以心伝心がうまくいったわけではないだろうが、僕は、真人とほぼ同時刻に帰宅することに成功した。嬉しいことではなく。むしろ、無表情でこちらを見る真人からは、緊張感が漂っていた。
真人の傍に夏油は居らず、また、僕の傍に裏梅は居ない。相手の視線が、まるで所持品検査を行うかのように、僕に絡まっているのが分かった。
無言で扉を開けて中に入り、向かい合った。
「珍しいね、どこ行ってたんだよ」と真人は言った。
「裏梅から色々と教えて貰ってた。でも、花御には伝えて行ったよ」
「そうなの?」
花御が頷く。
僕が同時刻に帰ってきたからいいようなものの、この雰囲気からして、もし遅れて帰宅でもしたら、いよいよ真人から見限られたのではないか。
なんて訊ねると、「しないって。この前も言ったでしょ」と平然と答える。
百パーセント信じていいのか分からなかった。
冗談ではないと思ったが、彼は自由奔放さに定評があるから、僕はじっと見定める。「勿論、チャンスはこれで最後だけど」といつ言い出してもおかしくない。
一時間ほど前の記憶を思い出した。
あの、白い少女が言うには、僕は「薤露」として過去を生きていた。彼女に後で聞いたところ、羂索は一時「薤露」を封印した呪物を
「実際、後悔したんですよ。勿論、
裏梅が言った台詞には、僕は何も返せなかった。喉を震わせ胸を詰まらせたり、感極まって呼吸が苦しくなったりすることも、なかった。
だからこそ。同じに見えて違うもの、という言葉があるように、「
「あの生活は、私にとって、多分、満たされたものでしたから」
なんだよ、そうだったんだ。
と曖昧に首を捻ることはした。僕もあの場所は至極居心地良かったよ、と言うのは簡単だった。
しかし、ずっと胸にあった空洞がしっかりと補完されたというのに、パズルのピースが一つ余ってしまったかのようだった。
一度封印された恨みは想像以上に根深いということか、と考えたが、それも違う気がした。子供の頃に欲しかった物を大人になってから与えられたら、きっと人間はこんな感情になるのだと想像してみる。
「そうなんです」
薄い唇から溢れた声は、どこか懐かしい親しげなものに感じられ、僕は一瞬ではあったが、彼女の表情や空気が和らぎ、千年の時間を遡った、あの頃のまだ青い梅の姿を目撃したような気分になった。
瞬きをする。
同じ姿でも、表情と名前は違う。あの日々はもう、僕らの手の届かない位置にある。僕は、彼女の過去を慈しむ顔を眺めている内に、他人事のように、寂寥感で胸が締め付けられる気分になっていた。
「彼の計画の内では、貴方のその術式を抽出するか、もしくは、貴方を取り込んでしまうか。その二つだと思います」とも伝えてきた。
真剣な目をしている。嘘ではなさそうだ。
僕は羂索の狙いを改めて耳にしても、不思議と落胆はしなかった。
「だから、貴方は死んでしまう前に、これからの計画から外れてください」
さて、どうするか。
答えは二者択一である。
僕の頭の中には、自然と彼らの姿が浮かんでいた。眉が下がり、口元が緩まった。着地点はそれが正解かのようにただ一つ導き出されるが、不思議と恐怖や抵抗感はない。
胸の奥で、蝋燭の火がゆらりと灯る。それは不思議なことに、最後の一本だったかのような確信があった。
「情報交換でもする?」と目の前の真人は言う。
頷きながら、どこまでの範囲を相手に伝えるべきか計算した。彼もまた同じことを考えている筈だ。
「俺たちは10月31日、人間たちで言うところのハロウィンの日に、五条悟を封印する。この日が本番ってことで、今まで逐次襲撃を繰り返していた。ここまではいい?」
「うん。あ、地下水路でやってた
「──あー、そうだな、そう。術式の練習だ。で、話を戻すと」
この時の真人は妙に歯切れが悪く、明らかにしらを切っていた。
「俺たちの目的は、呪詛師たちの目的に重なる部分があったから、手を組んだ。挽歌も漏瑚と一緒に行ったわけだし、それは覚えてると思いたいけど」
「覚えてるよ。夏油でしょ、夏油」
僕は呼び慣れていた筈なのに、掠りもしないニックネームを呼んでいる気分だった。というか夏油って誰だよ。
「ちょっと中身を移動すれば、その肉体で生きていけるんだ」と、こめかみを指で突いた羂索の顔が浮かぶ。
嗚呼。成程、死なないと言ったのは本当らしい。中身だけ、他者の肉体に引越しし続けているのだろう。
「アレのことはいい。それより、五条悟はどうやって封印するつもり?」
真人は意味ありげに首を傾げた。
「アレ呼ばわりなんて珍しいな。挽歌、そこまで訊くってことは、この作戦に乗るって言っているようなもんだよ。あ、わかった。
「まあ。ちょっと頭が良くなった気分だよ」
「それは困ったな」
「それより」と急かすと、真人はすっと目を細めた。「獄門疆っていう呪具があるんだ。有効範囲に一分間、相手を留まらせれば中に封印できる」と説明した。
自分が閉じ込められた呪具について、今度は使う側として名前を聞くというのは奇妙な体験だった。
「生きた結界。源信って人間の成れ果て。あの呪具に、封印できないものは無いらしい」
真人の言葉には他意こそなかったが、僕を気遣う雰囲気など勿論無く、僕は肩をすぼめて聞く他ない。
「一分間も五条悟をその場に留まらせるなんて無理難題だけど、勝機はある。挽歌が協力してくれたら、もっとね」
「いや、多分道端の小石の方が役立つと思う」僕は鼻の頭を搔く。「でも、キミたちが勝てそうなら良かったよ」
「何甘いこと言ってんの。全員無事生還、なんてのは多分無理だよ」
「え」
「帰って来れないかもしれない」
「あ、そう」平然と言うので、聞き流しそうになった。「じゃなくて」
「やっぱり、君のそういうところは一貫して変わらないな。挽歌は、死ぬのが怖いんだ?」
真人は、不要なカードを場に捨てるような言い方をした。
「うっ」
もしかしたら彼は、僕が協力しないだろうと予想した上でこの話をしたのかもしれない。これで最後だから、と。
「そ、そうなんだけど、それよりも」僕は口を噤んだ。
どういわけか、僕の頭にある小説の台詞が甦った。七海から押し付けられた、ひどく恐ろしい短編だった。
太陽が主人公にこう言うのだ。
『お前はひるの鳥ではないのだからな』
真人の態度は正しく、それだった。
しかも、アドバイスなんかではない。邪悪で抜け目ない、誰よりも人間嫌いな呪霊の、排他的で慈悲ある最後の通告に思えて仕方がない。
やはり僕は、キミたちに相応しくないのかもしれない。
気を抜くと、腰から下の力が全部、床に吸い込まれてしまいそうになる。
それでも僕は、文字通り命を擲つような覚悟で前を向いた。ずっと永い間、
「これ以上のけ者にされるのは、なんか、嫌だ」
今度は置いていかれたくないし。
真人はぽかんと口を開けた。やがて、「頼りないなあ」と言った。
「これでも、本気なんだよ」僕は自分の勇気や心構えを低めに見積もられた気分で、少々むきになった。「あのさ」と自分の考えを打ち明ける。
以前真人に言った内容と同じく、夏油が信じられないから何かされる前に先手を打ちたい、と説明した。
勿論これは建前に近く、本音では、
というのも、建前だったのだと思う。
この時の僕は、皆に迷惑をかける前に僕が相手を
裏梅は「逃げろ」と言ってきたし、過去の僕ならそうしただろうけど、今の僕には受け入れられなかった。
だって、逃げたところで居場所はここにある。いつの間にか、自信を持ってそう言えるようになっているものだから僕は名状しがたい感情を覚えた。
真人は、僕の真意を推し量るようにじっとこちらを見ていた。僕の表情や、仕草をずっと観察していた。
「アイツは駄目だ。絶対に真人や、皆の邪魔をする。だからその前に、僕がアイツを引きずり落とす」
「挽歌がそこまでする理由は?」
僕はぽかんと口を開けた。
「え、だって」もしかすると勝手な思い違いをしていたのか、と不安になる。「
言葉は尻すぼみになる。数秒前に思い描いていた自信に、早くも放射状の亀裂が咲く。
数秒の静寂が、未だかつて無いほど耳に痛かった。部屋の奥で、じっと佇む花御が居て、そんな覚悟で啖呵をきったのですか、と僕を揶揄してくるようでもある。
「──ふーん。……それで、挽歌、さっきのは本気で言ってんの?」
「もちろん。見栄を張っても、すぐ分かるだろ」
「けど、俺たちも元から
「え、そうなの」僕は驚き、声を落とした。
花御を見る。『貴方が、私たちのことをよく考えていてくれたのは、分かりました』
その言葉には暖かい思いが込められている。ように僕には受け取れた。
もしかして、と思う。もしかして皆は僕を極力、巻き込まないようにしていたのではないか。
でも、どうして?
真人に目をやった。彼は、僕が発言を撤回すると予想したのか、無言のまま目を何度かしばたたいた。眉を一度ひそめ、その後で、蜘蛛の糸を垂らすようにした。
「どの道手を切る予定だった。挽歌がやらなくても、俺たちがやる」と言った。わざわざ君がやる必要はない、と。
「それでも、やるよ」
「俺は挽歌を思って言っている」
僕は小さく首肯した。「真人は、僕を思って言っている」
「死んじゃうかもしれないよ」
よりによって、僕が一番恐れる言葉だった。
それでも、と思った。それでも生きているか分からない、つまらない時間を送るよりは、と。
七海の「生き甲斐」の話を思い出す。あれもあながち間違いではなかったのかもしれない。
真人たちは同僚だ。仲間だ。そうだ、
おかえり挽歌、と言った真人の声が蘇る。
「でも僕に、好きなように生きろ、って言ったのは真人じゃないか」
正直なところ、人間の命を奪うのは気分が悪い。でも奪わないと僕が死んでしまうから、奪わなければならない。生きているのも辛いが、死ぬのはもっと怖いから生きなければならない。
そんな途方もなく、暗くて終わりのない時間の中で、道を照らす蝋燭をくれたのは、紛れもなく真人
「だから、僕は好きなように生きるよ」
何の偽りもない言葉だ。他の呪霊からしたら一般的な常識だったのかもしれない。
けれど、僕は覚悟を決めて、一歩踏み出した。自分の意思で、あの男ともう一度戦う。
真人はと言えば、口をあんぐりと開け、面食らっている。
花御は口を挟まなかったし、僕を止めようともしなかった。
その後の数十分、夏油たちが帰ってくるまでの間は、情報の確認を行いながら、隣の部屋に篭もる脹相を時折覗くだけだった。
『アナタの無欲具合も、変わりましたね』
花御が部屋の隅に積まれている、短編集に視線を遣った。続けて僕の白い服を眺めるように、顔を僅かに上下に動かす。どちらも大切な貰い物だ。
「理解できない内容だったよ」僕は、特に恐ろしいと感じた話の顛末を思い出しながら、説明した。「最後の文なんて酷いんだ。『今でもまだ燃えています』だってさ。まだ星のまま夜空にいるんだよ。ああ、怖い怖い」
『その本は、自分で
「違う」
『では……。いえ、何でもありません』
真人は本の山の一角に一瞥をくれると、顎に手を当て、薄い唇を開く。
「前も、偉人の名言集みたいなの調べてたよね」
『名言集?』
「ああ、花御は詳しくないか。マザー・テレサって言ってさ。人間の中でも高尚な人間だ、って讃えられてるんだ」
「今の僕にも、彼女の言葉が刺さるんじゃないかと思うよ」
「何?」
「ほら、『もし過ちを犯すなら』ってやつ」
「過ちかよ」
真人は日が射し込んでいるわけでもないのに、眩しげな顔をした。僕には、真人の表情の意味が分からない。
「ねえ挽歌、今の生活、楽しい?」
真人が不意に言った。花御が怪訝な雰囲気で首を傾げた後で、僕をちらっと気にかけた。
そうだな、と悩む時間はそこまで必要なかった。
「楽しい、のかもしれない」
僕は自然に、笑った。
真人は照れくさそうに、もしくは不貞腐れるように唇を曲げて、それからこう言った。
「挽歌も、呪霊らしくなったね」
次から渋谷事変です。
一話あたりの文字数を気にせずキリの良いところで投稿すれば、残りは五話くらいかと思うのですが、おそらく分割することになりますのでもう少し続きます。
評価、感想、お気に入り、しおり等、本当にありがとうございます。嬉しくて戻ってきました。