呪霊の半旬編を何となくサブタイトル総変更しました。内容に変わりはありません。
今更ですが、真人が幼魚と逆罰に入る前、どこで何をしていたかについては、小説版呪術廻戦『逝く夏と還る秋』を参考にしています。読んだことなかったら読んでみてね(ダイマ)
真人
三日前に映画館へ行ったことがはじまりだった。
「二時間も暗闇にいるのかぁ」と愚痴垂れた挽歌は、そう言いつつも着いてくるくせに、という真人の冷やかしをよそに、「そういえば」と言った。
「いつもの外出はいいの?」
「ああ。だってもう行く意味ないしね」
真人は今朝まで、苔生した伽藍堂のようなトンネルに足を運んでいた。
代謝しない魂を持った物言わぬ老人、それが真人が入り浸った理由で、全く見たことのない類の人間だったから、足取り軽く通うくらいには贔屓にしていた。
「この世界の人間が、全てアンタみたいだったら、俺は生まれていなかっただろうね」
らしくもなく、真人は、そう呟いたことがある。
その男からどんな呪いが発生するのかを確かめるのも良いが、それよりも、彼と話して知識を蓄え、思考に耽るのも、また興が乗った。
いつかは隣の馬鹿な仲間も連れて行ってやろう、老人は何と言うのだろうか、と思いもした。
だから、その男に最後まで携わったことで、酷くむしゃくしゃするような気分を味わうとは、微塵も考えていなかったのだ。
「──別に、大したことじゃなかったんだよ」
「へえ」挽歌は疑うような間を開けたが、やがて、「じゃあ、最近何してたの?」と言った。
真人は、呪いと人間が共生していた穏やかな空間を追想する。空風が胸に吹き込んだところで、ぷちり、とチャンネルを変えた。余計なものが剥がれ落ちる。
「本を読んでたよ、幻想文学に経典、あとは──」
「わざわざ外でねえ」挽歌は呆れるように語尾を伸ばした。が、声は細く、起伏がない。「タノシソウダナー」
真人はこの反応を求めていたと言っても過言ではなかった。
「楽しかったよ、思ってたよりも」
挽歌は何事にも興味を持たないし、執着しない。
時折不快感を示すようなことはあるが、いや、結構目撃したことはある気もするが、反対の、楽しげに笑う姿なんかは、真人でもろくに想像できない。
強いていえば、陀艮の領域の、海辺にぼうっと突っ立っている時は、比較的穏やかな表情をしている程度だ。
挽歌の性質と真人の性質は、呪霊の中では、という広い枠組みの中で見れば、隣り合わせだった。
人間たちがどう足掻いても消せない負の感情。
祓っても再発することが確約されている存在。
根本から呪霊が生まれない世界を作らなければ、いつまでも、絶対に生まれ続ける。
汝の隣人を愛せよ、とは言うが、真人たちはその逆だ。隣人を恨むからこそ自分に恨みが返ってくる。
「映画館、遠いなあ」
「まだ全然歩いてないよ」
「へえ」
「聞いてる?」
真人は、恐らくはまだ挽歌自身も知らないことを、知っていた。
これは初めて街中で、ビルを見上げる挽歌を見つけた際に触れた、その時に理解した。
もしかすると、魂に触れられる術式を持つ真人しか、この世で知る存在はいないかもしれない。
「? なに。そんなこっち見て」
挽歌が眉間に皺を寄せた。真人は口角を上げる。
「いや」
挽歌の、何事にも興味を示さないという性質は、あの類の呪霊が
ゆえに、この仲間の口から発せられる「知らない」「わからない」「どうでもいい」は、「至って健康です」「大事ありません」「問題ないです」と同義でもある。
それが吐き続けられる限り、挽歌は絶対に
少し間があってから、「まあ、どうでもいいんだけど」と挽歌が言った。疲弊した、無気力さに満ちた声だった。
「──あ。あれかな、キネマシネマ、だって」
「そこだよ、映画館」古い建物を指さす。
先導する真人は、この、自分から振った話題にすら興味を示さない呪霊が、たかが平凡な人間相手に、膝を折って、地べたにへたり込み、顔色を変える光景を見ることになるとは、想定していなかった。
◆
そして今、真人は、余波で吹き飛ばされて来た挽歌を見下ろして、「
「驚いた、呪術師が来てたよ」
挽歌が立ち上がって、衣服についた砂を叩く。
真人は思考しながら、言葉を選ぶ。
「そう。それ、誰だった?」
「……虎杖悠仁。一人で来てたよ、すごく焦ってる感じがした」
予想通り事態が動いている。ここまでは順調だ。
「それで、今は順平が相手をしてるのか。普通に戦えれば善戦できるかな、特訓してあげたし。───まあ、多分負けるだろうけど」
「え、でも、そんな」
「順平はさ」真人はそこで一瞬、どこまで言葉にするかを悩んだ。「達観して冷徹を気取ってるけど」と言うが、特別愛着があったわけでもないから、いい言葉が思い浮かばない。
あれは虎杖悠仁に両面宿儺優位の縛りを作らせるための、装置に過ぎない。仲間でもなければ、好意的でもない。
「考えすぎな割に、単純な話、理解者に弱いんだよ。信頼とか、人の縁とか、友情とか」と曖昧な言い方をした。
数日前、地下水路で語った吉野の言葉を思い出す。
「『無関心』こそ人間の行き着くべき美徳です」
「そんな君が復讐、ね」
「矛盾してるって言いたいんですか」
生き様に一貫性は必要ない。人生の目的と行動が一致していなくたって構わない。無関心という理想に囚われることこそ、ナンセンスだ。
その時の吉野は、重くのしかかった石が外されたような顔をしていた。真人に心酔した視線を送る姿に、笑いを堪えるのは一苦労だった。
挽歌の顔が強張った。
不安の影が顔全体にかかっている。漠然とした緊張に苛まれているのが見えるようで、真人は目を瞠る。
「それなら、早く」
挽歌が校舎の方向に顔を向けた。
「早く、何?」真人は訊ねる。
突然、そんな問いをぶつけられ、挽歌はきょとんとした。
「手助けに行かないと。そうじゃないの?」
既に挽歌の頭の中で、吉野が虎杖に押され始めているのが分かる。その物言いは、なかなか動かない真人に痺れを切らしているようでもなく、ただ、どうして動かないのか心底不思議そうな様子だった。
真人はそこで息を噴き出した。
「挽歌が手助けって、何するのさ」
「まあ、それはそうだけど。でも真人は?」
「俺はいいよ」
「負けちゃうんでしょ、多分」
「ああ」
挽歌は目をしばたたいている。
思えば今朝も、やけに早い時間に挽歌が、「そろそろ行ってくるよ」と吉野の家に向かうようなことを喋っていた。
その際、花御が心配そうに見送り、それを見た陀艮も、似た表情を浮かべたのを、漏瑚が得も言われぬ顔で眺めていた。
そして今、真人は信じられないものを、見た。
挽歌が、今朝の花御や陀艮と、同じ表情をした。
今までは、自己保存以外に興味を持つ素振りすらも見せなかったにも拘らず、吉野の戦況を懸念する顔は、挽歌がするには不自然だった。
いや、もしかすると戦況ではなく、吉野がこちら側からいなくなることを、懸念していたのかもしれない。
流石に泡を食い、真人は細かく瞬きをして、「なに、どうしたの」と一歩踏み出す。
すると挽歌が地響きに揺らついて、たたらを踏んだ。
それが、挽歌の魂の根幹が揺れ動いている様子を表すように見えてから、真人は、自分が急速に冷静になるのを感じる。
「虎杖悠仁と順平がぶつかるのは、予想通りだ」と、気付けば口にしていた。
挽歌がすぐさま反応する。「え」
「宿儺を仲間に引き入れたい、って話はしただろ。虎杖は自分の命を顧みないから、それを利用しようって。でも、人質を使った外的な"縛り"を結ばせるのは夏油に止められてる。じゃあ、どうしたらいいか」
「いや、まず予想通りってところから教えてよ、知らないよ。どうしたらいいの」
「殺したいほど憎い相手を殺せない時、宿儺に頼るしかない」
「……はあ。つまり、虎杖に恨まれたいわけだ」
「簡単に言えばね。宿儺との交渉を促せるなら、それで良い。それで挽歌にも、やることがある」
「……宿儺が簡単にこっちに来るとは、思えないんだけど。それで?」
挽歌が、何の違和感も持たずに、耳を傾けている。
何も言わずに手を持ち上げた真人を確認すると、視線をその手と顔とを行来させる。
*
まさか、少年が僕の目の前で、あそこまで大きな呪力を衝突させるとは思うまい。
視界が爆ぜて、次に身体に浮遊感があり、自分がどうなっているのか、すぐには判断がつかなかった。やがて地面に不格好な形で着地し、勢いを殺すように回転すると、丁度目の前に真人が立っていたわけだ。
「何かあったら教えに来てくれるくらいすれば、いいよ」
虎杖が来た瞬間、僕は昨日の真人の言葉を思い出した。
これは、まさにその、「何かあったら」ではないか。
不幸中の幸い、という言葉が浮かぶ。それも不幸には違いないが、「山」とは言えずとも丘くらいの幸せはあるだろうか、と僕は考える。
しかし、真人との会話には、節々に違和感があった。
たとえば、虎杖が来ることは承知の上だっただとか、少年が虎杖に負けるだとか、とにかく僕の認識と噛み合わない。特に、真人は少年が負けても構わないと思っている点は、困惑を抱くと同時に、畏怖もあった。
「僕にも、同じことができますか?」
数日前、少年がこの世界に踏み出してしまった言葉を、思い出していた。
改めて考えれば、少年はあまりに不運だ。呪霊に会い、母親を失い、それなりに実力はつけられたものの、悪者に踊らされる、道化のようだ。上がる予定もなかったステージの仕事に心酔、という様子だ。
少年も「谷」の次の「谷」を味わっている最中か、と僕は考え、そして、彼は僕らの側じゃない方が幸せなんじゃないか、と過ぎった。人生は山あり谷あり。なら、「谷」の次は、「山」でなければならない。それと同じだ。
どういうわけか、途端に息苦しくなり、無意識に眉間に皺が寄る。
その不調を後押しするように、立て続けに地面が揺れた。なんだなんだ、とその場で足を動かす。
するとそこで不意に、「虎杖悠仁と順平がぶつかるのは、予想通りだ」真人が平坦な声で呟いた。
「え」
僕は、単なる揺れで体勢を崩したことを認めたくないあまり、真人の観察に意識を注いでいた。「いつもより、苛立っているな」と。
自慢するように、淡々と作戦を語る真人は、僕を馬鹿にするようではなく、冷静さを保とうとするようでもあった。
「はあ。つまり、虎杖に恨まれたいわけだ」
つまりも何も、唐突に話し始めた真人に対する不信感の方が、僕の頭を占めている。
その通り。と真人が口を動かし続けることもあり、遮らない方がいいな、少年はどうなっているだろうか、と僕は思考をそちらに向ける。
「簡単に言えばね。宿儺との交渉を促せるなら、それで良い」と真人は一歩近付くと、僕にやや強く言った。「それで挽歌にも、
「お願いしたいこと」でも、「手伝って欲しいこと」でもなく、「やること」という強制的な表現であることに少々引っ掛かりを覚えたが、僕は聞き流す。
「宿儺が簡単にこっちに来るとは、思えないんだけど。それで?」
喋り続けて漸く、いつも通りの真人に戻っている。僕は最早自分が安堵していること自体にも、安堵していた。
先程の真人の捲し立てるような口調や態度は、特別に不安を煽るものではなかったが、その苛立ちを隠すような雰囲気が、直感的に、としか言いようがない漠然とした疑懼の念を抱かせた。
真人は校舎に身体を向けたまま、顔だけをこちらに振り向けた。頬はほっそりとして、ツギハギが目立つ彼はゆっくり微笑む。
訊きたいんだ、それはね、とこちらを笑う表情は自然だ。
「あ、やっぱり、別に聞かなくていいかも」
僕は言って、真人から顔を逸らした。そして、体育館へと再び、戻っていく素振りを漂わせる。
体内に住む虫が神経を刺激し、これは嫌な予感がするぞ、と知らせていた。僕は今、虫の知らせという言葉を、身をもって体感している。
視界の隅で真人を僅かに捉える。
何かする気だろうか、と思ったところ、背中より後ろから、ふわりと風が吹いた。
足音もなく、すっと真人が近づいてきていた。
僕は身体を反転させる。
すぐそこに、真人が立っていた。
飛び退くために足に力を入れるが、そこで胸に痛みが走った。え、と思い、血の気が引き、慌てて視線を胸元に向ければ真人の手が触れていた。目を疑う。背筋に冷たいものが走った。
ただの接触ではあるまい、と僕にも理解できた。先日の行動と同じだ。
術式を使われたのだと気付くのに、時間はかからなかった。
一度目で壊れかけていた錠前が、二度目の、今をもって地面に落ちて粉々になった。
厳重に鍵をしていた折の鎖を外され、解き放たれた怪物が暴れ回る。すぐさま、神経の一つずつに針を通されるような痛みに襲われる。内側を鋭い爪痕で切り裂かれ、肉がぐちゃぐちゃになり、作り替えられる光景が、想像できた。こいつ、やりやがったな。
目の前がぼやける。
「君には行くべきところがある。そうだろ?」真人は静かな声で、言い聞かせてくる。「
その声が聞こえた時には、僕は何も見えなくなっていた。腕と膝の外側に固さを覚える。蹲っているのか。
どくどくと頭の中に大きな音が響く。そして、宇宙の中に放り投げられたかのように身体が、遠近感のない、浮遊感に包まれる。床があるのかないのか。
一瞬のことではあるが、様々なことが同時に頭に浮かぶ。正確に言えば、単語や呟きの電撃に過ぎないものだ。
「まずい」「術式」「死」「一回目より二回目か」「縛りが外された」と思ったあとで、「そういえば」と宙に浮かび上がりそうになった。
意識が黒く塗り潰される。
少しして、足が動く感覚がある。歩いているのだろうか。
どこに向かっているのか分からなかった。術式の縛りを外されてから、時間がどれほど経ったのかも判断できない。
死ぬのとはまるで違う孤独感が、僕を怯ませた。
死にたくない、誰か助けて、とどこかで声がする。
僕は自らの意識が今にも散り散りになり、そのまま消えてしまう、そういった恐怖の中、どこかに縋りつこうとしていた。声の方へ行きたい、と思った。待ってて、今行くから、と。肉体を指示する機能は働いていないが、その通りに進んでいる気がした。
どんどん底へ落ちていく。帰れなくなりそうで、恐ろしい。
そうだ、その前に、確認しなくてはならない、と思った。
取り残されていた僅かな感情が、蜘蛛の糸のように、垂らされた。
無事だよね。
僕は向こうに行くから手助けできない。見ていて、と言われたけれど、あっちは真人が何とかしてくれるはずだ。
壁に隔たれた遠くで、真人の声が、映画館の座席とスクリーンの関係のように、別次元から聞こえてくる。
順平で足りるとは思うけど、一応ね。
楽しみだな、愚かなガキが死ぬの。
足りるって何? と訊ねたいが、足は勝手に真人と反対方向へ動く。
「順平は、俺が、虎杖の目の前で殺すよ。それで恨みを買うんだ。宿儺と縛りを結ばせるのに、これが一番効率が良い。挽歌も、こうなるって分かってたんだろ?」
殺す、という言葉が、僕を震え上がらせた。
そんなこと知らない、と言おうとするが、口が動かない。本当は心当たりがあるのかもしれない。血の気が引く。
「だから挽歌は、術式をちゃんと使えるようにしてきなよ。ほら」
真人の、普段の調子を取り戻した口調が、どこからか僕の背中を押す。
順平を、と言おうとするが言葉が紡げない。意識が零れ落ちていくのが、怖くて堪らなかった。
「ああ、そうだ。仮に呪術師が来ても、殺しちゃっていいからね」
最早、それを言ってくる相手が誰なのかも、僕は判断できない。
よく分からないけど、あの子の手助けをしてあげてよ、今度一緒に映画を見に行くんだ、とそれだけを念じる。
「……映画、ね。危ない危ない。じゃあ、またあとで」
軽快な声が最後に聞こえた。急速に自分が沈んでいく。何かを叫びかけるが、それは声にならない。
「────うん、またあとでね」
吉野
「ああ、まあでも。ちょっと嬉しいかも」
話が一段落ついたところで、初対面の印象の話となり、最初は人間と思えず、事実、人間ではなかったけれど怖くはないのだと吐露した後、吉野の少し変わった友人はそう言った。
一昨日だ。
挽歌は変わっている。彼は真人と同じく呪霊だ。真人よりも挽歌の方が長生きしているらしいが、精神年齢としては真人が上、と逆転関係にあった。
「嬉しい?」
吉野は首を曲げた。ぼんやりとしていて、感情の読めない彼の、あどけない、女性的にも見える不思議な風貌は、異様に親しみやすい。
「僕は『死』を忌避する感情の呪霊だし、敬遠される類でしょ。だから怖がられないのが、少し嬉しい」
「そうなんだ」吉野は自分が誇らしく思えると同時に、彼の素朴な喜びに温かさを覚えた。「やっぱり、怖くない」
思い出にノイズが走った。
「────順平、心当たりがあるんだろう」
柔らかい記憶を、真人の声が遮る。
母親が死んだ時、真人が放った言葉が頭にこびり付いて消えない。額に残った火傷跡に似ていた。触るとざらりとした感覚で、その部分に当時の光景が記録されており、明瞭に思い出せる。
そういえば、あの時の、挽歌の、幼い子供がクローゼットの中の暗闇に怯えるかのような表情は、一体何だったのだろうか。
少し前まで吉野は挽歌と、その、心当たりに会いに行っていた。制裁と表現しても誤りではない。
真人に鍛えられた術式と式神を、自分の手足のように自在に操りながら甚振った瞬間は、この世の何にも変え難い、悪辣な爽快感があった。
母さんが死んだのはオマエのせいだ。
この世のありとあらゆる恥辱を味あわせてやりたい。それでも物足りないんだ、と憎しみで視界が赤くなり、頭が熱くなっていた。
「殺したいの?」
とん、と肩に優しく触れて、心配そうにこちらを見る表情に、亡き母の面影を見た。
頭に、次から次へと言葉が流れた。
ネギが似合わない女って何なんだよ。煙草もやめろって言ってただろ。すぐ酔って人に絡むなよ。
それらの不満を切り取って、自分の腕で抱き締めれば、母さんは蘇るのではないか、と思いたくなる。
外見も中身も表情も全部違うのに、そう感じたのは、きっと彼が、心の底から吉野を案じているのが伝わったからだろう。
「本当に殺したいなら、キミじゃなくて僕が……っ」
提案の最中に何故か急に口を噤んだのを、好機だと感じた。
実をいえば、思わず、吉野は頷きかけていたのだ。
お願いしてもいいかな、と。
「僕がやる。別にいいよ」
そう続く言葉が簡単に予想できてしまい、任せてはいけない、と逆に冷静になれた。
もちろん頷きかけた時は、吉野は何の躊躇もなかったから、気軽に承諾し、結果を心待ちにし、男本人や観客の教師にも、「今から死ぬんだ、見ておけよ」と説明したくなった。
挽歌は「死」を畏れる感情から生まれた呪霊だったから、間違いなく、この男を殺してくれる。
自分で選択できないことや、迷った時、挽歌はよく言った。別にいいよ。ここ数日の真人と挽歌の会話でそれを何度も聞いた。
目の前で表情を強張らせた挽歌を見て、今朝の、彼が初めて見せた笑顔を思い出す。
別に良い。わけがないだろ。
挽歌は戦いが嫌いで、自分の術式に詳しくなくて、たった一枚の前売り券で、無邪気に破顔するような変わった友人なのだ、と一本の矢に貫かれる。
▽
「順平、高専に来いよ」と虎杖は言いながら、吉野の肩を掴む。「皆で協力すれば、順平の母ちゃんを呪った奴も、きっと見つかる。必ず報いを受けさせてやる」
「……高専に、」
「一緒に戦おう」
視界が歪み始める。水滴が膜となって眼球を覆う。「順平」と虎杖が説得するように言ってきた。
堪えきれなくなり、涙が溢れる。
吉野は、自分はもう随分と呪術師とは程遠い場所に来てしまった、という自負があった。「終わったら、キミも呪詛師なのかな」挽歌の声が、頭で再放送される。
もう普通の生活は来ない、そう思っていたが、期待と可能性が、奇跡的に巡ってきてしまう。
思い残すことがないなんて、それは嘘だ。見栄だ。欺瞞でしかない。
マザー・テレサの言葉が過ぎる。こういうことだったんじゃないか、と自分勝手に解釈する。
「『過ちを犯すなら』」自然と呟いていた。虎杖が目の前で小首を傾げる。「『愛が原因で間違った方が、素敵だ』」
暖かさに包まれる、ような気がした。
たとえば、罪を犯した悪人が懺悔をし、悔い改めることで神に許しを乞う奴は何人もいるだろうし、それと似たように、これから贖えば元に戻れるのではないか。そう思いたかった。
話したいことを頭の中でノートにまとめ、閉じる。呑み込んで文字を口に出す。なかなか上手く話せず苦労するが、それでも、どうにか声に出すと、虎杖が強く頷いた。
意志を固めた、その瞬間、挽歌の顔が過ぎる。置いて行けない。どうにか説明して、二人で頑張る旨に納得してもらえれば、挽歌も連れて行けるかもしれない。それから、高専の皆と一緒に切磋琢磨する。
よし、と吉野は身体を起こし、立った。
「やあ」背後に真人の姿があった。
何が起きたのかすぐには分からなかった。それは確かに世話になった顔ではあった。
「やあ、順平」とまるで、世間話を始めるかのように言われた。
虎杖が、吉野の正面から背後、真人との間に立ち塞がるように移動する。
頭に浮かんだ疑問符を解きほぐすために、「真人さん」と口にしていた。
まず視線が吉野から、虎杖に向く。「はじめましてだね、宿儺の器」
すると壁に、虎杖が叩き付けられたのが分かった。
一歩間違えれば、真人から伸びた腕と、それに殴られた虎杖ごと吉野にぶつかっていた。
すぐに吉野は顔を上げる。
真人が腕を長く伸ばしたまま、着実に近付いてくる。一歩ずつ、ゆっくりと。磔になった虎杖が、今にもそれを蹴り破るかのような獰猛さで、暴れている。
今はどういう状況なんだ?
誰か一から説明してくれ。頭の中で疑問符が乱立していた。
虎杖が、「逃げろ順平!!」と喉が張り裂けそうな声で叫んだのは、吉野にとっては驚くべきことだった。
真人は虎杖を押さえつけてはいるものの、ごく普通の待ち合わせに応じるように、吉野の隣で立ち止まった。
何かがおかしい、と流石に分かった。
「コイツとどんな関係かは知らん!!」虎杖は早口で言い、「けど今は逃げてくれ!! 頼む!!」と似合わない懇願口調に変える。
「っ、虎杖君、落ち着いて!」
吉野は様々な思いを同時に抱いた。
一つは、単純な困惑だ。真人に、異常なまでの反応を示す虎杖が、確固たる理由で憤っているのだとすれば、それにはやはり戸惑わずにはいられない。
「真人さんは悪い人じゃ────」
もう一つは、真人は、本当に悪い人ではないのだろうか、という疑問だ。
「────悪い、人……」
肩に手を置かれる。「順平はさ、まあ頭良いんだろうね」
真人は、こんなにも愉快なことはない、と的確に吉野が聞きたくなかった言葉を述べる。
その一つひとつが鋭利な槍となって、余すところなく身体を穿つ。憧れていた人物像が、音を立てて瓦礫となっていく。
「順平はさ、君が馬鹿にしている人間の、その次くらいには馬鹿だから」
つづけざまに目を逸らしていた筈の記憶が、頭の中に溢れ出した。鍵をかけていた扉を押しのけ、氾濫した川のように、一斉に流れ込む。
地下水路で見た紫色の物体、変わり果てた人の姿や、母親の死体、怨嗟の思い、当時の記憶が次から次へと現れた。
彼は、どんな表情をしていた?
吉野は、そこで漸く、気付けた。虎杖が何かを叫んでいる。目を見開き、悲痛な面持ちで必死だ。全てがスローモーションで動いているように見えた。映画でよく見る演出だ。
「だから、死ぬんだよ」
吉野は立ち尽くした体勢を翻し、真人に向き直ろうとする。足を動かすが、その直後、頭が熱を帯びるのを感じていた。
「え?」
拍子抜けしたように身体の力を抜き、口を開いた。あれ、と思うが、その違和感の正体が分からない。
口を閉じようとしたが、そこで、ぐにっと骨格が歪んだきり、今度は口が閉じられない。
息苦しくて、頭を抱えようとする。腕が動かない。どういうことだ、と思った時には、膨らみきった風船が弾けるように、視界が、割れた。
ん
で
「あ、ちょっと、なにそんなとこで寝てんのよ」
声がするが、それは明らかに、真人の口から出たものではなかった。
顔を向けると吉野の視線の先に、母の姿があった。
よく笑うから目尻に皺が残り、気にしていた顔のままで、すらりとした足が地面を踏んでいる。
「っ、母さんこそ。どこ行ってたんだよ」
吉野は胸の痛みに、歯を食い縛る。
「ここに居たわよ」
「だいたいさ、好きに生きなさいって、言っておきながら、置いていくってどうなの」
吉野は駆け寄り、声を掛けるが、そこで自分の声が笑えるくらい震えているのに気付き、余計に震える。
「あはは」
「笑い事じゃないってば!」吉野は半ば笑いながら、母と歩き出した。「ほら、煙草もやめてって」
「厳しー!」
母の輪郭はどこか薄ぼんやりとし、暗闇に滲んでいる。
そういえば忘れていた、と歩きながら辺りを見渡す。ここはどこなのか。自分は何をしていたんだっけ。昨日の夢を覚えていないことは、そうおかしなことじゃないから、きっと、これもおかしなことではない。
「? ……なんだろう、これ」
吉野はポケットに入れた手を、そこに握られた紙を見つめながら、言った。長方形だ。何か忘れている気がした。
振り返ると、暗闇のさらに向こうに小さな炎があった。目を細めてレンズの倍率を合わせると、今度はそれが炎ではなく、光なのだと理解する。
必死に瞬いている様子は、船乗りを呼び戻そうとする灯台のようにも思えるし、旅人の道を照らす星のようにも思える。どちらかといえば、星だろうか。
「どうしたの?」と横で母が微笑む。「いいのよ」
「いいのよって、何が」
「忘れ物取りに行っても。先行ってるし」
「いや、そこは待っててよ」
再度振り返った。瞬きが小さくなっている。もう少し見たかったな、と惜しい気もするが、なぜか、急に心苦しくなる。
その幽かな星に向けて、一言だけ呟き、吉野は母と歩き出した。
**
薄く目を開く。
頭はまだ少し、ぼうっとしていた。数回瞬きをする。
僕は床に倒れていた。頬に、冷たい地面の温度が伝わり、反射的に身震いをする。
曇りガラスを介しているかのように、輪郭が曖昧模糊とした光景を眺めながら、胸に触れる。痛みはなかったが、天井と底がなくなり、絶妙な力加減で辛うじて浮かんでいる心地がした。
一体、何をしていたんだっけ。
腕に力を入れて、上体を持ち上げる。火花が弾けた。同時に、自分の頭が前方へ、がくんと垂れる。
頭痛だ。
頭蓋が割れたのかと勘違いするほどの痛みだ、と遅れて分かった。何故倒れていたのか、どうしてこんなに呪力が足りていないのか、まるで思い出せなかった。
肩を上下させながら、あらん限りの力で、再度上体を起こす。息を切らして、なんとか地面に両手を着く。
そこで自分の手に、小さな塊が当たる感覚がある。
指で触れると、丸い物体がからんと転がった。
手で払い除けるように動かすと、その、動かした指にもまた別の丸い物体が、ぶつかる。
一つどころじゃない。
全身の細胞が、一斉に覚醒した。どくんと大きく鼓動し、身体を巡る血液が加速する。
顔を傾ける。
一時的に、視界が晴れ渡れば、そこで、信じられないものを、見た。
たくさんの生徒が辺り一面に倒れている、その持ち主から離れた飴玉が、僕の目の前で積もり、山となっていたのだ。
床に四肢が放り出され、目を閉じているにも拘らず、寝息のひとつも聞こえない空間は、生きた人間が居るとはとても考えられなかった。
「!? ひぃ、な、なんでっ、……ぁぐッ」
ハッとして立ち上がろうとするも、内側から頭を砕かれるような痛みに襲われ、身体が崩れ落ちるが、その一連の動きにすらも苛烈な痛みが伴い、正気を失いそうだった。
「…………あ、……あ゛、あアア、あぁ……ぁ」
妙にふわふわとした心地と、目の前の山を見て、激痛に襲われながらも、術式の縛りが外されたのだと、漸く思い出す。
殺したのか? 僕が? 全員?
どんな
それが誰かの仕業だと分かれば、正義の鉄槌を下さんとばかりに激昂するだろう。しかも、呪霊となれば、その鉄槌の大きさは、行為の代償はいかほどなのか。
彼らがこれから辿るはずだった人生を、僕が邪魔をし、あまつさえ全て奪ってしまったのだ。
その事実を想像するだけで、胸が張り裂け、指先から凍り始めるかのような恐怖を感じた。
一度目よりも二度目。アレルギー反応。一度あることは二度ある。「流石に三度目はないよな」思考が散らばり、まともに考えられない。
視界が揺れる。地面が揺れているのかと思えば、そうではなく、自分が異常なほど震えていた。
目の前の山がおぞましい生き物に見え、鳥肌が立つ。その山が僕の手によって作られたものだと分かると、絶句し、言葉に窮する。落ち着け。息を吸え。
「────でも、綺麗だね」
あ、と声に出す。嵐が吹き荒れる中、雲の切れ間から一縷の光が注いだ。あの子は、少年は、これを綺麗だと言った筈だ。
彼はどこにいる。頭を必死に回転させる。
「…………残穢は、こっち」
視線が校舎に向かう。
壊れた壁には、先ほどまで虎杖と少年が戦っていた痕跡が残っている。ぶつけられた呪力は時間経過により、形を変え、液体のようにじりじりと滲んでいた。
行かなきゃ、はやく。
誰の返事もない。僕の声だけが地面に落ちた。せめて連れて行こう、と飴玉を拾い上げる。
【お礼】
ありがたいことに、前話が総合ランキングに暫しの間お邪魔していました。
「好きそうな話探すンゴ^^」とランキングを覗いていたら拙作の文字が見えた時の衝撃やばい。
沢山の評価、お気に入り、しおり、感想等、本当にありがとうございます。ランキングから拙作をご覧になって頂けた方もいらっしゃると思います。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
あと最近になってここすき機能の存在を認識しました。どんな文章に反応を頂けるのか全く想像がつかなかったのでとても嬉しかったです(小並感)
一言評価で「主人公の容姿えちち(要約)」と一言下さったニキとはいい酒が飲めそうです。
たくさんの反応、重ねてお礼申し上げます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想をくださると執筆速度が上がります(懲りない乞食)