小説版 呪術廻戦『逝く夏と還る秋』より『守鬼幻視行』に触れます。若干改変しています。
普通に呪霊目線なので今更ですがネタバレ含みます。ご容赦ください。
・小説版未読の方へ
里桜の一件以降〜姉妹校交流戦以前、の時系列の話です。虎杖が単身で任務に就く話になります。
偶然出会った少年の話す、「鬼」という呪霊の祓除に臨む、が……って感じの話です。
前半主人公視点、後半別視点で進みます
呪霊から鬼へ
これほど大胆な呪霊を見るのは初めてのことだった。
僕は電柱越しに、一軒の家を眺めている。一戸建ての門前は、普遍的な街灯に照らされているのだが、その明かりも判然としないほどに禍々しい存在が立ち尽くしている。
動く気配はまるでなかった。
削ぎ落とされたような鼻が、顔の中心にある。本来の目のある位置には口が二つ付いているが、どういうわけか縫い合わされており、開くことはなさそうだ。筋組織が露出した身体は、脚や胴体、腕や拳といったパーツが不自然な比率をしていた。
骨とも筋肉とも見える突起物が、威嚇するように、側頭部から伸びている。
「すごいや」僕は無意識的に呟き、近寄った。「鬼みたいだ」
夜の六時過ぎではあるが、終わりかけの夏空は暗い。
裏梅と別れてから、ずっと遠くを目指し、宛もなく歩き続け、都市部から離れたベッドタウンに僕はいた。
紺色の屋根の家の前に立ち止まり、門柱の影に立つ、鬼に似た呪霊と向かい合っている。
『
顔をこちらに向けた鬼が、震えた音を発した。
「…………あれ、キミ」
不思議とその瞬間、僕は、目の前の鬼が、枯れ草じみた
恐怖を抱かせる外見とは似ても似つかない、真逆と言っても過言ではないほどの乖離性に、僕は驚いていた。
「こんな家の目の前に堂々といるなんて、大胆だね」
僕は自然と話しかけていた。家屋は明かりがついており、人の話し声が聞こえた。
『
「孫が心配で?」それは大変なんじゃないか、と僕は直感的に思った。だから、「それは大変でしょ」と実際に口にも出した。「だってキミ、立っているのがやっとじゃないか」
『
「分からないや。他人のために、死んだ後もそこまで身を削るなんて。……まず僕は死にたくないし」
数週間前、映画館で出会った少年のことを思い出す。
よき関係が築けそうだったにも拘らず、一歩踏み出す前に、彼がいなくなってしまった。思い出す度に、僕は胸に埋めようのない穴が空くようで、既に意識を切替えている。
少しだけ、目の前の呪霊の顛末を見届けたくなった。
*
数十分もすると、一人の少年が歩いていくる。小学生にしては背丈が高く、大人びた雰囲気からしても、中学生くらいだろうとは予想できた。方向的に、この家に帰宅する最中だろうか。
中学生が顔を上げる。
その瞬間、顔が、これは明らかに恐怖で歪む。
健康的に短く切り揃えられた癖毛が、大袈裟に揺れた。
「あ、見えてるみたい。驚いてるよ。正直、キミ怖いもの」僕は声を出さずにはいられない。そして、先程頭を過った、皺くちゃの老婆の姿が脳裏に蘇る。「
『─────ぁ』鬼が短い足を前に出す。『もぉぉぉおおいぃぃぃかああぁぁあい』
中学生は血相を変えたかと思うと一歩後退り、振り返ったかと思うと勢いよく逃げ出した。曲がり角を越えて、やがて見えなくなる。
そんなにあからさまだと普通の呪霊が襲い掛かってきた時に対応できないぞ、と忠告の一つもぶつけたくなったが、冷静に考えれば、普通の人間はそうそう呪霊と関わらない。
「あの子が、孫?」
『……
「あ、えっと、うん、仕方がないよ。声も大きかったし、多分そのうち、慣れる」と僕は自然を装い、弁護したが、言ってから、いや慣れるわけないだろ、と内心に指摘を入れた。
『
「そうなんだ」僕は相槌を打った。それはもしかすると、僕にも手伝え、という含みのある言葉なのか? と身構える。
言葉の裏に真意を込める言い回しは、人間がよくする行動だ。
十時を過ぎた頃、家屋の明かりが消えた。すると鬼の姿がすっと薄れ、まるで落ちた水滴が気付けば蒸発していたみたいに、瞬きの間に、視界から居なくなる。
一体どこにいった? 僕は慌てて、辺りを見渡す。
気配はあるのに姿が見えないものだから、突然置いていかれたように感じ、もどかしくてならない。
そこに、「よかった」と小さな安堵の声が、どこからか聞こえる。
思わず内心で、「何も良くないんだけど」と否定の声を発してしまったため、反応が遅れたが、よく見れば、声の主は先程の中学生で、鬼が家の前から消えたことに安堵したらしい。
念の為僕は、物陰から物陰へ移りながら、その場からそっと離れる。
そしてそのまま別の場所に逃げてしまおうか、と考えた。
角を曲がる前に、紺色の屋根の戸建てを振り返ったのは、鬼の気配が気になったからだ。壁越しに覗くと、玄関を開ける少年が目に入った。
音が鳴らないようにと気を配っているようだ。中の家族を起こさないようにしているのかもしれない。
家。家族。仲間。同僚。と単語が頭の中を行き交い、最終的には、真人たちの姿が脳裏に浮かんだ。
「挽歌」と呼ぶ声が聞こえてくるようだ。
嫌なことばかりで、馬鹿にされることも多々あったが、今まで生きてきた中では、比較的居心地が良かったことは否定できない。気付けば、無意識の内に拳を握りこんでいた。
僕は、自分がこれから終わりのない逃亡をすることを考え、空白感を覚える。
薄らと姿を取り戻し始める鬼の横に戻り、そっと腰かけ、理解しているか不明ではあるが、「僕も少し付き合うよ」と声をかけた。
**
忍耐力との闘い、時間との闘いだった。
鬼は紺色の屋根の家の前に立ち、帰宅する少年は怯えて逃走するままで、既に数日は経っている。つい先程、一日の始まりを告げた、と思えた朝の太陽が、今やかなり夜に近いところにあった。
一時、少年が完全に恐怖に染った際には、鬼が怖いがあまり勢い余って尻もちをつき、両足を回転させるようにし、血の気が失せた様子で、引き返していた。
少年の恐怖が増すごとに、鬼の外見と内面に呪いが加わるのだから、気の毒だった。並の忍耐力では気を抜けば、すぐさま悪質な呪霊に変わることだろう。
「キミは」と呟く。「まだ止めないの?」
遠くに早々に引き返す少年を見つけ、鬼に訊ねる。
離れていくのを確認し、よし今日も追い返したぞ、と最早謎の達成感を抱くと共に、心苦しさに襲われる。
どちらも、悪いことをしたわけではないのだ。鬼も悪くない。
少年は本能や直感に従い、負の感情を抱き、自己の意思を決定しているだけだ。鬼も生前の心残りと、呪霊の性質に板挟みになっているだけなんだ、と共感もあった。
「もうそろそろ、辛いでしょ」僕は言いたくなる。「諦めてもいいと思うんだけど」
『
鬼の叫び声が響き、空気を揺らす。
聞けていない、とは何を意味するのか。僕は未だ訊いたことがない。
日に日に、鬼の角は伸び、隆々とした腕は更に膨張していて、外見の醜悪化はとどまることを知らない。逆に内面に見える年老いた女性は、どんどんと摩耗していくように見えた。
これには僕も憂いを抱かざるを得ない。少年が問題を克服するのが先か、鬼が呑まれるのが先か、勝ち目の見えない勝負だ。
「…………止めたくなった時は、僕に言ってね」僕は静かに提案した。「多分、今の僕になら、終わらせてあげられるから」
鬼は頷かない。この呪霊も必死なのだ。置いていってしまった心残りを見守り、この先の生活を切り拓いてあげたいだけだ。
僕にはそこまでの執着の理由が、理解できていない。理解したいとは思うが、辛いのなら止めてしまえばいいのに、と逃げ道を選ぶことが最善だと信じている。
このまま、この女性を見ていれば、何かわかるのではないか。気付けばそんな考えが胸を占めている。
ごめんね。
鬼に対し謝罪し、今までに抱いたことのない目新しい感情を覚えていた。つまり、関心を持っていた。そのことに自分でも驚き、誰かに「これは何か」と訊ねたかったが、生憎、鬼しかいない。
***
その日は少年が一度目の帰宅してこなかったため、鬼の体積が増していることもあり、僕が代わりに近辺を探し歩いていた。
もちろん、頼まれたわけではなかった。
僕にとっては、誰かのために何かをする、といった関係は新鮮だった。
鬼との距離が近付いたのは、ある日、たわいのない、恐らくは当日の天気のことなどを喋っていたところ、鬼が、雪解けを迎えた蕗の薹のような、何気ない温かさを醸し出した時だ。
一方的に、僕が喋り続けた後でも鬼が反応する気配はなく、ふと顔を見上げれば、またもや年老いた女性に見えて、その、皺まみれの顔を更に皺くちゃにしていた。
西日が眩しいのだろうか、と想像していたが、呪霊の姿に戻った鬼がそこで発した音で、僕は、一気に心を掴まれた。
『
気付いた時には、僕は頬に手を当てて、上がった熱を必死に冷ましていた。
失せ物をして、もう二度と見つからないと諦めていた人間が、軽々とそれを見つけ出した人間を目の当たりにしたとすれば、その時の僕と同じ気持ちだった筈だ。さらに関心を持つ。
それからというもの、僕は紺色の屋根の家の前で、鬼と喋ることが安らぎとなっていた。
まさかこんな自分に、このような知り合いができるとは。
時計の針が、夜の八時を指した頃だった。
隣の、連続した塀が終わった。件の家の近くを、暫く路地を移動するように歩いていたのだが、それが途絶え、視界が開けた。
住宅地の中に無理やり捩じ込むように、公園が作られている。
「誰かいるな」
僕はそう察する。あの子供だろうか。
きぃきぃと音がし、緩やかにブランコを漕ぐ音が先から聞こえ、僕は入口の両脇に伸びていたイチョウの木の横に隠れる。
「鬼が出るんです。夜になると、家の前に」高く、幼さの残る声がする。「これくらいの……そこまで大きくはないんですが」
「鬼?」
「…………信じられない、ですよね。とても」と中学生のものと思わしき声が聞こえた。
僕がいることにも気付かず、二人分の声は会話を続ける。そっと公園内を確認すれば、いつもの中学生と、他にもう一人の少年がいた。
髪は見覚えのある曙色で、比較的最近接敵した呪術師と同じものだ。黒い服装に身を固めている。
頭をガツンと殴られた錯覚に陥る。
「なんでここに、
虎杖が例の中学生の相談に乗っているのを見て、僕は、何てことだ、と愕然とした。
もしかするとここに来た理由は、僕を殺しに来たからなのではないか、と。
なるほど。あの高校で、多くの生徒を呪い殺した僕を、見て見ぬふりのできない虎杖が、率先して殺しに来たのだな。
そう思うと、それが真実だと信じる以外の道がなくなっていた。
もちろん言い訳はある。
あの場でたくさんの人間を殺したのは事実だ。ただし、僕の意志ではなかった。
これはこれで情状酌量の余地があり、詭弁とは言えないと僕は思うが、ただ、呪霊を祓うことを生業とする呪術師の、問答無用具合を考えるとこの上ない恐怖が襲ってきた。
はっとした時には、虎杖たちは立ち上がっていた。鬼の祓除に向かうらしい。
どうするべきか。
それなりに鬼には情が湧いているのだから、手助けをする、という意味ではここで足止めをしても良かったのかもしれないが、虎杖がすぐさま僕を祓いにかかる可能性は否定できない。
死なないが、死にたくはない、なら立ち塞がるべきではないと判断した。鬼の反応も気になった。
僕はそっと、公園から出ていく二人の後を尾ける。
暗い道を照らす街灯に隠れつつ耳をそばだてる。
好きな映画の話や、漫画の話など取り留めのない話題が行き交っている。真人が読むような本の話題はなかった。
路地を抜け、同じ形の一戸建ての並びを歩いていたところ、紺色の三角屋根がかろうじて見える。頭に浮かべた周辺地図と照らし合わせ、あそこが鬼の待つ場所だと推理した。
帰路を進んで目的地が見える辺りに辿り着くと、中学生が足を止める。
「──居る」
乾いた喉を、無理に震わせた声がした。
視線の先には鬼がいた。門柱の影から、のっそりと鬼が歩み出る。
歪な二つの口の、ぎりぎりと耳障りな歯ぎしりの音が聞こえた。あれは怖い。僕ですらどうかと思う。
あの少年にとっては、前門の虎、後門の狼と言ったところか。前門の鬼、後門の暗闇であれば、暗闇の方がまだ安全だろう。前門の鬼、後門の僕、の場合はどうか。
『
鬼が鳴く。
彼女が何かをずっと待ち侘びているのは分かるが、それにしても、その、慟哭とも威嚇ともとれる大声は如何なものか、と僕は毎度思っていた。
「…………虎杖さん……」
中学生は両腕を抱くようにし、見るからに震えている。
「安心しろ。なんとかしてやっから」と虎杖は優しく、呪霊は呪術師との戦いの中ではわざわざそんな言葉を掛ける余裕はないため、非常に優しい対応に思えたが、声をかけていた。「下がってろよ、海里」
海里、というのが、あの中学生の名前らしい。そう思った頃には、虎杖と鬼の戦いは始まっていた。そしてそれはものの数秒で終わりを告げる。
「もういい、よっと!」
「え、」僕は慌てたが、飛び出すことはしなかった。
虎杖が身体を捻りながら拳を振りかぶる。貫くような拳打によって、鬼の身体が宙に浮いた。
『
空中で、見えない砲弾によって身体を穿たれたように、肉体が弾け飛び、飛散した。
中学生が、「どうなったんですか」「え、祓われた?」「……ありがとうございました」と混乱の抜けない声で話していた。
突然現れた鬼が呆気なく消えたことで、頭が回らないのだろう。
僕は名残惜しさに似た感情を抱きながら、ここで切り上げるべきか鬼の心残りを代わりに解消すべきかと思案したが、その答えが出る前に、また鬼の気配がした。
さらに、家に入る直前、複雑そうな顔をした中学生の顔が見える。
彼にも、まだ何か
虎杖が居なくなった頃を見計らって、家の前に歩いていくとやはり気配がし、僕は躊躇なく、呼びかけた。
「────いるんでしょ、まだ」
鬼の姿が浮かび上がり、彼女は一層甲高い鳴き声を発した。
僕はほっと息を洩らした後で、「死んだと思ってた相手に蘇られると、こんな気持ちになるんだ」と冗談めかして肩を竦める。ちょっと親近感湧いちゃうよ、と。
そして反省する学生よろしく、頭を僅かに傾ける。「身体は大丈夫?」
鬼が、『
「そう。……そろそろ、会話も辛そうだね。前みたいに話すのは難しそうだ」
言いながら僕は、鬼の内面に注目する。再構築する過程で姿が薄まりよく見えない。
あの年老いた女性が、何を望んでいたのか。果たしてそれが叶う日を迎えられるのか、と考えながら、更に醜悪化した鬼を観察する。
その日を迎えてしまえば彼女は終わる、が、迎えなければ彼女は
僕は、それもいいのではないか、と思い始めていたところだった。彼女は僕を害さないし、穏やかで、探し物を見つけてくれる気がしたからだ。
ああ、でも。
今のままじゃ、絶対に間に合わないだろうなあ。
それはきっと良くないことだ。
ならば、と意を決した。
「ねえ、こういうのはどうだろう」
僕は寂しさを滲ませながら、言う。
虎杖
その日の夕方、以前歩いた散歩道を追想しながら足を進め、大きな車道に突き当たると、記憶が蘇り、あの日と同じ道を選んだ。
「帰れないんです、家に」と彼は不安そうに説明を始めた。
「親とケンカしたとか?」
「別にそういうことじゃないんですけど、物理的に」海里はそうして話し始めた。「言っても笑わないって、約束してもらえますか?」
海里の、生活はおろか精神までも揺るがすその呪霊は、傍目には、「ふざけた冗談」に過ぎないのだな、と思いながら、「信じるよ」と頷いた。「大丈夫、一緒に行ってやるよ。ウチに帰れないのは、悲しいもんな」
十数分歩いた後、虎杖は海里と共に彼の家に到着した。
海里の説明から推測できる呪霊の大きさはさほど問題ではなかったし、単なる住宅地に出る呪霊であったから、単純な人助けの思いだったが、予想通りというか、ものの数分で「鬼」の祓除は完了した。
やっつけたよ、もう大丈夫、と声をかける。
すると海里はその後数秒だけ、公園にいた時と同じ不安そうな顔になり、「…………ありがとうございました」と言った。
信号が青に変わる。
タクシーが発進し、それを最後に車通りも少なくなった。それを眺め、虎杖は進路を変更し、件の公園へ向かった。
□
出会ったのは、曲がり角をいくつも過ぎて、住宅地から聞こえてくる談笑の声と通路の人気の無さにしんみりとし、クラスメイトの顔を思い浮かべ、再会する日を想像して、公園まであと数分の距離といった頃だった。
時間からすれば、夜の七時過ぎで、住宅地の塀に囲まれた通りを歩いていた。三角屋根の一軒家が並ぶ道で、外灯は点々とし、ぼんやりと暗い場所だった。
最初、ふらりと現れた人影を目にした時には、帰宅途中の子供が、「どこの学校かも分からない学生が、何でこんなところにいるんだ」と困惑しているのだと思い、だから、一歩も動かなくても、不自然に見えず、怪しい者じゃないんだ、とむしろ自分から弁解したい気持ちになった。
ただ、その時、仄かに照らされた姿と声の響きに、はっとした。
「────虎杖悠仁、だよね?」
強く地面を蹴り、直後、殴り掛かろうと意識した。拳を振り上げようとしたら、顔の前に腕を交差される。屈んで避けられた。
そのまま後ろに転がるようにして、立ち上がる。反撃はない。身構えたまま、萎縮した瞳が虎杖を見る。
突然の恐怖に震えて動けなくなる子供の姿を、幻視した。
まさかこんな場所で偶然再会するなんて、虎杖にとっては、思ってもみないことだった。
呪霊にもかかわらず、紛れ込むために人間と同じ服装をしているのか馴染んでいて、それを纏った呪霊が、腕を振り下ろそうとする虎杖の目には、外灯の光もあって邪気が全く映らず、融和的に見えた。
「宿儺じゃないよね、虎杖、だよね?」とまた訊ねられる。
怯えているのか、少々、弱々しい声が鼓膜を揺らす。試しにその場で虎杖は拳を素振りしてみせたが、肩を揺らされた。
本当に悪い呪霊なのか、と頭にその疑問が踊った。この呪霊が、あの高校でたくさんの生徒を殺したのか? その一方で、本当に馬鹿馬鹿しいが、「こいつはこんなんで生きていけるのか」と気になった。先生、この呪霊があの大量虐殺を起こしたのか?
数週間前に里桜高校の一件が片付いた際の、五条の言葉を思い出す。「その高校、変に消極的な呪霊いなかった?」
「消極的な呪霊? ああ、順平に庇われてたやつなら」虎杖は頭の中で繋がった言葉を続ける。「少年院にもいたんだ、アイツ。なんつーか、呪霊のイメージと違うっていうか」
脳裏を過ぎったのは、少年院で、虎杖の身体から心臓を抜き取られた時のことだ。
その時の虎杖は、宿儺に身体の支配権を乗っ取られていたから、水面を浮かんだり沈んだりしているような、つまりは夢心地のような感覚だったのだが、既に心臓が抉り取られていたあの呪霊に一瞥をくれた際に、唇を噛み締め懺悔するような表情をしていたのは、やけにくっきりと確認できた。
ああ、あの呪霊は多分、人殺しが嫌いなのだな。
そんな感想を虎杖は抱いていた。
「それ。体育館で生徒の大半を殺した、
「え」
思い描いていた感想が、叩き割られたガラスのように、粉々になる。
「そこかしこに残穢が残ってたからね、間違いない」
虎杖はそれまでに向かい合ってきた、幾人かの呪霊を思い出した。虎杖を前に、下衆な犯行を働いた呪霊や、腕や足を振り回し周囲に危害を加えた呪霊のことをだ。
「でもアイツ、俺が死んだ時は間違いなく後悔してたよ。順平が……ああなっちまった時も、すげえ悲しそうな顔してた。多分、順平と仲良かったんじゃねえかな。それなのに、」
「それなのに?」
それ以上は、と遮るように言葉の矢が飛んだ。
「性格がどうであれ、被害が出てるのは事実だよ、悠仁。アレが意図的じゃなくても、生徒は死んでる。……まあ」五条は言った後で、口元に頬杖で支えにしていた手をずらした。よくは聞こえなかったが、「ああするつもりは、なかったのかもしれないけど」と、そう呟いたのかもしれない。
「お願いがあるんだ」
決して大きな声ではないが、夜の住宅地に響くようで、虎杖は焦る。
背丈は虎杖よりも頭一つは低い。衣服のだぶつき具合からすると、体格は細そうで、肩幅も狭い。
どうするべきだろうか、と頭を回転させたが、気付いた時には虎杖は口を開き、「お願いって、何をだよ」と言っていた。自分自身で、自分の返事に驚き、「あ」と思わず、口に出してしまう。
相手にとってもそれは予想外の返答のようだった。「えっ」と裏返った声を出すと、身体を反転させ、おずおずと通路の先に指を向けた。
□
「ここらの家は、平和な日常の代名詞だ」と虎杖の隣の呪霊は口を尖らせた。「何かこう、街路灯の灯りもお手本のような明るさだよね。家も殆ど三角屋根だよ」
すっかり夜になっていたが、虎杖の進行方向、数メートル離れたところには外灯があって、薄ぼんやりと周囲の様子が見えた。
呪霊の言う通り、家々からは、楽しげな談笑の声が聞こえていて、平和だなあ、と穏やかに肩の荷を下ろしたくなる趣もある。
右側を見下ろす。
目線は落ち着きなく動き、挙動不審とも捉えられる雰囲気を醸し出し、虎杖の視線に気付くと更に焦りを加速させた。
ドラマで見たやりとりを思い出す。「今日は良い天気ですね」と曇りや雨の日に限ってやる、あれだ。
「きょ、今日は良い天気だね」
マジで言うのかよ、と虎杖は自分の立場も忘れ、心の中でつっこむ。「もう夜なんだけど」
「あ、あー、えっと」
「それよりオマエ」虎杖は口を衝いた。「名前なんつーの?」
「…………それ僕に言ってる?」呪霊が訊ねてくる。
「ここで俺が独り言で、名前はなんですか、って言ってたら流石にやべぇだろ」
呪霊は立ち止まり、「ヤベェ」と機械的に呟き、まるで頭の辞書に言葉をインプットするように数回頷くと、落ち着きを取り戻し、今度は柔らかい雰囲気を纏った。
「
呪霊の名付けのシステムは知らないし、もしかすると生まれつき持ってくるものなのかもしれないが、虎杖は、「誰かに名付けてもらったのかもな」と自然に解釈していた。ちょっと嬉しそうな顔だな、と。
「あー、それっぽいかも。なんだ、優しい名前じゃん」
「優しい?」大きな目が更に大きくなる。「初めて言われたよ。最近の呪術師って、変わった人が多いのかな」挽歌はほんの少しだけ頬を緩め、「優しいのか」とくすぐったそうに言い、胸を張る格好をした。
しばらくして、あのさ、と虎杖は声をかける。緊張はしなかったが、重責感がある。
「結局、お願いって何なんだ」と背筋を伸ばす。
「この前、この辺に来て呪霊を祓ったでしょ」挽歌が先を指した。
「この前って。その時から居たのかよ、オマエ」虎杖は警戒心を募らせる。「どっから見てたんだよ、何か企んでんのか」
「詳しいことは後で話すから」さらりと流された。「助けて欲しい子がいるんだ」と言うが、虎杖は、それが海里のことだと思い、本当にどこに居たんだよ、ともう一度駄目を押す。もう帰宅の邪魔をしていた呪霊は祓った筈だ。
すぐ前で、挽歌が立ち止まった。はっとして、脇にどく。彼は道の先をじっと眺めていた。
虎杖はその方へ顔を向け、立ち並んだ一軒家を眺め、一体何見てんだよ、と言い出しそうになったところで、それに気が付いた。
「おい、何でまだあれがいるんだよ」
手前から三軒目、若干下り坂になった右手側に、呪霊がいた。先日祓ったばかりの禍々しい、例の「鬼」だ。成人男性ほどの大きさだったのだが、その体躯が、現在は、大型トラックのような大きさで、肥大化して復活していたのだ。
いつの間にか、「鬼」の方向へ挽歌が歩き出している。虎杖が咄嗟に引き留めようとすると、振り返った後で、数秒悩んでから口を開けた。
「お願いってのは、あそこにいる、鬼みたいな呪霊を
「……助けて欲しいって、海里のことじゃねぇのか……!」
「違うけど……、……海里?」
「そこの家の────」
言ってから、「鬼」が復活したのならば海里はどこにいるのか、と頭が急速に回転した。瞬時に踵を返す。
今度は挽歌が引き止める番だった。待って、と最早引き摺られるようにして虎杖の腕を掴み、「ちょっと止まってよ」と縋る。
「なんだよ、アレがいるってことは、海里は!」
「僕は今やっと、その海里っていうのがあの子供だって思い出したところなんだって!」
「いや知らねえって!」
「ちょっと説明させてってば!」
□
妥協に妥協を重ね、虎杖は、自分にとっての小走りで公園に向かっている。斜め後方には挽歌が走っているが、呆れるような、困ったような声で、「そんな、焦らな、くても」と絶え絶えに言う。
何かが吹っ切れたのか、それとも早く話さなければ、と彼自身も決断したのか、その後の挽歌は、堰を切ったように喋り始めた。
虎杖が帰宅した直後に「鬼」が復活したことや、「鬼」が何かを待っていることを、呪霊独特の不可思議な感性で教えてくれ、「鬼」には目的があることを語った。
呪霊は群れないと聞くが、挽歌には同族意識があるらしく、「多分、もう、時間がないんだ」と何度も主張していた。
今まで、その呪霊らしからぬ思考で、「鬼」と対話を試みていたのだろう。
公園に到着すれば、案の定、海里はまた暗雲を背負ってブランコを漕いでいる。
「僕は待ってるから」と息を整えつつ、飴玉を頬張る挽歌を置き去りにして、虎杖は公園内に踏み入った。
「多分、あの鬼は何度でも湧いてくるんです。なんとなくだけど、そう思います」海里は諦めたような、疲れたような顔で言った。「きっと何度でも」とまた言いながら、俯いて息を吐いた。
「どういうこと、なんだよ」と虎杖は身を乗り出した。確かに祓った。確かに仕留めた。確かな手応えがあった。
困惑を拭いきれない虎杖とは対照的に、海里の声は落ち着いている。
「多分あの鬼は、あそこの家を守ってるんです。悪者を追い払うために、何度も、あの場所に現れる」
十時にもなると、海里は漸く帰路に着いた。家の前までついて行ってみれば、不思議なことに「鬼」の姿はなかった。虎杖は相も変わらず、混乱が膨らみ続けている。
「あの子は半永久的に復活するよ、多分」と挽歌が言ってくるのにも混乱した。
キミのやってることに意味が無いわけじゃないけど、と謎の援護を貰った時は逆に落ち着いたが、でも、放っておいて取り返しのつかないことになったら、と悩んでいる。
「……誰か、もっと強え呪術師に来てもらった方が」
「やめてよ。五条なんかに来られた日には、間違いなく僕が祓われる」
「じゃあ挽歌は? 実は強い術式があるって聞いたし、あのくらいの呪霊なら勝てるんじゃないの?」
「できなくはない」とひと呼吸置き、「でも僕じゃあの子を……こ、殺せても、目的を叶えてあげられない」と複雑そうに言った。
「なら」虎杖は返事をした。「やっぱり別の人に来てもらうしか、ナナミンとか」
「七海?」
挽歌は、ぎょっとした表情を見せたが、すぐに人差し指を立て、「あのさ」と続けた。「あのさ、確認なんだけど、キミも一応呪術師なんだよね」
もちろん、と虎杖は答えた。
「ならキミが手伝ってよ」
「いや、それができりゃ苦労しねえっていうか」
「え、できるでしょ」挽歌は拍子抜けした様子だ。「何言ってんの」
「それ
「なら、何でできないって思うの?」
挽歌の素朴な疑問に、一瞬、虎杖は動きを止めた。
身体の奥底から煙が立ち上るように、様々な思いが頭を満たす。映画をコマ送りするように、次から次へと記憶が点滅した。
歪んだ人間。歪んでしまった人間。知らぬ間に奪われていた命。
「──高専に来いよ、順平」
あの日、手を伸ばした友達と、その母親。
虎杖はそれから、眉間に大樹の年輪のような皺を寄せ、彼らはどうしたら助けられたのだろうか、と考えた。そういえば、被害の一部の犯人は目の前の呪霊ではないか、と思い出し、けれどもやはり、助けられなかった理由は、ただ一つしか思い浮かばなかった。
「…………俺じゃあ、力が足んねえから」
「ああ、そうなんだ」興味があるともないともつかない声で言ってくる。「でも」
「でも、なに?」
「虎杖には、十分
「は、」
他の呪術師を呼んで欲しくなかっただけだろうが、予想外の方向から励まされたようで、虎杖はその言葉に呆然とする。
呪霊って何から生まれるか知ってる? と、言う挽歌をまじまじと見てしまう。
「────聞いてる?」
「あ、ああ、うん。……人間の悪い感情?」
「そうだよ。あの子も、そうやって生まれてる。キミには、その感情を生み出してる
挽歌の声は、何故か半分怒っている。特に、「人間の方」との部分には、余計なことをしやがって、という雰囲気が感じ取れそうだった。
人間の悪い感情から、呪霊は生まれている。ならば、祓う方法はなにも戦うだけではない。
「だから、一緒にあの子を
その一言が、最後の後押しになった。
鬱がっていた感情が解き放たれ、下に向いていた視線は前を向いている。軽くなった気分と身体は、統率力を取り戻した軍隊のような勢いだ。
「ああ、こっちは任せとけ!」
挽歌が、今まで見たことのない、暖かい息を漏らした。
遅くなりました。
いつも評価、感想、しおり、お気に入り等、本当にありがとうございます。急遽投稿しているため、後ほどちょいちょい修正入れる可能性ありです。
気付けばUAも総合ポインヨも増えていて震えてます。本当にありがとうございます。
今後ともお楽しみいただければ幸いです。