あけおめです。そしてお久しぶりです。遅くなってごめんなさい。
伊織は、ああ見えて手先は不器用だ。小学生の頃に家庭科の授業で作ったエプロンのあまりの出来には大笑いした。
伊織は、ああ見えて人見知りだ。人の感情の機微に敏感だから、繕っていない素の状態では気を遣いすぎるきらいがある。
伊織は、ああ見えて義理堅い。サイドエフェクトのおかげでしてもらったことは絶対に覚えているから、本人には気づかれないように必ずお礼をこっそりしている。
伊織は、ああ見えて笑った顔は柔らかくて優しい。周りには張り付けたような薄っぺらい笑みを振り撒いているが、本当の笑顔は全然違う。
伊織を深く気づかう迅くんも、伊織の背中を預かる相棒だった桐絵ちゃんも、伊織へ大きな憧れを抱く双葉も、こんなこと知り得ない。
最近は滅多にそんな姿を見せることはなくなってしまったけれど、それでも稀に、私の前では素の伊織が垣間見える時がある。
伊織が心を落ち着けられるのは、私にだけ。
だから。
伊織のために、私は絶対に、この場所を守らなくてはならないと。ずっと、そう心に決めて────ええ。そのはずよ。それ以外に、どっちつかずの宙ぶらりんな関係を今も続けている理由は、きっと、ないはずなのだから。
☆
「とまあ、そんなこんなあって大規模侵攻で伊織は死にかける」
大規模侵攻の少し前。作戦室を訪ねてきた迅はそう言った。C級を守る役割を与えられて、玉狛と久しぶりに共闘して。行き着く先は、死にかけるほどの大怪我だ。
「肩は脱臼するし、顔の火傷と手の切り傷は多分一生残る。首の傷は、すぐに手術しないと間に合わないくらい深い」
「…………」
言葉だけでも思わず目を伏せてしまった。
ボーダーの隊員が戦いで怪我を負うことは滅多にない。だが、迅の言葉をありえないと断じることは、望にはできなかった。
伊織は他者と自分との天秤のバランスが異常だ。彼がそうするべきと判断したのなら、迷わず自分を蔑ろにするだろう。
「でも大丈夫。打ちどころが良かったのか肩はすごくきれいに外されるから治すのに苦労はしないし、顔や手の傷もそこまで目立つわけじゃない。首だって、頸動脈っていうの?そこは外れてるから、死にはしない。それは確定してるよ」
「……そう」
「だけど、ここからがわからないんだ。後遺症は傷跡だけのはず。なのに伊織は、それ以降右腕がまともに使えなくなる」
何でなのか、加古さんに心当たりあったりする?と迅に問われ、望ははっとした。
伊織には『完全記憶能力』というサイドエフェクトがある。
肩が外れる感触も、火傷を負うときの熱さも、首を切り裂かれる痛みも。それら全て、彼の脳には完全な記憶となって残るのだろう。後遺症は傷跡くらいだ、と迅は言っていたが、それは目に見えるところでの話だ。伊織の中で、死にかけた経験は消えないトラウマになる。恐らくは脱臼した右肩がそのトラウマを思い出してしまうトリガーなのだろう。何かが右肩に触れた時。あるいは、単純に右手を動かした時。引き金となる場面は溢れている。父親のときと同じように、鮮明に、負った傷の痛み全てがフラッシュバックする。だから伊織は、右腕をまともに使えなくなる。
迅になら、サイドエフェクトのことを明かしてもいいのでは、と思う。彼は信頼できる人間だし、伊織のことをよく考えてくれているのも理解している。明かしてしまった方が伊織にとってのより良い未来に繋がるような予感もする。
「私にもよくわからないわね。従姉妹といっても、全てを知っているわけではないわ」
だけど、思考とは裏腹に望は伊織のサイドエフェクトのことを伏せてしまった。どうしてそうしてしまったのかは、彼女自身にもよくわからない。
「………………」
沈黙。迅は何か、頭の中で何を言うべきなのか、言葉を選んでいるかのように推し黙った。
「……そっか。どっちにしろ加古さんには伝えておかなきゃいけないことだったから。利き手が使えないんじゃ何かと不便するだろうし、いろいろサポートしてやってくれ」
(伊織がこうなるのは確定した未来。私はそれを知っていながら、都合の良いときに助けたような素振りをしただけ)
伊織は死にかけるが、死にはしない。それは確定している。あの口振りからして、拐われることもなかっただろう。
つまり、杏の通信で血相を変えて急いだものの、それはさして重要なことではなかったということだ。望が間に合わなかったのなら、他の誰かが伊織を助けていたはずだ。伊織が助かることは確定していて、それを誰がするのかだけが決まっていない。だから迅は望に『伊織の未来をどうこうできる立場にいない』と伝えた。
(伊織は自分と折り合いをつけて誰かを守ることを選んだというのに、私にはできなかった。伊織が傷つくことを見過ごしても、私には)
伊織の未来を知っていながら、それを防ぐことはできなかった。いや。迅の言葉が後押しして、
あれほどの大怪我、苦痛は望には想像することもできない。そして、そうまでして戦っても、伊織に優しい言葉をかける人間は居ないだろう。小南を撃ち抜いたのは、きっとそのためのはずだ。死にかけて、右腕も使えなくなって、それなのに周りからはいつも通り嫌われて。側で寄り添わなくてはいけないはずの自分は、また決断できずにただ傍観している。
迅の言う通りだ。自分には伊織の未来をどうこうする資格なんて、ありはしない。
『これは直接病院へ連れていった方が早いわね。杏、連絡だけお願いできる?』
『り、了解しました!そっ、それで、伊織くんは……その……』
ここまで取り乱している杏を見るのは初めてだ。
『安心して。伊織は死なないわ。これくらいでくたばるような人間に育てた覚えはないもの』
手元を見る。伊織の首から流れる血が、望の腕まで滴って、地面へ落ちていく。
大丈夫、伊織は死なない。呼吸が薄くなってきた従兄弟への焦りを必死に抑えて、望はアフトクラトルの人型二人へと視線を向けた。
「……それで。どちらが私の相手をしてくれるのかしら?」
挑戦的な目で、ゆっくり二人を見つめる。
老人の方──ヴィザはこれといった反応を示さなかったが、女の方が釣れた。
「ふざけたことを……!」
こちらを睨みつけて、言い放つ。
伊織がヴィザを倒したことは、様々な事象が重なって起きた奇跡に近い出来事だ。恐らく、もう二度と起きないだろう。
それを理解せずに自分も番狂せを起こせると思い上がった望へ、ミラに怒りが込み上げていた。
「ふざけたこと……ね」
再び、腕から血液が滴り落ちる。
伊織は意識を失っている。大切な存在を傷つけられて腑が煮えくりかえるこの感情を、隠す必要はない。
「……こっちのセリフよ」
ぞくり、と背筋に銃口を突きつけられたような冷たい感覚がミラを襲う。
ミラが怯んだ一瞬。望は弾丸を周囲に呼び起こす。
「ハウンド」
展開した追尾弾は、真っ直ぐ飛んでいって、ミラを無視して、隣へ曲がっていった。
「ヴィザ翁!」
ヴィザへと向かう弾丸を見て、はっと、ミラは我にかえる。一見するところ、望のあれはただの挑発に思えたが実際は違う。あのやり取りで、ミラに攻撃をするものだと意識に植えつけて、不意を突いた。
ヴィザは生身だ。向こうはこちらのトリガーの仕様──生身の人間には当たっても死なないようになっていること──はわからないだろう。不意を突かれて、ヴィザを守る方に意識を向けるはず。
「小癪……!」
ミラのトリガー、窓の影がヴィザの前方に開く。通るものを任意の場所へとワープさせるトリガーを使って、望のハウンドを吸収し、そのまま跳ね返した。
ヴィザの無事を確認してから、明確な敵意を持ってミラは望へと視線を戻す。ここまで虚仮にされれば、やり返さなくては気が済まない。
と、視線を戻したミラだったが。
視界に映った望は、遥か遠くへと離脱していく後ろ姿だった。
「行かせなさい」
感情のまま前のめりになったミラをヴィザが諌める。
熱くなった心のまま、鋭い目つきでミラは振り返った。
「ですが!」
「深追いする理由はない。我々の最優先は、金の雛鳥だ」
じっと、ヴィザはミラの両目を見つめて外さない。
静かながら、重みのある威圧感のこもった視線が、だんだんとミラの熱さを鎮めていった。
「……失礼いたしました」
遠征艇へと帰還します。そうミラが言って、大きな門が開く。すでに門の中へと入っていったミラを追うようにゆっくりと歩を進めたヴィザは、その傍らで呟いた。
「想像以上に、貴殿を縛る鎖は重いようだ。どうか、潰されてしまわぬよう────」
☆
アフトクラトル、遠征艇。
「あれが金の雛鳥ですか。いやはや、想像以上だ」
ミラに回収され、広間へと戻ったヴィザが見たのは、モニターに映る千佳の姿だった。
アフトクラトルの神にもなり得るトリオンを持つ雛鳥が居る。事前にその情報は知らされていたが、実際にその力を目の当たりにすると想像以上だ。何の小細工もないただの射撃が、ラービットの装甲を軽々と破壊していく。あれは射撃というよりも砲撃と表現した方が正しいかもしれない。
「ヴィザ翁!戻ったか!」
ヴィザの声に反応したランバネインが、声色を弾ませて迎え入れた。
彼はすでに役目を終え、仲間の働きを見守る立場。遠征当初よりも幾分か気楽で、純粋に金の雛鳥のトリオンに興奮している様子が見て取れる。
「ふむ。途中から見れていなかったが、そっちもかなりの死闘だったと見受ける」
ヴィザが生身で居ることの意味を察したのだろう。楽しげな雰囲気を完璧にしまい込んで、ランバネインは言った。
「二度も負けないことは確実ですが、二度も起きないようなことを彼がやってのけたのは紛れもない事実。言い訳なぞありますまい」
そうか、と一言。ヴィザを糾弾するでもなく、相手への捨て台詞も吐くことなく、ランバネインはヴィザの言葉をただそのままに受け取った。
「ヴィザ翁にそこまで言わせるとは。オレも一度手合わせ願いたかったものだ」
「彼らとはいずれまた戦うこともあるでしょう。……その時に彼の姿があればよいのですが」
彼を抱いて離脱した、あの女射手の目。あれはすでに壊れている者の目だった。虚ろで暗く、しかしながら彼を捉えて離さない。一言で言えばそれは、歪んだ愛情を捧げるような目であった。そして何より一番救いようがないのは、それに彼女自身が気づいていないこと。恐らくはこれからが、玄界の曲芸師にとっては本当の戦いとなるだろう。
だが、今となってはもはや、それもどうでもいいことだ。
「して、ハイレイン殿の姿が見られませんが。すでに出られたあとでしょうか?」
「ああ。想定通り、金の雛鳥を捕獲しに行ったよ。隊長手ずからとは、敵ながら同情する」
千佳の放った射撃と、着弾した衝撃が大きな音を立てている。
圧倒的なトリオンを最大級の出力で放つアイビスは、ラービットを粉々に砕いて無力化した。
その様を見て、C級たちの意気が吹き返す。
この調子ならいける、と。多くの隊員はそう考えた。
「まずい……!」
だが、その中で修は一人冷や汗を流した。
一見すれば戦況はこちらに傾いたように思える。だが、そうなっていること自体が修にとっては問題だった。
「え?でも、チカ子が全部倒しちゃいそうじゃ……」
夏目の感想はもっともだ。うまくいけば千佳が新型を全て倒してしまうかもしれない。
それこそが問題なのだ。
修は伊織の言葉を思い出す。
────千佳にトリガーを使わせてはいけない。
その時は切羽詰まった状況を前に、ぼんやりと忠告を受け取っていたが、その言葉の真意がようやく理解できた。
敵はC級を狙っている。それはC級が緊急脱出できないから。アフトクラトルがどこでそれに気がついたのかはわからないが、ともかく今の敵の狙いは訓練生だ。そんな中、桁違いのトリオンを見せる訓練生が現れたとなれば、C級という無差別なものだった狙いが、千佳一人に絞られてもおかしくはない。
そして。
自分一人を犠牲にすればみんなが助かると気がつけば、千佳は迷わずそれを選ぶだろう。
「……!」
一瞬、千佳の砲撃の手が止んだ。青ざめた表情で、どこか虚空を見つめている。
修ははっとした。
「敵……!」
恐らくは千佳のサイドエフェクト。敵をある程度感知できる。
ラービットを倒しすぎたせいで。伊織の忠告を、修がもっと深く考えなかったせいで。更なる敵を呼び寄せてしまった。
「よくやった、ヒュース。ここからは私も参加する」
門から出てきたのは、修が思っていたよりも若い男だった。
ランバネインのように闘気の塊でもなく、エネドラのように鋭い悪意でもない。けれども黒い角を二つ生やした敵からは、何か恐怖のようなぞわりとした悪寒が心の内側から走るような、そんなプレッシャーが感じられた。
「了解しました。マーキングもすでに完了しています」
「
ヒュースの言葉に頷き、人型がその名を放った先。
生物を模した無数のトリオンの弾丸が、C級たちへと襲いかかる。
空からは鳥が。正面からは魚が。能力も、その威力ですらも測れないが、絶対に触れてはならないということだけはわかる。
「なっ……!?」
『なんだこのトリガーは……!?』
だが、敵のトリガーはその恐怖心すらも上回った。
トリオンからなる生物がC級に触れた途端。触れた場所がぐにゃりと曲がって、終いにはC級たちは次々とトリオンキューブへと変えられていく。
千佳の奮闘で再び灯り始めた戦意が、一気に消し飛ばされるほどの光景だった。
「ちっ、千佳!!」
触れた相手をキューブに変えるトリガー。緊急脱出のないC級──千佳には相性が最悪だ。
彼女のもとへ飛んでいった鳥をただ呆然と、大声で案じることしか修にはできなかった。
防ぎ様なんてありはしない。
ここまで頑張ったのに、こんなあっけなく終わってしまうなんて。
諦めかけた、瞬間。
「エスクード」
聞き慣れた声と共に千佳の目の前にバリケードが現れる。
千佳を守る壁となったエスクードに敵のトリガーは次々と衝突していって、小さなキューブとなってぽろぽろと溢れていった。
「よっと」
聞き慣れた声がもう一つ。人型二人を狙って上空から蹴りが。
難なく避けられたが、攻撃の手は止んだ。
「迅さん!空閑!」
顔を明るくさせて、修は二人の名を呼んだ。
京介や千佳が踏ん張って、何とかここまで繋ぐことができた。
そして、少し遅れて、もう一人が空からやってくる。
「あ、あんなに高く飛んだのは初めて……」
「……えっと」
何だか嬉しそうな、よくわからない表情を彼女はしている。
修は初めて見る隊員だ。
「気にするな、オサム。なす先輩はやる時はやる人だ」
「玲ちゃんはメガネくんたちと一緒にC級を」
「了解!」
玲ちゃん、と呼ばれた隊員はすぐに臨戦態勢を整えると、エスクードを飛び越えてC級の方へと走っていった。一歩遅れて、修もそこへと向かっていく。
「おれは?」
「もちろん、遊真はこっちだ」
修と玲はC級を引き連れて、基地の入り口へと退却していった。京介もタイムリミットまでそこに加わるらしい。
残ったのは迅と遊真の二人。そして、敵の人型も二人。
「……うーん、これは予測外」
敵を見る。
片方の人型に見えた未来は迅が予想だにしていなかったものだった。少し、やり方を考えなくてはならないかもしれない。
(向こうの人型はあと一人……。あのワープ使いはきっとメガネくんのところへ行くはず)
アフトクラトルにはワープ使いの女が残っている。他にも向こうの遠征艇には人型が居るのかもしれないが、迅の予知では戦闘に出てくる相手はその一人だけだ。
京介はもうじき活動限界を迎える。信頼しているとはいえ、玲と修でC級を守りながら人型と戦うのは……。
「いや。心配する必要なかったな」
そこまで考えて、ふと見えた未来に迅は笑った。どうやら、迅のサイドエフェクトは心配ないと言っているらしい。
「ラストスパートだ。ここでおれたちが負けたら、今までみんなが頑張ってきた分が全部台無しになる」
「ふむ。そんなに強いの?」
遊真が相槌を打つ。あのキューブに変えるトリガーは遊真にとっても規格外のもののはずだが、相変わらず冷静だ。
「相当ね。だけど、未来は無限に広がってる」
黒い角の人型は、恐らくアフトクラトルの指揮官。そしてもう片方は今後のためにも注意しなくてはならない相手。かなり強い相手なのは言うまでもなく、考えることも多い戦いになる。
だが。それは不覚を取っていい理由にはならないはずだ。
「だから、絶対に勝つ。メガネくんたちのためにも、あいつのためにも」
☆
杏が連絡を入れた病院までもう少しだ。警戒区域はおろか、トリオン兵すら出ないような場所まで来たが、トリオン体は解除せずに全速力で街並みを走る。後で上に何か言われるのだろうが、そんなことはどうでもいい。
……と、走る傍らで。伊織の容態に変化はないか、ちらりと視線をやった時だ。
「メガネくん……たち……は……」
伊織の意識が、戻った。
開口一番が他人の心配だなんて、伊織らしいと言えばそうなのだが。こんなときですら自分のことは勘定に入っていないようで、胸が締めつけられる。
「大人しくしていなさい。傷口が広がるわ」
「あはは……珍しく……優しいなあ……」
「……っ」
はっとして、口を噤んだ。
これ以上、伊織の側へ行ってはいけない。彼の味方をしようとしていると判断されれば、玉狛のように手放されてしまう。伊織から加古隊という唯一の居場所を失わせないためにも、それだけは避けなくてはならない。だから望は、彼の行動には一切口を挟まず、敵にも味方にもならないようにしてきた。
朦朧とした意識の伊織には、やり切れない表情の望はあまり目に入っていないらしい。どこか夢でも見ているかのような朧げな声で、伊織は言った。
「血……止まらへんなあ……。このまま……死ぬんやろか……」
「……そんな弱音を吐いて、伊織の方がらしくないわね」
少しだけ、伊織の口元が笑ったように感じる。
これでいい。マイウェイをモデルウォークする加古望と、己の信念を一人で構わず進む琴吹伊織の道は交わってはいけない。
そう自分に言い聞かせて、突き放すような言い方をした罪悪感を押し殺す。こうするしかないのだ、と。
「なあ……姉貴……」
こちらの方へ首を動かそうとして、伊織は痛みに顔を歪めた。
もうこれ以上、話さなくていい。無理をしなくていい。心がどんどんと、苦しくなってくる。
「俺……頑張った……かな……」
「……っ……!」
望の表情が、さらに辛くなる。
素の伊織の弱々しい声が望の心に届いて、どうしようもなく胸が痛んだ。彼が怪我をしていなければ、今すぐ強く抱きしめていただろう。
口が震える。優しい言葉をかけたくなる衝動を何度も堪えて、何度も唇を強く噛んだ。
「…………」
「伊織?」
返事はない。再び意識を手放した伊織を見て安堵してしまった自分に、ひどく嫌悪感を覚えた。
一番近くに居ながら、伊織が道から外れることを防げなかった。一番近くに居ながら、道から外れた伊織を救ってやれなかった。
伊織に何かをしてあげられたことは一度もない。彼をボーダーに入れた目的も結局、決断できずに果たせなかった。
自分には、伊織を真っ当な道へと戻す能力も、資格もない。幼かった頃から今日に至るまで、望の胸の奥底に秘められた感情は罪悪感と無力感だ。マイウェイをモデルウォークする、なんて言われ方をするような生き方になったのは、その反動────というのは、都合のいい話だろうか。
もう、伊織が帰って来られる場所は加古隊だけだ。あれだけ楽しそうに過ごしていた玉狛も手放してしまった。
だから。せめてもの償いとして、この場所は守り続けたい。そのために、伊織の敵にも味方にもならない、どっちつかずの関係を続けている。
伊織と共に過ごす中で、望も彼との関係を積み違えてしまった。もはや正しいところへ戻すことは出来ないくらいに高く、歪んだ形に。
「……頑張ったわよ。他の誰よりも、ずっと」
それをきちんと伊織に言えていたのなら。伊織に悲しい未来は訪れなかったのだろうか。伊織が苦しむことはなかったのだろうか。
時間は誰にとっても平等に、無慈悲に過ぎていく。人は誰だって、変わらないままではいられない。遊真と出会って、修を助けようと動いて。小南に再び背中を預けて、今までにない大怪我を負って。望の手の届かないところで、伊織を取り巻く状況は大きく変わっていった。立ち止まって現状維持を望んでいるだけでは、いつかその変化に置き去りにされてしまう。そんなこと、わかっていたというのに。
望は知る由もない。迅が彼女に伝えた未来は、まだほんの一端でしかないことを。だが結局のところ、あの時望が決断できなかった時点で。立ち止まってしまった時点で、遅かれ早かれその未来が訪れることは決まっていた。
どれだけ別の部分を切り取っても、結局のところ行き着く先は同じ。それはまるでフラクタルのように単純かつ複雑で、まるで三門市を覆う雲のように澱んで、心に覆い被さって灰色に染めている。
新型討伐数、6体。人型撃破数、1人。誰しもに避けられる嫌われ者が、誰かにとっては正義の味方だったかもしれない戦いは、それだけの数字を残して幕を閉じる。