友人よりリクエストのあった、早坂→白かぐ モノ。
タイトルは言わずもがな、Crystal Kayさんの名曲より

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こんなに近くで

 

 

 

 

 

 

 久々に淹れた紅茶は、どこかほろ苦い味がした。

 

 

 

 

 1日の終わりを彩るように、紫陽花色へと染まりゆく空。

耳に届く微かな虫のせせらぎと共に街中にはポツリポツリと街灯が浮かびあがり、遠い地平線の向こう、ビルの奥へと沈みゆく夕日が名残惜しそうに白雲を茜色へと照らし出している。

 

 ボォーンと。重い響きを奏でる時計へと目をやれば、時刻は既に午後7時。

夜風香る窓際のダイニングテーブルで一人。揺れるカーテンを傍目に、気がつけば1時間近くもの間を感慨に耽っていた。

 

 以前ではとても考えられない贅沢とも怠惰ともいえる時間の過ごし方に自嘲の息を零しながら、改めて部屋の様子(なか)をぐるりと見渡す。

 壁を背に立つアンティーク時計は、私がまだ7歳の頃……初めてこの部屋を訪れた時と変わらない姿で時を刻み続けている。並び置かれた絢爛豪華な調度品、壁にかけられた鮮やかな絵画の数々も、全てが見慣れたものばかり。

 けれど

 

「………」

 

 けれど今や此処に自分の居場所はない。

 四宮家の意向に背き、かぐや様の近従を自ら辞めて早6年。多くの苦渋や責念の想いと共に過ごした四宮家別邸は、今や手の届かぬ他人の家だ。

 新しい給仕人も優秀なようで、掃除一つにしても部屋の細部に至るまで手が行き届いている。冊子に指を伝わせて埃のない様を確認する自身の姿に、まるで姑のようだとまた溜息が零れた。

 

 分かっている。胸の奥で広がる寂しさ。それを身勝手だと難じる、もう一つの心も。

 別段未練がある訳でもない。後悔を抱くとしたら、それは寧ろーー

 

 

 

『早坂もいい加減良い人を見つけなさい』

 

 数時間前、このダイニングテーブルで共にお茶をしていたかつての女主人の声が、鈍い痛みを伴って蘇る。

 

 久しぶりに貴方の紅茶が飲みたい。

 そんな誘い文句で私を呼び出した彼女の姿は学生時代のソレとは大きく変わり、肩口にて切り揃えた黒く美しい髪、身に纏ったエンパイアドレスの洋装も相まって遥かに大人びて見えた。

 大学を卒業してからはお互いに忙しい身。以前より気軽に会える機会も減り、それでも数ヶ月置きには近況報告も兼ねて顔を合わせるようにしていた。が、その度に一歩、また一歩と自分より遥かに速い足取りで大人へと成長していく彼女の変貌ぶりに驚かされていた。

 

 実際、もう子供ではない。子供ではいられない立場だ。

 

 慌ただしくも目出度く、兼ねてよりの想い人……白銀御行と籍を入れてから1年。現在は『四宮御行』として姓を変え、四宮家に婿養子入りする形でかぐやとの交際を認められた彼。

 認められたと言っても、それは四宮グループ内で未だ繰り広げられる泥沼の権力抗争の渦中にて、それぞれの思惑が錯綜した結果に他ならない。雑種の血と混じらせることでゆくゆくは四宮家後継者の資格を剥奪しようとする意志。逆に政略結婚に用いる駒が減ったと嘆く声もあったり、いずれにしても彼らに御行くんの存在が驚異と見なされることはなかった。所詮はどこの馬の骨とも知れぬソレ。

 かぐや様の立ち位置も依然変わらず、覇権競争に置き去られた妾の子。触らずが吉のお飾りの御令嬢という扱いのまま。いずれは何処ぞの勢力に飲み込まれるか、周囲からの妨碍(圧力)に負けて消えていくだろうというのが幹部群の思惑であった。

 

 

 

 ――無論、そんな思惑通りに大人しくしているほど、可愛げのある二人ではない。

 

 後ろ盾が無いのなら自ら作り上げればいい。まるでそう訴えるかの如く、グループ参入後の二人はすぐに現四宮家が抱える封建的かつ閉鎖的な環境を打破すべく活動を始めた。上層部で慢性的に広がる癒着や汚職、その被害を一番に受けているであろうグループ下位会社への斡旋。外資企業に対する綿密な人脈作成(根回し)。特に外交分野における政治的躍進は目覚ましいものがあり、現在に至っては四宮家と根強い敵対関係にある四条家との間を取り持つ重要な緩衝(パイプ)役として、グループ内でも評判を高めつつある。

 

 

 ――とまあ難しい話はさておき。今の二人は四宮家に対して絶賛叛逆中。

まさに今が踏ん張り時であり、険しい道のりを二人三脚で渡り歩く者同士、その人間性の成長や関係の進展も考えてみれば当然の(こと)であった。

 

 

『でね?でね? その時あの人ったらなんて言ってくれたと思う?』

『イヤーチョットワカンナイナー』

 

『やっぱり以心伝心ってあるのね。離れていても、言葉を交えなくても互いのことが分かる……こんな幸せ、昔は想像さえしていなかったわ』

『アーソレハヨカッタデスネー』

 

 私の内心など知ってか知らずか、普段から碌に話せる相手も居ないのだろう。惚気話や自慢話、奥歯が浮くような恋語エピソードの出るわ出るわ。先ほどまで感じていた大人びた雰囲気は何処へやら、聞いているこっちが恥ずかしくなるほどの燥ぎぶりであった。

そして

 

『早坂もいい加減良い人を見つけなさい』

 

 幸せ一杯と語る口から溢れたのが、先の言葉である。

 どうせ碌な出会いもしていないのだろう。そんなこと聞かずとも分かると、溜息交じりに宣う彼女の口調には流石にカチンと来るものがあったが、しかし学生時代とは異なり、こと恋愛事情に関しては2歩も3歩も先を行かれている身。事実が事実なだけに言い返せないのが腹立たしい。

 なんなのだ。既婚者は独身に対して無条件にマウント取っていい権利でも持っているのか。本人達は幸せをお裾分けしたい気持ちなのだろうが、世の中には有難迷惑という言葉もある。

 

『20代前半で何でそんな婚期逃したOLみたいなこと言われなきゃいけないんですか。……いいんですよ、私は、仕事でやりたいことがあるんですから』

『そんなこと言って……本当はわかっているんでしょう?このまま行ったら貴方――』

 

 呆れ混じりに肩を落としてみせる最中、会話を遮るようにコンコンと控え目なノックが響く。

 

『かぐや様、よろしいでしょうか。そろそろお時間が……』

『ああ、もうこんな時間なの……?ごめんなさい早坂、私これから』

『会食があるんですよね?知ってましたから大丈夫ですよ。私も、あとは御行くんに挨拶したらすぐ帰るつもりですから』

『……そう。相変わらず目敏いのね』

 

 慌ただしいメイドたち動きやかぐや(彼女)の身なりから、この後なんらかの重要な式典に出席するであろうことは読み取れていた。元々、こんな所でのんびりして居ていい人ではないのだ。

 なのに、わざわざ自分のために時間を作ってくれたこと。きっと……最近の思い悩む私の姿を、真紀さんあたりから聞いていたのだろう。その気遣いが嬉しくもあり、同時に心苦しくもあった。

 ドレスを靡かせ、颯爽と部屋を後にする彼女の背中。守るべきものがあり誇れる自分があり、迷いも恐れもなく歩むその姿が……ただ眩しくて目を細めた。

 

 

 

「……はあ…」

 

 反芻した記憶に息を零しながら、また窓の外を見つめる。口にした紅茶はすっかり冷めきっており、より一層強く苦みを感じた。

 

『……本当はわかっているんでしょう?このまま行ったら貴方――』

「分かってますよ。そんなこと……」

 

 一人寂しく零した言葉は、誰に届くこともなく夜風へと攫われていく。

 そう。何よりも、誰よりも、自分自身がよく理解していることだった。

 

 この先に待ちゆく未来。

 早坂愛(わたし)という個人が四宮かぐやの近従を辞退しても、早坂本家の四宮家に対する従属は未だ続いている。かつての名家にして数多くの優秀な人材を生み出し、同時に四宮家の内情をあまりに深く知りすぎている早坂家。その一人娘である私を、いつまでもあの男(四宮家長男)が放っているとは思えない。このまま私が未婚でいればその瑕疵へとつけ入る様に、どこぞの権力者との政略結婚を強いられるか、いずれは半強制的にでも四宮家に取り込まれることになるだろう。味方である両親も、本心では私の代で血が途絶えることなどきっと望んではいない。

 そんな未来を予感していたからこそ――

 

 

『こんな幸せ、昔は想像さえしていなかったわ』

 

 恋を知り。愛を知り。そうして変わっていくあの子の姿を見て、憧れを抱かなかったわけではない。

“そういう人”を見つける努力を……してこなかったわけではない。大学での飲み会や会社での付き合い。異性と関係を結ぶための機会だけならば過去そこら中に転がっていた。

 

 けれどその度に目の当たりにする、自分という人間の歪さ。

 

 その人が望む性格。相手に好かれる立ち振る舞い。そんなものは息をするのと同じぐらいに容易く読み取り、演じることもできた。たとえ仕事で難題に打ち当たろうとも、持ち前の知識と器用さで乗り越えては注目を集めることもできた。

 

 けれど、ただ“それだけ”。

 私という人間の本質を明かせたことは一度とて無い。

 

 嘘を重ね、無理を重ね。そうして何重にも自分を偽っては作り上げる完璧な自分。かぐや(あの子)の近従として、数々の仮面を使い分けてはその場限りの嘘を貫いていた頃と同じ……。けれど一度演じた姿を見せてしまえば、相手はもはやその完璧(すがた)しか望まぬようになってしまう。言葉を交わす度、目線を合わせる度に伝わる、自分ではない自分を求める瞳。本当の私など誰も望んでなどいないというように……。

 そうして何度も後悔を重ねながら。いずれは取り返し用の無い失望と幻滅を招くことになると知っていながら……それでもなお、素の自分を明かすことへの恐ろしさに仮面を被ることをやめられない。

こんな弱さ(思い)を抱えたままで、どうして人を好きになることができるだろう。

 

『人は演じなければ愛してはもらえない』

 かつて彼に言い放った言葉が、今も呪いのように胸を縛り続ける。振り払おうとするほどに強く、逃れようともがくほどに重く絡みつく想いの鎖。

 “誰かを好きになれたら”と憧れても……いいや、強く願うからこそ。一番大切な人にさえ嘘をつき、自分を殺し続ける未来の自分の姿を想像すると、遥かに怖れの方が心を覆いつくしてしまう。

こんな気持ちのままで……どうして将来を誓い合うなんてことができるだろう。

 

 

 分かっている。それが紛れもない自分の弱さであること。

けれどその弱ささえも受け止めてくれた人は……。

“人は演じなければ愛してはもらえない”。その言葉を否定してくれた人は、もう――

 

 

 

「……っ」

 

 ズキリとまた胸に痛みが奔るのと同じく。まるで機を図ったかのように窓の向こう側、官邸正門をくぐる黒い高級車の姿が目に映る。

 

 ああ……帰ってきたのだと――。

 

 そう胸に思い抱くより早く、頭の奥でカチリと切り替わるスイッチ。今まで抱いていた感傷や哀愁も遠く忘れ去り、浮かべるべき仮面が自然と顔へと張り付いていく。

“久方ぶりの再開だというのに、こんな暗い顔を見せるわけにはいかない”

”感慨に耽るのはいい加減終わりだ”と―――そんな理性が感情を冷たく洗い流していく。

 

 もはや考えるよりも深く、心に根付いてしまった癖。

かぐや様(あの子)を護るために、そう在るべきとして育てられた……今更変えることもできない習慣。

 紅茶の淹れかなんて知識は抜け落ちても、この生き方、この性格だけは、どんなに月日が流れても剥がれ落ちてがくれないのだと……消えゆく感情(こころ)の最後の嘆きが、胸の中で虚しく響いていた。

 

 

 

■□■□

 

 

 

「来ていたんだな、早坂」

 

 深いグレーのコートを纏い、被っていたトレモントハットをメイドに手渡しながら部屋へと顔を出した四宮御行。

 かぐやと同様、その雰囲気は遥かに大人びて見え、以前は“ただ着られるがまま”という風だった洋装も、今は違和感なく着こなしている。男児三日会わざれば刮目して見よというが、正にその振舞いはこの四宮家官邸の主人として恥じない堂々たるものであった。

 

 ああ、だというのにーー

 

「こんな遅くまで待たせてしまった悪い。連絡をくれたらもっと急いで帰ったんだが……」

「いいえ、我儘を言ったのはこっちですから謝らないでください」

「かぐやとはゆっくり話せたのか?」

「ええ。愚痴やら惚気やら、それはもう沢山。まぁ……けど、そうですね。御行くんにも色々と話したいことがありますし、出来れば――」

 

 そう言ってチラリと彼の傍に立つお付きの仕様人(メイド)へと視線を送る。

二人だけ話したいというこちらの意図を察したのか、メイドは深く一礼お辞儀を残すと、すぐさま部屋の外へと下がっていった。

 扉が閉じきり、コツコツと足音が部屋から離れていくのを聞き届けて――

 

 

「……もういいですよ。御行くん」

「いやスマン…………助かる」

 

 それだけ振り絞る様に。最期の力と言わんばかりに乾いた声で呟くと、そのまま糸の切れた人形のようにパタンとソファへ倒れ込んでしまう彼。そんな姿を、同情や呆れの篭った溜息で見下ろす。

 

「……大変でしたね。まったく予定してなかったんでしょう?」

「ああ……」

 

 ソファに突っ伏したまま、屍のようなぐったりとした声を返してくる彼。

 

 事情はこれまた、メイドたちの話声から把握していた。

 元々は穏健派(社内比)である四宮家次男と、四条家グループ幹部達による会合。御行くんは、例の如くその仲介役として出向き、本来なら互いに顔合わせぐらいの軽い歓談となる予定だった。

 しかしそこに偶然か、はたまた何者かの策謀か。次男や四条家達とは不俱戴天の仲ともいえる四宮家長男が突然顔を出したことで、会合は瞬く間に一触即発の地獄へと変わり果てた。

 飛び交う怒号。刃のような切れ味を持つ厭味妬みの数々。ともすれば彼らの機嫌一つで下位会社の幾つもが倒産し得るこの状況。間に立って間を取り持つというそれだけで、常人なら胃腸の3つや4つ、口から吐き出してもおかしくないプレッシャーだっただろう。

 

 演技で懸命に取り繕ってはいたけれど、その疲労困憊ぶりは彼と顔を合わせた瞬間、簡単に見破っていた。ああ、だというのにまったく…

 

「まだ仕様人達への遠慮が抜けてないんですか。」

 

 呆れの篭った瞳でじっと彼を見下ろす。四宮家に婿養子入りしてもう1年になるにもかかわらず、この現状には流石に溜息が零れる。

 

 かつて秀知院学園で生徒会長を勤めいた時もそうだったが、妙に見栄っ張りというか周りに弱みを見せようとしない性格が弊害となり、仕様人に対してもより厳格な主人であろうと振る舞うあまり、かえって要らぬ緊張を抱き過ぎているのだ。おかげでこうしてメイドたちの前でも疲れた(よわい)姿を見せられない有様。

 まあ、極貧生活を送っていた今までから突然仕様人に囲まれる環境へと身を置かれれば、ある意味相応の反応と思えなくもないが……それでも、これでは何のための我が家か。何のための仕様人か分からなくなる。

 おかげで元近従という立場もあり、現お付きのメイド達からは『私達はお役に立てていないのではないか』『どうしたらもっと頼ってもらえるか』などと相談を受けたり、御行くんは御行くんで『仕様人相手にどう接していのか』と悩みを持ってくる始末。その際、『実際に仕様人達に指示を出す練習』などと、よくも分からない特訓に付き合わされたりもした。「白銀御行」と「特訓」という二つのワード。ここから生み出される地獄(カオス)は今更説明するまでもない。

 

 

『いっそ……私を近従にしてみたらどうですか?』

 

 疲労困憊の極致。死屍累々と言った状態で思わず呟いてしまった言葉を、羞恥と後悔の感情と共に思い出す。その時は冗談だと互いに笑い飛ばした言葉を、けれど未だ胸に残している自分がいた。

 

 

 

「————って待って待って。何しようとしてるんですか」

「……?いや珈琲を淹れようと」

「それぐらい私がやりますから大人しく休んでてください」

 

 ソファから起きあがっては、のそのそと棚へと歩き出す彼を慌てて止める。

客人を前に気を遣う気持ちは分かるが、こんな状態の相手に給仕を強いるとかどんな鬼か。それこそ仕様人の仕事。というか以前に友人であるのだから、それぐらい甘えて欲しい。

 

 

「まったく……今日だけでどれぐらい呑んだんですか?」

「30……いや、40杯ぐらい?」

「致死量ギリギリじゃないですか。いい加減控えないと死にますよホント」

 

 久方ぶりに珈琲の腕を披露としてやろうと思ったが、彼の言葉を聞いて即却下となった。

代りに淹れたカフェインレスの紅茶(ミルクティー)。やはり以前よりも腕が落ち、僅かな苦みが残ってしまったが、しかし苦み(コーヒー)中毒の彼にはかえって好評だったようで、ホッとした息で美味しそうに飲む彼の姿に、密かに胸を撫で下ろす。

 

「そんなに疲れてるんですから、今日はもうすぐに休んでくださいよ?」

「いいや、そうもいかない。会合が長引いて予定を狂わされたからな……目を通さなければいけない仕事が山程残ってる」

「……だったら、せめて仮眠を取ってください。1,2時間ぐらい……大丈夫ですよ。私が見張っておきますから、メイドたちは何があっても部屋に入れませんし、醜態がバレることもありません」

 

 醜態って…と口応えする彼にクッションを押し付けては無理やりにソファへと寝転がらせる。抵抗する力も残ってないのか、少し押せば千鳥足のようにフラフラとよろめき、こんな状態で更に無茶しようとしてたとか呆れてものも言えない。

 

 ……今が踏ん張り時であること。かぐや(あの子)のために頑張らなければいけないというのも分かる。それでも、魂の底まで疲れきったような彼の姿を見てしまうと、何処か昔の自分と重なって見えて――それで本当に幸せなのかと不安な気持ちが湧いてくる。

 私のよう(と共)に逃げても良いのだと……そんな悪魔の囁きじみた甘言を投げかけそうになる。

 

 

「だが、せっかく忙しいなか来てくれたんだろう?それなのに俺だけ眠っているというのは……」

「そんなこと言って。誰かさんは私が嘘寝しているのを3時間も見守り続けてくれたじゃないですか」

「……ああ」

 

 あったなぁと、遠い昔を懐かしむように笑う彼。

 

 そう……あの頃の私はまだスシミー・A・ハーサカで。まさかお互いにこんな関係になるなんて思いもしなかった。私の彼に対する評価も、かぐやを救ってくれるかもしれない”もしかしたら”の存在でしかなく、微かな期待を抱く程に過ぎなかった。

 けれど貴方は私の想像なんか遥かに超えて。よりずっと鮮やかに、あの子を外の世界へと連れ出してしまった。

 

 多くの困難を越えて、ようやく今という幸福へと歩き出せた二人。

 ならどうして……その過去を変えたいだなんて思えるだろう。

 大切な彼らの友人として在れる仮面を、手放すことができるだろう。

 

 

「———、———、」

 

 やはり相当限界が近かったようで。根負けしたうようにソファへ深く身を沈ませる彼は、次第に呼吸も深くゆっくりとなっていく。

 その姿を、早坂はただ安心させるような微笑みのまま見届けていた。気の置けない友人のように。慣れ親しんだ同朋のように。

 焦点を失っていく瞳。瞼は次第に落ちていきーー、

 

 

 

 

「……大丈夫か?」

 

 ピシリと、浮かべた微笑みに罅が入る。

 閉じかけの瞼。その合間から覗く、けれどまっすぐに()だけを見つめる瞳。

何がとは言わない。何故とも聞かない。ただそれでも全てが分かっているというように。

 

 ああ――どうして……。

 

 

 

 硬直は一瞬。少女は小さく“大丈夫ですよ”とだけ零すと、彼の瞼を自らの手でそっと覆う。

 その瞳から逃れるように。寝付けぬ子供を安す親のように。■■のように。

視界を包む暖かな暗闇。伝わる温もりに最後の糸が切れ、眠りに落ちるその時まで。

 

 

 瞳を覆った手の上に、ポタリと暖かな雫がこぼれ落ちる。

 

 どうして分かってしまうのだろう。こんなにもボロボロのくせに。

どうして其れを嫌と思えない自分がいるのだろう。素顔を晒すことは、あんなにも恐ろしかった筈なのに。

 

 耳に聞こえる安らかな寝息。深い呼吸と共に微睡みの底へと落ちていく彼。

その頬に、そっと手を寄せる。瞼の裏に浮かぶ、[rb:あの子 > かぐや]]の横顔。

 

(淋しかった?妬ましかった?ううん……ただ羨ましかっただけ。)

 

 未練があった訳でもない。後悔を抱くとしたら、それは寧ろーー

二人の仲を思って……思ったふりをして。告白する勇気も持てぬまま自ら身を引いた過去の自分。

それを今さながら、“どうして”なんて泣いている弱い自分に。

 嗚呼……

 

(こんなにも分かり合えているのに。こんなにも近くで見つめているのに――)

 

 

 どうして私は――ただの友達でしかいられないのだろうと……

 

 

 眠る彼へとそっと顔を近づける。微かな振動に瞳からこぼれ落ちた雫が、つ……と彼の頬を伝う。

 

 誰も見てはいない二人だけの今。

 誰も知り得ない……一人だけのこの秘密(一瞬)

 

 

 

 

 初めて交わしたキスは―――ただほろ苦い、涙の味がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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