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プラネタワーの展望へと続く螺旋階段を、ネプテューヌは昇っていた。
いつも通り、イストワールの小言から逃れるためであった。自室へ逃げ込んでもすぐにバレてしまうし、最近では他の場所へ隠れても見つかることが多くなった。いっそのこと奇をてらって蔵書室なんかに逃げてみようとも考えたが、立ち並ぶ本穴を見るだけで眩暈がしたため、それは憚られた。そんな故もあり、最終的にネプテューヌが選んだんのが、このプラネタワーの展望であった。
他の誰にも語ったことはないが、ネプテューヌはこの場所が好きだった。一般開放がされていないため静かだから、プラネタワー唯一の屋外であるため風邪が心地いいからなど、理由は様々であるが、一番はここから見える景色が好きだから、というものであった。プラネテューヌの中心に位置するここからは、国の様子が一望できる。活気づいた街の全景から、未知を行き交う人々の表情の一つ一つまでをも、ネプテューヌは鮮明にその瞳に映すことができた。そしてそれは、自らがこの国の守護者であること、そしてこの景色が他の何にも代えがたい大事なものであるということを、ネプテューヌに強く感じさせた。
階段を登りきり、小さな扉の前に立つ。ネプテューヌの額には、かすかに汗が滲んでいた。夏も初まり、暑さも日に日に増していく時期である。明かり窓から照らす日差しに、日焼け止めでも塗っておくべきだったかな、なんてことを考えながら、ネプテューヌは扉を開いた。
「……あれ?」
外に出てはじめに感じたのは、太陽の暑さでもなく、吹き抜ける風の涼しさでもなく、ただ一つの疑問であった。開かれた扉の先、いつもならネプテューヌが景色を眺めるために寄りかかる手すりに、その理由はあった。
それは一人の少女であった。背丈はネプテューヌよりも頭一つほど高いくらい。髪の色は暗い紫であり、それは腰に届くまで伸びている。全身は黒い厚手のコートに包まれており、その袖から覗く細い指先には、一本の煙草が白い煙を上げていた。総じて、見る者に違和感と少しの危機感を覚えさせる、奇妙な女性であった。しかしながらネプテューヌは、煙草を
暫くの沈黙。やがて彼女は一本目の煙草を吸い終わると、すぐさま胸のポケットから小さな箱を取り出そうとして、
「ここ、禁煙だよ」
何と声をかけようと迷った挙句、ネプテューヌが発したのはそんな言葉だった。そこで初めて彼女はネプテューヌのことに気づいたらしく、きょとんと呆けた顔のまま、一度自分の周りを見回してから、答えた。
「……どこかに書いてあったっけ?」
「書いてないけど、一応ここは公共の場所だから」
「私のところは、そうじゃなかったよ?」
含みのある言い方をしながら彼女がライターを取り出して、煙草へ火を点ける。こちらの言い分を聞かないこと、そして何よりも自分の気に入った場所に無断で立ち入り、その上で喫煙を続けようとする彼女に憤りを覚えたネプテューヌは、強い口調で言った。
「だから、ダメって言って――」
肩を掴み、強引に彼女を振り向かせたところで、ネプテューヌは続けようとした言葉を失った。
こちらを見つめる、自分と同じ淡い紫の瞳。廃れた表情から微かに感じ取れる、どこか優しかったであろう雰囲気。そして何よりも決定的だったのは、頭につけた黒い脳波コントローラーだった。曖昧だった既視感は明瞭なものになり、それと同時に幾つもの疑問が湧き上がり、ネプテューヌの思考を塗り潰していく。
自分と同じ色の瞳に、長い紫の髪。そして、頭につけた黒色の脳波コントローラー。
それが意味するものは。
「……もしかして、ネプギア?」
やがて恐る恐る呟いたその言葉に、彼女は。
「煙草くらい許してよ、お姉ちゃん?」
うっすらとした笑みを浮かべながら、白い煙をネプテューヌへと吹きかける。
それは決してネプギアからは香ることのない、爛れた大人の匂いだった。
「君は……本当にネプギアなの?」
「半分アタリで、半分ハズレかな」
「……どういうこと?」
「つまり、私はある可能性の
その言葉の意味を、ネプテューヌが掴むことはできなかった。しかしながら、その声色は大人になって少し低くはなっているが、明らかにネプギアのそれであった。であれば、目の前で語る女性がネプギアという存在であることは、確かであった。
「……どうして、ここに?」
「お姉ちゃんに会いに来たの。それだけだよ」
睨みつけながらの問いかけに、ネプギアと同一の存在は淡々と語る。そうして煙草を口につけると、また白い煙を吐き出した。
「私はこの次元に対して垂直に存在するから、お姉ちゃんがここに来るのは分かってたんだ。最も、それは情報として理解できるだけ……あるいは、私の次元に対する存在に挿入されたかは分からないけど……でも、こうして私はお姉ちゃんと会うことができたんだから。何も問題はないよ」
「いったい、なんの話を……」
「だから、ほら。そんなに怖い顔、しないでよ」
困ったように、彼女が笑う。垂れた眉が、ネプテューヌの知るネプギアとそっくりだった。
「ねえ、お姉ちゃん?」
「……なに?」
「
その問いかけに、すぐにネプテューヌは頷けなかった。何よりも、それに頷くとネプテューヌはもう戻れない気がした。自分と同じ色の瞳のはずなのに、その紫は深く、飲み込まれるような色をしているようであった。
沈黙。瞬きをしないその瞳には、息を呑むネプテューヌの姿が映っていた。
「……ごめんね、お姉ちゃん。怖がらせるつもりは、なかったんだ」
やがて彼女は煙を吐くと共に、そう呟いた。
「私はもう、私が分からなくなっちゃったんだ。私はネプギア。でも、それは断片でしかない。四次元的に変遷を続ける生きたネプギアじゃなくて、ネプギアという殻に付属するただの情報なの。だから私は……時々、私じゃないように感じるんだ。おかしいよね。こんなにも、私は
語りが続くにつれて、言葉に強迫めいた感情が乗せられていく。それは半ば、自分に言い聞かせるようでもあった。瞳はふらふらと揺らぎ、足元もおぼつかなくなっている。ただ、ネプテューヌにはそんな彼女の姿が、どこか寂しそうにも見えた。
「……お姉ちゃん」
煙と共に漏れた虚ろな呟きに、ネプテューヌは。
「大丈夫だよ、ネプギア」
まっすぐとその瞳をとらえながら、その頬を両手で覆った。
「君にどんなことがあって、何をしたかは、私には分からない。その苦しさもつらさも、きっと私には理解できないことなんだと思う。それは仕方のないことだって、君も分かってると思う」
「……うん」
「でも、君がネプギアってことは、確かなことなんだ」
それに、とネプテューヌは、彼女の顔をのぞき込んで、
「もっと元気に笑ってよ。君は、私の妹なんだからさ」
吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らす。ネプテューヌの手に自らの手を重ねると、どこか優しい温もりを感じられた。煙草の鬱陶しい熱でもなく、次元の底にある冷たさでもない、初めて彼女が感じることのできたものだった。
「……本当は、元気づけてもらいたかったのかもしれないね」
「え?」
「そうやって言葉をかけてほしかった。お姉ちゃんがいて欲しいんじゃない。お姉ちゃんでいて欲しかったんだ。なんだ、そんなこと……そんなに簡単なことで、私は……そう、だ。私は、ネプギア……たとえそれが断片であろうと、剥がした爪の一かけらであろうとも、私はネプギアなんだ」
ぶつぶつと呟いていた彼女はやがて、静かな表情になって顔を上げる。
その瞳には、プラネテューヌの街並みが映っていた。
「お姉ちゃんは、この景色が好き?」
「……うん。大好きだよ」
「そっか」
小さく答えながら、彼女が笑う。
また、ネプギアに似た笑い方だった。
「本当はお姉ちゃんを連れて帰りたかったんだけど、ダメだよね」
「ごめんね。私は、この国の女神だもん。離れることはできないよ」
「そうだよね。それにお姉ちゃんは私とこの国を選ぶときになったら、迷わずこの国を選ぶだろうから。だから、連れて行っちゃいけないんだ。きっとそれは、ネプギアが一番望まないことだから……」
そうして彼女は一度、ネプテューヌの方へ振り向いてから、
「さよなら、お姉ちゃん」
告げたその直後、彼女の姿は何の前触れもなく消えた。瞬間的なその出来事に、ネプテューヌが思わず周囲を見渡すが、そこには誰もいない。彼女はただ呆然とした瞳で、空を見上げることしかできなかった。
そして。
残った煙草の香りを、風がどこかへ運んで行った。
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十一次元の別側面、綱を渡る蟻の視界にて。
「クロワール」
呼びかけに現れたのは、一匹の蝶だった。
『なーんだ、また失敗したのか』
「ううん、違うの。今までの私が間違ってたんだ」
『……どういうことだよ、そりゃ。心変わりでもしたってのか』
「違うよ。私は今でも、お姉ちゃんに会いたい。だから」
言葉と共に、彼女が手のひらに映し出したのは、淡い紫色の光で。
『なんだそれ……って、まさか』
「そうだよ。お姉ちゃんの
『集めるつもりか?』
「うん。だって、そうすればきっと、お姉ちゃんは傍にいてくれるから」
『途方もねーぞ……』
「それでも、私はネプギアだから。お姉ちゃんのためなら、何だってするよ」
しばらく光を眺めたのち、彼女が懐から煙草を取り出して、それに火を点ける。
「次は、どのお姉ちゃんに会いに行こうかな?」
吐き出した白い煙の向こうには、無数に広がるプラネテューヌの景色が映っていた。
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ネプギア(断片):とある次元の「ネプギア」という存在から欠け落ちた
綱を渡る蟻の視界:綱渡りをする人は前と後ろの一次元でしか動けないが、蟻は前後と左右の二次元に動くことができる
ネプギア(本物):ネプテューヌがサボった分の仕事をヒイコラ言いながら消化してる