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「あれ?」
そんな、ふとしたネプテューヌの呟きに、ベールは閉じていた本をぱたりと閉じる。
「どうしましたの、ネプテューヌ?」
「これ、リーンボックスの写真じゃないよね?」
首を傾げながら彼女が指で示したのは、壁にかけられたいくつかの写真のうちの一つであった。そして、確かにその写真は他のものと違い、リーンボックスではない街の風景が写されていた。それを一瞥すると、ベールは困ったような笑みを浮かべながら、椅子から静かに立ち上がる。そしてネプテューヌの隣へ並ぶと、懐かしむように語り始めた。
「こちらは、私の故郷の写真ですの」
「故郷?」
「そうですわ。私はあなたがたと違って、もともと人間でしたから」
言いながら、ベールは写真の中央に指をあてながら、続けた。
「ここに住んでましたの。ほら、この丸い屋根の家ですわ。懐かしいですわね、私がここに住んでいたころはまだ小さかったから、学校に通っていましたのよ。あ、ここですわ。右の方にある、いちばんおおきな建物がそうでしたのよ。その時、仲の良い子とは家が遠くて……ああほら、見てくださいな。ここがその子の家ですのよ? 学校を挟んで真反対にあったから、放課後に遊びにいくのも一苦労で……」
そこまで言いかけた時に、ベールがはたと気づいたように口元を手で覆う。
「ごめんなさい、私だけが喋っていましたわね」
「別にいいよ。ベール……っていうか、みんなのそういう話を聞くのって、新鮮だし」
「でしたら、いいのですけど」
くすり、と気品のある微笑みを浮かべながら、ベールが答えた。
「思えば、小さな街でしたわ。こんな小さな額縁に収まるくらいの。でも、だからこそ平和だったのかもしれませんわね。争いごとも怒らない、静かな毎日を暮らせましたの」
「……退屈じゃなかったの?」
「だからこその幸せ、というのもありますのよ」
こちらを見つめながら語るベールの言葉を、きっとネプテューヌは永遠に理解できないのだろう。混沌と相克、その中に未来と希望を見出す彼女にとって、平穏の中に存在する幸福などあるはずのないものだった。
曖昧なベールの言葉を心に残しながら、再びネプテューヌが写真へと目を向ける。今のリーンボックスと比べると遥かに小規模であり、文化的にもいくらか後退してるところだった。もしもネプテューヌがここに住めと言われたら、女神として持ちうる権能を全て使ってでも拒否することだろう。けれど、隣のベールは、まるで大きな未練があるかのように、この写真をずっと眺めていた。
彼女と同じ何かを得られるはずもないが、どうしてかネプテューヌは同じようにして写真を眺めていた。そして彼女は、ふと何かに気づいたように、ベールへ向けて口を開いた。
「これ、どこから撮ったの?」
「街の近くに小高い丘がありまして。きっと、そこからだと思いますわ」
「もっと近くじゃなくて、よかったの?」
「というと?」
「だって、その方が色んなことを思い出せるでしょ?」
するとネプテューヌは、写真へ指を向けながら、
「学校だってもっと近くで撮れば、その時のことをもっと思い出せるんじゃない? 自分の家も、さっき言ってた友達の家だってそうだよ。思い出せるなら、そうするべきだと思うんだけど、どうしてベールはそういう写真を飾らなかったの?」
「……もしそうしたら、この部屋が私の故郷の写真で埋め尽くされてしまいますわ」
矢継ぎ早に言葉を並べるネプテューヌに、ベールは呆れながら答えた。
なるほど確かに、彼女の言うことも最もである。こんな遠景の写真ではなく、もっと一枚一枚を近づいて撮った写真ならば、その時にあったことをより鮮明に思い出すことができるだろう。だが、もしそれが可能であったとしても、ベールは決してそれを望まなかっただろう。きっとそれが、生まれながらにして女神であるネプテューヌと、人から女神へ昇華したベールとの、決定的な違いであった。
無垢ともとれるような、きょとんとした丸い瞳を見つめながら、ベールが語る。
「故郷の写真というのは、いつでも遠くから写されるものなのですわ」
「どうして?」
「私は、この故郷に決して戻ることができませんから」
街並みを眺めるベールの瞳には、どこか悲しげな色が灯っていた。
「もちろん、この土地に戻ろうとすれば戻れますわ。でも、そこはもう私の故郷ではありませんの。街の風景も変わってしまっているでしょうし、学校や友達の家、私の住んでいた家も無くなってしまっているかもしれない。私はこの土地に戻ることはできますが、私が過ごしていた故郷に戻ることは、決してできませんの」
「……だから、遠くから写してるの?」
「ええ。きっと、あなたには理解できないのでしょう。生まれながらにして、自らの国を持つあなたには」
言葉に反して、ベールの浮かべる笑みはいくらか優しいものであった。それは揶揄するための言葉ではなく、少しだけの妬みを孕んだ言葉としてネプテューヌの耳に届いていた。
「私が十歩近づくたびに、その分だけ遠ざかる。ここは私が立ち入ることのできない、遥かな原風景なのですわ。それに、もしこの故郷に戻ることができたとしても、私は決して戻ることはしませんわ。だって……」
「……だって?」
「私は、このリーンボックスの守護女神ですもの。そうなってしまったからには、もう覚悟はできています。この先に待ち受けるものがどれだけ辛く、苦しいものだとしても。女神になった私はもう、この故郷に帰ることは許されないことですのよ」
自らに言い聞かせるように呟いたベールが、ネプテューヌの方へと振り返ってから、ぽつりと。
「あなたにとってのプラネテューヌが故郷にならず、今を生きる場所であることを願っていますわ」
どこか羨ましそうな瞳で、そう告げた。
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「ふるさと」の画というのは、どうして遠景ばかりなのだろう。
それは、私が十歩近づけばその分だけ遠ざかり、決して中に入ることを許されない、遥かな風景なのであった。
―― 寺山修司 『花嫁化鳥』