「よう。また叱られたそうだな、お姫様」
思い返してみれば、柊木さんとの接点はそれほど多いものではなかったかもしれない。それこそ当時はまだ中等部で今より身長が低く、そして柊木さんも……身長は、当時からあまり変わってはいないけれど。
足早に歩く柊木さんの横顔は怖いほど冷たくて、前だけを睨むように見つめている姿を覚えている。だから最初は怖かったのを覚えているが、マックイーンさんが頼んでもいないのに柊木さんのことを話すものだから、いつの間にかちょっと詳しくなってしまったこと。病気の幼馴染を助けたいなんて、ドラマのようだと思った。
「叱られた、というほどではないのですが……皆様には、いつも心配をお掛けして、面目ありません」
「そりゃ、おれじゃなくて連中に言ってやるんだな。しかし、そんなに走りたかったのか?」
実のところ、人が思うほど、周りからの評価を気にしたことはない。生来のものがたまたま、お淑やかとか、気品があるとか、そういう風に映っていただけなのだと思う。もちろん、メジロ家の品格を保つために、立ち振る舞いは意識しているけれど。
だけどある時、気づいてしまう。これからこの先ずっと、ガラスの脚が砕けることを恐れながら生きるのか──あるいはそもそも走ることすら──そのような恐怖と真正面から向き合うほどの勇気はなかった。そこから逃げるように走った、そんな行為は……自傷だった。
「……思い切り、何も気にせず、この全身を力一杯使って……走りたいんです。友と……ライバルと、全身全霊を懸けて、競い合いたい……その先にある景色を、この目で見たい。……それも過ぎた望みかもしれません、だけど……」
「医学生としてはやめとけと忠告しとく。お姫様のガラスの脚ってのは比喩表現じゃない。一生足元に不自由抱えて生きることになる。日常生活に支障はないんだろ、それぐらいで満足しとくのが賢い生き方ってもんだ。それが妥協や諦めであってもな」
柊木さんの言葉は正しい。しかし、正しさでは……この心を動かす炎を消すことは出来ない。それでも理屈で反論できる正しさがないことは自覚していたから、口を閉ざして俯いた。
「それでも走りたいのか?」
「……戦いの末、破れても受け入れます。努力が足りないと言うなら、もっと努力するだけです、だけど……戦いの舞台にすら上がれないのは、嫌です……!」
「……」
柊木さんが何を考えていたのか、当時の私には分からなかった。
「……なら、お姫様が走れるようにしてやるよ」
「え?」
「おまえが走れるようにしてやるって言ったんだ。ガラスの脚にガラスの靴を履かせてな、シンデレラ?」
今だから分かることだが、きっと柊木さんにも、欠片の余裕もなかった。そんなことをしている場合ではなかったはずだ。だから、それぐらい……この人は、どうしようもなく目の前の人を見捨てられない……優しくて、脆い人なのだなと、思った。
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どうやら……耳がイカれちまったみたいだ……。ようプリンセス、もう一度言ってもらえるか? 誰が何をしたって?
「お祖母様がそう決めたのでしょう? 柊木さんはマックイーンさんと結ばれると」
ちげーよアホォ! あのね! オメーんとこのババアとはもう話つけたの! 無理なもんは無理なので! そもそもあのババア、そこまで本気じゃなかったしよォ!
「まあ、そうなのですか? 存じておりませんでした、申し訳ありません」
オイ……今知りましたみたいな顔してっけどよ、おれァ疑ってるぜ、おまえわざとじゃねーだろうな。
「わざと、とは? どういう意味でしょう?」
とぼけるほど疑いたくなるぜ。否定してくんない? おれもさァ、好きじゃねーんだ。問い詰めるようなやり方なんてな。
「せっかくこうして話せているのですから、すぐに終わらせては勿体無いと思いまして。ご迷惑でしたか?」
その強キャラ感やめてくれるか? なんか黒幕が悪事をネタバラシする時みたいな感じになってんだけど。大体勘弁してほしいんだよね、ただでさえおれの人間関係はちょっとやばいのに、またなんか拗れちゃうじゃん。
「はい。だからこそ、こうして原因を探しにいらっしゃったのですよね」
こ、コイツ……。今確信に至った。コイツ、間違いない……確信犯だ。コイツは誤解なく状況を理解していて、その上で行動に移った。そしておれがここに来ることすら、計画の内ということになる。言葉が出ない……
何が狙いだ。ご忠告申し上げるがな、こんなワケ分からんことしたって、出てくるのはおれの悲鳴だけだ。
「まあ。そんなことを仰らないでください、私にとってはこうして柊木さんとお話しできる時間が、とても貴重なのですから」
そりゃどうも。さて……どう落とし前つけてくれンだ? お陰様でおれァマックに手を出した男としての汚名を欲しいままにするワケだ。そしておまえはめでたくおれの恨みを買うことになるが、それが望みって訳でもないだろう。
「柊木さんの恨みを買うと、どうなるのでしょう。ふふ、教えて頂けますか?」
お姫様よ〜……勘弁してくれねーか? おれァこんな仕打ちを受ける謂れはねーぞ。
「そうでしょうか? 少なくとも、マックイーンさんは……満更でもなさそうにしていましたが。柊木さんはお嫌だったのでしょうか?」
あくまで二元的に断ずるのであればイヤだよ。例えおれがマックを心の底から愛していたとしてもイヤでしょそれは。誰が好き好んで噂されたがるってんだ。
「……私的には、かなり心躍るシチュエーションだったのですが……」
そ、そうですか……。え、仮におまえが同じ立場ならウェルカムなの?
「私がマックイーンさんと同じ立場であれば……ええ、そうですね。学園中に柊木さんとの関係を知らしめることが出来ますし、何より貴方が慌てふためくのを見ていられますから」
……。おれ、コイツになんか悪いことしたっけ? アレか? 気づかないうちに地雷でも踏み抜いたんだっけ? 相当猛烈な恨みがないと辻褄が合わないような気がする……。おれは内心かなりビビりながらお姫様の様子を伺った。清楚なポーズで微笑みを浮かべているが……何考えてるかわかったもんじゃない。
「それで、どうなさるのですか?」
……こういうのは趣味じゃないんだが。おれはちょっと真面目な表情を作って言った。
いいかお嬢様。人に迷惑かけちゃいかんのだぞ。特におれみたいな、色々と崖っぷちに立ってるようなヤツにはな。分かったらゴメンナサイと言え。
「いいえ。ちっとも分かりません」
……聞き間違えたみたいだな。最近はどうも体の調子が悪くてさぁ、起きたら体バキバキなんだよね。そのせいか空耳も激しくなったみたいだ。
「いいえ、聞き間違いではありませんよ。それに、お身体の調子が悪いようでしたら、僭越ながら、私がマッサージをして差し上げましょうか?」
お気遣い感謝する、だが不要だ。言いながら、おれはじっとお姫様の表情を観察した。
絵に描いたようなお嬢様……それがメジロアルダンというウマ娘だと思っていたんだがな。レースにかける想いはずっと強いし、多少世間知らずだったり、お転婆な面もあるだろうが、こんな訳わからん天邪鬼ではないはず。しかし事実として、コイツは……おれに叱られたくて仕方ないらしい。
これがもしテイオーなら遠慮なくブッ叩こうと思うし、その後フィジカルで逆転されて関節をキめられるまでがテンプレだが、流石にそうはいかない……どうしよう。このパターン初めてだ。
「……そんなに、情熱的な瞳で見つめられると……勘違いして、しまいそうです」
なんなんだ、コイツは……!! 恐れ慄き、おれはギリッと奥歯を噛んでお姫様を睨んだ。せめて理由を教えてくれよ。そんなつもりはなくて、なんて……頼むぜ、言ってくれるなよ、ネタは上がってんだ。
「理由などと、それほど大袈裟なものではありません。私も年頃の娘です。その手の話を、内側に秘めて、黙っているなど殺生です。それに、口止めもされていませんでしたよ?」
悪戯っぽく人差し指を口元に当てるジェスチャー……あるいはそれは魅力的かもしれない。真面目で清楚なお嬢様とのギャップ、それを自分だけが知っているという優越感……なんかあるワケねえだろ!! お姫様よぉ、まさか分かってないなんて言わせねぇぞ。悪いことしたら怒られンだぜ。覚悟は出来てんだろうな?
「申し訳ありません。ですが、柊木さんは所詮口だけなのではないですか? 言葉に行動が伴わなければ、単なる虚偽、単なる虚勢……そんな言葉では、響きませんよ。それとも……ふふ、柊木さんは、若くしてトレーナーになった大変優秀な方ですが……私のような小娘1人の口を塞ぐことすら、できないのですか?」
……ンのクソガキ!! もっぺん言ってみろォ!!
「まあ、怖いです。これから私、柊木さんにどんなことをされてしまうのでしょうか……ふふ、ふふふ」
おれはガッと顔を近づけた。どうやら……おれァこのクソガキに芯の底まで舐められているらしい。箱入り娘に世間の厳しさってヤツを教えとかねーと。なぁ……?
「いけませんね。私のような者に舐められて、何歳も下のマックイーンさんと婚約すると噂を立てられただけで、打つ手がないなんて。……ざぁ〜こ、ざぁ〜こ」
おれはピキッた。獰猛に笑って言う。食券機の使い方も知らんお姫様に、一つ思い出させてやるよ。人に言えないお姫様にも秘密があるってなあ? お姫様はかぁっと顔を赤くした。
「む、昔の話ですっ! からかわないでくださいっ! 大体あれは、柊木さんが……!」
大人しいツラして結構食うらしいじゃん。マックに唆されて、なあ?
「女の子は甘いものが大好きなんですっ! それがどうかしましたか!?」
当然だが、おまえの体重の推移をおれは把握している。おまえの……正月太りも、な……!
おれは一線を踏み越えたことを自覚した。なんでおれはコイツの体重なんて把握してんだろうと思いつつ、ささやかな乙女の秘密を暴露する……これは、おれにとっても諸刃の剣だ。変態扱いは免れないだろう。覚悟は既に決めた。効果は絶大だったようで、お姫様は石像のように固まってしまった。
「……っ、ち、ちが……わ……私……は……」
どうした? さっきまでの威勢がどっか行っちまったな?
「ひ……柊木さんの、変態っ!! わ、私の……カラダを、隅々まで、見たんですね……!?」
だらしねェ体しやがって。このメスブタが!!
「んうっ……!」
……艶っぽい声を漏らすなよ。なんでちょっと嬉しそうなんだコイツは。おれは怖気ついたものの、ここで引けば思う壺。どの道レッドカードを切った以上、後にイモ引くワケにもいかない。おれは声を荒げて脅した。
おまえがおれン噂ァバラまくンならよォ! おれがオメーの噂ァバラまいちまったって仕方ァねえよなあ!? おン!?
「柊木さんは鬼畜ですっ! そんなことをされてしまっては、私も意固地になってしまうかもしれませんよ……!?」
そうなりゃ後は戦争だな!? こっちのネタがおまえの体重だけだと思うなよ!?
「……ふふ、ふふふ、ふふふふ──」
お姫様の表情が一気に怪しくなった。さっきまで羞恥に悶えていたはずが、どうやら行くとこまで行ったみたいだ。なんか笑い出した。
「そう来るのであれば、こちらも遠慮は不要であると……そう仰るのですね。いいでしょう──柊木さんに辱めを受けたと、学園中に吹聴して回ります」
全身の毛が恐怖で逆立つような錯覚。冗談でしたで済まないラインを余裕で越える──おれは叫び出したくなるのを堪えなければならなかった。
……クレイジーダイヤモンド。ご存知の通り東方仗助のスタンド名だ。おれとしては、お嬢様のガラスの足を皮肉ってダイヤモンドと呼んでいるつもりだが、コイツは文字通り頭がおかしい。
「そうされたくなければ、分かりますね?」
イヤ……分からないな。
「お仕置きが、必要なのではないでしょうか?」
おまえが? おれに? お仕置きをする? 興味があるね、何をしてくれるんだよ?
「いえ、私に」
え?
「え?」
え?
「……だから、その。こんな風に悪さをするウマ娘には、トレーナーのお仕置きが必要なのではないですか?」
え? イヤ、まあ……そうかもしれんが。え? 何その、また新しい噂ばら撒かれたくなかったらお仕置きしろって?
「はい。そうなりますよね?」
なんで?
ハッキリ言っておれの立場は苦しい。男女平等が叫ばれる昨今だが、本当に平等であったことはない……男と女が争ってれば、男の方が加害者だと無条件でフィルターがかかるものだ。増してコイツは未成年。おれの立場がどれだけ弱いか、考えるまでもない。
「……ご自分の立場を、よく思い出していただけますか? それを踏まえれば、私の要求は明らかであるように思うのですが」
……?
「……?」
わからない。何を言われている? おれとお姫様は鏡合わせのように首を傾げ合った。なんでコイツはよく分かってないんだろうという表情をお互いに浮かべている。
……。じゃ、お仕置きだ。おれは軽めにデコピンした。
「あうっ。……」
……。
「……もう終わり、なのですか?」
お嬢様は──まるで、食べ放題に来たのに、パン切れが一枚しか出てこなかった時のマックのような表情を浮かべておれを見つめている。そんな目で見られても……どうしろというのだ。確かにガキンチョが悪いことしたら叱ってやるのは大人の役目かもしれない。それは正しい、正しいが。
しかし、だ。しかしおれが誰それを叱る前に、まずおれがよく叱られている……その上、じゃあ叱ってくださいと言われるとなんかこう、コイツの思い通りみたいで普通に警戒する。
「……もっと強いお仕置きをされないと、私のような悪い子は、また悪さをしてしまいますよ? 次は……この程度では、済まないかもしれません」
これは……おれを、脅しているのか? おれは今脅されているのか……!? 訳が分からん、頭がおかしくなりそうだ……!
「ふふ、如何なさいましたか? そんなに苦しそうな顔をして……!」
おれとマックの噂を流せばおれは出所を突き止めようとするだろう、そりゃそうだ。火事の中で火元を特定したところで火が消えるわけではないが、その元凶を知ろうとするのは自然なことだ。だからおれがお姫様に会いに来るのは必然だった……それを、理解して、仕組んで……! おれに……お仕置きを、させるために……? そのために……そのためだけに……!
この女……! このメジロアルダンは!
「お分かりかと思いますが、単なる説教などでは私を反省させることなど出来ませんよ。私は柊木さんを困らせる悪い子ですから、それはもう厳しいものでなければ」
この女は……! 頭がおかしい……!!
「でも、柊木さんは所詮口だけの方でしたね。私に負けてしまうような、情けないトレーナーなのですね。ざぁ〜んねんです」
誰かが……
誰かが……このクソガキの頬をブッ叩いて、目を覚させてやらないと……そんな義務感にも似た怒りが、ついに……おれの中にあったコンプラ意識を追い抜いた……。
しかし……流石に頬をブッ叩くというのは比喩表現に留めなくては……だが……他に手段が……? おれは疑いながらも、試すように口にした。
……オイ。いい加減にしないと嫌いになるぞ。
「……えっ」
先ほどまでの勢いが消えた。ポカンと小さく口を開けて、それからじわじわと表情が曇っていく……さほど時間も開けずに、お姫様の目尻に涙が……浮かんだ……?
「い……いや、です。嫌です、申し訳ありません……っ! わた、私、そんな、つもりでは、き……嫌いに、ならないでください……」
ウッ……こんなに効果があるとは聞いてない……。お姫様が頭を下げて、搾り出すような涙声を発している……。
「そんな、つもりでは、私、私はただ、ただ……柊木さんに、構って欲しかっただけなのです……! 嫌いにならないで、嫌いにならないでください、なんでもします、なんでもしますから、捨てないでください……!」
ひ、人聞きが……悪いなんて、ものでは……! クソッ! なんでこんなことに……!! 冗談だ、嫌いにならない! 嫌いにならないから! おれが慌ててそう言葉を掛けるも、お姫様はボロボロと涙を流し、こぼれた水滴がベッドのシミに変わっていく。……もう! なんなの!
おれは必死にお姫様を慰めた。言葉を掛けて、頭を撫で、ぎゅっと服を握って泣き続けるお姫様を宥め続けたがまるで効果がない。
ガラッ。
「アルダンさん、調子はいかがですの……、…………トレーナー……? なぜ、いえ何? え? な、なんですの、この状況は……」
「うぅぅぅ〜っ、ぐずっ、ひ……っ、捨てないでください、私を捨てないで、いやです、いや……っ」
おれは発狂しそうだった。ややこしくなるタイミングでややこしくなりそうなやつが来た〜〜〜!! にょわ〜〜〜〜〜!!
「……………………トレーナーの…………浮気者ーーーーーーっ!!!」
待て! マック、オイ!! 呼び止める暇もなく、ヤツは……そう叫びながら、廊下に消えていった。
おれは絶望的な予感に身を震わせながら視線を戻す。ぎゅっとおれの胸に縋りついて泣き続けるお姫様の姿を……見下ろして……
泣きたいのはこっちだよ〜〜〜〜!!! 誰か助けて〜〜〜!!!