暑い暑い夏の日々を綴った日記。

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青い七月のアフターグロウ

 前書きと注釈。

 

 これより以下の書に記されている内容、及び文は実際に私自ら体験したことであり、決して作り物ではないことを記す。

 決して私の世迷い言などではない。

 そのことを念頭に置いて、読み進めてくれたまえ。

 

 

 ※

 

 ・七月一日

 この日、私は目を丸くした。

 いつも通り、朝目覚ましに起こされ、小鳥の囀りを聞きながらのモーニングサンドイッチを平らげる。

 ここまでは何の変哲もない私の習慣だ。

 しかし、仕事へ向かおうと玄関に向かうとどうだろう、私の知らない町が目の前に広がっているではないか。

 

 ここは横浜ではないのか?

 これから仕事だというのに、とても非現実的な体験は夢かと疑ってしまうくらいにはよく出来ていた。

 決して仕事疲れではない。

 私はしっかり週に三回公休日を設けて、体を休めている。

 酒は飲まないから、酔っぱらってるわけでもない。

 

 となれば、やはり現実なのか?

 晴れやかな空から紫外線が降り注いでいることは、私の眼鏡に施された調光レンズが仄かに黒くなっていることが示している。

 右も、左も、見たことのない土地だったが、太陽が紫外線を出している私の知る世界であることを確認できたことは大きな収穫である。

 ニコンには感謝しなければならないな、横浜に戻ることができたら一筆添えるとしよう。

 

 現実逃避をしてる場合ではない。

 

 この照りつける太陽、七月に入ったばかりの夏の暑さに変わりはなさそうだ。

 だが、ここは横浜ではない。

 

 そうなれば、ここはどこなのか。

 まずは現在位置の確認をすることが大切、携帯はお約束ごとのように圏外となってしまってる。

 このような事態に陥ったとき、必ずといっていいほど圏外になるのは何故なのか。

 筆者の都合? 情報の秘匿? 文字稼ぎ? 物語の進行の都合上? 電波の回線の違い? 東と西での発信周波数の違い? それとも─

 

 いくつか理由は考えてみた。

 当時の私は前者の考えは即座に切り捨てた、何故ならこれは物語などではないからである。

 

 散策、する前に一度出てきた扉を開けて帰宅する。

 この行為を果たして帰宅と呼んでよいものか不明ではあるが、見慣れた玄関からもう一度外へ出ると、そこにはやはり見慣れない先ほどの景色が目の前に広がっている。

 記念に写真を撮っておこう。

 

 右隣の吉村さん、向かいの遠北さんのお宅も当然のことながら存在しない。

 私の自慢の一軒家は見事に外装だけ周りに同化するように変貌してしまっている、ローンも残っているのに大丈夫なんだろうか。

 

 いつもの道、というと語弊が大変あるが、いつものように私は左に曲がり職場を目指す道順を辿ってみることにする。

 突き当たりに差し掛かったところで別れ道になっていて、駅に向かうためには右に曲がる必要がある。

 私はいつも通りに従って歩いてみて驚いた、道の構造は変わってないように思えたからだ。

 

 横浜は迷宮都市と呼ばれるくらいに入り組んでいる。

 順路は正確でなくてはならないし、一歩間違えると後戻りをする羽目になる。

 私は後ろを見たくない主義の人間だ、後戻りは面倒でしたくない。

 駅はなかったが、代わりにバス停があった。

 地図を見てみたが文字は読めなかった、しかし路線図はどこか横浜を彷彿させるものだった。

 これは大変不可思議な現象である。

 

 歩き疲れたので建物の影へ逃げ込む、夏場のいい避暑地である。

 先客もおり、私の気も知らずに、にゃーと呑気な声を出す小さな先客だ。

 

 彼女、おそらく三毛猫なのでメスだと思われるのでここでは彼女と記しておこう。

 話が逸れた、彼女は私が来たことで早々に避暑地から去ってしまった。

 やはり私は動物には好かれない体質らしい。

 

 一般的な通勤時間になったのか、多くの人々がわらわらと湧いて出てきた。

 私もそろそろ動こうと名残惜しくも避暑地から脱することにした、すると先ほどの三毛猫がこちらを見ている気がした。

 私のことを気にしている、のかわからないが何度もこちらを確認してる気がする。

 私は気掛かりになり、彼女についていってみることにした。

 どちらにしても知らぬ土地、宛がないのだから大した問題ではあるまい。

 

 彼女の歩く速度はどんどん速くなっていく。

 私は少し疲れてきた、デスクワーク人間にこの運動量はマラソンをするようなものである。

 歩くこと推定一時間、彼女は変哲もない商業ビルの前で姿を消した。

 少し探してみたが、見つからなかったのでビルに入るしか選択肢はなかった。

 

 私は目を疑った。

 

 そこは、私の目指す場所。

 

 労働の対価に金銭を交換するスペース、職場だった。

 

 見慣れたオフィスに見慣れた景色。

 一度、ビルの外に出てみた結果私の知る横浜の景色がそこにはあった。

 素直に混乱した、わけがわからない。

 時間もいつも通り、私の出社する時間で遅刻することなく済んだ。

 私は自分自身を疑った、帰ったら一度病院に行こうと予約を手早く済ませて仕事をすることにした。

 

 既にクールビズの始まったオフィスは涼しい。

 隣デスクの丸川君に今朝のことを笑い話として仕事の合間に談笑しつつ、いつものようにキーボードをカタカタと走らせる。

 夕方、18:00頃にタイムカードを切って定時退社を済ませる。

 受付の牧野さんを誘って丸川君に飲みに行こうと誘われたが、今日は断ることにした。

 丸川君の一方的な片想いも気になるし、先輩として応援したいが、今朝のことが私には気掛かりだ。

 

 私は見慣れた横浜の街を歩き、自宅を目指す。

 途中、彼女がいないかどうか辺りを注意してみたが、一度も遭遇することはなかった。

 

 家の外観は私の見慣れたものへと変形、もとい、元に戻っていた。

 一般的な二階建ての家屋に右隣の吉村さんの黒いベンツも、向かいの遠北さんの二階から聞こえてくるピアノの音色も私の知るものだ。

 今朝記念に撮った写真もそのままなので、今朝のことが夢ではなかったことを物語っている。

 

 スライド式の扉を開き、見知った玄関で靴を脱ぎリビングに荷物を放り投げて服を脱ぐ。

 いつも通りの日常である。

 

 正直、ここから先は特に変わったこととかなかったし、めんどくさいので省略させてもらう。

 仮に他人が読むのであれば、プライバシーの侵害である。

 

 七月三日、記。

 p.s.せめて夕食のメニューだけでも残しておこう。

 フランスパンと牛肉たっぷりのシチューだ。

 

 

 ※

 

 ・七月二日

 仕事が休み、つまりオフの日だ。

 こんな日はカフェにでも出掛けて珈琲を嗜むところなのだが、前日の件もある。

 慎重に玄関扉を開く、大丈夫、お向かいの遠北さんの立派な邸宅が私の目に映りこむ。

 

 少し変わったことと言えば、遠北さんの邸宅を囲む塀の上に少し太ったキジトラが鎮座していることくらいだ。

 右目が赤みのある茶色、左目が白と黒のコントラストがハッキリとした瞳。

 一昔前に流行ったとされるオッドアイと呼ばれるものだ、猫にも存在するのは知らなかったので私は一つ賢くなった。

 

 鮮やかな橙色をした猫、先日会った三毛猫が彼女としたので、ここではキジトラのことを彼と記しておく。

 短い方が文章は書きやすい。

 

 橙色の尾を揺らして彼は私のことを目に留めると、そのまま塀を飛び降りてどこかへと行ってしまった。

 

 どこにでもいる野良猫、そう気に留める必要もないだろうと思い私は行きつけのカフェへと向かうことにした。

 案内路に乗り掛かり、そのまま身を任せながら連れていかれる。

 とても便利な世の中になったと思う。

 

 街頭テレビジョンでは最近ブレイクし出したアイルランドのロックバンドのライブ中継が映し出されている。

 

 私はカフェの戸を開くとこれまた奇妙な現実に襲われた。

 いつものカフェではない、明らかに違う店だった。

 移転したという話も閉店したという話も一切聞いてないから妙である。

 カフェのマスターは私の友人である待塚が経営しているのだ、絶好でもしない限り私に連絡はくるはずである。

 

 見知らぬ店内、見知らぬ店員だったため、一度外に出てみてショーウィンドウを覗いてみると私のよく知る喫茶店桃色のきりんの店内が写し出されている。

 カウンター席でサイフォン式珈琲メーカーを巧みに操っている待塚の姿もある。

 

 しかし、私が戸を開いて中に入ると全く知らない景色が広がっているのだ。

 携帯電話は当然のことながら圏外だ。

 

 二度も出入りした私を不審に思ったのか、マスクをした女性店員が私に話しかけてくる。

 しかし、そこは私が大人な対応で何事もなくカウンター席に為されるがまま案内されることにした。

 メニューもやはり違った、そして何より不思議に思ったのが従業員も他の客も誰も彼もマスクをして口元を隠しているところである。

 いくら花粉症対策とはいえ、こんな暑い夏に全員がマスクをするなんてことがあり得るのだろうか。

 残念ながら、私は今日マスクをたまたま持参していなかったので、郷に従うことは叶わなかった、たまたま、である。

 

 メニューにあるアメリカンとサンドイッチのセットをオーダーする。

 しかし不思議なものだ、窓から見える景色は私の知る横浜ではない。

 これも先日体験した奇妙な出来事と重なる。

 外の景色を歩く人々も皆が皆、マスクを着用しているのだから不思議な光景だ。

 

 私は奇異な目を向けられつつも、名も知らぬ喫茶店で時間を過ごした。

 値段は650円と少し高値だったが、味は満足である。

 お金を出すときに少し不安に感じたが、なんとかなったようで助かった。

 警察沙汰は避けたい。

 

 桃色のきりんの外観をした喫茶店から出ることにした、何やら長時間の滞在はいけない気がしたのだ。

 私が外に出ると、彼が店の周りをウロウロしていた。

 まるで私が店から出てくるのを待っていたかのように私の姿を見てにゃあ、と低く唸り声のような鳴き声を上げた。

 私に何か伝えたいことでもあるのだろうか。

 

 私は彼の揺らす橙色の尻尾から目を離せなくなっており、ついていくことにした。

 

 見慣れた横浜の街を歩きながら、彼に導かれて辿り着いたのは千葉にあるひまわり畑だった。

 たしかに歩いても行ける距離ではあるが、こんな短時間で到着するような場所ではなかったはず。

 横浜から車で20分は要するはずである。

 

 向日葵の花は空に向かって咲いており、管状花の集合体である中央部からぷくりと、シャボン玉がふわふわと浮き上がっていった。

 子供でも知ってる観光名所である。

 今日も多くの人々で賑わっているかと思いきや、不思議と人っ子一人といない。

 平日だろうが休日だろうが賑わうはずなのに、これまた不思議である。

 

 いつの間にか彼の姿はない。

 せっかく遠出もしたのでひまわり畑を散策してみることにした、ここに来たのも久しぶりである。

 誰もいないのでゆっくりと見て回ることができる。

 

 看板に見立てたキャプションにシャボン玉のできる簡単な原理が説明されている、呼吸により溜まった水蒸気から滴った水分が向日葵の中心を覆う膜に溜まることで球体となり、時間をかけて蒸発して軽くなった膜だけが空を飛び、シャボン玉のようになるそうだ。

 

 文章だけではわかりにくいので、図も入れて解説してもらいたいところである。

 意見箱があるなら、書いておこう。

 

 どうやら今日は記念館は休館日のようす、なるほど。

 それならば人が少ない理由も少しは頷ける、しかし、彼がどうして私をここに連れてきたのかは謎だ。

 

 帰ろうとしたところで、街道にて白いワンピースを着た女性が立ち塞がった。

 つばの大きな麦わら帽子とセミロングの茶髪が特徴的である。

 女性が何者なのか見当がつかない、その上何故私の行く道を塞いでいるのかもわからない。

 

 もしや、新手のかつあげ…!?

 

 私は金目のものを持ち合わせてはいない、悪いことをしたわけでもないので逃げるのもナンセンスだ。

 女性は動かない、なので必然的に私も動けないのでしばしの間にらみ合いが続く。

 麦わら帽子のつばが大きすぎるせいで彼女の目を見ることができないのも、不気味である。

 

 彼女の口元がニヤリと笑うと風が強く吹く。

 私は思わず顔を隠してしまったため、何が起こったのか私にはわからない。

 だから、麦わら帽子の女性が目の前からどのようにして消えてしまったのかはわからない。

 

 なんだかとても疲れてしまったので帰ることにした。

 結局、一日をよくわからないことに使ってしまった感が凄まじい。

 いつの間にか、時間も午後を回ってしまっている。

 

 横浜に到着した頃には夕方になっていた。

 ひまわり畑に行ったときの道順は覚えていたのだが、不思議なことに辿れる道がなかった。

 神隠しにでも遭った気分だ。

 

 私は先日と今日の経験を忘れないために明日から日記をつけようと決意した。

 帰り道に文房具屋に寄り、一冊のノートを買った。

 日記は明日から、今日は疲れてしまったのでやることを済ませて寝ることにする。

 果たして、意味があるのか否なのか、私にはわからない。

 

 七月三日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月三日

 朝起きて、午前中は淹れた珈琲(インスタントだが、珈琲は珈琲である)を飲みながら日記を書くことにした。

 可能な限り時系列を整理して、記録に近い形でまとめておこうと、私は今後のためにもそうすることにした。

 しかし、後から読み返して余りにも現実離れした出来事に理解が追い付かない可能性も考えれる。

 私とて、こんな奇妙な体験を忘れるなんてことはないと思いたいが、世の中には万が一ということがある。

 

 前書きと、一昨日と昨日の出来事をまとめるだけで気がついたらお昼になっていた。

 

 遅めの昼食を済ませたところで、仕事仲間で当時の案件を共にこなしているバディでもある沓掛から連絡が入っていることに気がついた。

 お互い、オフの日に関しては仕事関連で一切合切干渉しないとバディを組んだ日に血の契りを交わしたのに、私がオフの日に連絡が来たということは仕事関連ではないのだろうと推測できる。

 もし、仕事関連であったならばバディは即解散、連絡先も着信拒否とブロックにしてから削除してやる。

 

 TVでニュースを流し見しながら、沓掛からの連絡に目を通して返事の文面を打つ。

 ペットのトイプードルが可愛いと写真に撮って送ってきただけだった、かわいい。

 天気予報が流れた後に岐阜県の移動先に関する注意報と警戒速報が流れてきた、まだ横浜には進出してきてはいないが要塞迷宮都市に改造された横浜には迎え撃つ策は百と用意されている。

 政府がそう発表しているのだ。

 

 私は昼食に用意していたミートソースの乗ったパスタとコーンスープを片付け、食後の紅茶を飲む。

 

 私が連日で休みを頂戴したのも、この不可思議な現象を仕事に持ち込みたくない気持ちが強い。

 だって、気になるじゃん。

 足りなくなった食糧品の買い出しに行こう、岐阜県も迫ってきそうな勢いなので多めに買い込んでおきたい。

 

 渋滞に巻き込まれなければ、三分ほとで到着するスーパーが丁度特売をやっているとチラシが入ってた気がする。

 記憶を頼りにチラシを漁っていると少し気になる別の記事が目に入ってしまう、これだから片付けとかそういった行為は時間が掛かってしまう。

 私はスーパーのチラシを持って、愛車のキーと財布を持ち家を出る。

 渋滞になることもなく、スーパーもそこまで混雑していなかったので特筆することはない。

 

 この日は特に何もなかったので、書いた意味もあるのかわからない。

 しかし、記録としては必要だろうと私は判断したので書き記しておくことにした。

 私はもう眠いので寝る。

 

 三日分も一気に日記を書けばほどよく疲れてしまうし、思い出すのにも体力を使ってしまった。

 私は寝る。

 

 七月三日、記。

 

 

 追記。

 不貞寝した後、私は夢を見た。

 窓の外から何かが覗いてるのだ、そして何者かから私を逃がすように連れ去った。

 空から虹の降る不思議な高原にまで連れ去ったと思えば、そこには二匹の猫、キジトラの彼と三毛猫の彼女がいたのだ。

 それだけではない、私が一番驚いたのは電波時計の文字盤だった、それは私の生きる西暦年ではなかった。

 そこだけ記憶に靄が掛かったようになっているのだが、驚愕、の感情を胸に抱いたことをよく覚えている。

 そして、ここ数日の騒動も─

 

 あとのことはよく憶えていない。

 しかし、生々しい感覚とあの場所の空気は今でもしっかりとこの身が覚えている。

 私は二度寝する。

 

 七月四日、早朝。

 

 

 ※

 

 ・七月四日。

 どうも記憶が曖昧だ。

 やはり日記というものはその日の内に記す方が正確な情報を残しておける。

 言い訳をするならば、この日は一日仕事で書くことが起業秘密だったり、社外秘だったりと仕事に関することしかなかった。

 

 ぶっちゃけ、書けないようなことをしていた。

 昨晩から記憶が曖昧なのはたしかな事実、夜に追記した内容ですら今となっては疑わしい。

 しかし、それを書いた私はたしかにそこに存在していた、過去の私を信じるしかできない。

 

 仕事でない日以外は基本的にその日の内に日記を書こう、そうしないと本当に忘れてしまう。

 私はまだ若い、脳細胞だって現役だ。

 ちなみに今日の晩御飯は久々に出前を取った、ここに領収書も貼り付けておこう。

 宅配ピザはいい文化だ。

 

 七月五日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月五日

 今日も仕事である。

 出勤する途中、以前みたいに知らない場所を通ることなく無事に出社することができた。

 横浜の街が迷宮都市と呼ばれていても、さすがに一度通ったことのある道を忘れるほど私は馬鹿ではない。

 開発も完了しているから、景色が変わることも特にない。

 

 職場ではいつも通り、丸川君と世間話をしながらFAXの処理を続けた。

 これは単なる愚痴なのだが、この国は一体いつまでFAXという紙資源の無駄な作業を続けるというのだろうか。

 欧米なんかでは旧世代の遺産として博物館に展示されているレベルだというのに、私には到底理解できない。

 メールも廃れてきたこの世の中でとてもナンセンスなことである。

 

 この日も丸川君に飲みに誘われたが、断った。

 何故なら私は明日も出勤だからである、丸川君とはシフトがずれている。

 それなのに君は何故私を執拗に飲みに誘うのか、というかそんな金がどこから出てきているのか不思議でしょうがない。

 私は疲れを背負いマイホームの扉を開くと、そこは知らない人の家だった。

 

 いや、待ってほしい。

 

 いつか来ると覚悟はしていたが、このタイミングで来ないでほしかった。

 というか、仕事終わりかつ愛しのマイホームを目の前にしてこの仕打ちはやめてほしい。

 このままでは私は不法侵入になってしまいかねない、もうすぐ三十を迎えるが、ブタ箱入りは人として避けたいところである。

 そのまま回れ右をしようとした私に声がかかった、透き通った綺麗な女の声だった。

 

 そのまま振り返ると、そこには私が勝手に彼女と呼んでいるいつしかの三毛猫が鎮座していた。

 まさか、さっきの声は彼女のものなのか。

 まさか、まさか、と思いながらも私は彼女が付いてこいと言っているようにも思い、鈴の音に釣られながらそのまま靴を脱ぎ、家の中へ導かれてしまったのだ。

 不法侵入成立である。

 私は奥から聞こえてくる家族団欒の声が響く、リビングの扉を開いた。

 

 そこに家族団欒などなかった。

 

 そこには見慣れた私の部屋があった。

 

 私は酷く疲れている。

 明日、有給を取らせてもらおうと会社に連絡を入れそのまま病院の予約を取った。

 

 この奇妙な現象に早いところ終止符を打ちたいところではあるが、私としても疲れが溜まってきているに違いない。

 幻覚の類いなら病院で診てもらって良くなればそれで万々歳である。

 今日も疲れたので、寝ることにした。

 食欲はあまり湧かなかったので、適当に済ませた。

 

 七月五日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月六日。

 昨夜から記憶が曖昧な気がする。

 私は何故病院の予約を入れてあって、どうして出勤日の今日を有給休暇にしたのか。

 この日記があって助かった、しかし、文面だけでしか読み取れない。

 昨日の私の行動の意味が何もかもわからないのだ。

 

 予約してしまっては先方に申し訳ないので、私はひとまず病院の時間まで珈琲で時間を潰すことにした。

 膝の上のノワールもご機嫌だ、喉元を撫でてやると上機嫌に尻尾を振る。

 私は珈琲を飲みながら、ここ数日書きまとめた文字を読み返すことにした。

 何度読んでみても、実際に体験したとはとても思えないような数々の出来事、しかし、体験として私の記憶にしっかりとあるため全否定するわけにはいかない。

 

 病院に向かいながら、近くのコンビニに寄り道をしておにぎりを買う。

 病院は思いの外混雑しており、診察券を出してもすぐに名前を呼ばれることはなかった。

 大人しく待つことにしたが、ここまで人が多いことなんてあったかな、と思うくらいには来院の数が多い気がする。

 私は病院のテレビで放送されている天気予報、チャンネルとアナウンサーの名前からおそらくNHKだと思われる番組をぼーっと視聴する。

 天気図に少し違和感を覚えつつも名前を呼ばれるのを大人しく待つこととする。

 

 しかし、一時間経っても呼ばれることはなかった。

 いくら混雑してるとはいえ、こんなことがあるものなのだろうか。

 看護師さんに理由を聞くわけにもいかず、私はただひたすら待つことしかこの時はできなかった。

 それから、番組の中盤なので大体十五分ほど経った頃に私の名前が初めて呼ばれた。

 診察の前のヒアリングは禅問答のようだった。

 

 体調。

 今日の体温。

 生理周期。

 怪我。

 持病の有無。

 服用している薬。

 身長と体重。

 

 他にも色々聞かれたような気はするが、私が覚えているのはこのくらいである。

 何とも生気の感じることのできない先生だったが、カルテにすらすらと文字を書いている様は、れっきとした医者であった。

 いや、金も時間も払うわけだからしっかりしてないと私が困るんだけどね。

 

 診察を終え、処方された薬をもらってそのまま家に帰った。

 なんだか、ひどく疲れてたのでそのまま寝てしまった。

 前後のことを書くにしても、記憶が曖昧なので書くに書けなかった。

 

 七月八日記。

 

 

 ※

 

 コレハ警告ダ

 踏ミ込ムナ 思イ出ヲ汚スナ

   引キ返セ

 

  後悔スルゾ

 

   ワタ シ ハ

 

 

 ※

 

 ・七月八日

 

 おかしい。

 昨日のスペースに書かれた文字もそうだが、七月七日の記憶が全くない。

 丸一日寝ていた、そんなわけはない。

 きちんと洗い物もしたし、洗濯だってした。

 頭では何も覚えていないが、病院に行った次の日に一日を過ごした記憶はある。

 おかしな感覚だ。

 

 私は乱雑に書かれたページの処理に困った、いくらなんでも不気味すぎる。

 ここを見なきゃいいのか、栞代わりに付箋でも貼っておこう。

 開かないための付箋を。

 

 今日も仕事だ。

 薬を飲み、ノワールの餌を用意して会社に向かった。

 

 七月八日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月十一日。

 急な出張のせいで日記が書けなかった。

 一日一日、書くのも面倒になのでざっくりまとめて書こう。

 誰かが読むものでもないし、問題はないだろう。

 

 出張先は三重、急遽決まったにしてはかなりの距離だったのでびっくりした。

 道中、特段面白いことはなかったが、沓掛君と二人で新幹線の中を本当に特に面白いことも何もなく、味気のない仕事の話をしながら時は流れたのだった。

 仕事は滞りなく進み、沓掛君の活躍でトラブルは解決。

 岐阜県が新幹線を止めることもなかったので、行き帰りとスムーズに移動することができた。

 

 三日間の出張で少し疲れてしまったようだ。

 まとめて日記を書く気も起きないので、今日は本当に勘弁願いたい。

 ノワールを兄さんの家に迎えに行くのは明日でいいだろう、どうせ公休日だ。

 

 七月十一日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月十二日。

 私は朝早くから埼玉県にある、兄さんの家に同居人、というより同居猫であるノワールを迎えに向かった。

 急な出張で兄さんには迷惑をかけてしまった、御中元くらいは用意しておこう。

 

 近年の釣りブームのせいか、道路はやけに混雑しており、駆動力とアウトドアに向いている恐らく四輪駆動と見られるジムニーが多く走っていた、かなり不思議な光景である。

 私の小柄なでかわいい愛車が埋もれてしまう。

 そういえば兄さんもジムニーに乗っていた気がする、この世に車はジムニーしかないのかと思ってしまう。

 まったく、市場独占もいいところだ。

 

 兄さんは基本在宅業なので、家にいる時間は長い。

 というか、外出が稀である。

 いつしか定着したステイホームという習慣、未だに根付いているというのだから、この国は存外引きこもりという種族にとってのエデンなのかもしれない。

 まぁ、この炎天下の中なら外に出たくない気持ちもわからなくはない。

 

 ノワールのために車内も冷やしておこう。

 

 インターホンを鳴らしても、気づかれないことが日常なので私は兄さんの部屋の合鍵はもらっている。

 ノワールを迎えたらそのまま礼だけ言って帰るつもりである、兄妹仲が悪いというわけではないが、必要以上の会話が不要なのも事実である。

 

 私は兄さんの部屋の鍵を開けると、そこは見知らぬ光景であった。

 この数日の経験がなければ、部屋を間違えたとか、兄さんに合鍵を細工されて別の部屋に案内されたとか、兄さんの別荘だとか、既婚者である兄さんが浮気のために用意した部屋の鍵を間違えて渡されそのまま部屋番号も間違えて伝えられたまで疑うところである。

 しかし、どこにでもあるような分譲マンションの扉を開いたら砂浜とか、どう考えてもおかしい。

 

 しかも、ここハワイじゃね?

 

 夏休み、日本人がこぞって行きたがるハワイじゃね、ここ??

 

 証拠に天高く掲げられてる国旗が当国のものではない。

 ていうか、私の格好がアンバランスすぎてやばい。

 急ぎ着替える必要があると感じた私は更衣室に駆け込み、それっぽい格好に着替える。

 こういうときに携帯ドレッサーは便利である、科学の進歩は偉大なり。

 埼玉からハワイに、なんとも頓珍漢な現象であるが、現実に起こってるので受け入れるしかない。

 

 帰り道までなくなってしまったので、大人しくハワイ観光をすることにする。

 ひとまずどこかでドル札を入手せねば、ていうかパスポートないから何かあったらまずくね?

 

 私は英語はそこそこである、英検三級レベルだ。

 せっかくハワイに来たんだし、前々から気になってたお店には行ってみようと思った、というか満喫してきた。

 スマートフォンのメモ機能はとても便利だ、日頃から細かなことでもメモしておいて大正解である。

 

 私がハワイから埼玉に帰ってきたのは夕方頃だった。

 ハワイに行ったら行きたいお店その十二くらいを巡っていたときである、お店の扉を開いたら埼玉だった。

 幸せ気分からいきなり現実に戻されたよ、ちくしょうめ。

 

 そのまま兄さんの部屋の扉を開いたら兄さんの部屋だったし、兄さんからは遅いって怒られるし、ノワールもノワールでなんかご機嫌斜めだし。

 ポケットに入れていたくしゃくしゃのドル札はそのまま残っていた。

 どうやら夢ではなかったらしい。

 

 私はそのままノワールを連れて帰り、家に着いた頃には夜になってしまった。

 昼はハワイでロコモコ食べたし、夜は適当に済ませよう。

 なんだか最近、夜適当に済ませることが増えてきた気がする、それもこれもこの不思議な体験を記録するため日記を書いている時間が多くなったからだろう。

 私はインスタントの焼きそばと冷蔵庫に保管していた白米をおにぎりにして、夜を過ごした。

 たまにはワインもいいだろう、普段は飲まないがこういう日くらいは飲んでも許してくれるだろう。

 洗い物は明日する。

 

 七月十二日、記。

 p.s.最近、毎日きちんとその日に日記書けてる、私凄くね?

 

 

 ※

 

 ユル

  サナイ

 

     ゼッタイ ゼッタイ

 ユル サナイ

  カラ

 

 

 ※

 

 ・七月十三日。

 久々のワイン、まさかの許されなかった。

 いや、これはハワイに行ったことに対してなのか、詳細はわからないが、怖い。

 今日は仕事なのでそんなに日記を書く暇もないだろう。

 だから、早起きして今書いている。

 出勤時間までだから時間がない、待って、朝御飯だけでも食べさせて。

 あ、待って、トースト焼ける!

 

 七月十三日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月十四日。 

 どうにも朝から体が怠い、夏バテだろうか?

 こういう日は珈琲ではなく、紅茶である。

 普段は飲まないのだが、友人からもらったものが少しだけある。

 早いうちに飲んでしまわないといけないと思っていた。

 

 今日の朝食は紅茶をメインとし、卵とハムを挟んだサンドイッチである。

 美味。

 ノワールもチュールをちゅるちゅーるしながら、優雅な朝を過ごす。

 私はいつもと同じように出勤する、そういえば奇妙な現象が起こり始めてから、もう二週間近くになるのか。

 最初はただただ混乱するしかなかったが、今となっては日常となってしまってるから慣れとは怖いものである。

 

 いつもの歩道を歩いてると、いつしかの彼女が私の前を尻尾を揺らしながら歩いていた。

 こちらのことは見向きもしない。

 私はなんとなしに彼女についていくことにした、仕事までまだ余裕はあるし、もしかしたら近道もできるかもしれない。

 そんな安直な考えでついていってしまった当時の私に叱責したいところである。

 

 彼女についていった先は私の自宅だった。

 

 うん、逆戻りしただけである。

 しかし、彼女は何故私の家を目指していたのか。

 私が唖然としてる間に彼女は姿を消してしまった、うん、ちょっとまずいぞ。

 

 これは遅刻してもおかしくない。

 普段と違う時間の道を歩くのも新鮮ではあるが、そんな余裕は一切なかった。

 道中、バスを見つけて駆け込んでいなければ私は間違いなく遅刻していたことであろう。

 汗を流しながら出勤した私以上に汗を流している丸川君、一体どうしたというのだ。

 

 終業時、丸川君の様子が少しおかしいように思えた。

 よそよそしいというか、焦っているというか、私には関係なさそうなので、このときは詮索しなかった。

 家に帰るとノワールがお腹をすかせて待っていた、やれやれ食いしん坊だことで。

 まずは私が腹を満たさねばならない。

 

 七月十四日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月十五日。

 休みだし、気になることがあったので朝から迷宮都市横浜の街を愛車と共に横行闊歩していた。

 横浜には汽車道という場所がある。

 昨晩、夢でその汽車道が出てきたのだ。

 しかし、私の知る汽車道とは少し違う。

 その上、汽車道を進んだ先にある門を潜ると、標識には尾道市の表示があったのだ。

 東から一気に西へ、そんなことあるものかと笑い飛ばせば簡単なのだが、埼玉からハワイに行った体験、ここ数日の奇妙な現象があったので笑い飛ばせない。

 ハワイに行ったときに換金した、ドル札はまだ財布の中に残っているのが動かぬ証拠である。

 

 汽車道までは少し入り組んだ道を進まなければならない。

 迷宮都市横浜に住んで五年になるが、未だに標識の数には慣れない。

 私は安全かつ最短の道を選びながら、汽車道を目指しながら間食を済ませる。

 

 近くのパーキングエリアに愛車を預け、かつての赤レンガ倉庫のあった場所を横切り潮風を浴びながら汽車道に向かう。

 凱旋門を模した建造物を潜ると、そこは夢で見た汽車道と同じ場所だった。

 思った通り、というよりも不思議な感覚、ここに来れば何かが起こるという確信みたいなものがあったのだ。

 横浜の街もまた私の知る迷宮都市横浜ではなかった。

 ビルの数も少ないし、空道もない、観覧車だってなかったのにそこにある。

 

 戻ろうとしても戻っては行けない、心の中で警鐘が鳴り響いてる。

 

 近くのベンチに座って黄昏ていると、いつしかの三毛猫の彼女とキジトラの彼が私の足元に寄ってきた。

 どこから来たのかはわからないが、どうにも様子がおかしい。

 

 二匹の両目が真っ赤だったのだ。

 美しいというよりも、どこか恐ろしい四の目がこちらを見据えている。

 

 私は思わず躊躇してしまうが、二匹がついてこいと私のことを呼んでいる。

 私が座り続けていると、早くしろとばかりにこちらのことを振り返り、見続けてくる。

 私は二匹についていくことにした、不思議なことに周りの景色がうまく確認することができない。

 前にもこのようなことがあった気がする、いつだったかな。

 たしか、あれは二年前の夏、待って、あのときたしか…

 

 少し逸れてしまった。

 七月十五日の内容をまとめてたのに、脱線してしまうところだった。

 続きを書こう。

 

 二匹の後をついていった私は気がついたら尾道の駅前にいた。

 私の知る空中浮遊都市尾道とは少し違う、夢の中の尾道そのものである。

 二匹の姿はない。

 横浜と全然違うのだが、潮風があるのは変わらない。

 何故横浜から尾道へと飛んでしまったのか、未だにわからないままだが、それを言い出してしまえば埼玉からハワイに飛んでしまった理由なんて考えたくもない。

 共通点、なにそれおいしいの?

 

 私はひとまず移動しようと駅で時刻表を見ると数が少なすぎて絶句した。

 どうすればいいの、まじで。

 行く宛もなければ、帰る宛もない。

 というか留まる理由も見当たらない、待って、まじでどうしよう。

 ていうかこの時の私、よくなんとかなったな。日記書いててまじ思う。

 ドーベルマン、もとい犬の散歩をしていたキタガワという人に会わなかったら本気で詰んでた。

 

 私はキタガワさんの散歩に付き合いながら、尾道市を散策することにした。

 山道に入り、多くの寺院を横目に険しい道を進んでいく。

 

 キタガワさんとはぐれた。

 尾道美術館、もう少しで頂上というところでドーベルマンのアルフレッドがこれまでにない興奮と喜びで険しい道をほいほいと進み、アルフレッドに引っ張られる形でキタガワさんも山道をほいほいと進み、それに付いていけなかった私がはぐれてしまうのは必然的なことなんだろう。

 都会育ちは貧弱である。

 たしか商店街を歩いて時にロープウェイがあったはず、あれが山頂まで続いてるとしたら乗り場がもうすぐ見えてくると思いたい。

 

 私は猫の小道と呼ばれる、少し小さなかわいい印象の道を歩く。

 道の端から猫がこちらに顔を覗かせる。

 かわいいものだ、彼と彼女もここに来たんだろうか、私には皆目検討がつかない。

 というか、私もしかして山を降りてない?

 

 やっぱり降りてた。

 

 気がついたのは線路があったことと、ロープウェイが上に向かってることの二点。

 いや、もっと早く気づけよ私。

 いつの間にかお昼の時間になってる、道理でお腹が空いてきたと思った。

 ずっと歩きっぱなしというのも大きいだろう。

 尾道にやって来たんだし、風の噂で聞いた尾道ラーメンを食べに行こう。

 商店街の中にいくつか店舗あったし、空いててかつお値段がリーズナブルなところを選ぼう。

 

 私は尾道ラーメンを食べ、またも路頭に迷うことになった。

 味はもちろん美味しかった、替え玉もしてしまったくらいだ。

 

 キタガワさんにお礼を言いたかったのだが、この人の数と尾道の広さでは見つからないだろう。

 私はベンチで少し休憩してから、夢に出てきた因島なる場所に行ってみることにした。

 私の知る空中都市尾道から因島へ向かうには空域領海跨ぎの関連で少し手続きが面倒なのだが、ここでは違うらしい。

 キタガワさんから聞いた情報だ。

 幸いにも財布は持っている、港から因島へ向かえるようだ。

 私は因島へ向かう道中、というよりも水上で船酔いしてしまった。

 グロッキーになってる私の目の前に彼女がひょっこりと寄ってきた。

 両目は赤いままである。

 

 私のことを急かすのだが、少し待ってほしい。

 

 三毛猫の彼女の後をついていき、車通りの少ないトンネルにまで案内される。

 そのトンネルの奧にいつしか見た白いワンピースの女性が立っていた、トンネルの暗闇に白いワンピースがとても映える。

 私は吸い込まれるようにトンネルの奧へ、奧へと進む。

 たくさん歩いて足も疲れてるのに、不思議と疲労感はなかった。

 一瞬だけ、白いワンピースの女性が笑ったような気がこのときはしていた。

 そのときの私はそんなこと気にすることなく、トンネルを進み続ける。

 

 目が合った。

 同時になにかが私の前を横切った。

 

 気づいたら、私は汽車道にいた。

 今朝来た汽車道ではない、私の知る迷宮都市横浜の見慣れた汽車道である。

 集合建築物、九龍が入道雲を生成している日常の景色である。

 なんだか、狐に化かされたような不思議な気分である。

 財布を確認したら、尾道ラーメンを食べたレシートが入ったままだったので、夢ではなく現実であることを表している。

 疲れが溜まっているのかもしれない。

 先生から処方してもらった薬も切れそうなので、明後日あたりにでも病院に行こう。

 

 とりあえず私は家に帰ることにした。

 なんだかとても疲れてしまった、日記も記憶を辿り辿り二日間かけて書いたが、こんな濃厚な日々は早々忘れることはできないだろう。

 

 七月十五日、七月十六日、記。

 

 p.s.私は何かを忘れているのだろうか、少し気になることもあったので二年前の写真も少し漁ってみよう。

 

 

 ※

 

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 ※

 

 ・七月十九日。

 ここ二日間くらいの記憶がない。

 日記を読み返しても、いまいち意味がわからない。

 二年前、同窓会に行ったときの写真を実家から寄せてもらって見ていたことと、病院で薬をもらったことくらいしか覚えてない。

 

 大事なところは所々覚えているのだが、スッポリと抜けてしまってるところはしっかりと抜けている。

 

 こんな気怠い日に仕事とか、軽く凹む。

 それはそうと岐阜県が急接近してるようだ、気を付けないと。

 早起きしたから出社前に日記書いてるけど、順序反対だよね?

 普通。

 

 七月十九日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月二十日

 今日はあいにくの雨である、そして岐阜県が横浜へ侵略を始めた。

 生きる樹海岐阜県、特定の地に根を張ることなく、日本各地を歩き回っては養分を吸って回る。

 なんとも迷惑な話である。

 

 よって、迷宮都市横浜に災害時適用される緊急事態宣言が発令されたので会社は休みである。

 といいたいところだったのだが、緊急の案件があるということで丸川君と沓掛君の二人とリモートワークである、くそったれ。

 この日記もタイピングをする片手間にペンを走らせてる。

 夕方までには終わらせて、調べごとの続きも進めたい。

 場合によっては住所更新の書類も役所から取り寄せねばならないから、迷宮都市はやることが多くて困る。

 

 リモートワーク、と称された業務外勤務は我々のさっさと終わらせて酒を飲むぞというモチベーションが功を奏して、予定の三時間前に案件は片付いた。

 たまに地響きが聞こえたので、また住所が変わったなと肩が重くなる。

 岐阜県の件が落ち着いたら、役所に申請書類取り寄せておこう。

 

 メモ、住所更新書類、会社申請用、地図更新用、計三部。

 

 さて、実家に置いてあったアルバムと二年前の同窓会の名簿、及び写真データ。

 ちょっと調べましょうか。

 

 あ、日記は明日書く。

 

 七月二十日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月二十一日

 緊急で有給をいただいた。

 全部思い出した、いや、なんで忘れてしまっていたんだろう。

 忘れちゃいけなかった。

 

 そして、私は日記を書いてて正解だったんだ。

 書き続けなきゃいけなかったんだ。

 記録して、何度も反芻しないと意味がなかった。

 だから、私は今急いでひまわり畑に向かってる、それでもペンは走らせる。

 

 私はノワールと名付けた兄さんの飼い猫をゲージに入れ、シャボン玉が飛ぶ約束と贖罪の場所を目指す。

 

 二年前の続き、止まった時計の針を進めるために。

 

 向日葵畑。

 今月の頭、私は白いワンピースの女性とここで出会った。

 いや、再会したと言った方が正しい。

 

 岐阜県の振り撒いた塵胞子がここまで飛んできていること以外はあの日とほとんど変わらない。

 

 私はノワールを抱いて、あの場所へ。

 この向日葵畑のシンボル、記念館。

 

 その裏手にある駐輪場。

 ここで兄さんはあの白いワンピースの女性、須川雨凛とノワールを拾った。

 この子、ノワールにとってのターニングポイント。

 

 ノワールは驚くほど大人しい。

 両目は真っ赤に染まっており、表情は少し寂しげだった。

 白いワンピースを着た須川雨凛さんも私の後ろで寂しげな赤い両目の先には、二年前に作ったノワールの墓があった。

 

 まさか、まだ残っていたとは思わなかった。

 いや、今にして思えば残っているからこそ私の近くにいるんだ。

 太陽がこれでもかとばかりに照っている。

 

 今日はノワールの命日。

 今日は須川雨凛の誕生日。

 

 今日は─

 

 

 ※

 

 ・七月二十二日

 岐阜県が北海道に向かった。

 私は会社に向かった、休日返上せねばならない。

 

 迷宮都市横浜は岐阜県の影響で姿形を変えてしまっていたので、また通勤路を新しく探さないといけない。

 最近になって、処方してもらった薬が効いてきた、気がする。

 頭痛と肩凝りが減っている。

 

 出社するや否や、沓掛君がリモートワークの労いをしてきたり、丸川君に告白された。

 今晩飲みに行くことになった、公私はしっかり区別したい派なので、私から告白の返事はそこでするとお誘いした。

 丸川君のハイテンションぶりは少しうざかったが、私が焚き付けてしまったようなので仕方なく我慢することにした。

 ただ、隣のデスクであのテンションはまじ無理。

 車出社じゃなくてよかったと思う今日この頃である。

 

 私と丸川君は退社後、鳥貴族に行った。

 告白の返事はもちろんノーである、丸川君は崩れ落ちた。

 

 飲むだけ飲んでタクシーで帰った。

 日記を書けるくらいには意識はハッキリしている、片付けを済ませて寝た。

 

 七月二十二日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月二十三日。

 国民の休日、これ即ちオフの日である。

 そして二連休である。

 住所が更新されたことで庭園付きの美術館が近所になったので、行ってみることにした。

 街路樹を曲がり、踏み切りを渡り、道なりに歩くこと八分くらいで目的の美術館、柳劉美術館があった。

 

 横浜で生まれ育ち没した油絵画家らしい、たしか友達がファンだった気がする。

 街中にちょっとこじゃれた教会風の建物。

 ここだけが別世界みたいに感じる雰囲気があった。

 

 入館料金三百円と格安だった、どこぞの国立有名美術館にも見習っていただきたい。

 油絵、と一言でいっても範囲は広い。

 柳劉のテーマは主に人物画、二人の女性を一つのキャンバス内に描く作品が多く見られた。

 裸婦画もあれば、青いベールを身につけたものと幅広いものである。

 その中でも一つ、私の心と記憶に刻まれた生涯忘れることがないだろう作品と出会う。

 

 黒いゴシックドレスを着た女性、題を人形劇。

 

 他の作品と違い、一人の女性を描いていることも他の柳劉作品と差別化されてる上に顔立ちがどこか須川雨凛に似ている。

 モデルにしたとはとても考えにくい、偶然なのだろうか、私の気のせいなのだろうか。

 私はギャラリーを出て、ミュージアムショップで思わず画集と人形劇のポストカードを一部ずつ購入してしまった。

 帰路、私は踏み切りで電車が走るのを眺め待っていると、車両と車両の間から須川雨凛の姿が見えた気がした。

 いつもの白いワンピース姿ではなく、さっきギャラリーで見た人形劇に描かれた黒いゴシックドレスを着ていた。

 暑そうだ。

 

 私は思わず、踏み切りが上がった瞬間走り出してしまった。

 須川雨凛の姿はない。

 私の目に映ったのは夕焼けと青空の混じった、青いアフターグロウだった。

 

 人形劇のポストカードを日記に貼ることにした。

 図録はパラッと見た。

 学芸員さんの書いてる文面が地味に好きだったりする。

 

 七月二十三日、記。

 

 

 ※

 

 莨壹>縺ォ譚・縺ヲ縺上l縺ヲ螫峨@縺。

 

 

 ※

 

 ・七月二十四日

 兄さんが会いに来た。

 なんでも新しい住所の確認も兼ねてるらしい、でもアポは取ってほしかった。

 うん、兄妹といえ親しき仲にも礼儀ありという諺もあるくらいだ。

 

 あと、須川さんのことを覚えてるか聴いてみたら、お前大丈夫かって呆れられた。

 解せぬ。

 

 他愛のない話をしたらしたで、満足するなりそそくさと帰ってしまった。

 何とも勝手な兄である。

 何をするにも中途半端な時間になってしまったので、適当に掃除をして、宅配ピザを頼んだ。

 ピザが届くまでの間、役所から寄せた資料と書類に一通り目を通し、必要な記載事項に記入を済ませる。

 

 テレビを観ながら適当に寛いでると、画面の上にニュース速報の文字が流れる。

 

 “空中都市尾道、突如として墜落"

 

 あまりよろしくないニュースである。

 それ以上に驚いた、百年以上浮遊し続けた空中都市が突然何の前触れもなく墜落したのだから。

 墜落の影響による津波の発生、墜落場所、原因究明とテレビ局は今頃てんやわんやしてる頃だろう。

 そんな中、私はピザを食べる贅沢。

 堪らぬ、今日は寝る。

 

 七月二十四日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月二十五日

 丸川君が退職した。

 私との失恋(振ったの私だけど)が原因、ではなく実家である尾道が墜落したためのようだ。

 丸川君の実家が尾道だということは初めて知った、もしかしたら私との失恋を理由にできなかったため、時事ネタを口実にしたのかもしれないが、本当のことはわからない。

 先輩として、後輩を疑うのは失礼に値する。

 私は何も聞かなかった。

 

 退勤後、まだ明るかったということもあって少しだけ寄り道をした。

 汽車道である。

 迷宮都市横浜の地理が大きく変わったため、会社の近くに汽車道があることをオフィスの窓から確認したのだ。

 

 尾道の墜落。

 私としても気になることである、あの尾道と何か関係があるのかわからない。

 ただの知的好奇心だった、もう一度潜ればあの場所に行けるという変な自信と確信があった。

 

 闇。

 一瞬だが、黒い闇が私を覆いつくしたと思えば闇の中に人形劇の女性がちらついた。

 そこは以前訪れた因島のトンネルの中だった。

 夕闇の空に烏が何羽も舞う。

 しかし、今回私が行きたい場所は尾道だ。

 まだフェリーは出ているだろうか、私は以前辿った道を逆走する。

 

 海が見えた地平線の向こう側、尾道の町は燃えていた。

 

 轟々と、真っ赤な炎が町を包む。

 これではとてもではないが辿り着けない。

 炎の中、見覚えのある影が不気味なほど鮮明に映った。

 

 人形劇。

 

 黒いゴシックドレスを身に付けた須川雨凛が口角を上げて佇んでいる。

 この燃える町の背景にした彼女の姿はさながら柳劉の描いた人形劇そのものであった。

 足元には二匹の猫が真っ赤な目をこちらに向けている。

 

 …ちょっと待て、猫?

 私はこの文を書きながらおかしなことに気がついた。

 

 なんで迷宮都市横浜で野良猫がいたんだ?

 

 いや、そもそもネコってなんだ?

 

 あの生物のことを、どうしてネコって呼んだんだ?

 

 そうだ、兄さんもノワールを見つけたとき生態どころか、新種の生き物発見レベルで驚いてたのに、なんで今まで気づかなかったんだ?

 私は一体、何と暮らしていたんだ?

 

 脳裏に浮かぶは黒いゴシックドレスの女性。

 

 頭がおかしくなりそうだった。

 どうやって私はあれから家に帰ってきたんだ、燃える尾道は結局どうなったんだ、そもそもあそこは本当に尾道なのか?

 考えれば考えるほど、書き起こせば書き起こすほど、ワカラナイ。

 

 ワカラナイ。

  ワカラナイ?

 ワカラナイ。

 

 この日記は、読み返してもいいのか?

 そもそも、ここに書いてあるのは、本当に私が、体験した記録、なのか?

 

                    ワカラナイ!

  ワカラナイ。

 

         ワカ。ラナイ。

 

 なんなんだ、一体、私は、なんなんだ?

 考えちゃダメだ、ダメなんだ。

 

 理性があるうちに止めて、寝なきゃ。

 わたしが、縺吶′繧上≧繧翫sであるうちに、今月が、七月であるうちに。

 

 七月二十五日、記。

 

 

 ※

 

 ・七月三十日

 しばらく日記から離れてた。

 頭がおかしくなりそうだったから。

 

 でも、もう大丈夫。

 全部思い出した、二年間というのは長かった。

 

 この世界での記録とデータ、全てまとまった。

 私が私を動かすための人形劇はこれにて閉幕。

 

 また次の世界でこの子を壊せばいいんだ。

 

 代わりはいくらでもいる。

 

 青い夕暮れ現象は何度も起こる。

 何回でもやり直せばいいんだ。

 

 だから、私はこの子を選んだ。

 

 忘れたなら、また思い出せばいい。

 

 私は、須川雨凛。

 

 こうやって、思い出せばいいんだ。

 

 X月XX日、記。

 

 p.s.もう日付なんて些細なことかもしれないけど、日記に日付は必須だろ?

 ポリシーさ。

 

 

 ※

 

 ・七月三十一日。

 

 第二回青い夕暮れ実験、記録。

 被験の記憶、異常なし。

 被験の精神状態、少々難あり。

 世界の保全優先、低。

 etc

 

 被験者兼責任者、須川雨凛。

 編著、須川雨凛。

 挿し絵、柳劉。

 初版発行、支斉元年八月二十九日。

 

 次回、第三回青い夕暮れ実験予定日。

 支斉三年七月一日より支斉五年七月三十一日、予定。

 次回、第三回青い夕暮れ実験被験者。

 須川雨凛。


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