おねえちゃんにお別れを言う話。二話完結予定。

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月下未明

 

 

「年間3.8センチ。月は遠ざかってるんだって」

 八月三十一日、深夜。心なし弛んだ下弦の朧月を眺めながら、姉はそんなことを口にした。

「誤差じゃん」

「そうかも。でもさ、だったら、いずれは見えなくなるんだね」

「……いや、ならんでしょ。どんだけ長生きする気なのさ」

 姉はくすくすと小さく笑ったようだった。

 毎度どこから拾ってくるのか、姉はたびたびこうして豆知識なんかを語ってくれたが、僕はというといまいちピンとこないまま茶化すのが常だった。気のない反応を知ってか知らずか、姉は他愛もない話題をゆるゆると転がしていく。

 ただ、近頃はいやに弾みが悪いとは感じていた。ことにこの日は、息を継ぐ間の沈黙がひどく重苦しい。姉は雲間を見上げるばかりで、月明かりに色をなくした横顔からはあまり表情が窺えない。

「覚えてるかな。昔、お月様は朝になると消えちゃうの、って朔が訊いてきたことがあって」

 なんだか不安で眠れなかったんだって。ふいに視線を落とした姉は、そう言って眉をすこし下げた。

「……覚えてない。その時は、どう答えたの」

「わたしも小さかったから、その時はうまく答えられなかった。……今は、答えもとっくに知ってるよね」

 ──月は衛星。反射光に過ぎないその灯りは、白日のもとでは霞んでしまう。タネを知ってしまえば不思議でも何でもない。

「……もう寝たら。明日から学校だよ」

 午前一時を回っていた。

「そうだね。朔は、今日は眠れそう?」

「当たり前だろ。登校初日なんて行って帰るだけなのに、何を身構えることがあるのさ」

「……そうだね。わたしも、はやく寝ないと」

 姉は、ずっと月を見ている。まるで魅入られたかのように。僕が背を向けた後も、身動ぎひとつする気配がない。何と声をかけるべきか逡巡して、結局そのまま襖を閉めた。

 ──月は遠ざかってるんだって。

 ふと、姉がどうしてそんなことを言ったのか気にかかった。いつもの思いつき、いつもの雑談のひとつであればいい。

 この鄙びた縁側で、気の早い鈴虫に夏の終わりを感じながら、明日もこうして肩を添わせて、きっと同じ月を見ればいい。昨日、今日と紡いできた日常の上に代わり映えしない明日が続くものと、愚かにもこの日の僕は疑いもしなかった。意識の端で、ストロボみたくかすかに明滅した一抹の不安は、蒸すような残暑の夜気にとけて消えた。

 

 

 姉は、首を吊って死んでいた。翌朝早くのことだった。

 

 庭先で咲き初める大ぶりの金木犀のいっとう太い枝の岐れ目に縄をかけて、折り目正しい制服姿で。あまり時間が経っていないのか、綺麗な死に姿だった。……思えば、姉は昨日から食事も水も断っていた。あの月夜で語らった時分にはとうに、姉は死ぬつもりだったのだ。

 

 葬式を終えるまでのことは、あまり覚えていない。

諸々の手続きに忙殺されたこと。泣き腫らした顔して、それでも気丈に参列客をもてなす両親の横で、延々と頭を下げていたこと。無味乾燥で断片的な場面がいくつか続いたかと思えば、次のフィルムでは小さくなってしまった姉が骨壺に納められている。そんな感覚。火葬場を後にしてからも、しばらくは穴が空いたように何も思えず、泣くことすら忘れてしまっていた。

 姉は物欲のない人だった。私物は自室に収まる程度しかなく、彼女のいた痕跡を少しでも残しておきたいからと、遺品整理も今しばらく行う予定はなかった。

 だから、僕が姉の部屋に立ち入ったのは本当に、えも言わず衝き動かされたようなものだったのだと思う。

 一見して、姉の部屋は清潔に整えられていた。小学校から使っている学習机には最低限の筆記具や教科書が置かれているのみで、参考書の類などは備え付けの棚や引き出しにきっちりと並んでいる。隅の本棚には少女漫画から純文学から新書まで丁寧に区分されており、壁にはいくつかの賞状と写真などが控えめに飾られている。最期だというのにまるで変わり映えのしない、生真面目な姉らしい部屋だった。

 ──なぜ、と。

 ただその二文字だけが脳裏にぱちぱちと浮かんで消えず、なんとなく急き立てられるような心地がする。手慰みのつもりで何を探すともなく部屋を見回すうち、ずらり並ぶ参考書の束に混じって一冊のノートが目に入った。その一角でこれだけが埃をかぶっておらず、つい最近手に取られたものだとわかって、逡巡の末に開いてみる。

 それは日記だった。姉が死ぬまでの一部始終が、そこに綴られていた。

  

  

父さん、母さん、朔。千影ちゃん。ごめんなさい。

ゆるさなくて、いいです。ありがとうございました。

 

 

 さようなら。

 

 

(乱雑に塗り潰した痕)

 

 

 八月三十日。わかんないよ。

 

やっぱり、■理だ。だめだった。ごめんね千■ちゃん。わたしもうわからないんだよ。考えたけど、たくさん考えたけど、もう何もわからないの。わたしはおかしなことを言ったかな。あなたを つけるつもりはなかったんだ。何があなたをきずつけた、どうしてわたしを(判読不能)わってしまったの、それともわたしがおかしいのかな。ずっと考えているんだけどうまく(判読不能)いの。■がぼうっとして。不甲斐なくてごめんね、明日、またかんがえてみます。

  

 七月二十一日。謝らせてすらもらえなかった。

  

 七月十六日。やっぱり痛い。折れてないといいんだけど。

  

ちゃんと、話をしないと。ちゃんと……

  

 七月十二日。階段を降りているときに背中を押された。

  

 七月七日。机に短冊の置き書きが何枚か。内容は……はやく忘れてしまおう。叶わないほうがいい願いもある、よね。

  

 七月五日。校舎の横を通ると花瓶が落ちてきた。破片で足を少しだけ切ったけど、他に怪我をした人がいなくてよかった。

   

 六月三十日。体育から戻ると弁当がなくなっていた。唐揚げ、楽しみにしてたんだけど。おいしいから誰かが食べてくれてるといいなぁ。それと、母さんには何かおわびしないと。

   

 六月二十九日。上靴に画びょうが入っていたみたい。深く刺さる前に気付けてよかった。

   

 六月二十五日。おかしいよ、と言ったあの日からはっきりと、千影ちゃんはわたしを無視しているようだった。クラスの皆もどこかよそよそしくなっていて、なくなったノートや破れた教科書のことは誰も知らないという。困る。

   

 六月十一日。水沢さんは転校してしまった。わたしはやっぱり間違えたみたいだ。それが正しいことではないと思うけれど、彼女はずっと、いじめに耐えていたのに。責め苦を受けるのが自分ではなくなって、却っていたたまれなくなったのだと、最後にこっそり教えてくれた。

   

 五月二十八日。わたしは、間違えてしまったのかもしれない。最近の千影ちゃんおかしいよ、と問い詰めると、彼女は黙って踵を返してしまった。去り際の一瞬だけ視界に映り込んだ、張り裂けそうなほどに苦しげな表情を、わたしはきっと忘れない。

   

 五月十三日。……見間違いだったらどんなによかっただろう。千影ちゃんが、クラスの女の子の髪を掴んで何か叫んでいた。その場で声をかければよかった。きっと、何かひどいすれ違いや事情があったんだ。あの子があんなに怒ることなんて、滅多にないはずだから……。

   

 四月七日。今年も千影ちゃんと同じクラスだった。嬉しくてつい話しかけてしまったのだけど、やっぱり近頃は避けられているような気がする。どうしてなんだろう、寂しいよ。

   

 二月八日。最近は、ずっとひとりで登校している。学校でも、呼びかければ返事はしてくれるけど、あんまり話が続かなくなってしまった。なにか、気に障ることをしちゃったかな……? 明日会えたら話をしてみよう。

   

 十二月二十一日。明日から冬休みに入る。登下校ではわたしが二人分の荷物を持つのが日課になっていたけれど、もう歩けるから大丈夫、迷惑かけてごめんと断られてしまった。ぜんぜん、気にすることなんてないのにな……。

   

 十月十六日。テニスやめたんだ、と千影ちゃんは笑った。あんなに寂しそうな顔は、初めて見たかもしれない。

  

 九月一日。久々に会った親友は、どこか疲れたような顔で笑っていた。始業式のあと、夕方までおしゃべりに付き合ってくれたけれど、リハビリにはもう行ってないのかな……?

   

 七月十三日。退院して一週間、千影ちゃんは自分の足で歩いてみせてくれた。必死でリハビリしている姿がまぶしくて、なんだかわたしの方が元気をもらってしまったみたい。

   

 六月八日。千影ちゃんは松葉杖で登校。わたしは千影ちゃんの鞄を持って一緒に歩いた。少しばつの悪そうな表情が印象に残っている。友達なんだから、そんな顔しなくてもいいのに。

   

 五月七日。千影ちゃんが練習中に怪我をした。前十字靭帯の断裂だって。手術もするらしく、長ければ一年近くはテニスができないだろうって。インターハイに向けてあれだけ頑張っていたのに……。なんとか元気づけてあげられないかな。

   

 四月八日。千影ちゃんと同じクラスになれた!今年もきっと楽しくなるよね。というか、します。楽しく!

   

(宇月みちるの日記より部分抜粋)

  

 真実を知ったところで、何ができるわけでもなかった。

 千影ちゃんというのは、かつての姉の親友の名だ。小学校からの仲で親同士も親しく、中学の頃は家にも何度か遊びにきていたから、僕も多少の面識があった。当時の印象は快活で気さく、運動神経が抜群で、人望のあるガキ大将といったものだったはずだ。それがどうして、姉を自殺に追い込むほどに歪んでいってしまったのか。

 ……実のところ、その動機についてもある程度は理解できた。できてしまったのだ。

 だから怒らない、憎まないというのではないけれど、僕は結局、何の行動も起こせずにいた。だって姉は最期まで、彼女を親友だと思っていたのだ。その上で、どうして憎まれているのか、そのことだけがずっと理解できずに苦しみ続けた。……姉は、優しすぎた。そして僕もまた、加害者への怒りを姉の遺志よりも下に置いてしまうあたり、どこかが決定的におかしいのだと思う。

 憎しみは矛先を失い、熾火となった怒りは身を焦がすばかり。僕は姉のように強くはなかった。燻る感情を持て余しながら、それでも向き合い続けることに疲れてしまった。いっそ赦してしまえたらと、縋るように思った。それが優しさによるものではなく、ただの逃避に過ぎないのだと知りながら。

 気が付けば、四十九日が近づいていた。

 親族の集まれる週末のうちにと、大中陰を前にして法要を開く運びになり、施主を務める両親はまた慌ただしく働いていた。

 この日も、僕はといえば何もしないまま法要は淡々と進む。顔見知りの僧侶が経を読んで、参列者が焼香し、終われば説法を聞いて斎場で会食する。今頃故人は閻魔のもとで最後の沙汰を受けるんだろうか、などとぼんやり思いながらその実、気持ちの整理なんてつくはずもない。受け入れがたい現実が迫りくるのを、心を麻痺させてやり過ごしているだけなのは明白だった。それなりに値の張るであろう会席膳も、味がしているのかどうかさえわからないのだ。

 諸々の用事が終わると二十時を大きく回っていた。満月が冷え冷えと街路を照らし、虫の声が不思議と遠い、どこか物寂しい夜。

「来るとは、思ってませんでした」

「……そっちが呼んだんだろ」

「それはそうですね。……上がっていきますか」

「いや」

 来客は伝えていた時間よりいくらか早かった。

 息苦しいほど硬直したやりとり。それも当然で、互いに世間話などする気は初めからないのだろう。姉の旧友、いじめの中心人物。八雲千影というその少女は、記憶の中の姿よりもいくらか痩せていて、かつての快活な面影はあまり残っていなかった。塾帰りだろうか、制服姿に重そうなスクールバッグを提げ、膝にはサポーターを巻いている。

『少しだけ、話ができませんか。会うのが難しければ電話でも』 

 数日前、姉の携帯から連絡先を探し、こちらからコンタクトを取っていた。駄目元に一縷の期待をかけたようなものだったが、まさか直接顔を出すとは。

「ご愁傷──」言いかけて千影は口元を覆った。どの口で、とは思いつつ、そう口走ってくれたことに少しだけ救われた。

「……千影さん。信じられないかもしれませんが、姉は、」

「やめてくれ」

「いいえ。姉は──」

「やめろっつってんだろ。あいつがどう思ってたかなんて聞きたくない。……話、そんだけなら帰るから」

 吐き捨てるような口調に滲んだのは嫌悪か、それとも。

 日記の大部分を占めた千影の存在は、憎悪と怒りに衝き動かされる酷薄な人間のように読み取れた。けれどもその一方で、前半の記述中では姉への負い目や苦々しさを滲ませてもいた。今もそこに変わりがないのなら、彼女はきっと。

「嫉妬ですか」

「…………は?」

 空気が急速に冷えていく。ほとんど殺気のような敵意が向けられているのを感じる。けれど、不思議と恐怖は湧かなかった。

「わかるよ。あんたは、姉に嫉妬したんだ。寄る辺だったテニスを怪我で失った後、みちるへの劣等感を募らせて、妬んで、憎んで、寄って集って排斥した。そうだろ」

 畳みかければ、目の前の少女は激昂した。

「うるっさい!てめぇに何の関係があんだよ!知ったような口聞いてんじゃねえよ!」

 実際、何の関係もない。後から事情を知っただけの部外者だ。

「……その部外者にもわかるような簡単なことだけど──みちるには、最後までわからなかったんだろうね」

 あの人はいつも正しかった。誰よりも前向きで、どんな不条理にも自分の中に原因を見つけて立ち向かっていた。

 そんな姉だからきっと、嫉妬なんて醜い心理、始めから理解できなかったんだ。

 千影はみちるに劣等感を抱き、嫉妬した。ただ、実のところ僕自身、千影と大して変わらないのだ。己の尺度では到底測れない、大きすぎる姉の善性を、妬むかわりに崇敬しただけ。

 きっと、僕がこの人を憎みきれないのはそういうことだ。

「……姉さんは最後まで、あんたのことを親友だと思ってたよ」

 ──だから。この人が最後に姉を許せるのなら、僕も彼女を赦してしまおうと、そう思っていたのに。

 バカなことを。

かすかに漏れた呟きを掻き消すように、千影は吐き捨てた。

「みちるを友達だと思ったことなんてない」

 それっきりだった。

 

 休んだ授業分は自力で何とかするように。そう言い残して両親はさっさと仕事に向かった。それが今朝のことになる。

ふたりは七日毎の追善供養の度に枯れるほど泣いて、今はこの大きすぎる離別という現実と折り合いをつけたようだった。憔悴こそすれ、その双眸にはある種悲痛なまでの光がある。どこに向かうものかまでは知る由もないが。

 ……僕には、無理だ。

 忌明けといって、四十九日の末に故人があの世に迎えられれば、遺族はようやく喪に服す日々から日常へ還るのだとか。

 簡単に言ってくれる。こちとら家族が死んでるんだ。大往生ならいざ知らず、まだ振袖姿だって見ていないのに。

 幾分先の成人式を楽しみにしていた。晴れの日を。両親と日本酒を呑むのを。早く大人になりたいと。産み育てられた恩に笑顔でもって報いたいと。その時は意地でも綺麗だって言わせるからねと。縁側で夜空を望みながら、澄んだ瞳の青藍に希望と星とをいっぱいに湛え、在りし日の姉は無邪気に笑った。

 日常なんてものがあるとするなら、僕にとってそれは億劫な目覚めであり、退屈な授業であり、カメラ引っ提げ町を歩く放課後であり、揃って囲む夕食であり、縁側に腰掛けて夜空を眺める時間であって、終わりにはたいてい隣に姉の姿があった。帰るべき日常なんて、もうどこにも残されてはいないのだ。

 ガタついて開きっぱなしの大窓から一息、ぬるい風が吹いた。鬱々と床に臥しているうちに日が落ちていたらしい。そういえば朝から何も食べていないけれど、どうしてか気にもならない。

 そぞろ、軋む板張りの広縁に腰を下ろして空を仰いでみる。虫の声はなおも遠く、さっきからいやに静かだ。煌々と浮かぶ望月はいっそ憎々しいくらい閑雅で、差し込む光は渇いた心にするすると沁み込むよう。美しい月だった。

 ──月は衛星。反射光に過ぎないその灯りは、白日のもとでは霞んでしまう。タネを知ってしまえば不思議でも何でもない。

 月明かりが眩いのは、闇の中にいるからだ。月に魅入っていたあの日の姉は、とうに限界を迎えていた。どうして気付いてやれなかった、なんて後悔すら今は虚しい。それを推し量ることができたのは、同じ暗がりに沈んだものだけなのだろう。

 不意に、庭先の金木犀に目がいった。越してくるずっと前からある大木で、人ひとり登っても小動ぎひとつしないだろう太枝のそれぞれに、華やかに香る橙の小花を満開に咲かせている。高々とそびえるその幹がふと、天上の月へと誘うように見えた。

 ……そう思うともう駄目で、ふとした瞬間にそちらへ目を向けてしまう。その考えがちらちらと脳裏を過ぎる度に背筋が寒くなった。

 死にたい、などと考えているわけではない。僕は傷ついても苦しんでもいない。苦悶のうちに死んでいった姉を思えば、のうのうと長らえている僕のこれは卑しい感傷でしかない。

 けれども、ただ、思ってしまう。ああ、姉はここで死んだのだなあ、と。そのまま、吸い寄せられるように足が向いて──。

 その時だった。

 かさ、と遠慮がちに庭草を除けて、顔を覗かせる人影。

 どうあがいても白日より月夜の似合う白い肌に、墨を引いたような肩までの黒髪。無精ゆえしばしば伸びすぎる前髪からは縁の大きな丸眼鏡が覗き、負けず劣らず大きな双眸はその中心で、いつも何かを追いかけるように溌溂と瞬いていた。

「────みちる?」

 大人しく、温和で、しかし確かな芯をもった少女。

 見間違えようはずもない、首を吊って死んだはずの姉、その人だった。

 

「あ…………いや、なんでいるの」

「…えっとね、……ごめん、わたしにもわかんないや」

 はたして何を言ったものか。もっと気の利いた、というか意を得た物言いなんていくらでもあるはずなのに、月夜の熱に浮かされた頭はこんな益体もない言葉しか吐き出さない。

「案外驚かないんだね。わたしのほうがびっくりしてるかも」

「驚いてるよ。……すごく。もう訳がわからない」

 姉は静かに笑っている。おばけになっちゃった、とぼやく表情はあいまいで、どこか感情を押し殺すようにも見えた。

「未練、とかあったの?化けて出るくらいだし」

「……それはまあ、あったとは思うけど」

 僕は日記の内容を思い出していた。姉は最期まで誰も恨まず、憎まず、ただただ自分だけを責めていた。未練というのなら、それはやはりかつての親友との軋轢や、救えなかったもう一人の被害者のことだろう。

「正直、まだよくわかってないんだ。だから、わたしのことは今は置いといてほしい。……勝手に死んじゃって、ごめんね」

 姉はついぞ、自分がなぜ憎まれたのかも理解し得なかった。さりとて降りかかる不条理に向かって、自分のために怒ることもできなかった。……だとすれば、彼女の無念はどこへ逝けるというのだろう。いったい何が、姉の心を救えるのだろう。

「ところで、さ」姉は言葉を切って、こちらに向き直る。

「朔。さっき、何しようとしてた?」

 あくまで淡々と、けれども有無を言わせない水底のような圧。

「まさか死のうだなんて考えてないよね。朔。答えて。わたしの目を見て、はっきり返事して」

 ……これは、本気で怒っている。嵐の前の静けさだった。

「……ねえ、何とか言ってよ!わけもわかんないまま帰ってきて、これからどうしようって途方に暮れてたらさ!朔、わたしと同じところで、思い詰めた顔で!死ぬ気かもって思うじゃない!?わたしが、どんだけ、心配したと思って──」

 日頃の呑気さはどこへやら、おそろしい剣幕でみちるはまくし立てた。これほどに感情的な姉を見たのはいつぶりだろうか。思わず面食らって閉口してしまう。……いや待て、思い出した。こういう時のみちるはたいてい、

「……え?あ待って、いまのナシ!ごめんね朔、わたし今ひどいこと言った!もう一回やり直していいかな!?」

 次の瞬間にはこうなのだから質が悪い。人がいいにも程があるだろう。

 ……ひどく懐かしい思いがした。

 幼い頃からそうだったのだ。ひとつ違いのこの姉は昔から、人を傷つけることを心底恐れていた。その気になれば弁も立ち、口喧嘩でも負けたためしがないのに、言い過ぎたと思い直ればすぐに謝ってしまう。いま思えば、この姉のそういうところに僕はついぞ毒気を抜かれてきたのではなかったか。

「あーもう、わかったよ、わかったから!僕も悪かったから謝んないで。余計わかんなくなる」

 ……心配云々に関しては棚上げもいいところなのだが、そこは目を瞑ってやるとしよう。

 よかったぁ、と胸をなでおろして、姉は半ばへたりこむように板張りの縁側に腰を下ろした。ずっと近くの足元で、往き遅れの鈴虫がりりりと静かに鳴いていた。

 

「……でもさ。死ぬ前に相談くらいしてほしかったな。姉さんの言うことを僕らが信じないはずないだろ。一応、ちゃんと、ほら。家族、なんだからさ」

 だんだんと冷えてきた夜気が、上気していた頬から熱を奪っていく。幾分落ち着くと、澱のようにわだかまっていた言葉たちもつらつらと流れ出してくれた。

「そう……だね。そう、すべきだった。わたし、最後の方は本当におかしくなっちゃってたみたい。情けないな……」

 姉は器用にも空中で膝を抱えて浮かび、ぽつぽつと自責の念を口にする。──いや待て、自責?この期に及んでまだ言うかよ。

 というか、こいつは元々結構おかしいのだ。冷静になって考えると、事態のちゃんちゃらおかしさに改めて腹が立ってきた。

「だーかーら!本ッ当悪い癖だぞそういうところ!なんでいつもいつも自分のせいにするかな!みちるはすごいけど神様じゃないの、人間なの!救えない奴なんていくらでもいるし、人並みに傷ついたりもするの!というか、姉さんにだけは心配がどうのって言われたくねーんだけど!!」

 結局言ってしまうのだから世話がない。……我ながら、姉のことになるとすぐ頭に血が昇るのは少々かなり気持ち悪いし、たいていすぐに後悔することになる。なるのだが。

今回に限って言えば、なんだかひどくすっきりしてしまった。姉はというと、目を丸くして呆然としている。ひとしきり喚いて息を切らす僕を一瞥し、まばたきを何度か。そして、

「……っふふ。あはは、あっはははは!!」

 数拍おいて笑い始めやがった。……癪だけれど、うわべの仮面なぞかなぐり捨てた、今度こそ素の笑顔だと信じられた。

「あーもう、何笑ってんのさ!こっちは真剣なんだっての」

「ご、めんって!だって、朔がこんなに必死になってくれてるのが、うれしくって!いい弟、持ったなぁって!」

 死に急ぐことなんてなかったんだ、って。

 思えばずいぶん長い間、喧嘩らしい喧嘩をしていなかった気がする。その必要がなかったから、仲が良かったから、ふたりとも大人になったから。きっと、そのどれもが間違いではない。けれどもそのせいで、受け入れ、赦すことだけが正解ではないのだと僕らは知ることができなかった。優しすぎた姉がそうであったように、僕もまた、その脆さを無批判に受け入れるだけだった。……誰に責められずとも、償い方すら分からずとも、きっとそれこそが僕の罪なのだろう。

「……で、その弟から提案があるんだけど、乗るよね?」

 だから今は、これからのことを考えなければ。

  

 生徒がひとり減った後の学校は、どこか寂寞としていた。当然授業はあるし人も多いけれど、誰もが距離感を測りかね、緊張を走らせながら営む箱庭は、やっぱり少し窮屈そうだ。

 あれから二か月近くが経った今、いじめの類は鳴りを潜めているらしい。校内には何事もない日常を取り戻そうとするかのような、粛々とした空気が流れている。……同じように苦しむ人がいないのはいい。けれど、それは他方で、一連の出来事を忘れ去ろうとする向きのようにも思えてしまう。

 ──辛くても笑った。きっといつかまた、心から笑い合える時が来るはずだからと。ひとり闘い続けたあの日々は遠からず、誰からも忘れられてしまうんだろうか。全部、無価値になるんだろうか。……それは、さすがに悲しいかな。

 

 詳しくは知らないけれど、今日は学年集会らしい。体育館に全校生徒とほとんどの教職員が集まると、もう十月とはいえさすがに少し蒸し暑かった。……これから事を起こすというのに、わたしはどうにも呑気が抜けないらしい。それどころか、こんなに穏やかな気持ちで学校にいることが信じられないくらい。

 朔の提案は周到で簡潔だった。やっぱり、こういうことを考えさせると敵わないなぁと思うけれど、それはあんまり褒めないほうがいいかもしれない。あまり得意になっても困るもの。

 わたしの仕事はたったの二つだけだった。ひとつめ、照明を落とすこと。おばけの体は思ったより便利で、その気になれば器物にはちょっとだけ干渉できるらしい。

 こちらに気付きもしない先生たちの脇を抜けて、ふたつめ。生きていたら座っていたはずの列に紛れ、畳んだプリントを誰からとなく回す。これも簡単ではあるけれど、正直あんまり気は進まなかった。……恥ずかしいというか、情けないというか。

 

 明かりの落ちた体育館は薄暗く、すわ停電かと誰もがざわざわし始める。と、喧騒が広がる中で、わたしのクラスにだけ異質な動揺が立ち込めていた。あちこちで息を呑む声や、しゃくりあげる声が響く。二列に並んだ生徒の中を、渦巻く感情の波に乗って紙切れが前から後ろへ流れていく。そのせせらぎはひどくちっぽけで、頼りなくて……それでも確かに、わたしたちの間にわだかまっていた何かを洗い流していった気がした。

 級友たちの様子はまちまちだったけれど、みな一様に俯いて、何かを噛み締めるような、難しい顔をしていた。

 ……今度こそわたしは間違っていない、そう信じてはいる。それでも、みんなの表情を曇らせているのが他ならぬわたしだという事実が少しいたたまれなくて、こっそり体育館を抜け出そうと列の後ろに向かった。起こるはずのない偶然が、わたしたちを引き合わせたのはその時のことだ。

「うそ、────みちる?」

 目が、合った。千影ちゃんが、わたしを見ていた。

 照明が復旧し、誰もが安堵の息を漏らしても。突然大きなノイズが走り、体育館中に誰かの声が響いても。そこだけ時間が止まったみたいに、わたしたちはじっと見つめ合っていた。

  

『集会を中断させて申し訳ない。皆さんの時間を少しください。……わが校で起こっていた、いじめについて。撚り合わされた悪意に苛まれ、被害者のひとりが自ら命を絶った、痛ましい出来事について。この場にいる皆さんには、ありのままの真実を知って、そして覚えておいてほしいのです』

 誰もいない放送室から、生徒たちへと語りかける。体育館の動揺も、喧騒も、ここには届かない。いじめを秘匿する同調圧力も、問題を過小評価する事なかれ主義も、今この時は意味を為さない。一方通行の声だけが、僕に与えられた武器だった。

 僕らは復讐を望まない。しかしそれは、黙って涙を呑むことと決してイコールではない。だって、死人は生き返らない。

 本音を言えば今もなお、姉を追い詰めた全ての人間が心底憎くてたまらないのだ。……そして、それを押し殺さなければいけない道理だって、本当は初めからどこにもなかった。だから、こうして言葉を吐くのだ。ただ、事実だけを詳らかに。

 何度でも繰り返そう。これは復讐ではない。誰かを吊るし上げるつもりはない。人を裁く権利も覚悟も、僕ごときにはありはしない。ただ、大切なひとが失意のうちに死んだ事実すらなかったことにできるほど、嘘が上手でもなかっただけだ。

 

 校舎に人がいないとはいえ、そろそろ制止も入るだろうか。姉を回収して退散すべく、放送室を辞して、足早に体育館の裏手へと向かう。中に入るまでもなく、内部の混乱が伝わってきた。

 みちるに持たせたのは、彼女の日記のコピーだった。抜粋箇所には恣意的なところもあるが、編集も改変もしていない。死の間際、姉の頭にあったことをありのままぶつけるだけで、きっと彼らには十分だと思った。誰よりも純粋で、底抜けに善良。罪を自覚させるなら、自分が壊したものの尊さを思い知らせるだけでいい。

 

 裏口の前で待っていると、みちるはするりと壁を抜けてきた。日に日に霊体での暮らしがうまくなっている。おつかれさま、と笑って声をかけようとして、はたと止まった。みちるは何も言わず、いつかのように空を見上げていた。

 しばし無言のまま、コンクリートの階段に並んで腰掛ける。体育館の中は未だ騒然として、こちらからは誰も出てくる様子がない。傍らの姉にそっと目をやる。ずっと、空を仰いでいる。

 相変わらず表情は読めなかった。けれど注意して見るまでもなく、その肩は震え、呼吸もどこか不規則だ。真一文字の唇は痛々しいというよりもむしろ、どこかいじらしくさえある。何と声をかけるべきか逡巡して、結局何も口にしないまま、華奢な背にそっと手を添えた。決壊したように嗚咽が漏れて、姉は顔を覆って泣き始めた。久しく帰った迷子のような、ひどく小さな背中だった。

 その時になってやっと気付く。僕はずっと見失っていたのだ。小さなころから、姉は僕などよりも遥かに正しく、遥かに優しく、遥かに優れているかに見えていた。優等生の化粧は板について、当人にも落とせなくなっていたから、誰もその素顔を知ろうなんて思わなかった。……だから、姉もまた僕とひとつしか変わらないただの少女に過ぎないのだと、そんな当たり前のことを、随分長い間失念してしまっていた。僕がそんなだから、姉はずっと痩せ我慢して手を引かざるを得なかったというのに!

 ……あまりにも気付くのが遅かった。手遅れだと言わざるを得なかった。けれど、それでも、せめて今くらいは。

 帰ろう。僕が呟いて手を取ると、姉はゆっくりと頷いて、それから確かに握り返す。半透明の小さな手は、それでも確かなぬくもりを湛えていた。

 

 去り際、体育館からわらわらと出てくる生徒の群れが豆粒のように遠く見えた。なんとなく思い立って、そいつらに思い切り吐き捨ててやる。

「思い知ったかバーカ!ざまあみろ!」

 別に、誰に聞こえていなくてもよかった。ただ言ってやりたかっただけだから。

「ざまーみろー!いじめ、よくないぞー!」

 姉も大口開けてそれに続いた。叫び慣れていないのがまるわかりのふにゃふにゃした声で、それでも笑顔で、はっきりと。

 その様に、僕ははじめて、これでよかったのだ、と思った。

 


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