足に痛みが走ったのに気付いて、僕は咄嗟に、飛び退いた。地面からはいつの間にか、鰐のような顎の呪霊が顔を覗かせていた。右足の膝から下が食い千切られかけていた。呪力を回し、すぐさま足の形を元に戻す。
「本命は真人だ」
息が震える。
その時点で既に、羂索の声から耳が離せなくなっていた。バレないように唾を飲み込み、次から次へと呪霊を取り出す羂索の口から、次の言葉が発せられるのを待った。
彼も少し、息が上がっていた。
「君とはできれば、友好的な関係を維持したかった」
「維持? 無かったじゃないか、元から」
もう一度だけ訊くけど、と羂索は息を吐いた後で、「本当に、私と一緒に来る気はないかい」と続けた。
言葉は聞き取れたのだがその意味が分からず、首を傾げる代わりに眉を顰める。
「前に言っただろ。未来を生きて欲しいって。その代わりに、いつか私が君の願いを叶えてあげる、と」
願いを叶える、と僕は実際に声に出して口ずさんでみるが、あまりに嘘くさくて、信用ならない言葉に警戒を強くする。
「君の願いは、死の恐怖からの脱却。つまり、いつか終わることだろう。死を考えなくて済む状態を求めている。違うかい?」
うん、と僕は頷く。頷いてから、目を長く閉じる。静けさもあって、頭の回転がすぐに速度を上げ、揺るぎない答えを叩き出す。
「仲間になる」すげなく、こう続ける。「なんて言うわけないだろ」
「だろうね」
羂索は表情を変えなかったけれど、どこか残念そうだった。
まさか本気で誘っていたわけじゃあるまい、と疑るも、すぐさま攻撃の手を伸ばしてくるものだから、考える暇もない。
羂索の手元から呪霊が、蛇のようにうねり飛び込んでくる。目の前の獲物を噛み砕くように、口が大きく開く。
僕は受け身を取るように、地面に倒れる。横に転がり、飛び跳ねる要領で蛇の胴の中腹を撫でた。
「────有為転変」
強く意識して、掴む。できないかも、なんて不安定な気持ちはない。
次の瞬間に蛇は、ぱしゃん、と弾けている。羂索の表情に、驚愕と畏怖を飛び越えた狂喜が滲む。
続けて僕は手を前に出し、「羂索は」と鋭く言った。僕の術式が育ちきるのを待っていたんだろ、と思った。友好的な態度とは言え、羂索にはいつも打算に基づいた雰囲気が備わっていて、裏梅の言葉には分厚い信憑性があるように感じられた。
「僕の術式を摘む瞬間を、長い間、ずっと待ってたんだろ」
僕は、羂索が距離を詰めようとしてくるのを見計らい、質問する。
案の定、羂索は、「勘が冴えているじゃないか」と一瞬だけ足を止めた。
分かりきっていたのに、胸に冷たい矢が突き刺さる心地がして、唇に力を込める。
「キミのアドバイスはいつも、どれも、僕の術式の成長を促すものだった」と言いながら、羂索に手のひらを向けた。
指を折りたたむ。
羂索が、咄嗟に巨躯の呪霊を遮蔽物代わりに呼び出す。特級だろうか。太い腕が四本あり、その外見は海外の歴史や慣習といった、見たことのない
が、その次の瞬間には、ぱしゃん、と弾けている。
真人が、自他問わず魂の形状を思うがままに留めることを「無為転変」と言うのとは逆に、常に移り変わり続ける事象の、無常で儚い終わりを少しだけ前倒しにするのが、
羂索が焦りなのか喜びなのか、僕としては前者であって欲しいものだが、顔を歪ませる。
「面倒なことに、今の私が持つ呪霊操術で取り込んだ呪霊の術式の精度は、取り込んだ時点で成長を止めるんだ」
「だから、取り込む前に強くなって欲しかった、って?」
「そういうこと」
「あげないよ」僕は後ろに大きく飛ぶ。「絶対に悪用するだろ」
「私の理想を叶えるためなんだ」
分かってくれ、と微塵も訴えかける様子もなく言ってくる。
*
七海
「皮肉ですね」
半分閉ざされた視界の膜越しに、真人がこちらを睨む。その瞬間、七海は、「まさか、気付いていないんですか」と言っていた。間髪入れず、次のように続けた。
「アナタも、あの呪霊を
真人が顔を横に僅かに傾けそうになる。
「私の力だけでは、“仲間”なんてコミュニティは無理でしたから、助かりました」
髪に隠れた真人の瞳が揺れた、ように見えた。
「どういう意味」と真人は僅かに声を高くする。
「もとより、私を含め人間だけでは、あの呪霊を祓えない」
「俺たちに挽歌を殺すつもりはない」真人は即答する。言ってから、「あ」と突然閃きを得たかのように、口を薄く開いていた。顔を持ち上げ、瞠目している。
「あの呪霊が求めていたのは、最初からずっと、居場所で、理解者で、仲間で、友人です」
七海は鉈を握った拳に力を入れ、きっぱりとこう言った。
「それを与えたのは、アナタたちですよ」
*
壁の凹凸を踏み台にし、ぴょんぴょんと瓦礫を避けながら、乱暴に上層へ駆け上がる。後を追ってくる姿が見えた。
彼は僕のように壁を使うのではなく、最短コースを行くために、使役した呪霊に乗って一直線に上がってきたのだろう。
僕が上階の通路に到着し、呪霊と対峙するようにさっと身体を向けるのと、彼が
巨人の手のひらが僕をぺしゃんこに押し潰した、そんな情景が頭の中にぱっと浮かんだ。駅の床ごと粉砕し、僕は再び下層に叩き落とされ、副都心線のホームに戻されてしまった。
身体がばしゃんと潰れる音がする。僕の半身が、液体となって飛び散ったと思い、恐怖で目が熱くなった。奥歯をぐっと噛み締める。喉の奥が痛くて堪らない。
死にはしなかった。すぐに呪力で欠損した部位を補い、目元を拭った。飛び退いて距離を取ろうとしたが、足がもつれた。たたらを踏んでいる。
「そこは死んどけよ 」随分と苛立ちの滲んだ声だ。「もういい加減、諦めたら?」
目を動かすとホームの中央に、羂索の姿があった。多少呼吸が乱れているものの、狐じみた顔そのままの雰囲気で、まるで笑っていない口角が上がっている。己の勝利を揺るぎないものだと確信する、厭らしい光があった。
「キミこそ、いい加減、諦めたらどうなんだ」
僕は痛みに、歯を食い縛る。
「それは無理だと言った筈だよ」
「だいたいこの作戦は、もとから、僕ら呪霊を軽視しすぎてた」
僕は手を伸ばし、
「当たり前じゃないか。ただの呪霊だ」
「その呪霊にやられてんじゃん」僕は半ば笑いながら、羂索の胴体を指差した。「呪霊は相当数減らした。呪力も消耗しただろ」
「挽歌が別なんだ。思ったより強くなったね」羂索は飄々とし、油断も隙も見せない。
上げた腕を元に戻しながら僕は、前のめりになった体勢を整える。「そうやって余裕ぶって。前の僕には逃げられたくせに」
言いながらも、まずいなこれは、と思った。
羂索は真っ直ぐに立ち、頬についた汚れを払った。袈裟の右腕に染みた
「片腕だけしか持っていけなかったみたい」頬を汗が伝う。「次は、もう片方を持ってってあげる」
冗談だ、できる気がしない。
「凄いな」羂索はぽつりと洩らした。嘲笑も、感嘆も見えなかった。
「治せないんだろそれ、僕も驚いてる」
「私も驚いた」
それを聞いて僕は、「ああ」と顎を引いた。「なんだ、キミは僕の術式を全部把握しているわけじゃないんだ」
「貰ってから知ろうと思ってね」
「怖いこと言うね」僕は平静を装って、溜息を吐いた。
次の瞬間には床を跳ねるように、後退する。直径五メートルほどの黒い円が広がっていたのが目に入る。何かしようとしたな。
飛び退きながら、視界に映る敵を確認した。神経を尖らせ、瞬時に。予想通り、円の中央に大きな鯰が一体、そして羂索の周囲を囲む大量の百足。
まずは鯰だ、と思った、そこまではよかった。
頭から被った黒い布で全身を隠したかのような、悍ましい姿があった。いつ呼び出されたのかは分からない。細長い針金じみた触覚が六本、顔面から生えている。複数の大きさの違う眼球がぐりんぐりんと蠢いている。
生理的嫌悪感を抱かなかった、と言えば嘘になる。グロテスクで、不気味さを感じさせた。これも特級呪霊かと気付く。布の下から沸騰した水のように、小ぶりの
こんな気色の悪い術式があるのか、と信じ難い思いで腰が引けたが、すぐに僕も術式の範囲を広げる。予定変更だ。
一匹でも漏らしたら、その瞬間に終わりだとは分かっていた。そういう迫力が、この呪霊にはあった。
負けるはずがない、と僕は自分に言い聞かせていた。増幅し続ける術式の威力を抑えるには、相手はあまりに力が弱い。なだれ込んできた蜚蠊が、僕から離れた位置で、びちゃびちゃと波に飲まれた。
羂索は顔を強張らせ、取り巻きの百足を正面へと瞬時に移動した。
「有為転変」
僕は目の前にかざした手のひらを握り込む。と見せ、突進した。特級呪霊の皮をひと撫でし、脇を通り抜ける。狙いは羂索だった。
羂索は、大男らしからぬ敏捷さを備えてはいた。ただ、飛び込んでくるとは思わなかったせいか、動作が一瞬遅れた。狙ったのは相手の頭だった。
正面を塞ぐ百足を、箒で掃くように一気に飲み込む。呪力が、百足の壁を突き破り、その向こうの羂索へと伸びる。僕は意識を尖らせ、集中した。
呪力の波が羂索の頭から覆い被さる光景が、手のひらを伝って、腕、脳に届いた。呪いが肌に染み込み、更に呪力が奥に入る。その感触が想像できる。
そこで僕は首を下に曲げ、足元を見下ろした。見た途端、背中に冷たい空気を感じた。真っ黒の穴が、果てまで伸びている。全身の毛が逆立って、胴震いをした。直感的に、
「──残念、落ちたと思った?」
気付いた時には、線路の上に仰向けに転がされていた。四肢を放り出している。呪力はほぼ底を尽き、身体の回復が追いつかない。瞼が降りてこようとした時、チクリとした刺激が意識を起こした。
首の後ろに触れるものがある。草の匂いがした。線路の間に枝が落ちていて、それが僕の身体の下敷きになっていた。
花御の残滓だ。
目が潤む。大丈夫まだやれる、と唇を噛み締めた。
「今のは大鯰。挽歌は落ちると思ったんだろうけど、傍から見たら、ひとりでに転んだように見える」と羂索の声がかかった。「呪霊操術の強みは手数の多さだ」
対策を取られてしまえば次を出せばいいし、単純に数の暴力で押し切るのも良い、とも言ってくる。
「悪あがきは終わった? もう、後がないんじゃないかな」
いつの間にかホームの端まで来ていたようだった。無様に倒れたこちらを見下ろしている。
あと二歩、あと一歩、と数え、さらに一歩でたところで、僕は目を閉じた。
閉じると、瞼の裏に記憶が溢れ出た。宿儺について行く僕、裏梅に名前を貰った僕、羂索と話した僕、漏瑚に呆れられる僕、真人に話しかけられる僕、花御に助けられた僕、陀艮を見つめる僕、九相図と遊ぶ僕、そして七海に出会った僕、と豪雨が襲いかかった後の濁流のように、次々と過去の場面が押し寄せた。
意識が遠くなり、空気に溶けそうになったところで、叱咤する。朧気に薄れていく前に、ヤスリで輪郭を誇張するように、神経を鋭敏に研ぎ澄ます。
「それじゃあね」
と彼は言おうとしたのだろう。じゃ、の音までが正常に発音されていた。
空気が変わったのはその後だ。ざぶん、と波の花が咲くような音もした。
一瞬のことだ。
巨大な黒い波が出現し、周辺一帯を飲み込んだのではないか。そう感じる程の大きな呪力の動きがあり、同時に、羂索は身体をどくんと痙攣させてから、その場に膝を折った。
黄色い線の
僕は、羂索を横目で見る。そして力を振り絞って頬を持ち上げた。どうだ見たか、羂索。心の中で、叫んでいた。
なぜ、と羂索が声を出した。いつになく、驚きが滲んでいる。
何が起きているのか、僕だけには分かっていた。
羂索の足元だ。黄色い線の内側に、奴は足を踏み入れていたのだ。
僕があらかじめ、それも真人たちと別れるよりも前に、術式を仕込んでいたとも知らずに。
「────極ノ番、葬頭河」
仕込んでいたのは、限定的に彼岸を展開する、薤露の頃に会得した呪術の最終形態。散々僕のような呪霊の足掻きに付き合わされ、疲労し、消耗し、油断した頃に境界線を跨がせる。それは所謂、三途の川だった。
踏み入れたが最後、此岸から彼岸へ魂を引きずり込む。
こいつに、一矢報いると決めていた。千年前から続く恨みの種だ。その種から芽が出て、根は地面を深く伸び、幹を太くした。年季の入った筋金入りの呪いだ。
「僕の勝ちだ」
ぼんやりとした視界越しに、羂索がこちらを睨む。
僕の意識は今にも散り散りそうなほど曖昧模糊としていたが、なんとか繋ぎ止めて、落ち着いて目を細めた。
「蜂とか、薬とか、アレルギー反応ってあるだろ」
これは真人から習ったことだ。
僕は、地下水路にて真人が得意げに話す光景を思い出していた。薤露で成し得なかったことを、
「大切なのは一回目より、二回目なんだ」
は、と羂索の瞳が揺れた。僕は寝転がったままの体勢で、力を振り絞って腕に力を入れて持ち上げた。
「やっぱり、真人の、言う通りだった。術式の成長には動機と、求道心が必要だって」と呟き、「
羂索はまだ足掻いていた。動かないほうの腕を握りつぶす勢いで、意識を保っている。
引導を渡す、その気持ちで右手の親指と人差し指で“輪”を作り、同様に左手の指を“輪”の形に曲げてから、両手を上下に離す。
「じゃあね、羂索」
ふと、ありもしない光景を想像していた。
羂索と文字通り友達のような関係性で、「こんな世の中滅茶苦茶にしてしまえ」なんてぼやきつつ、限りある生涯や未知の可能性につい憧れてしまう。そんな生活を妄想している。
無いな、うん。ナイナイ。と笑いがくつくつと溢れ出た。
弾かれたように羂索が動き出したのが、見えた。
一矢報いるつもりの、王手をかける感覚で発した言葉であったが、口に出した直後、彼の両手の甲が向かい合い、恐らくそれは掌印で、何かを口にしようとしてくる。
羂索が力を振り絞り、領域を展開しようとしているのだ。
けれど、僕の方が早い。
迫り来る終わりの予感と安堵だけが肌を撫でていく。魂を包み込み、ここではないどこかへと導かれる感覚が、相手を覆う。衆星が明け方の光に飲まれて消えるように、瞼は緩やかに落ちていった。
駄目か、と羂索から諦念の滲んだ声がした。残念がる割には些か清々しすぎる笑みだった。
「領域展開、
急に体が軽くなる感覚に襲われ、身体が炎に包まれるように熱くなり、そのまま灰となって自分の意識が吹かれていくのを、見下ろしている。
*
「どこだ」と思ったが、どこでもなかった。
僕は、宙に浮かんでいた。
身体の感覚がない。そこでまた僕は死んでいるのだと自覚した。
いつも通り自動的に蘇るようなエネルギーは残っておらず、多分、あと一回復活できるかどうかだ。チャレンジする権利程度の呪力と寿命はあるだろうか。
飛ばなきゃ、と僕は思った。なぜかは分からないが、飛べ、飛べと強く念じている。
全身から振り絞るように、体外に力を抽出する心地で集中し始める。
羂索はどうなった。
真人は平気だろうけど、漏瑚は、陀艮はどうしているだろうか、とも思った。
ふわ、と身体が水面から浮上するかのような慣れ親しんだ感覚に安堵し、浮力に身を任せる。「飛べた。チャレンジ成功だ」そのまま顔を上げれば、いつも通り蘇っているだろう。
下の方から足を引かれた気がしたのは、それからすぐ後だ。
そこでどういうわけか、一人の人間と目が合う。
黒髪で、はっきりとした面立ちの若い男は初めて見る相手で、思い当たる節も一切ない。
しかし僕はその男を見て、
*
七海
上半身を捻り、鉈を繰り出す。
相手の手のひらは、後ろに反り返ってかわすか、もしくは鉈で受ける。相手は恐らく本気ではなかった。真人が、七海の脇腹を狙い、横から突き刺すように、鋭い突きを放ってきた。
そのタイミングを見極め、鉈を使った。振り抜いた鉈を、勢い良く逆手に持ち替え、防いだ。真人の変形した腕がそれにぶつかり、がつん、と鈍い音を出す。
よし、と思ったのも束の間、喉の奥から灼熱の液体がせり上がってくる。耐えきれず口の端から溢れるが、鼻を抜ける鉄臭さが不快だった。
もう一度、と七海が鉈を握り締めた時、真人の手がぶれて見えた。何かが触れた、と分かったが、七海が瞬きをして目を開けた時には、手のひらが胸に触れていた。刺すわけでもなく当てられている。
「本当は遊んでやりたかったけど、もう面倒だ」小声で真人が言う。
「そうですか」
「今度こそ、君を玩具にしてやろうと思ってたんだ。挽歌も喜ぶと思って。でも、やっぱりいいや」
「案外、仲間思いだったんですね」
「死にかけのくせしてよく口が回るね」真人は言いながら、七海から視線を外して階段の方を一瞥する。「じゃあね、七三」
その時、七海が向いていた方向からは右手側に、駆け下りてくる人影が見えた。
一瞬のことではあるが、大きく見開かれた目と、視線が交わった。
「一度目よりも、二度目です」とその時反射的に呟いたのに深い意図はなかった。
遺言と呼べるものではなかったし、ましてや任せるつもりもなかった。ただ、以前、挽歌が口にした、一回目よりも二回目なる願掛けのことが頭にあり、それがとても大切な言葉のように思えたため、口に出していた。
「────!!」
声は聞こえないが、名前を呼ばれている気がした。
もう鉄臭さも、焼け焦げた匂いも感じない。体が軽かった。
風に乗った花の香り。仕事終わりの夜の色。森林で深呼吸した時の空気。それらが霧のように拡がって、吸い込んだ鼻から脳の最深部にまで染み渡っていく、そんな風に思えた。
脳の四隅から、虚無感が滲んだ。
自分は何がしたかったのだろうか、と疑問を抱いた後に、死んだら何になるのだろうか、と考えている。「人間もよく、『死んだ人はお星様になる』って言うでしょ」嗚呼、そうだ。「星になる」声には出さず、舌で飴を転がすように呟いた。星になるのだ。
今際の際の幻覚として現れた、既に亡き友人がこちらを見た。指を向ける方向には、なんとも生きにくい人生を歩む
「──あとは、頼みます」
自らの意識が黒々とした奈落へ沈んでいく感覚に襲われる。誰かの声が響くが、真っ暗闇に落ちた七海には、届かない。
*
駅構内の通路の端に、僕は漂っている。断ち切られた改造人間の死体、の山を眺めている。
真人がいた。
誰かに向かって話しているので、てっきり漏瑚あたりかと思ったけれど、違った。
七海だった。
上半身は焼け爛れていて、白いスーツと青いシャツは見る影もなく、溶けて肌にくっついている。
彼らが何を話しているのか、僕には聞こえない。
ただ、最早息をしていることが不思議に思える風体の七海が、「皮肉ですね」と笑みを浮かべるのが見えた。
その時の真人が初めて見る、不愉快という文字を体現しているが如き表情だったから、僕はそこで、これは幻だな、と確信する。
彼ら二人は交戦を始め、鉈と腕が振るわれる。じっと見ていた。
攻撃の余波や、感じられる筈の呪力の気配がなかったので、僕はこの場に存在していないのかもしれない。
一分にも満たない頃だった。
真人が七海の上半身に触れた。まさに、以前僕がされた通りだった。僕の記憶を少し加工して、もう一度流しているのかと勘違いしそうになる。
ゆっくりとした光景に見えた。エンドロールの文字を眺めるように、僕は泰然と見ている。
彼がどうなるのかは、すぐ分かった。魂の形を変えられるのだ。
七海は真人に負けて、死ぬのだ。嘘でしょ、と僕は頭を抱える気持ちだった。わざわざ七海を殺さなくてもいいだろ、とも思った。
トンネル造りの灰色の石壁の傷が、まるで神聖な壁画のようにも見える。七海は呪いに塗れた人生という映画の、エンドロールにようやく辿り着いた、とそう感じた。
絶望感や恐怖は、七海の顔には浮かんでいなくて、どちらかと言えば、重圧から解放されるような晴れやかな余韻があったので、僕は笑った。
彼の声が思い出される。「悔いはない」
あまりに美しい言葉に、僕は負けた気分だった。完敗だ。その胸を衝く颯爽たる悔しさに息を洩らした。
死への恐怖を投げ捨てられるくらいの、大切なものを理解してしまった。そんな今なら、
現に今の僕は、妙な清々しさを覚えていた。これはこれで良いんじゃないか、とどこかさばさばとした気持ちだ。
実態のない細やかな達成感が、僕の内側を灯していた。なぜか、涙が溢れてくる。
あの頃の僕は、
目の前のこれはもしかすると
どういう理屈か、いつも通り蘇ろうとする僕の目に、少し先の場面が垣間見えてしまったのではないか、山あり谷ありの「最後の山」が来たのではないか、勝手なことを考えた。
そうだといい、きっとそうだ、と念じる。
もしそうだとしたら、と僕は続けて考えた。そうか、七海が近い内に真人に殺されるのなら、それを阻止できるのは僕だけだ。なぜならば、真人と僕は隣り合わせだから。
「本当に死ぬことがあったら、キミに一泡吹かせてやりたい」
僕は真人にそう言ったことがある。ならば有言実行の機ではないか。
間違いでもいい。この感情は呪霊としては間違いなのかもしれないが、僕はそれでも良いのだ、とそう思えた。
仮に間違えるなら、「愛」が原因の方が素敵だと言うんでしょ?
適当と言うべきか、無茶苦茶と言うべきか、僕は清々しく素晴らしい気分で、押し付けがましく、そんなことを思う。
「星になる、なんてね」
死ぬことへの恐怖はあまりなかった。僕は今、とても愉快な満足感を覚えているのだが、それを目の前の真人に伝えられないのが、残念だった。
怖がらなくなってしまった時点で、どの道僕は、近い内に死んでいたに違いない。
嗚呼、
頭の中に黒い液体が充満し、次第に、明瞭な部分を埋めつくしていくのが分かる。
心残りはあるか、と最後に自身に問いかける。
強いて言えばなのだが、何度か挑戦したけれど、結局まだ彼に一度も感謝を伝えていないことだろうか、と答えが返ってくる。
やっぱりそれだよね同感だよ、と思ったところで、頭の中が軽くなって何も見えなくなった。
やがてぱちん、とシャボン玉みたいに意識が弾け、僕の意識は魂ともども散り散りになるが、消える直前まで、数々の思い出が次々と瞼の裏に思い浮かび上がるものだから、暖かい空気で充ちていく。
*
七海
音が、鼓膜に届く前に壁に阻まれ、ぼんやりとしていた。ひどく静かだ。辺り一面は灰色一色に統一されている。
とても懐かしい人に会った気がする、と思ったところで、「灰原」と自然に口走っていた。「灰原は」
「灰原?」と誰かが言うのが聞こえた。
振り返るとそこに居たのは、予想していない相手だった。見間違いか、もしくは夢を見ているのかもしれない。
珊瑚色が見えた。
敵意が全くないものだから気付かなかったのだが、こちらに向かって真っ直ぐにやってくる。
その輪郭はどこか朧気で、人の形をしているにも拘わらず、顔だけは認識できない。その位置にだけモザイク処理がされたかのように、ぼんやりとしている。
しかし、確実に知っている相手だ、と七海は記憶を遡り始めていた。
相手が真正面に立ち、ぼーっと七海を見上げたところで、ようやく誰なのか検討がついた。
先程、話題に出したばかりだ。
「残念ながら、その灰原って人には
その時点で、七海は自分が死んだこと、そして、不可思議な空間に滞在していることを察した。
七海の前にいる挽歌は、数秒間だけ沈黙した。謝罪と祈りを込めているかのようだ。
周りには何も無かった。少し前まで地下鉄の薄暗い通路に居た筈なのに、だ。
何も無い空間は、至極穏やかな空気に充ちていた。布団に入り、微睡みに身を委ね、静かに眠りに落ちていく寸前の心地良さに似ている。優しい匂いがした。
不思議な気持ちになる。
七海が今まで、助けられなかった者たちの中には、最後まで苦しんで人生を中断させられた者もいれば、何も分からず絶命した者もいる。死に怯えながら死んだ者も少なくない。
それを考えれば、穏やか極まるこの状況は不公平に思える。
優遇されている、と非難されたとしても致し方がないと納得できるほどだ。
「まさか、死後も会うとは思いませんでした」七海は言った。
「驚いた?」
挽歌はまだ顔がぼやけていた。得意げな表情をしているのだろう。
「これは一体、どういう状況なんです」
「僕、好きなように生きてみることにしたんだ」
「結論から端的に言ってください」
「分かった。キミにはまだ死んで欲しくない。から、蘇らせる」
「どういうことです」
「ほら、やっぱり説明必要じゃん」
「結論から伝えても、過程が複雑すぎます」
この場で最初に対面した時、挽歌は単刀直入にこう言ってきた。
────灰原って人には交代してもらった。
何が起きているのか、氷山の一角ではあるが、察しはついた。
挽歌は、これはにわかには信じ難いことなのだが、七海の死後の魂に干渉してきているのだ。
もちろんいくら生死に纏わる呪霊の彼でも、よし行くぞ、と簡単に実現できるわけがないため、それなりの代償は必要で、それが彼の今の容姿に反映されているのだろう。存在がぼんやりと、曖昧模糊としたものになるくらい呪力を使ったのか。
いやそれは違う、と目を逸らしていたもう一つ選択肢を拾い上げる。
彼はきっともう、真人の言った通り、
いつの間にか挽歌は人差し指を立て、七海に向けていた。すっと下げるとこちらのパンツのポケットを指し示した。
すると、なんとはなしに入れっぱなしだった、赤色の飴玉が熱を帯びる。
「これは」と七海が言いかけた時には、挽歌は宙を掴むように拳を作っていた。
ぱしゃん、と水が跳ねるような、ポケットの飴玉が弾ける音を聞きながら、自分の意識が少しずつと明瞭になるのを感じる。
「実は、僕は死んじゃってるんだけど」
手を下ろした挽歌が唐突に言ってくる。
七海は思わずまじまじと見つめてしまう。心配事が解消し、胸のつかえが下りた雰囲気だった。
「やはり、本当に祓われたんですか」
挽歌が、先程の七海と真人の会話を知っているとは思えなかった。
ただ、七海の思考を悟って同情するように肩を少し竦めた。
「キミも災難だったね、死んじゃうとは」
今際の際で旧友に会えたのは不幸中の幸いかもしれないけど、と付け加えてくる。
「私を死なせたくないからと、蘇らせたいからと、その
挽歌はまた憐れむような顔になる。「そうは言っても、止まろうと思って止まれるもんじゃないんだ。実は今の僕は、キミにあげた飴玉ぐらいの意識と自己制御力しかない」
「傍迷惑な」と七海は青筋を立てる。「やろうと思って、できることでもないでしょう」
「今なら、一回限定でできる」
かつてないほど声は凛としていて、頭の中に直接響いたかのようだ。
有り得ない、有り得てたまるものか、と思う。
なぜなら七海自身が今まで、さんざん痛感してきたことなのだ。
以前廃村で、死者の蘇生はできるのか、と挽歌に向かって発した自分の言葉が頭に過ぎる。
あの時、たしか挽歌はこう答えていた。
「やり方次第では多分、って思ってる」
七海は、挽歌に顔を向けたまま、「あれから習得したんですか」と訊ねた。「以前は、曖昧な答え方でしたが」
ポケットの飴玉はいつの間にか消滅していたが、一部、砕けた残り粒はあったらしい。それが熱を発しているように感じている。
「先程も申し上げましたが、必要ありませんよ」と言いながら七海はゆっくり踵を返そうとする。「正直なところ、情けない話ですが、死の間際になってようやく解放された気分になりました」
結局、自分は何がしたかったんだろうか。粘着質な思考の渦にずぶずぶと呑まれる。
一度は逃げたくせに、やり甲斐なんて曖昧な理由で怨念渦巻く呪術の世界に戻ってきた。
きっと、誰かに必要とされることが、自分の生きる理由だったのだろう。
死んだと直感して一番最初に「ああ」と思った。二つのことを同時に思い、二種類の「ああ」を抱えたまま死んだ。
一つ目の「ああ」は、「ああ、学生たちに負担をかけてしまう」という懺悔だった。たとえ渋谷の事件を乗り越えたとしても、上層部の仄暗いいざこざに巻き込まれれば無事でいられるという保証はない。七海はどちらかと言えば、悲観的な予想を立てる方だった。
二つ目に思ったのは、「ああ、これでようやく終われるのだな」と、そんな情けない安堵だった。望んで戻ってきた地獄を望んで走り抜けたのに、途中離脱に安堵する自分がいる。
視界が陰って見えた。
やっと、これで終わりなのだ、と。
もういい、十分生きた。
「僕の飴玉の柄は、含有する
後ろから呼び止めるように挽歌が言う。
諦めた様子はない。諦めが悪いな、と笑いそうになった。七海自身が拒否しているのに、と。
そのしつこさの分だけ、呪霊側よりは呪術師に向いて見えた。
「青なら地球かもしれない。金褐色なら金星かもしれない」と彼が言ってくる。
「先程から何ですか」七海は振り返る。
「ようやく分かったんだ。赤は、まあ、太陽でも良いけれど、赤色矮星かもしれない。星が膨張して、消える直前に迎える姿。死ぬ寸前。つまり、一番大きなエネルギーが含まれているんだ」挽歌は真剣な顔だった。
そうなのか、と七海は少しだけ考え、「なら、私は特大の生命力の塊を寄越されたということですか。どこの誰から回収された物か、は知りませんけど」と言った。
「うん」
「ハァ。もういいですね」
息を溢した。七海が助けられなかった者たちには、こんな穏やかな空間は与えられなかった筈だ。自分だけ特典が与えられるのも居心地が悪い。
「そろそろ、行きますので」
死ぬのは怖くない。
むしろ、満足感すらある。
「────………、まさか」
挽歌のこれまでの発言が、
もう死んだ後だと言うのに、どうしてまだ仕事をしなければならないのか、と不服に思うところはあった。
止めるべきであるのに、「そのエネルギーを、自分に回したらいかがです」と言ってしまったのは、彼に雀の涙よりは大きい同情心を持ってしまったからだ。
挽歌は、してやったりといった顔でこちらを見る。
「それはもういいんだ」と笑った。「ずっと、僕の術式で、何ができるか考えてきた。それを今、やっと見つけたんだもの。僕の今までは、この時のためにあったんだよ」
ちか、と視界が点滅した。
灰色の視界に極彩色が瞬いて見えた。
「は?」
「七海、呪術師以外でやりたいことある、って言ってだろ。海辺に家を建てて、積みっぱなしの本を読むって」
「ですから、私はもう」
「こんな終わり方、納得できないじゃないか」
思わず口を噤んで顔を見合わせる。挽歌はポケットに手を入れた。
ちかちか、と視界が点滅した。じんわりと色素が染み込んでくる。
「僕は好きなように生きた。そりゃもう、二度とごめんだって思うくらい。それでも、無駄な時間はきっと一瞬もなかったんだって。こんな僕みたいな呪霊にも、
七海からは、しっかりと立った挽歌の姿が──かろうじて輪郭が分かる程度だったから、どういう表情で喋っているのかは分からなかった。
ただ、知る中で最も楽しそうな口ぶりではあったし、春のように暖かで柔らかい視線を感じた。その目尻を和らげ、こう告げてくる。
「こんな
挽歌は言って、そして清々しい笑い声を上げた。
「だからキミも、好きなように生きるべきだ」
ぱっ、と世界に色彩が広がった。
明るくてカラフルな星灯に頭の中が埋め尽くされていく。彩り豊かな星がぱちぱちと走り降り注ぐ。
暗雲のような悩みが風に吹かれるように吹き飛んでしまえば、気分は驚くほど軽くなっていた。
「本当に」と気付けば口走っている。
目を瞠る。本当に、人生に満足したのか。
呪霊に「人生」というワードが相応しいのか、なんて疑問が浮かぶが、それはすぐに無視した。
あれほどまでに死を畏怖し、生きることに執着していた呪霊が、今は自分の命を投げ打ってまで他者を生かそうとしている。
一般企業に勤めていたって、奇跡は起こせない。多くの場合がそうだろう。でも呪術師に戻ったって、奇跡が起こせるわけじゃない。と、過去に挽歌に言われたことがあった。
誰かが死を受け入れることが、「奇跡」と呼べるのか。常識的に考えてどうなのか定かではない。が、一人の呪霊の願いが成就したのは、定義をめいっぱいに拡張すれば、七海にとっては「奇跡」に近かった。
「もう会うことは無いだろうから、これで最後になるけど」
挽歌は言い続けながらも、ずっと愉快げな雰囲気だった。七海もそれ以上、口を挟む気にはなれない。
それから相手は何やら唇をもごもごと居心地が悪そうに、数回開閉を繰り返してから、次のように言った。
「
照れ臭そうに手を振ってくる。
瞬きをすれば次は遠くで小さな光となって、燃えていた。
七海
身体を起こす。
そこで七海は、視界の明瞭さに目を瞠った。
ここで倒れる前、眼球が焼け溶けていた頃の歪んだ視界とは真逆で、澄み切っていた。
駅の重く暗い構内であるにも拘らず、自分が、例えば遠い国の部族の一員であったかのように勘違いしてしまうほど、遠くまで見渡せる気がした。
手のひらを顔の前に広げ、タコのできた見慣れた自分の硬い肌と対面し、二、三度握って開いてを繰り返す。
そこで漸く、全身に伸し掛るような疲労と激痛の重石が、取り払われていることに気がついた。
「お客様、だいぶ、お疲れですね」と以前訪れたマッサージサロンで、まるで素手で石を砕こうとするかのような苦悶の表情を浮かべた店員に言われた台詞を、今思い出す。
あの時は連日五条に振り回され、偶然休暇で訪れた観光地では殺人事件が起き、帰宅後すぐに緊急の任務で呼び出された後だったから、尚更疲労が意思を持って、身体の中で、「激務反対」とプラカードを持ってデモを起こしていたのだろう。もしかすると「五条反対」だったかもしれない。
鎮圧しようと必死な店員と、固く縛られた結び目が解かれていく心地良さを享受していた七海の、対象的な空気の温度差が、部屋の中で戦っていた。
そうではない。
今は、そんな過去のどうでも良い思い出を振り返るタイミングではない。
しかし、そのどうでも良い思い出を振り返ることができるということは、つまり自分が何らかの要因で、回復、いやあそこまでいけば蘇生だろうが、五体満足で送り出されたという証拠だ。と、七海はふと冷静になった。
自分はどうなっていたのだったか。時間はどの程度経ったのか。周りはどうなっている。
一つ思い付けば、形を持った疑問が次々と浮上した。
その疑問が踵を持ち上げようとしてくるため、七海は急かされるように、腹に力を入れ、膝を折り畳み、立ち上がる。
その時、あまりの身軽さに危うく転びかけてしまうほどだった。
そこで、ばさり、と軽い何かが落下した音が、真下から聞こえた。
意識するより先に、反射的に足元に視線を向ける。一冊の本が落ちているのを、七海は見つけた。
表紙は古く掠れていて、ページに至っても酸化と日焼けの影響か、僅かに茶色く変色していた。経年劣化を感じさせる、まさしく古本と言うに相応しい本だった。
「は────、」
以前七海自身が持っていた本で、そしてとある呪霊に押し付けた本だ、と直感で分かった。
何故それがこんなところにと思ったところで視線が、本の上部に固定された。
七海の周囲から、一瞬で、音が消える。
短編の中盤に差しかかる少し前の、起承転結の承にかかるほどで、一枚の栞らしき紙片が挟まれていた。
本に手を伸ばし、腰を曲げて拾い上げる。
栞のページまでぱらぱらとめくれば、そこには、いつしか彼が探していた映画のチケットがあった。
「────なんだ、結局読んでいたのか」と声に出していた。
迫り上がる何かを抑えるために、古本の両端を強く、握る。
「物の扱いは最悪ですけど」と呟き、さらに小さく声を押し殺す。「アナタも、素直じゃない」
顔が強張る。膝が折れかけた。
こんな感情は、呪術師には相応しくない。自分は規則を重んじる呪術師として、正しく、任された仕事を最後まで遂行しただけだ、と自分を説得する。
あの呪霊は、長い歴史にその所業と名を残してきた、凶悪な呪霊だ。祓われて当然の、むしろ祓われなければならない存在だ。
「ありがとう」の言葉に、子どものように目を輝かせる顔が、瞼を過ぎる。
続けて新しい服に袖を通し、くるくると背中まで確認しようとする仕草や、誰かが死ぬのを悼む姿、七海と話す時の楽しげな表情が、次々と上映される。
言いようのない寒々しい虚無感を自覚してしまう前に、かぶりを振った。
誤魔化すつもりは無い。それを
「挽歌」と七海は静かに名前を口にする。
本人が、ひょっこりと現れる気配はない。
代わりに音が耳に戻ってくる。
遠くで轟く地響きが足の裏に伝わり、七海の心臓のある箇所を内側から、目を覚ませよ、と強く殴ってくるようだった。
挽歌の顔が思い浮かぶ。
ほんの少し前まで、淡々と言葉を交わした、残り滓のような朧気な姿ではなく、顔を合わせるとぱっと顔を明るくさせた呪霊らしくない呪霊の姿だ。
「ほんと、素直じゃないね」
悪戯っ子のように揶揄ってきた表情を思い出し、七海は自分の胸がぱしゃんと張り裂け、液体が溢れ出し、その空いた隙間に冷たい風が吹き込み、ちくちくと棘が刺されるような感覚になり、しかも、それに反応するかのように心臓が暖かく鼓動するので、動揺する。
その時に、静かで楽しげな声が頭に響く。「だからキミも、好きなように生きるべきだ」
はっとし、すぐさま、胸元に触れる。とくん、とくん、と一定の速さで鼓動していた。まだ生きている。生かされている。
嗚呼、本当に、他人事のように言ってくれる!
白い地面と道なりに貼り付けられた点字ブロックの境界線が、横断歩道を彷彿とさせた。
確か幼い頃は、周りの同級生たちが、白線を安全地帯に見立て、黒い部分を踏んだら負けだと競っていた覚えがある。
七海は元来それを、安全地帯もマグマ地帯も気にせず、ずかずかと無遠慮に歩くタイプだった。歩けるのだから、マグマも安全地帯も関係ない。自分の思うがままに
「そうでしょう?」
誰に言うでもなく唱える。返事はなかったが、それで良かった。
ふ、と息を吹き零す。軽くなった足を踏み込み、夜が開ける前に、向かうべき場所へ、真っ直ぐと歩き出した。
【参考】
『よだかの星』宮沢賢治 青空文庫
渋谷事変、全五話完結です。残るエピローグまでお付き合いいただけると幸いです。