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(もしよかったら感想も投げて下さると、泣いて喜びます……)
数分は経っただろうか。視界の隅に人影が映る。
おい、大丈夫か、と言った男の顔が歪んだ。
驚きつつも、悲惨な現場に不快感を抱いた面持ちで、顰められた眉間の皺には、隠しきれない恐怖が見え隠れしている。
坊主頭でがっしりとした体格の、例の岡崎という名札を付けた男だ。及び腰で膝も笑っている。過去に何をして少年院に居るのか知らないが、逞しい蛮勇も、この呪霊の前では格好の餌食に違いない。
「どうして戻ってきたんだ?」僕はまずそう思った。
逃がした筈だ。何故ここにいる?
その瞬間、僕は右足をもぎ取られる。痛みのあまり悲鳴も出せなかった。
実際、僕は無防備に地面に倒れ伏していたのだから、攻撃が来るのは予想していた。呪力の交じった血液が流れるのが、見なくても分かる。果たしてこれで何度目だっただろうか。
冷静さを取り戻したのは、怯えていた男が、「こっちだ!化け物!」と大きな声で叫んだからだ。「散々舐めた真似しやがって」と息巻いて、僕から呪霊を遠ざけようとする。
「なに馬鹿なことしてんだ」
その行動は流石に予想外で、僕は必死に腕に力を入れて、上体を起こす。
男が呪霊に挑むなんて、勝ち目があるわけなかった。呪霊は、獲物が増えたことを喜ぶ狩人の目で、僕の足を遠くに放り投げる。嫌な予感がした。呪霊がその場からたった一歩踏み切るだけで、僕らの目の前に現れる未来を予見する。数分前まで一方的な暴力を受けていたことを思い出しかけた。何度も死んだ。すぐに悲鳴を飲み込む。
「ッやめて」
口を挟んで、無意識の内に男と呪霊の間に飛び込もうと片足を踏み切る。
と、そこで呪霊は予想通り、視界から男を遮った僕に向けて呪力をぶつけてくる、かと思いきや、まるで予期せぬ暴発を起こしたかのように、突然
「……は!?」
体勢を崩しながらも天井を見上げると、瓦礫が崩落してきていた。たったの一撃で、大きな破片が次々と降り注ぎ、呆然とする。
僕の上に落ちてくるそれが、ゆっくりした動作に見えて、まるで隕石のようだとぼんやり思った。
衝撃が身を襲う。
「ッ、うぁ、あ゛ッ!」
頭部にコンクリートの塊が直撃し、ガチンと歯が強引に噛み合わさる音と共に、身体が地面に叩きつけられる。雨のように崩落した瓦礫が、山積みになるのが分かった。骨が割れる。内臓が押し潰される。ただ只管に自分の体の上に、瓦礫が折り重なる感覚だけを受け止める。完全に下敷きになり、身動きを取れなくなったところで、漸く崩落は終わった。
意識が朦朧とする。
瓦礫のダメージだけで、ではなく、これまでに細かく溜まっていたダメージがここで一気に噴出したのか、指を微動させることしかできない。
耳に水が入ったみたいに音が膜に遮断されている中で、誰かの声が聞こえた。最初は何を言っているか分からなかったが、段々とそれが、「おい、大丈夫か」と頻りに呼びかけてくる男の声だと気付く。────これはまずい。
頭が急速に覚醒した。
血の気が引く。
嫌な予感がした。
呪霊の攻撃なんかではなく、もっと別の、一番嫌な展開が起きる。
離れろ、と声を出そうとして、喉が切れていることを理解した。ならばと瓦礫を退かそうとして、下半身が潰れていることを知覚した。
頼む、逃げてくれ、という念が通じたのか、男が立ち上がる。
良かった、早く遠くへ!
────ぐしゃり。
そう思った瞬間、スタートダッシュに出遅れた最後の落石が、
呆気なく、男が死んだ。
はくはくと口が痙攣する。瓦礫に押し潰されたまま、僕は場違いにものんびりと思考することができた。
どうして彼が死んだのか。
呪霊の攻撃のせい? 違う。
瓦礫が降ってきたせい? 違う。
ずっと
僕が居たから、こうなった。
僕が何度も死んで、死にかけて、その
僕が死にたくないと思っていたから、男が代わりに死んだのだ。身代わりだ。
視界の端から黒が滲んでいく。抗い難い眠気に襲われ、寒気すら感じる。目の前を塞ぐ瓦礫の隙間から呪霊が、くねりながら近寄ってくる光景を目にしたのを最後に、僕は意識を飛ばす。
*
また別の誰かの声が聞こえて、顔を上げる。僕はその場に立ち尽くしていた。例の呪霊はどこかに立ち去ったらしく、姿は見当たらない。
体が軽かった。引き攣るような痛みも、瓦礫の重みも無い。
いつの間にか瓦礫の外で蘇っていたらしい。
肩をぐるぐると回しながら視線を、隣の瓦礫の山に向ける。赤黒い血液が湖を作り出していた。その中心には瓦礫に身体を潰された男が、目を見開いたまま息絶えている。
どうして戻ってなんて来たのか。いや、本当は分かっている。多分僕を心配したのだと思う。見ず知らずの人物が化け物と対峙しているという事実に、忌避感を抱けるくらいには、男には、人間性が備わっていたというわけだ。
そのせいで、自分が死ぬとは思っていなかっただろうに。
僕は傍らに屈んで、「ごめんね」とまず断りを入れてから、「
立ち上がって死体を見下ろすと、妙な不快さがあった。
分かったことがある。夏油の見解は間違いじゃない、ということ。ただ一つ訂正するなら、僕は無駄な殺生を嫌うのではなく、僕が関わったせいで誰かが死ぬのが嫌らしい。
なんて我儘だ、と自嘲する。しかし僕も死にたくはないから、僕の代わりに誰かが死んでくれるのを、我慢して受け止めるしかないのだろう。これが僕の呪霊としての在り方なのだと、誰かに指摘される前に気付けただけマシなのかもしれない。
立ち尽くしていると、何者かの話し声が近寄ってくるので、僕は咄嗟に部屋の隅の物陰に身を隠すことにした。
「なんだよこれ」と声を震わせると、その人物は丸まった死体に駆け寄る。
息を飲む音と、口元を押さえる音がして、部屋は静まり返る。
「惨い」曙色の髪の少年が遺体の傍らに屈み込む。
「三人、でいいんだよな?」続いて黒髪の少年が言う。
「……え?」僕は思わず声を漏らした。
咄嗟に口元に手を当てて声を抑える。僕の知る限り、死体は二人分だけだ。最初に立ち向かった男の、球体の死体と、岡崎の上半身だけの遺体。
もう一人は逃げられたと思ったが、そう甘くはなかったらしい。
ああ。
口を引き結んで、僕は彼らの観察を続ける。三人いた。茶髪の少女と、黒髪の少年と、曙色の髪の少年だ。皆一様に黒い服装に身を固めている。
茶髪の少女と黒髪の少年は佇まいからして、きっとこういう環境に慣れている人物だろう。曙色の髪の少年は、遺体を持ち帰ろうと提案する辺り、一般的な善良心を捨てられない人柄だ。
だから彼が虎杖悠仁なのだと、察しが付いた。
本来の僕の仕事はこれからだ。一度深く息を吸って吐いてから、意識を切り替える。彼らは何やら口論をしていて気付いていないが、部屋に例の呪霊が入ってくる気配がした。冷静になったことで、僕は落ち着いて、事の顛末を見守ることができる。と妙な自信があった。
まず、視界の隅で一匹の式神が殺された。壁に掛けるハンティング・トロフィーみたいだ、と垂れ下がる血液を見て息を殺す。
続いて少女が、足元の暗闇に落とされる。あれは行きに見た別の呪霊の仕業だ。慌てた様子の少年たちが辺りを見渡し、式神が殺されたことを知り、そして、背後に例の呪霊が近付いていたことに気付いた。
「あ゛ああぁぁ!」
咄嗟に呪具を振るった虎杖の、手首から先が切り落とされた。数秒呆然としてから、悲痛な叫び声が響き渡る。僕は僅かに身を縮こませ、一度物陰に完全に隠れてから、再度顔を出して、細くした目で呪霊を見る。明らかに狩りを楽しんでいる反応だ。
確かにキミは強いが、それでも宿儺には敵わないだろ、と内心を鼓舞する僕は、紛れもなく虎の威を借る狐だった。
その時、また別の声が部屋に響く。
「────断る」
低音で人を小馬鹿にしたような声だ。
「うん?」
妙に聞き覚えがある気がして、僕は首を傾げる。
どうやら宿儺が器の体を通じて会話を交わしているようで、耳を澄まして聞く限り、入れ替わったら仲間を殺すという旨を宣っている。内容は脅しそのものだ。
やはり僕は宿儺に会ったことがあるのだろうか。誰に訊くでもなく、独りでに考え込む。
黒髪の少年が逃げてから暫く、虎杖は、一方的に甚振られ続けていた。呪力の使い方を知らないのか、素手で殴りかかっては弾き飛ばされ、蹴鞠のように壁を跳弾しているのを、僕は見守り続けた。
壁を二枚、三枚と貫通し、虎杖は奥の空間へと吹き飛ばされる。後を追いかけるべく、物陰から飛び出し、穴の空いた壁の裏に駆け寄ってから、更にもう一枚奥の壁の裏に背中を張り付けた。こそり、と背中越しに様子を伺う。
呪力の砲撃を一身に受止めた虎杖は満身創痍で、今にも死にそうな風体だ。
「あ゛ーー!! 死にたくねぇ! 嫌だ! 嫌だぁ!!」俯いて、虎杖は全力で声を荒らげていた。
「でも、死ぬんだ……」
「あ」胸を杭で貫かれた気分になった。
彼の気持ちが、痛い程よく分かった。人の痛みは他人には分からない、とよく言うが、殊これに関しては僕は誰よりも分かり合えると思う。
だってその感情は、
何かにもたれ掛かりたくなり、岡崎から搾取した飴玉を、口の中に放り込んだ。逆立った感傷を撫でるかのような充足感に、浸る。
ここで初めて呪力を拳に乗せた虎杖が、拳を振りかぶる。しかし、いとも容易く抑えられてしまうものだから、思わず飛び出そうかと考えてしまった。虎杖が宿儺に中々意識を渡さないせいで、虎杖が死んでしまう可能性を危惧したからだ。それでは実証実験に辿り着かない。
壁の裏から出ようとした、その時、犬の遠吠えが鼓膜を揺らした。
「──つくづく忌ま忌ましい小僧だ」
同時に、宿儺に切り替わる。その重圧から僕は思わず、口に入れたばかりの飴玉に歯を立てた。
何かを考え込む素振りを見せて、宿儺が顔を上げる。「おい、ガキ共を殺しに行くぞ。付いて来い」と例の呪霊に言って、欠けた指を反転術式で再生させた。
しまった、と油断していた自分を悔やんだのは、唐突に振り返った宿儺の視線が、完全に僕の方向を捉えてからだ。
「そこのオマエもだ。先程から隠れているだろう」
息を飲んだ。
壁に身を潜めるが、冷気のような視線がその壁を貫通しているのか、呼吸が荒くなる。
隠れても無駄だと言外に伝えられた。バレているのだ。
意を決して壁から姿を表そうとした、その時、冷静さを欠いた例の呪霊が宿儺の背後を取る。即座に反応した宿儺は素早い動作で、まず欠損した手首から先を再生してから、呪霊の攻撃を軽々受止めた。僕らでは、見てからでは逃げられなかった攻撃を、だ。
「馬鹿が」と呟いた険しい表情を一変させ、宿儺は朗らかに笑う。そして全く仕方がないやつだ、と呪霊の攻撃を許したのか、片足に体重を乗せて攻勢を解いた、かのように見えた。「ここで死ね」
一瞬にして、宿儺は呪霊の巨体を地面に転がした。床ごと叩き割るようにして、一方的に甚振られた呪霊が下層に落ちる。視界から二人が消えてしまったため、僕も壁から飛び出して、上層の橋からこそこそと見下ろす。
あっという間に、彼は呪霊から腕をもぎ取り、細切れにされた体の部位ごと、呪霊を壁に埋め込んだ。キミもハンティング・トロフィーが好きなのか、と思わず零しそうになったが堪える。
「我々は共に“特級”という等級に分類されるそうだ」宿儺は壁に埋まった呪霊を見上げる。「俺と、オマエがだぞ?」
そして更に顎を持ち上げ、僕を見た。「おい、誰の許可を得て見下ろしている」
不機嫌そうに宿儺が軽く腕を振るう。その瞬間、切り刻まれた足場が崩落する。「え、うわっ」と僕は情けない悲鳴を上げて、下層に落下した。
水場に着地したところで、僕にいくつもの影がかかっていることから、再び瓦礫が頭上に降り注いでいることを悟る。
衝撃が収まり、恐る恐る目を開くと、なんと宿儺が領域を展開するところだった。一気に目の前が暗くなり、視線の先にぼうっと光る赤い社が現れる。屋根の豪勢な意匠が、少なからず禍々しさを感じさせた。これ以上見てはいけない、と警鐘を鳴らす体を宥めて、僕は食い入るように社を見つめることしかできなかった。
立ち上がって、恐ろしさと思考を振り払うように、頭を振る。
そして顔を上げると、僕は何故か切り刻まれていた。
「えっ」
視界がぷつぷつと途切れる。どうしてまた死ぬ羽目になったのだと、行き場のない感情を放出して、目を閉じる。
次に目を開けば、宿儺は、僕同様に切り刻まれた呪霊から、指を引き抜いていた。核を抜き取られた呪霊はその場から気化するように、消えていなくなった。呆気ない最後過ぎて、僕は口を開けたまま呆然と立ち尽くした。
そんな呪霊の最後に背を向けた宿儺が、眉間に皺を寄せる。僕は口を開けたまま、宿儺と視線を合わせる。
「……? オマエは」声音からは隠しきれない不快さが溢れていた。「何故生きている」
「一応死んだけど」目を瞬かせて、僕は口を衝いて出た言葉を止めない。「死んでない」
首を傾けた宿儺は鼻を一度鳴らすと、内側の虎杖の意識に呼びかける。が、応答がないらしい。こちらがゾッとするような笑みを浮かべて、宿儺は再度僕に視線を向けた。
彼は僕を、頭の頂上から爪先まで眺めてから、ほんの僅かに目を見開く。身体中から放っている重圧のようなものを、ひと回りだけ霧散させた気がした。「まさかオマエ、
その言葉に、僕は漸く口を閉じた。
霞がかった記憶が思い出せそうだったからだ。無言を貫いていると、宿儺が「おい」と声を低くさせる。「何とか言ったらどうだ」
「ねぇ宿儺」
呼びかけると、宿儺は腕を組んで言葉を促す。
「僕たち、もしかして会ったことある?」
「は?」
彼は眉間に大樹のような皺を寄せた。やがてじわじわと疑念と愉快さを浮かべて、「そうか」と口角を釣りあげた。「そうか、そういうことか」
夏油と似たような反応をしたな、と閃きを得る。しかし質問の答えになっていない。「何が?」と僕は訊ねる。
「良い、付いて来い」
それだけ言って、宿儺は僕に背を向けて、石の壁に風穴を開けた。豆腐を切り分けるような手腕だ。
「え。じゃなくて、質問答えてよ」
歩き去る背中を追いかける。もう彼に対しては恐怖よりも、疑念の方が大きくなっていた。
宿儺が見上げた風穴からは、曇天が覗く。雨は小雨になっていて、葉を打つ水滴の音は小さくなっていた。「宿儺、聞いてる?」僕は、宿儺が聞いているのか既に分からなくなっていたが、とにかく訊ね続けた。
「相変わらず姦しいやつだな」
呆れて目を細めた宿儺が、やがて口を開く。その一言は、求めていた答えに他ならない。宿儺の物言いからして、これは少々信じ難いことなのだが、僕はどうやら生前の宿儺と面識があるようだった。
では何故それを覚えていないのか、という問題になるが、皆目見当もつかず、その答えを見つけることが目標の一つに加わった。
「……そっか。まあ、その内思い出せるかな」と僕が素朴な感想を口にすると、宿儺が、「今から下のガキ共を殺しに行く」と淡々と今後を説明した。「折角だ、オマエも来い」
「何でよ。嫌だよ、巻き込まれそうだ」口を尖らせ、すかさず答える。
宿儺が僕に視線を向ける。何を考えているか分からない透明の瞳に再び恐怖心を抱き、僕は後退るが、それよりも早く宿儺の手が僕の首に伸びた。「拒否権があると思ったか」
次の瞬間、体が急降下する感覚を覚えた。
宿儺に掴まれたまま、僕は地球の重力に従って自由落下を始める。いや、もしかするとそれよりも速いかもしれない。ひゅん、と腹の内側が浮き上がった気がして、僕は走馬灯を見る。
この無様も、夏油はどこかで見ているのだろうか。
奇跡的に五体満足のまま着地し、宿儺は僕の襟首を掴み直して、そのまま入口の門付近にいる黒髪の少年に近付いた。
さっき逃げ延びた呪術師だ、と一目で思い当たった。
僕は、「離せよ」と手足をばたつかせる。
「そこのガキ、
宿儺がぱっと僕を解放して、黒髪の少年に話しかける。僕が居ては威厳が無いからだろうか、と気の緩みから馬鹿な考えが思い浮かんだ。
少年はひと目でわかるくらい、体を強張らせる。一瞬僕に視線を向けたが、それよりも目を離しては行けない存在に意識を集中させた。
「そう脅えるな、今は機嫌がいい。少し話そう」
そう言って宿儺が、深層心理にいる虎杖の様子を説明する。自分が自由でいられるのも時間の問題だと、余裕を感じさせる口調で伝えてから、徐に僕に視線を向けた。
「物は試しだ」宿儺が口を歪める。
背筋が凍った。彼の次の行動が、何となく読めたからだ。
咄嗟に逃亡を図ろうと、背を向けて、地面を踏み切る。黒髪の少年が息を飲む音が遠くに聞こえる。予想通りなら宿儺は間違いなく、と思考を巡らせたところで胸元に違和感が突き刺さった。すぐにその違和感は引き抜かれるが、次は空虚な喪失感に苛まれる。
たたらを踏む。
勢い付いた足が縺れて、その場に膝を着く。両手で地面を押し返す。
胸元を押さえてみて、続けてその両手に視線を遣ると、真っ赤に染っていた。あ、と開いた口から、ごぽりと液体が吐き出された。
「ッ心臓を……仲間じゃないのか!?」という黒髪の少年の驚きの声で、僕は初めて自分の心臓が抜き取られた事実を理解した。
「見ていろ」
宿儺が、心臓を握り潰す。僕は木にもたれかかって、宿儺の動向を霞む視界で見続けた。
次の瞬間、
「なっ!?」少年が驚くのも無理はない。宿儺は僕の心臓を潰したはずなのに、そのダメージを自分で被っているのだから。
「やはり、呪術師には効きにくいが、その術式は健在か、面白い」宿儺は崩れ落ちた僕を一笑し、「
ダメ押しのように、宿儺は先程入手した指を一本飲み込み、少年との戦闘を開始する。
かひゅっ、と嫌な呼吸音が鳴る。
息が苦しい。もうじき僕は死ぬ。
その負債を代行するのは、恐らく虎杖悠仁だ。宿儺が狙ったのはそういうシナリオだから、虎杖悠仁は間違いなく死ぬ。
宿儺は心臓がなくても耐えられるだなんて言っていたが、到底僕には無理だろう。
痛みを耐えるために歯を食い縛る。真人たちには何て説明しようか、と回らない思考を巡らせた。宿儺の力量を測れたところで、器が死んでしまうとなると、この先の作戦に支障をきたすのではなかろうか。
宿儺に甚振られる少年を最後に視界に入れ、僕は目を閉じた。
願わくば、目が覚めた時にあの厄介な宿儺が居ませんように。
息を止める。
*
夢を見た。
足を踏み外した、という表現の方が近いだろうか。身体に意識を戻そうとして、足が沈み、気付けば夢の中にいた。もちろん、これが本当に夢かどうかは分からない。
僕は、唐突に壊れた町の中に立っていた。
空は暗く、辺りから炎やら煙やらが立ち上っているが、不思議と暑くも苦しくもない。
頭がぱっくりと割れた死体の前に、僕は立っている。足元の人間をぼんやりと眺めている。
遠くに宿儺がいた。彼の隣に人がいるので、てっきり虎杖悠仁かと思ったが、違った。見たこともない白髪の子供だった。少女だろうか。綺麗だね、と言ったら怪訝な顔で睨まれてしまいそうな、鋭い美しさがある。
彼らが何をしているのか、僕には把握できない。ただ、振り返った少女が、「───」と僕に呼びかけるのが見えた。
その少女の口元を見ていても文字が認識できなかったから、僕はそこで、これは夢なのだと確信した。
彼ら二人が移動を始め、瓦礫と化した廃屋の奥へ進んで行く。後をつけるため、足を動かそうとする。しかし、一向に彼らに追いつく気配はなかった。歩く足の感覚や、動く度に受ける空気の抵抗すらも感じられない。
その間も彼らは遠くへ行く。待ってくれ、と言おうにも口の感覚がない。僕が進もうと足掻くと、逆に彼らとの距離が伸びていくようで、すっかり遠ざかってしまった。
どうして。僕も一緒に。足を動かす。距離が伸びる。背後に暗闇が迫っていた。ああ駄目だ、まだ
気付くと景色は消えていた。夢か、と思う一方で僕は、これは誰かの物語なのではないか、と想像した。
*
さざ波の音に安心感を抱く。目を細めて波間を見れば、今日も変わらず陀艮がぷかぷかと揺蕩っていた。
「挽歌」と真人が、僕に言った。彼の上を覆うパラソルが涼し気で、その分だけ冷ややかな空気が生み出されているようにも思える。
「やっぱここは安心できるよ」
目を閉じても同じ感想が浮かんだ。渚の陽気、生温い潮風、折り重なる波の音は、僕の五感全てを落ち着かせる。
「その感想、今はどうでもいいよ」
「ぶふぅーぶぅー」
陀艮がそれに対し、異論を唱えたように思えた。
「じゃあ、何さ」僕が言う。
「夏油、だっけ。その人間の仕事に付き合ったんでしょ。成果を得られたなら聞きたいんだけど」
「儂は止めたぞ」
声がして、視線をそちらに向けると漏瑚が別のパラソルの下に居た。いつもの悪趣味なパイプを咥えている。「挽歌、文句は受け付けんからな」
「そうだったね」真人は手に持っていた詩集を閉じてから、「ほら」と口角を上げた。「報告してよ」
『真人、漏瑚、あまりそう急かしては』花御が口を挟む。
「花御は黙っとれ」
「うん、今は挽歌からの言葉が聞きたいかな。ねぇ? どうだった?」とこちらを見た。
僕は、わざと彼らが囃し立てるような態度をしているのを察していた。どうだったかと訊かれたところで、分かり切っている言葉を吐き出すのは、何だか負けた気がした。「どうだったと思う?」と曖昧に答える。
「濁さないで教えてよ。珍しく挽歌から仕事をしたい、って言ってきたんだから」真人が、身を乗り出す。「どんな意図があったかは、知らないけど」
「嘘つけ」
「だってあの無気力で、頭の弱い挽歌が」真人が悩ましげに唸る。「俺は楽しみにしていたんだよ」
「真人、キミは失礼な感情から生まれた呪霊だったんだね」
「その返答がまた変だし」
僕は顔を逸らして、先日のことを思い出す。
目を覚ますと辺りに宿儺と少年の姿はなかった。離れた建物から激闘の音が聞こえたから、戦場が変わっただけで、恐らく戦闘は続いていたのだと思う。宿儺が意識を保っている限りは、僕の呪いは発動しなかったようだが、意識が切り替わればそうはいかない。
恐らく虎杖悠仁は死んだ。
夏油の考えは知らないが、もし文句を言われようものなら、宿儺のせいだと反論するつもりではある。
「宿儺はすごく強かったよ、殺されたし」
夏油には面倒な仕事を押し付けられた、と言おうとした。
そこで僕は、「あっ」と思い付いて、「分かったことがある」と真人たちを振り返った。それから、「夏油のことは信用しても、信頼しちゃいけない」と漏瑚の顔を見る。
真人はぽかんと口を開け、小刻みに震える肩を必死に収めようとしている。花御は額に手を付き、陀艮は鳴き声を潜めた。
漏瑚が深く溜息を吐く。「どうして溜息吐いたの」と訊ねた。
「……夏油を、いや人間を信頼してはならないことなど」漏瑚が頭を抱える。「……とうの昔に、知っておる」
遂に真人が口を膨らませ、息を吹き出した。
飴玉とかの設定もその内出そうと思います。