにお肉を挟んだアレを……」
もごもごと、少しだけ口ごもりながら控えめに昼食のリクエストを告げる。
アウラは赤子を腕に抱いたまま、薄く笑って「わかりました」と返した。
それだけで、パルテノスの足取りは目に見えて軽くなる。
ウィルゴが小さな手をもぞもぞと動かし、アウラの胸元へ顔を擦り寄せる。
その様子に、パルテノスは一瞬だけ視線を落とした。
この子は明らかにアウラへ懐いていた。
それは当然だ。世話の大半をしているのは彼女なのだから。
ただ、地味に面白くないことが一つある。
カルキノスにも妙に懐いているのである。
あの気障で軽薄な男はいつの間にかウィルゴの信愛を勝ち取っていた。
物資を運び、時折ひょっこり現れては軽口を叩き、ふらりと去っていくあの男へウィルゴは妙に警戒心が薄い。
しかも抱き方が妙に安定しているというか、扱いがやけに手慣れている。
何処でそんな技術を覚えたのか、とパルテノスは内心で何度か首を傾げていた。
聖域育ちの彼女にはよくわからないが、どう考えても“初めての手つき”ではない。
────HAHAHAHAHA! 可愛らしいladyですね!
────きっと将来はとてつもなくbeautifulになることでしょう!
何だその手慣れた抱き方は。何で赤子がそんなに落ち着くのだ。
どうしてそんなに天翼族の子供の扱いが上手いんだ。
そういうもやもやを抱えてはいたものの、今それを掘り返している暇はない。
彼女は地図を開き、今日の浄化対象となる森の区画へ目を落とす。
早急に対処すべき箇所が幾つもある。
余りにも穢れの濃度が高く、放っておけばおぞましい“何か”が生まれ落ちかねない場所ばかりだ。
ルファスは特にそういった存在へ強い警戒を抱いているようだった。
魔物とも魔神族ともましてや龍でもないナニカ。
姿かたちは不定形で、ミズガルズにおいても余り触れられていない負の存在。
ポルクスのアルゴナウタイが綺麗な光の存在とするならば、それを反転させて更に黒く染めたようなモノがこのミズガルズには存在する。
決して強くはないだろうが、放置すれば大勢の人が危機にさらされるかもしれないものだ。
パルテノスは森へ目を向ける。
太陽の光に反射する緑の木々だけを見れば、静かな景色だった。
風はやさしく、葉は揺れ、小鳥のさえずりすら聞こえてきそうなほど穏やかに見える。
しかし実際には違う。
そこは天翼族の廃棄処理場だった。
何万年も昔から翼の劣った者、不要とされた者。
醜いと見なされた者、都合の悪い子らを投棄し続けてきた場所だ。
無数の亡骸が土へ埋め込まれ、浄化されなかった末期の念が地脈にまで染み込み、森そのものを巨大な墓標へ変えてしまった魔境。
山頂には龍が座しているせいでソレが蓋となり天へと昇れない最悪の立地でもある。
払っても、払っても、払っても果てが見えない。
呪詛の山。
恨みの海。
子どもの泣き声。
母を呼ぶ断末魔。
恨み、未練、嫉妬、絶望。
それらが層を成し、森のあちこちで腐りながら膨らみ続けている。
それでもパルテノスは、欠片も衰えや怯みを見せず、今日も森へ踏み入っていくのだった。
そして、アウラは家へ戻る。
結界に守られた小さな住まいは、外の世界を思えばあまりにも穏やかだった。
火は絶えず、湯もある。
食器も、布も、寝台も、全部ひと通り揃っている。
カルキノスやアリエスが時折物資を運んできてくれるおかげで、最低限どころか、かなり恵まれた生活と言ってよかった。
ウィルゴは、今日もよく寝た。
そしてよく飲んで、よく笑った。
本当に、この子は生まれたばかりの赤子らしく、世界の事情など一つも知らない顔をしている。
アウラはその小さな身体を抱き上げ、布を替え、身体を拭い、揺すって寝かしつける。
その所作は洗練されており迷いなどはない。
もともと子育ての経験があるのも大きいが、それ以上にアウラ自身の性質が赤子の世話とひどく相性が良かった。
静かで。根気強く。相手の小さな変化を見落とさない。
もしも彼女がベビーシッターになれば名を馳せられたかもしれない。
ウィルゴは、そういう彼女の腕の中で安心しきっていた。
やがて赤子は小さく欠伸をし、そのまま眠りへ落ちていく。
アウラはその顔を見つめ、ほんの一瞬だけ胸の奥が痛むのを感じた。
似ている、とまでは思わない。
思ってはいけない。
この子はこの子だ。
ルファスの代わりでも、埋め合わせでもない。
そう自分へ言い聞かせて、アウラはそっとウィルゴを寝台へ寝かせた。
赤子が寝入ったあと、家の中はしんと静まり返る。
外では、遠くの森がざわついている。
風のせいではない。
この辺りの音にはいつも何か別のものが混じる。
最初に起きたのは、皿の音だった。
かたん。
振り向けば、きちんと重ねていたはずの木皿の一枚が、独りでに傾いている。
誰かが指先でつついたみたいな、不自然な揺れ方だった。
アウラはしばらくそれを見たが、何も言わず、静かに元の位置へ戻した。
次は窓辺だった。
閉じていたはずの木窓が、軋みもなくゆっくりと開き、外の風もないのに薄い布だけが揺れた。
森の匂いと一緒に、湿った土の匂いではない何か――もっと古く、もっと乾いた、墓の底のような匂いが流れ込んでくる。
それでもアウラは慌てない。まず寝台へ目をやる。
ウィルゴはまだ眠っている。胸が上下している。
泣いていない。おしめも問題なし。
それを確認してから、アウラは窓を閉めた。
怪奇現象はそれきりではなかった。
水を汲みに立てば、桶の底に映る自分の顔が一拍遅れて瞬きをする。
振り返れば、廊下の角に小さな白い影が立っている。
次の瞬間には消えている。
竈の火は時折、誰かが息を吹きかけたみたいに細くなり、また戻る。
壁の向こうから、何人もの子どもが走り回るような足音が聞こえることもある。
結界のおかげで、強い害を持つものは入ってこられない。
パルテノスの術はその点において完璧だった。
だが、量が多すぎた。
結界は割れることはない。
しかしパルテノスがこの場にいない時、周囲のソレらは圧を強めて僅かな隙間を開いていたのだ。
そして最も大きな要因としてアウラが引き寄せているというのもある。
もちろん無意識にだ。
ヴァナヘイムの麓全体へ染みついた雑多な想念。
未練。苦痛。怨み。棄てられた者たちの名残。
そうしたものが、アウラの中にある死への傾斜へ引かれてふらふらと近づいてきているのだ。
まるで、同じ色の水へ別の水が吸い寄せられるようだ。
そして何より、子供たちは母親を求めていた。
ただ翼の色が違うだけで得られなかったソレを欲しがり、それを甘受しているウィルゴに嫉妬していた。
アウラは、それを何となく理解していた。
理解したところで、どうにかしようとは思わない。
怖くないからだ。
ここに至るまでの彼女の人生は壮絶の一言に尽きた。
ルファスと比較してなお、彼女の今までは余りに理不尽が多すぎた。
夫に殺されかけた。竜王に恩人を奪われた。第二の故郷を捨てることとなった。
娘さえ、この世から奪われた。
その果てに自分だけが残され、守られ、生かされ続けている。
そんな女にとってこの程度の霊的な気配はもはや恐怖の対象になりえなかった。
怖い、という感情が湧かない。
気味が悪いとすらあまり思わない。
ただ、そこにいるのだな、と思うだけだ。
それよりも大切なのは、ウィルゴだった。
赤子が眠っている。
寒くないか。布はずれていないか。
音で起きはしないか。
それだけが、今のアウラの関心だった。
だから、寝台の傍で影が揺れようと。
耳元で誰かが湿った息を吐こうと。
水面の向こうで見知らぬ女が泣こうと気にしない。
アウラはただ静かに赤子の傍へ寄り、布団を整えて必要なら抱き上げるだけだった。
その姿は、ある意味で異様だった。
普通なら怯えるだろう。悲鳴を上げるハズだ。
小屋の外へ逃げることすら考えるかもしれない。
だがアウラは、何も言わない。
怯えもしない。
眉一つ動かさず、ただ赤子の額へ手を当てて体温を確かめる。
むしろ、そこには一種の静かな哀れみさえあった。
自分の周りへ寄ってくる名もなき想念たちへではない。
その程度のものしか寄ってこないほど、自分が既に死へ近い場所にいることへの、曖昧な納得のようなものだった。
やがて、寝台の脇の影がゆらりと伸びた。
夕方にはまだ早い。日差しもある。
なのに影だけが濃くなり、床の上を這うように広がっていく。
その先端は、まるで誰かの手の形を真似るみたいに、細く分かれていた。
それがウィルゴの足元へ伸びかけた時。
アウラは何も言わず、その上へ自分の足を置いた。
ただ、それだけだ。
踏みつけられた影が、しゅう、と湿った息を漏らすように縮む。
痛がっているのか、恨んでいるのか、あるいはただ形を保てないだけなのか。
アウラにはわからないし、知ろうとも思わない。
「ダメ……」
小さくそう呟いた。
怒りもなく。威嚇でもない。
ただ、決まっていることを淡々と告げるように。
それで十分だったのか、影はするすると後退し部屋の隅へ溶けるように消えていく。
ウィルゴはその間も起きなかった。
小さな口を少しだけ開け、何も知らぬ顔で眠っている。
アウラはその寝顔を見て、ゆっくりと息を吐いた。
そして彼女は、何事もなかったかのように火を見て、鍋をかき混ぜ、昼に出すためのパンと肉の支度を始める。
外では、パルテノスがまだ森の穢れと向き合っている。
きっと大変なのだろう。
そして彼女の仕事は彼女のもの。自分の仕事は自分のもの。
やるべきことをやるのみである。
世界がどれほど乱れていようと。
故郷の森がどれほど呪われていようと。
家の中で奇妙なことが起きようと。
アウラという女性はもう何も感じなくなっていた。
今のアウラにとって一番大切なのは、赤子を守り、帰ってくる者の食事を作ることだった。
少なくともウィルゴがもう少し大きくなるまで、彼女は動き続けることだろう。
もしもわがままが一つだけ叶うのならば。もう一度娘に会いたい。
それが彼女の最後の願いだった。
超巨大ゴーレム兼移動首都プルートガング。
スコルピウスの攻撃と魔神族の侵攻を退けた後。
どうやったかは知らないが生きているらしいミザールに呼び出されたルファスはあちらの準備が整うまでの間、ウィルゴの下を訪れていた。
プルートガングの内部の町並みはそこらかしこが滅茶苦茶だ。
アリエスやリーブラが侵入してきた魔神族を迎撃し、逃げられたとはいえアイゴケロスが魔神族を捕獲しようと大暴れしたのだ。
死人こそ出ていないものの、壊れた家屋は多々ある。
まずはそちらの復旧のために人々が右往左往し、それが収まるまでルファス達は待機していた。
その時間を見つけて「彼」はウィルゴを探している。
(本人は戦わなかったとはいえ、初の実戦だからな。怖がってるかもしれない)
何せ生まれた時からずっとヴァナヘイムの森でパルテノスと一緒にのどかに暮らしていた少女だ。
幾らこちらが圧倒的な戦力をもっていて敗北はないとはいえど戦場に巻き込まれのだ、心傷を負っている可能性は十分にある。
ルファスこと“彼”はそういう風に思い、もしもウィルゴが怯えて居たりしたらフォローするつもりだった。
やがて見つけた彼女はポツンとベンチに腰掛けてカルキノスが出したであろう軽食を小動物の様に食べていた。
とりあえず顔色はいつも通りで、恐怖を押し殺しているとかそういうわけではないらしい。
まぁ、彼女もレベル300オーバーなのでそこらへんの魔神族には負けないだろうが。
(とりあえずは大丈夫そうだな)
内心で「彼」はほっと一息つく。
出来る事と向いていることは別なのだ。
思えば自分がこの少女をパルテノスの後継として乙女座に据えたのは少々強引だったかもしれないと少しだけ反省しつつ隣に座る。
「大事ないか?」
「……? はい、アリエス様がずっと気にかけてくれましたから……大丈夫でした」
いきなり隣にやってきたルファスに目を白黒させつつカルキノスの作ってくれたハンバーガーをごくりと飲み込みウィルゴは答えた。
眼をぱちぱちとさせてどうしてルファス様がこんなところにやってきたか判らないらしいウィルゴは色々と考えていたようだった。
「ミザールの奴の準備が整うまで暫しの猶予がある。
思えば余は其方を余り知らなかったな、と思ってな」
「嫌だったら拒絶してくれて構わん」
ウィルゴは新参も新参だ。
ゾディアックもかつての戦いも何も知らない本当にまっさらな天翼族の新規メンバーである。
ウィルゴはルファスを知らないが、同時にルファスも彼女を知らない。
だからちょうど時間が空いたこの隙に少しだけでいいから話をしたかったというのがルファスの狙いだった。
(昔はどうだったか知らないけど、十二星天は絶対にブラック企業になんかさせない!)
今のところかつての話を仲間から聞くごとにルファスこと「彼」は十二星天がとんでもないルファスのワンマン運営だったと思い少しだけ焦っていた。
地球においてはいい年をしてネットゲーム三昧でしかも女性のアバターを作って俺ツエエエと遊んでいた身ではあるが、それでも倫理はしっかりあるのだ。
じっとウィルゴはルファスを見つめる。
探る視線ではあったがそれは彼女を見極めるというよりは意識は己の内側に向いていた。
まるで自分の中の記憶をたどっているようだった。
今までは、こうして真正面から話す機会がなかった。
だからこそ今なら言えるかもしれない。
そんな迷いを経て、ウィルゴは小さく口を開いた。
「えっと、ですね……こんな事を言うのは、その、失礼かもしれませんけど……」
「構わん。どうした?」
ぱちぱちと目を瞬かせながらおずおずとウィルゴは口を開いた。
「最初にルファス様を見た時に思ったことなんですけど」
彼女はそこで一度だけ視線を伏せ、言いにくそうに声を細める。
「……凄く懐かしい感じがしたんです」
「おかしいですよね。あの時が初対面だったのに、そんなこと……あるはずないのに」
ルファスの思考が一瞬だけ止まった。
「彼」の意識でさえその言葉の意味を理解した瞬間、完全に硬直した。
まるで胸の奥に隠していた何かを、何の前触れもなく指でそっとなぞられたような感覚だった。
脳裏を掠めるものがある。
失われたもの。置き去りにしたもの。
自分が直視する資格などないと思っているもの。
そして何より、己の内側にいまだ膿のように残っている、重く、鈍く、決して消えない罪。
しかし彼女はソレを見ることは出来ない。
余りに大きな罪はそこにあり……見向きする資格など自分にはないと思っていたから。
自分のやりたいことの為に■を私は捨てたんだ。
どうなったかなんて、もう知っている。
ただそれを直視するのが怖いだけだ。
ルファスはそこから目を逸らした。
王としてではなく、一人の存在として、無意識に。ほとんど反射的に。
「……そうか」
返した声は、驚くほど平坦だった。
あえて何も掘り下げない。
その“懐かしさ”が何処から来るのかも、その記憶の根に何があるのかも問えない。
ゆえに彼女は、らしくもなく話題を断ち切るように懐へ手を伸ばした。
これ以上そこへ近づかないために。
そして同時に、言葉に出来ない何かを別の形で差し出すために。
「其方にこれを渡しておく」
そう言って差し出したのは、小さな宝石を嵌め込んだペンダントだった。
一見すれば、上等な装飾品にしか見えない。
淡く澄んだ輝きを宿したその石は、陽光を封じ込めたように静かに光っている。
目立つほど派手ではない。
だが、ただの飾りと片付けるには妙に完成されすぎていた。
石を留める爪の形、鎖の編み方、触れた時に伝わるわずかな重み。
どれをとっても、誰かが明確な意図をもって作り上げた品であることだけは判る。
ルファスはそれ以上を語らない。
何に由来するのか。何のために作られたのか。
どういう場面で力を発揮するのか。
そういった肝心な部分を、彼女はわざと口にしなかった。
語る必要がないと思ったのか、あるいは語りたくなかったのかは判然としない。
ただ一つ確かなのは、ルファスがこれを持たせる意味のあるものとして扱っていることだけだった。
「守りに使える。持っておけ」
短い言葉だった。
いつものように尊大で、素っ気なく、命令めいていて、余計な説明は一切ない。
本来ならば説明すべき肝心な部分を、彼女は意図的に伏せた。
これが効力を発揮するときは余りにも状況が良くない時だからだ。
だがその実、それがウィルゴ一人へ向けられた明確な気遣いであることは隠しようもなかった。
自分でも少し露骨かもしれない、とルファスは思った。
それでも言い換えなかったのは、これ以上うまく取り繕う術を今の彼女は持たなかったからだ。
下手に言葉を重ねれば余計な事まで言ってしまいそうだ。
気遣いだけでなく、そこに混じっている別の感情までもだ。
ウィルゴは目を丸くしたまま、そのペンダントとルファスの顔を何度も見比べた。
やがて恐る恐る両手で受け取ると、壊れ物に触れるような手つきで胸元へ引き寄せる。
「……ありがとうございます」
返ってきた礼は、どこか戸惑いを滲ませていた。
どうして自分だけがこんなものを渡されるのか。
どうしてここまで気にかけられるのか。
どうしてルファス様は、自分のようなまだ未熟で、力も足りず、何も返せないような相手にこんなふうにしてくれるのか。
分からない。どうしてルファス様はこんなレベルの低い自分に優しくしてくれるんだろうか?
分からないまま、それでも胸の奥がほんの少しだけ温かい。
その温もりだけは理屈抜きに確かだった。
おばあちゃんが言っていた通りだ、とウィルゴは思った。
ルファス様は優しい人なのだと。
きっとこの人はとても優しい。
ただ、その優しさをそのまま優しさの形で差し出すのが、びっくりするほど下手なだけで。
それが少しだけ可笑しくて、少しだけ愛おしいような気さえした。
ルファスはそんな彼女の反応を横目に見つつ、何も言わなかった。
もしここで言葉を継げば余計なことまで喋ってしまいそうだったからだ。
ベンチの上に、微妙な沈黙が落ちる。
遠くでは復旧作業の声が響き、壊れた街のあちこちで人々が忙しなく動き回っている。
怒鳴り声も、資材を運ぶ音も、修復魔法の光も、確かにそこにある。
なのに、その喧騒から切り離されたみたいに二人の間だけが妙に静かだった。
まるでここだけが別の時間の流れに取り残されているかのように。
ルファスは前を向いたまま、ウィルゴの胸元へ収まったペンダントを意識的に見ないようにする。
見てしまえば自分が何を渡したのかを改めて自覚してしまいそうだった。
そして、その意味まで直視することになる気がした。
昔から何一つ変わっていない彼女の臆病さの象徴なのだ、アレは。
───願わくば、アレが効力を発揮しないようにと彼女は願った。
ウィルゴもまた、その横顔を見上げながら懐かしさの正体を問うことはしなかった。
問いかければ、この静かな時間が壊れてしまうような気がしたからだ。
それに、今はまだ知らなくていいことなのだと彼女なりに本能で察してもいた。
まだ二人ともそこへ触れるには早すぎた。
踏み込めば戻れなくなる。
だからこそ今は、この不器用で曖昧で、どこか温かい距離のまま二人は座っていた。
アウラ。
ウィルゴがある程度大きくなり、パルテノスの仕事がひと段落すると同時に急速に体調を崩し
あらゆる治療の甲斐なく彼女は亡くなるのだった。
彼女の死を以てルファス・マファールに連なる全ての血族はミズガルズより消えうせ、黄金時代は本当の意味で終りを迎えた。
そして───。
ウィルゴが物心つく直前にアウラは亡くなりました。
そして第三部までお付き合いいただきありがとうございました。
次の部でようやくこの長かったお話も完結させられそうです。
少しリアルが忙しいのと、書き溜めをしたいのでゆっくりお待ちください。