□で区切られたところから他者視点開始。
*はいつも通り主人公視点となっております。
いつもより長いです。
【追記】
・2021/11/20
サブタイトル変更しました。内容に変更はありません。
文字数の都合上、3分割に変更しました。
木曜日、僕は、少年が見慣れた「死」を迎えるのを目撃した。
見慣れた、とは変な表現かもしれないが、僕からすればそれがいつだって、最も相応しいのだ。
*
校舎の二階、残穢を追って、震える足で階段を上る。左側の手すりにしがみつき、前方へ顔を向ければ、廊下の先から微かに話し声が聞こえた。
どうも先程から耳鳴りがして、音をうまく拾えない。頭痛も酷く、視界が霞む。
少年も学校に通っていた頃はいつも、この廊下を歩いていたのだろうか、とこの時はただぼんやりと思った。
階段を上りきって、三階に辿り着く。手すりがなくなり、平坦な廊下が左右に続いていて、少し離れたところに少年が居た。
「…………ぁ」
正確に言えば、少年だったモノだ。
ぼやけた視界の中で、彼は一心不乱に腕を振り回し、僕に背を向けている。それに呆然と殴られる形で、虎杖の姿が見えた。
途切れ途切れに、宿儺と交わされる会話が、僅かに鼓膜を揺らす。頼む、直してくれ。俺はどうなってもいい、と。
「────断る」
宿儺が口にした。
それを耳にした僕は、「あ、前も聞いたな。どこでだったっけ」と呑気に考えた。
その瞬間、けたたましい笑い声が廊下に響き渡る。不思議とそれだけは自然に、真人と宿儺の、二人分の笑い声だと判別できた。
少年と虎杖がいつの間にかこの校舎に移り、衝突した。真人は、そこに乱入し、術式を使った。そういうことらしい。
いつもの「死」に纏わる感情が、全く聞こえてこない。そうか。なら、もう彼は、僕が来る前に死んでいたのだろう。
形の変わった少年が、電池の切れたロボットのように、くたりと地面に伏す。声は届かない。
ふと頭に過ぎる光景がある。
────でも
僕はそれを、橋の上から見ていた。
河川敷で虎杖が明るく言って、手やら身体やらを使いながらも、何かの映画の感想を伝えていた。
その時に、「そう、そうなんだよ」とあの日の少年、少し人見知り気味だった彼が食い気味に口にしたが、本心ではその感想よりも、分かり合えたことが嬉しかったのかもしれない。
「映画、楽しみにしていてよ。この監督は期待できるんだ」
「僕は映画にも監督にも詳しくない」
そして興味もなかった。なかった、と過去形で表したことに自分で驚く。
「分かってるって。だからこそだよ」少年が息を溢した。
喉がぐっと狭まる。
まさかその時の彼も、僕も、こんな場所で、これからに楽しみを
そうなる前の、数時間の経緯が頭に蘇る。
**
人生は山あり谷あり。
不幸の後は幸福が来る。
でも谷の次が谷の可能性もあるし、不幸の後に不幸が来ることだってあるのだから、そんな風にプラスマイナスが徹底されているなんて考えは間違いではないか、と僕は思ってしまう。
今度、人の一生に因んだテーブルゲームでもやってみようか。
僕のことだから、きっと転落続きの人生に翻弄されるに違いない。生涯通してつまらなそうだ。
「生まれてすぐ、人は死への旅を始める」
真人が以前、言ってきたことがある。
進んで人間を殺し、その人間を使ってまた別の人間を彼岸に連れて行こうとする彼は、人間って儚いよね、と言うが、僕にはとてもそう思えなかった。いつだったか、「キミはよく、その旅を急かしてるよね」と溢したことがある。
「花御曰く、俺は『鏡』なんだって」
「やだよ、こんな鏡」
「最後まで聞きなよ」
例えて言うなら、真人の行動は、他人が歩く道の薮を勝手に突き、「なんて可哀想なんだ、手伝ってあげよう」と飛び出してきた蛇を倒す素振りを見せながら、他人を蹴落とすような状態なのだから、つまりは大の人間嫌いに他ならないのだけれど、それならば最初から回りくどい方法を使わず人間を殺せば良いのに、と話をした。
その方が、真人も楽ができるじゃないか、と。
「それじゃ、つまらないだろ」
「うわ、人間も災難だなぁ。旅の最中に、こんな呪霊が立ち塞がっているなんて」
「挽歌も、俺のこと言えないよ」
「僕は真人みたいなことをしてない」
「これは花御から聞いたんだけど、皆が恐れる『死』っていうのはさ、人間にとっては『鏡』みたいなものなんだ」
「花御まで難しく考えるのに凝ってるの。意味が分からない」
「花御は、俺がその『鏡』そのものなんだ、って言っていた」
「なら僕はその、『人』が『死』を畏れる感情そのものなんだけど」
真人は声を弾ませて言った。
「だから、俺と挽歌は似ているんだよ」
反応しにくい言葉に、僕は会話を諦めた。要するに「人間と死は隣り合わせ」「真人と僕も隣り合わせ」という彼の考えは、どうにも度し難いもののようだった。
今回もそうだ。
真人は随分と楽しそうなのに、僕は一切楽しいと感じていない。「山」や「幸福」が全て真人の方に集結し、僕の方には余った「谷」や「不幸」が寄せ集められたのではないか。何が隣り合わせだ。
不公平だ。
と、先程までは思っていた。
手元に目線を落とす。
もしかすると僕にも遂に、山が来たのではないだろうか。
「ねえ、挽歌くん、聞いてる? やっぱりそれ、邪魔だった?」
「聞いてるし、邪魔じゃない」
隣から話しかけてくる少年の声が、耳の辺りで、見えない網に捕獲されるような気分になる。ふんわりと掴まれ、届くか届かないかの瀬戸際で漂っている感覚だ。
朝の匂いが鼻を掠めた。絵の具のような水色の空に、点々と白い雲が浮かぶ程度で、清々しいほどの晴天が見える。
「今週末、これ、見に行かない?」
作戦の決行日だからと、僕は早々に拠点で真人と別れ、少年の家に向かった。玄関から相手が真っ黒な服を纏って出てきたのは数十分後で、それまでは門戸の前の階段に腰掛けていた。
少年は、まずぎょっと顔を強張らせると、「待たせてごめん」とすぐに謝罪をした。
厳密に言えば、勝手に早く来たのは僕だったので、率先して謝る必要は無いのだが、そういうわけにはいかないらしい。適当に返し、すぐに目的地である高校へ歩き出す。
件の問題は、その道中で起きた。
「映画、興味ない?」
少年がおずおずと口を開き、一枚の長方形の紙を僕に手渡した。
最初はその意図が分からず、「興味無いけど」と返したが、その途端少年が僅かに表情を曇らせたので、慌ててどうしてか訊ねたところ、映画の前売り券が余っている、と言った。
「本当は母さんと、見に行く予定だったんだ」
そんなものを僕に渡すな、と咄嗟に言い返しそうだった。
いつの間にか、長方形の券を受け取っている。
「挽歌くんさえよければ、だけど、その、映画、見に行こうよ」
「母親が昨日死んだのに?」と僕が声に出さず、視線のみで訊ねたところ、少年は顔を俯かせた。
「……母さんはきっと、僕がくよくよしてるより、好きに生きていた方が喜ぶから」
前を向いて、眩しそうに目を細める。「前売り券も勿体無いでしょ、って」
「そうなんだ」
誰がどう見ても強がっていた。いや、きっとそうだと言い聞かせることで、自分を立ち上がらせていたのかもしれないし、もしかすると、母親が死んでしまったことで人間性が欠けてしまったのかもしれない。
どちらにせよ、僕には理解しきることができない。人間の行動に含める思惑も、声にならない思惑も、僕には難しい。
右隣にいる少年に目をやった。この少年は、その、難しい人間の代表格だ。
「だけどこれ、キミのお母さんのでしょ」僕は言う。
本当は「僕は、これを貰える立場じゃないと思う」と伝えたかったが、唇が震えて、声にならなかった。
「でも、母さんはもう見れない」少年が、歩きながら続けた。「それだったら、その、挽歌くんと見てみたいなって。初めて会ったのも、映画館だったでしょ」
「呪霊と行きたいの?」
「……うん、変かな」
「変だよ、間違いなく、断言できる」
そんなに言わなくても、と少年が肩を落とす。
これから復讐をしに行くとは到底思えない姿だ。やはり人間性が欠落したのか、と思った時、少年の手に視線が止まった。
震えている。力を込め過ぎて、指が白んですらいる。今にもその手で、力の限り地面を叩き割りそうだ、と想像できた。
そう思うと、彼の誘いに乗るのは、被害感情を慰撫するのに最適なのではないか。
最早、その券を持つのに相応しい、相応しくない、の問題ではない。
これは必要な行為なんだ、という考えに至った。
彼が今望んでいるのは、彼に寄り添って慰めてくれる存在だ。
自分にそう言い聞かせ、罪悪感に苛まれる感情に蓋をし、僕は息を吐く。
「呪霊には、映画のチケットはいらないよ」
少年が憂いを含んだ目でこちらを見るので、視線を合わせた。
「だって、誰にも見えていないから、無銭鑑賞だよ。人間なら違法だけど、呪霊はどこでも治外法権だし」
「あ……」
少年ははっと目を見開き、僕の手元の前売り券に視線を移動させる。
「じゃあ」
いらないか、と少年が落胆して言うのは予想できた。
だからその前に、僕は口を挟む。「でも」
「いらな」「これ、貰っていいかな」
「…………えっ。べ、つに良いけど、」
「──────そう!」
自然と、目元の力が抜けた。
隣で目を瞬かせているのが、横目に見える。
正直なことをいえば、誰かから形に残るものを貰ったのは、これが初めてだった。真人に貰った今の名前だって、手元に残る形あるものじゃない。だから、不快ではないが、無性にくすぐったくなるような、不思議な気持ちを抱いた。
ああ、これがきっと、人間同士の「友達」という関係に近いのかな。
僕は段々とそう感じるようになった。
いつかの日みたいに、また、空虚で暗かった僕の未来に、蝋燭の炎が一本、灯った気がした。
「行こう」
戦いにも、映画にも。
長方形の紙を、半券がちぎれてしまわないように、丁寧に真ん中で折って、ポケットの中にしまう。
目的地の高校は、すぐ目の前に迫っていた。
真人
「夏油はさ、挽歌の口癖って、何だと思う」
校門付近で向き直った夏油は、真人を見て、訝しげに首を傾げた。
「知らない、分かんない、どうでもいい」
「興味ないよ」
彼は明らかに面倒臭そうに、言う。
「そう、それもだよ。興味ないよって」
呪術師に見つかると面倒だから、と計画の行末を見届けず、一足先に学校を発とうとしていたところだった。
夏油が立ち止まる。真人の思考を測ろうと思案するも、すぐにそれすらも馬鹿馬鹿しいと思ったのか、ふっと息を吐く。
僅かな日光も許さないと言わんばかりの曇天を見上げ、その空ごと遮るように、真人は帳を下ろした。
「すぐに"窓"が通報するだろう、君の考えている絵図が描けるといいね」
足を止めた夏油が帳を見上げて、言った。先程までは退避しようと忙しなかったが、何か伝え忘れがあったのか、今はことを急いていないように見えた。
「任せてよ、失敗はしないさ」
真人は言い、夏油の詮索するような視線をそのままに、肩を竦めた。
「宿儺優位の縛りを課す、ね。良い作戦だと思うよ。漏瑚も、君くらい冷静だと助かるんだけどな」
「アレはアレで、素直でカワイイじゃない」
すると夏油が、不意に向き直った。真人も顎を引いてそれを見つめる。大柄で、人間でありながらもやけに呪霊側に近い男は、警戒心を抱かせるには十分過ぎる要素があった。
真人は、先日、夏油の所用に付き合った挽歌を思い出す。厭世的で何事にも無頓着な、あの、仲間の口から、「信頼しない方が良い」と飛び出す程だ。言われずとも分かってはいた。ただその言葉に衝撃を受けたのも、また事実だ。
「そういえば」
夏油は、試合は中断だと告げるように、ふと視線を逸らした。
「挽歌って名前をつけたのは、真人だっけ」
真人はしらっとした顔で、体育館の方を見た。
「そうだよ。長生きしているって豪語する割には、名前を忘れた、なんて言うんだ。笑っちゃうよ」
「長生き、ね。『挽歌』って名前の由来は? 何か理由はあるのかい」
それを聞いた真人は、やはり夏油の中には自分たちが察し切れていない思惑があるのだ、と確信した。
そういや何でなの。マイペースな挽歌の声が耳元で聞こえてくるようで、気が向いたら教えてやろう、と真人は口角を歪める。
夏油はもちろんそこで妥協するつもりはなく、「死者を悼む歌。一番死に近い呪霊の名前にするには、少し酷だったんじゃない」と述べたかと思うと、真人の返答を促すように、顎を持ち上げた。
「酷なんかじゃないよ。俺なりに、一番あの魂に近い名前を付けたつもりさ。実際話してみて、その場でコレだ! って思ったよ」
「そう。それは随分長い間、悩んだみたいだね」
夏油はこれは明らかに、皮肉で口にした。
「本当のことを言えば、俺は、挽歌の殺し方を知っている。あの形の呪霊には、あの名前が丁度良いんだ」
「へえ。取り敢えず攻撃すれば死にそうだけど」
弱いし。夏油が言う。
「その情けないところも、術式の縛りを外せば、少しはマシになると思うんだよ」
真人は前日の、地下水路でのやり取りを思い出す。アレルギー反応は一度目よりも二度目。一度あることは二度ある、ともよく聞く。アナフィラキシーという単語を、挽歌は知っているのだろうか。
一度で駄目なら、二度目に挑戦する。真人の魂胆を、あの性格で察しているとは思えない。
夏油が僅かに瞼を微動させた。
「外させるのか」
「もちろん」
「……可哀想に。あまり虐めないであげてよ」
心にも思ってないこと言うなよ。
と、挽歌ならすぐに口にするんだろうな、と考える。
「言ったろ。俺は挽歌の殺し方を知っている。それも、本当の意味で殺す方法を。挽歌が殺されないためには、術式の縛りは解くべきなんだよ」
「嫌がっていたけど」
「快諾されても困るよ」
「なるほどね。殺す方法は、教えてくれないんだ」
「知ってどうするの? 夏油は」
「どうもしないよ、ただの興味だ」
「そう言うけどさ、夏油はもう、知ってるんだろ」
そこで夏油は、何かを追思するような面持ちになった。過去の失敗でも振り返っているのだろうか。
やがて鼻から息を溢す。
「いや、分からないな」
「そ」
大きな呪力の動きを察したのはその後だ。ごう、と風が吹き荒れるような音もした。
夏油が顔を、体育館の方へ向けた。「あれは?」
「順平だろうね」
「ああ、術式を開花させてあげたんだっけ」
どこまで育てたんだよ、と呆れるような物言いだ。
「非術師程度なら、指一振りで昏倒させられるくらいには育ってるよ。高専レベルの呪術師にも、普通に戦えば引けはとらないんじゃないかな」
「それはそれは」
少しして夏油は、校門に触れて、少々錆に触れた不快感のようなものが顔に出たが、それをそっと押した。真人も、夏油に背を向けて、反対方向へ歩き出す。
後方から、「一つ忠告しておくよ」と声をかけられた。足音が止まっていたから、彼が立ち止まっていたことには気付いていた。
「なあに。そんなに改まって言うこと?」
振り返らず、真人は訊ねる。確認していないが、恐らく夏油もこちらに背を向けたままだ。
「窮鼠猫を噛む、なんて言うけど、これは別だ。追い詰めたつもりはなくても、図太そうで意外と繊細だから。変な拍子に逃げ出すよ、気を付けた方が良い」
誰のことか、すぐに分かった。
「それは経験談?」
「まあね。私はただ、少しの間、待っててもらおうとしただけなんだけど」
「そんなこと言って、どうせ虐めたんでしょ? 俺は、仲間には優しいつもりだよ」
「好きにすると良い。じゃ、今度こそお暇させてもらうよ」
なるほどなるほど、と真人は自分でも気付かぬ内に、小刻みに頷いている。
まあ、上手くやるよ。
***
これは、見ていて気持ちの良い光景ではないな。
「うう」やら、「ああ」やら、四方から呻き声が立ち上っている。重苦しい空気が充満していて、釣られて僕まで呻いてしまいそうになる。
絨毯の上を闊歩するように、少年は淡々と体育館の中へ入って行く。
真人の手によって帳が展開されたのを確認し、少年が、たった一度指を振るった。すると数秒後には、中からばたばたと倒れる音と、苦しみ喘ぐ声が聞こえ出した。ドミノ倒しに似ていた。
僕も彼に続いて、入口に差し掛かる。
この環境で、明らかに浮いて見えるくらいには、少年は変わらなかった。むしろ力が漲っているようにも見える。
体育館に踏み入ると、意図的に術の対象から外したのか、毒を受けた様子のない太った男がいた。身体を震わせながら、付近の倒れた生徒を揺さぶっている。
相当動揺しているらしく、時折声が裏返りながらも「しっかりしろ、大丈夫か」と頻りに叫ぶ声が聞こえた。
男に少年が近付く。
生徒を見下ろしてから、冷たく言い放った。
「死にはしないよ」
それは確約できない、と僕は思う。
もちろん、殺したくはないけれど。どんな事情で、突然、僕に寿命を奪われるか、僕にも分からない。
辺りを見渡すと、意識がある者と意識がない者の両方がいるようだった。共通して言えることといえば、どちらも苦しそうな呼吸音を絶え間なく鳴らしているということで、流石に同情心を抱く。
会話の途中で、少年の口から「先生」という単語が聞こえたから、恐らくあの太った男は、少年の担任の教師なのだろう。
前髪を持ち上げた少年を見て、教師が唖然呆然とした様子を見せる。
前髪の下に何がある?
そういえば、数日前の真人も、少年の前髪の下を確認していた。僕の位置からは見えやしないのに、思わず覗き込むように身体を傾ける。
彼が振り返ったところで、偶然視線がぶつかり、妙に焦った。
相手も驚いたらしく、細かく瞬きをし、「挽歌くんは見てて」とぎこちなく声を出した。
舞台に顔を向けた。
そこで漸く、もう一人、術から逃れている人物がいたことに、気が付いた。
「吉野?」
男子生徒が口を開く。
自分はまだ安全地帯にいる、と平然とした様子だ。
あの生徒が少年の心当たりか、と僕は思ったが、前科はともかくとして、今回の事件については濡れ衣だと考えると、申し訳なく感じる。
彼が僕に気が付いた様子は無さそうだ。
「聞きたいことがある」
気付いた時には、舞台に上がる階段へ少年が足を掛け、「アレを家に置いたの、オマエか?」と言っていた。
男子生徒は、突如、威圧してきた少年に驚き、不快そうに片側の眉毛を釣り上げ、「なんの話」と訊き返す。
が、すぐさま海月の触腕による毒が、腕に斑点となって現れたことに焦り、「い゛」と短い音を出した後、「なんだよ、何したんだよテメェ!!」とリズムよく発した。
水滴を垂らすみたいに、次々と肌色を上塗りしていく斑点は、やがて腕全体を惨たらしく埋めつくしていく。見ていられず、視線を逸らす。
「挽歌くん、本当はこういう戦闘、苦手なんでしょ」と、少し前に少年は言った。
「え、なんで」
「だって、僕が真人さんと練習をしていた時も、ずっと図鑑を読んでいたし。真人さんの話し方も、挽歌くんを戦闘要員として数えていなそうだった」
「……あ、ああ、うん」
一瞬、内心を悟られたのかと焦った。
戦闘行為が嫌いだという意味で、精神的に、苦手だろと指摘されれば図星だったが、物理的に、得手不得手の意味で苦手、というのならそれは惜しいと評価せざるを得ない。
荒事よりも、陀艮の領域内でのんびりと海を見ている方が、僕は落ち着くことができた。
「だから挽歌くんは見ているだけで、ううん、居てくれるだけでいい」
「それは任せて、得意なんだ」
「もしもの時は、逃げていいから」
少年が苦笑したのは、僕の言葉を馬鹿馬鹿しいと感じたのか、それとも、「もしもの時」が比較的、現実的な未来として想定できたからなのか。
「もしもの時? 逃げる?」
「僕よりも、挽歌くんの方が真人さんの居場所が分かるんじゃないかな。危険なことになっても、あの人に指示を仰げば、挽歌くんは逃げられるでしょ」
さっそく言葉通りの仕草をしてしまった。
昨日までは少年の仄暗い復讐から、密かに愉悦を味わうつもりではいた。が、見当違いな仮想敵を塵のように扱い、怒りを燃やしている少年を見ると、胸が張り裂けそうになった。どうしたらいい、一体どうするべきだ。
「なってないな」
少年が勢いよく、男子生徒の顔を殴った。
バキ、と打撲音が鳴り、僕は肩を強張らせる。
地面を転がった男子生徒の腹に、少年は躊躇いもなく、追撃をかけた。鈍い音が鳴り、男子生徒が嘔吐くも、一心不乱に足を振り下ろし続ける。
興奮している様子はなく、むしろ蹴りを繰り出す度に、表情の温度は冷え冷えとしていく。
「オマエは死ぬんだよ。質問の答えがイエスでも、ノーでも」
少年は最早、僕のことも忘れ、溜め込んだ鬱憤を演説で捲したてるかのようになっている。
「だって僕に、オマエの嘘を、見抜くすべはないしっ、そうされるだけのことを、オマエはしてきたからね」
言いながらも、彼は顔面を闇雲に蹴り続ける。
僕は後退った。
呆気に取られたというよりも、少年の想像以上の怨念に驚愕していた。お互い、何かに迷い、それでも好きなように生きようとする努力に共感し、親交を深められたつもりでいたが、少年の抱えている闇は僕とは方向性が違っていたのかもしれない。
その一端も、僕と真人が起因していると思うと、ゾッと背筋が凍った。
僕は少年がこちらを見ていないことを確認しながら、そっと近付く。
「最後くらい誠意を見せてくれ」と式神を使い男子生徒を宙に浮かせて、じっと反応を伺う少年の肩を静かに叩く。
彼はきょとんとした顔つきで、僕を見ると我に返ったのか細かく瞬きをする。
「……殺したいの?」
僕は、少年に声をかけ、空中の男子生徒を見上げる。顔全体にコブができたかのように赤く腫れ、鼻血が口の中まで伝う様子は痛々しく、目蓋も分厚く肥大化し、最早開いていない。
過去の恨みの原因は知らないが、母親の件については無実だ。一旦落ち着かせようと、極めて冷静を装って訴える。
「この人間が過去にしたことを僕は知らないけど、本当に殺したいなら、キミじゃなくて僕が……っ!?」
瞬間。
ひゅっと喉が詰まる。
────しにたくない。
男子生徒からだ。
よく知る感情が僕に突き刺さり、言葉を失う。ぶわりと全身の毛が逆立つような感覚がした。胸の中がざわつき、少年院での出来事がフラッシュバックする。
────死にたくない、死にたくない、しにたくない、しにたくない。
「……ァ、ごめ゛んな、っざい、ごべん、」
じっと僕の声に耳を傾けていた少年が、この直後、僕を視界から外し、不愉快そうに男子生徒を見上げた。
少年はふっと息を洩らした後で、「ううん、挽歌くんがやるまでもないよ」と残念そうに言った。
「ぁ──いや、そうじゃなくて」
「で?」彼は僕を、もう見てすらいない。「だから?」と腕をゆるりと振るい、呻く男子生徒を更に高く持ち上げる。
僕は咄嗟には動けない。
そこで、「何やってんだよッ!!」と強い言葉が出た。
僕ではない。
バン、と入口の扉を蹴破るように曙色の髪の呪術師が、飛び込んでくる。
「……すく、じゃなくて……虎杖っ!?」
「順平!!」
真人
活動中の人間がいない学校は予想以上に暗く、しんとしていた。映画や小説の舞台を彷彿とさせる。どこかに化け物が封印されており、その隠し部屋がこの校舎にあるのではないかと思いたくなった。
真人は事前に、夏油に教えてもらっていた通り、本校舎の裏手へ回る。
全校生徒は毎週木曜日に体育館に集まり、集会とやらを行うらしい。生徒の表彰を行う、ということが真人には興味深かった。
焦らず、散歩するつもりで進んで行くと少しずつ音が、戦闘音が聞こえてきた。虎杖が来たのだ。今すぐ鉢合わせになるわけにはいかないため、タイミングに気を付け、校舎へ通ずる渡り廊下へ向かう。
「僕、自慢じゃないけど、本当に弱いから何もしないよ」
先日の拠点で、挽歌はいくつか心配事を洩らした。吉野に付き添うことには賛成したが、自分にできることの少なさを案じていたようには感じた。
「それでいいよ。何かあったら教えに来てくれるくらいすれば」
「伝言役か。それならできそうだけど、何かあったらって、たとえば?」
「呪術師が来たとか、順平が人殺しちゃった、とか」真人は思惑と冗談の混ざった笑みを浮かべた。「挽歌が大変だと思った事柄でいいよ」
「じゃあ面白い壁の染みでも見つけたら、すぐに飛んで行くよ」
「挽歌にそんなユーモアあるの?」
直後、逸らされた視線を真人は鼻で笑った。
破壊音が小さな地響きとなって伝わってくる。
虎杖と吉野が交戦しているのだ。高校が意外と狭いということを、真人は初めて知った。
虎杖が無防備に単身で飛び込んできた様子から想像するに、無意識の内に吉野はあらかじめ虎杖に、想定以上の印象を残しているに違いなかった。
式神の調整も、術式の使い方も、ここ数日間で相当なレベルまで鍛え上げたつもりだ。が、あの性格だ。いつ、何の拍子に自分から白旗を上げるか、それも時間の問題だろう。
その時だ。
ドン、と大きな花火に似た爆発音が轟き、真人は足を止めた。呪力のぶつかり合いか、思ったよりも派手にやっているな。
すると、見慣れたシルエットが吹き飛んできて、地面を転がる。
そのシルエットが、挽歌が、目を回し咳き込むのを見て真人は、何してんだ、と愕然とした。
まあでも、丁度良いか、とも思う。
挽歌、と声をかければ、痛みに顔を顰めていた仲間は、目を丸くさせ、何してんの、と口にした。
こっちの台詞だ。
****
「引っ込んでろよ、呪術師」
胡乱げに少年が、道場破りに似た勇ましさを見せた虎杖に、吐き捨てた言葉だ。
呆けていた教師の肩がはっと跳ね、虎杖と少年を交互に見る。
悔しさを滲ませた虎杖が、くしゃりと顔を力ませた。
射るような視線がこちらへ向くと、少年は舌打ちを鳴らし、僕は肩をすぼめる。
そんなつもりはなかったが、一度は殺してしまった相手と再会するのは、針のむしろにいる心地がしたのだ。あの時はご迷惑をおかけしました、と謝罪しながら逃げたくなるが、そこで、既に虎杖と少年の間に立ってしまっていたことに気付く。
足を出し、少しずつ舞台袖に向かう。ゆっくりと一歩ずつだ。
「……オマエ、」虎杖が声を響かせた。
足を止めて、そっと顔を上げる。
明らかに視界に僕を捉えていて、これは恐らく僕に対してのみだが、今にも食ってかかろうとする捕食者のような空気を纏っていた。終いには内側の宿儺まで、僕を見ているような錯覚を起こす。
しかしそれも、
「少年院にいたよな」
次は少年が僕を見る番だった。「なんで少年院?」と訝しむような顔だ。違う、誤解なんだ、違くないけど。
虎杖の声が的を射る矢のように僕に届いたが、それは、「オマエが、順平にやらせてんのか」という静かな言葉だったものだから、少年が鼻を膨らませ、前へ出る。
「この人は関係ない」
「なら順平、オマエ、自分が何してんのか分かってんのかよ」
「──っ、うるさい!!」
「ちょ、ちょっと、落ちついて」
僕は、人間が人間を殺すことには慣れていた。その光景が自らを介して作り出されることにも慣れていた。が、今にも人間を殺そうとする人間が、止めに入った人間と戦闘を始めた経験はなく、しかも巻き込まれる場面など経験ゼロであるから、流石に焦った。
「邪魔を、するなッ!!」
虎杖が右腕に呪力を纏わせ、地面を蹴った。空中で海月のかさを踏み抜き、勢いよく跳ねる。
虎杖の目が鋭く光る。
その瞳の中に、僕の姿も映り込んでいた。
僕は右に飛んだ。
直後、砕かれた舞台の瓦礫が左肩を掠った。痛みを感じている余裕はない。僕は勢いよく舞台袖に転がり、その間に拳が、床を刳るようにしながら迫り来た。
起き上がると同時に、少年が僕の前に滑り込む。そこからは僕の頭の中は逃げに徹することを決めた。身体がひたすら安全地帯を求める。腰を落とし、呼吸を整える。死にたくない。
少年が式神を纏い、攻撃を繰り返す。
虎杖が防御に回り、後方に飛び退いていく。
二人の呪力だけがその場で弾ける。
式神が振るった触腕を、虎杖が脇で挟む。引っ張り上げてくるため、少年も式神を反転させ、触腕を引き抜く。
足元に転がった男子生徒を無視し、少年が指を上へ向け、式神を揺蕩わせる。虎杖は跳ねるように後退し、突き上げられた触腕の軌道から外れた。
僕は目を凝らす。
退路は既にできていた。そこから広がる外の暗がりが、入口の床にぼんやりと影を落としている。
虎杖が視界に僕を捉える。少年の呼吸は僅かに上がっているが、僕は、虎杖の動きが全く鈍くなっていないことに落胆する。
攻守交替の合図があったかのように、虎杖が僕の前に出て、攻撃してくる。僕は後ろに倒れ込み、避ける。
「オマエ、順平と、何してた!」
うん、とも、すん、とも言う余裕がない。幸い少年が近くに駆け寄ってくれたから、即座に背後に逃げ込む。虎杖が一発でも僕に当てたら、確実に決着はつくだろう。
「だから関係ないって、言ってるだろ!!」
虎杖が攻撃を仕掛け、少年が後退しながら、それを捌く。体育館を縦横無尽に、鬼ごっこでもやるかのように、あちこちへ往来した。
「もう一度だけ言ってやる、引っ込んでろよ呪術師!!」
「それは、オマエが!! 決めることじゃねえ!!」
「ちょ、話、きいて────うわっ!」
僕は自分の肩に、瓦礫がぶつかったことには気付いていたが、床に散らばったその瓦礫で、足が縺れることまでは想像していなかった。
身体が斜めにひっくり返る。床に手を着く。
刹那、目敏く虎杖が地面を蹴り、腰を捻って、右腕を振り上げる。
反射的に目を瞠った。
次の瞬間には、頭部を強く殴打され、そこで死ぬ、少年を案じる間もなく、この場にいる誰かを身代わりに、再び蘇るのかもしれない。
いつ来るんだ、今か、今か? それとも今?
しかしいつまで経っても、「今」はやって来ない。
恐る恐る、固く閉ざしていた瞼を持ち上げる。
「────動くなよ、順平」
拳が目の前にある。振り下ろされる直前、それは止まっていた。
両目で顔の上にある手を確認したものだから、虎杖から見れば、僕は相当間抜けな顔をしているだろう。
「オマエが振り下ろす前に、僕が澱月で、オマエを刺すかもしれない」
「やるなら、やれよ」
「やらないで」死にたくない僕は口を挟む。
「……挽歌くん……、……分かってる」
本当に?
少年が腰を落としたまま、虎杖と、その下にいる僕を見下ろして、静止した。式神の触腕は半ばまで持ち上がっていた。
二人の呼吸音が相槌を打つように、繰り返される。
最初に口を開いたのは、虎杖だった。
「何でここにいんだよ」
「付き添い」
「誰の」
「そこの」少年、と言いかけて、僕はまだ一度も彼に向かって名前で呼んだことがないことに、気付く。「彼」
「……付き添いぃ?」
「あ、何その言い方」
「嘘くさいんだよなあ。生徒が倒れてんのは」
「僕じゃない」
即答したのは、未だに、鼻先に虎杖の拳が迫っているからで、少年を売ろうとする意図はない。
「死なないらしいよ、多分」僕は言う。
「多分ってなんだよ」
「もっと言えば、僕がこの場にいない方が、生きて助かる確率は、高い」
「! オマエ、」拳が揺れた。
「おい、下ろさないでよ、それ!」僕も声を揺らす。
少年が地面を踏み締める。今にも襲い掛かりそうな臨戦態勢で、虎杖を睨んでいた。頼む、動かないでくれ、と視線で訴える。少年はじっと僕と目を合わせた後に、こくりと頷く。伝わったのだろうか。
しばらくして、細くゆっくり息を吐いた虎杖が言う。
「オマエさ、前に、少年院にいたよな」
最初にも放った言葉だが、言葉に含まれる重みのようなものが別物だった。本題に入ったのだと察せるほど、声音は低く、落ち着いている。
この時、直感でしかないが、僕は虎杖から敵意が
「いたよ、それは覚えてる」僕は言った。「それだけ? だったら、どいて欲しい」
「オマエ、宿儺に殺されてたよな」
「…………殺されたのはキミもだよ」
目の前の拳が、ぎゅっと握り込まれる。
「……俺が死んだ時さ、誰かが滅茶苦茶悔やんでたのが、わかったんだよ。最期意識が溶けていくみたいで、『ああ、俺死ぬんだな』って思ったんだけど」
「自慢? 悔やんでくれる仲間がいたんだ」
「それは……まあそうだけど。でもそうじゃない」虎杖は言う。「心臓のところに、残りカスくらいの、『
へえ、そうなんだ。
僕が死ぬと、「本当に、挽歌ってすぐ死ぬよね」と真人は普段の調子で言ったが、それは、もう少し労わってくれてもいいんじゃないか?
──もし今から僕が虎杖に殺されるとしたら、少年はどう思うだろうか。
残される側の立場を、僕は考えたことがない。
虎杖は、じっと僕の様子を観察する。そこで僕は大人しく、両手を上げることにした。敵対意志がないことを強調する。浅く息を吐いた。最早、殺さないでくれればなんでも良い。
「多分、オマエだよな、悔やんだの」と言ったのは、間違いなく目の前の呪術師だった。
「っ、え、」
否定すべきだと分かっているにも拘らず、僕の唇は震えるばかりだ。
「なあ、オマエ、本当は────」
僕の呪霊としての邪悪な側面が、警鐘を鳴らした。
一秒一秒が引き伸ばされ、全てコマ送りに見えた。虎杖の口が薄く開きかけた、その時、大きな衝撃が地面に伝わる。
瞬時に処理速度が戻る。はっとした虎杖が顔を上げた隙に、僕は闇雲に四肢を動かし、脱出を試みる。地面を突き、身体を跳ね起こして、衝撃を起こした張本人、少年の元へ駆け寄った。少年と顔を見合わせる。
これで良かったんでしょ、とでも言いだけな表情だ。
やっぱりさっきの、伝わってなかったんじゃないか。
「順平、……そうだよな、まずはオマエと話つけねえと」
虎杖が腰を落とす。両腕に呪力を鎧のように編み上げ、纏った。
「話すことなんか、何も無い」
少年は冷めた表情で、式神に身体全体を包ませた。
二人が同時に、地面を蹴って前へ出る。
そして次の瞬間、
アレェ評価のポイント増えてる!?
ありがたや……ありがとうございます……。スクショパシャパシャ定期。遅くなりましたが、ひとこと付き評価という存在を今朝方初めて知りました。本当に本当に嬉しいです。感謝してもしきれません。
評価、感想、お気に入り、しおり等、いつもながら、この場を借りてお礼申し上げます。大変励みになります。リアルの都合で更新ペースは落ち気味ですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
今話、というかDAY4がとてつもなく長くなってしまったため、分割しても長いままです。推敲する度なぜか分量が増えました。
残り二話くらいでこの章は終わらせたい所存。
あと順平は死にます。