こちらは以前千聖さんの生誕祭の時に書くだけ書いて投稿しなかったものです。よろしければお読みください。当然ではありますが、『Resets』とは別の世界線となっております。
なんとも言えない気怠さが何一つ衣服を纏わない私の体をぼんやり包む。ほんの少し眠る前は高揚感すら感じていたはずなのに、目覚めた途端感じるのは肌寒さと体にしつこく纏わりつくような倦怠感。生まれて初めて味わった異性の味は最高級のレストランのシェフが作るコース料理よりも美味しい、なんてことはなく、けれども全く料理を知らぬ人間がレシピを一切見ずに感覚だけで作ったゲテモノ料理より不味い、なんていうこともない。ほんの僅かにでも心を許していた人間だからだろうか、何故か母親の作る料理を口に運んだ時のような安心感があって、何も特別な感覚を味わうことすらなかった。
そんな温かさは転寝の間にどこかへと立ち消えてしまって、むしろ脚に絡みつく汗の染み込んだどこか硬いシーツへの煩わしさだけが残っていた。
曲がった脚を伸ばして、シーツを半ば蹴とばすように払いのけて、重たい体で無理やり寝返りを打ったが、完全に私の顔が左を向くことはない。私のやけに白く冷たい肩が隣で眠る彼の上腕を叩いたのだ。
2ヶ月ぐらい前のことだろうか。前任のマネージャーさんが他のタレントの担当に異動になるからと突然私の前を去った。Pastel✽Palettesとして活動する"白鷺千聖"のマネージャーさんは変わらないけれど、女優として活動する"白鷺千聖"を新しく担当するのは、なんでも芸能界の「げ」の文字すら知らない完全に新人のマネージャーさんらしい。
彼は私より三つか四つほど歳が上らしく、顔合わせの時の挙措や言葉遣いこそまだ歳上の貫禄を保ってはいたが、いざ現場に出るとやはり歴がモノを言う芸能界、そのような下手に作り込んだ見せかけの立ち居振る舞いはあっさりと崩れ落ちてしまっていた。最初こそ新人だからと大目に見るつもりでいた私も流石に彼がスケジュールの調整を一つ完全にすっぽかした時は辟易してしまったものだ。ところがこの男、他の人の目があるところでは真面目なナリをしている割に、私と二人きりでいる時はそんな風にやらかした時でさえ不遜な態度を取ってきたのである。
『……あなたねぇ、自分のミスだと言うのによく謝罪の一つもなくそんな態度が取れるわね?』
『まぁ、ミスは誰にでもあるものなので』
少なくともそんな台詞は、ミスをした張本人が吐き出すようなものではなかろう。
『あなた本当にやる気があるのかしら?』
『別にやりたくてやっているわけではありませんので』
実に腹の立つ物言いである。タレントとして活動している以上マネージャーという存在と仕事を共にするのは慣れたものである。今まで何人ものマネージャーさんにサポートしてもらってこの女優の道を歩んできた。今となってはアイドルという選択すら取っているのだが、そんな私のそこそこ長いタレント人生を振り返ってみても、この目の前の男のようなマネージャーは見たことも聞いたこともなかった。
だからこそ疑問に思うであろうことは、なぜこんな才能のかけらもないような男がマネージャーになることが出来たのかということであろう。マネージャーという世界は意外と入れ替わりが早い。二十四時間タレントのサポートをしなければいけない、なるほど、これはすぐ嫌になって辞めていく人が多いばかりに人材が足りないわけだ。
ともかく、私はそんな酷く無能なマネージャーと仕事を共にすることになったのである。
私も最初はこんなやつどうせすぐ芸能界の厳しさに打ち拉がれるだろうと思っていた。しかし意外なことにこの男は、なんだ仕事でミスをしようと、事務所の他の社員に怒られようと、私には全く嫌な顔一つ見せずに淡々と自分のなすべきことを熟していた。まぁその出来が決して良いものであるとは言わないけれど、出来ないならば出来ないなりに努力はするらしい。
そういうところが見えるからこそ、だからこそ、私は本当に、心底この男が嫌いで嫌いでたまらなかった。
『白鷺さん、どうかされましたか?』
『……いいえ、気が散るから話しかけないでくれるかしら?』
『……そーですか』
あぁ、本当に腹がたつ。何度思ったことだろうか。
私が、白鷺千聖が、これからも競争激しい芸能界で生き残ろうと思えば、何一つ無益なことはしていられない。少なくともパスパレのみんなに出会うまではそう思っていた。今となってはパスパレのみんなと過ごす時間は、私にとって、白鷺千聖にとって必要不可欠な時間なのだと分かる。
でもこの男と過ごさなければいけない時間は本当に何の意味があるのだろうか。この男が白鷺千聖の成長に、活躍に利してくれたことがあるだろうか。正直今までの彼の働きぶりを見て、それに肯定することはできなかった。
彼が私の担当になって一ヶ月と少しが経った頃だろうか。私はこの無能マネージャーと共にある事務所に呼び出された。この男がいるというだけで不思議とため息が湧き上がってきて、私はそれを躊躇うことなく吐き出すのだが、こいつは意に介さない様子であった。それがまたたまらなく私をイライラとさせるのだが、私のそんな呆れも混じった思いはその事務所の所長のある一言で、一瞬にして霧散した。
『白鷺くん。このオファーを君に出そうか迷ったんだけどねぇ。枕って、分かるよね?』
『……ぇ』
……正直、こんな日がいつか来るのではないかと思っていた。芸能界で生きる上では一度も聞かないというわけにはいかない、『枕』という悪魔のようなフレーズ。私とて未だ穢れなき齢18の乙女である。喩え演者になれるとて、そのような現実をそっくりそのまま受け入れられるほど成熟した女ではなかった。
だから、その三文字の悪魔が、ねっとりとした悍ましい声が脳に嫌に反芻して、私は掠れた声を上げることしかできなかった。
その一方で、声には出さずとも私の心には確かに一つだけの小さな火ではあるが、野心に呑み込まれてしまった思考が燻っていた。
もしも私がそのたった一度の営業で、今とは比べものにならないキャリアを築けるのなら?
もしも私が泥臭いキャリアを積むことで、パスパレが更に輝かしい舞台に羽ばたけるとしたら?
私の汚らしい欲望塗れの煩悩は私に純潔を捨てろと低く囁いてしまっていたのだった。
けれども私の心の中にある矛盾した思考は言葉に表すのは難しく、私はただ押し黙ることしかできなかった。だから、静寂を切り裂いた彼の姿が、今もこうやって瞼の裏に鮮明に焼き付けられているのかもしれない。
『……すみません、白鷺は体調が優れないようでして。ここからの話は私が代わりに』
そう彼は口早に告げると、部屋の出口へと私の背中を押して、私にしか聞こえないような小さな声でこう囁いた。
『私に任せて、建物の外に先に出ておいてください』
私はゆっくりとおぼつかない足元を確かに歩むように部屋から退出した。きっと彼は淡々といつものように仕事を熟すのだろう。これで私の純潔は失われるとしても、私はさらに女優の高みに歩き出すことができる。これまでとは比べ物にならないほどに。そう信じて、部屋の扉をゆっくりと閉めた。
建物の外に出ろと言われたはずだったのに、私はなぜかそれだけで呆然としてしまって、私の綺麗だったはずの涙が一筋だけ溢れた。これが正解なのか分からないけれど、私はこの道を選んだのだから後悔はない。
……そう思い込もうとして私は顔を上げたのだが、どうにも真っ暗で、それがどうにも恐ろしくて、ヘナヘナと閉めたばかりの扉に寄りかかってしまった。
でも覚悟はしていたことだったから、そう思って割り切ろうとしていると、不意に私の耳は余計に働いてしまった。私は聞かなければ良かったのかもしれない。そうすれば、単に彼が仕事を失敗してしまったと割り切って元の世界に戻れたのかもしれないのだから。
『それでマネージャーさんかな。この仕事、受けてくれるんだよねぇ?』
『……』
『……どうして黙っておられ『残念ですが、引き受けるわけにはいきません』……なに?』
『白鷺は私の大切なタレントです。彼女を壊すような真似は、私には出来ません!!』
『……まぁそうかい。残念だが君の事務所にもうオファーを出すことはないよ』
『失礼します』
耳を疑った。それと同時にスタスタという足音も聞こえてきて。どうしたらいいか分からなくなった私は思わずドアを開けてしまった。
『待ってください! ぜひその営業、私にさせてください!』
私はこの時泣いていたのだろうか。どんな面をしていたのだろうか。全く今となっては思い出すことも出来ない。
『これはこれは白鷺くん。そうかいそうかい。白鷺くんが乗り気でとても嬉しいよ。で、マネージャーさんや。君の大切なタレントとやらはこう言っているようだが?』
『……』
この時が初めてだろうか。彼から睨まれたのは。それも当然だろう。彼の優しさを完全に無下にしたのだから。
でも、同時に、彼が私に微笑みかけてくれたのも、初めてだったに違いない。
『白鷺さん。戻ってと言ったはずですが』
『えぇ、ごめんなさい。ですが、このオファーは是非、私が、白鷺千聖がお受けしたく思います』
『はははっ、嬉しいなぁ。では早速今日にで『黙れ!!』』
一瞬の、聞いたこともないような大声が耳を劈いた。
『うちの千聖にそんなことはさせない!!』
『なっ……』
完全に惚けたままの所長とやらを尻目に彼は私にツカツカと歩み寄ると、私の震える手を掴んで、部屋から出て行ってしまった。
建物に入った頃には夕刻であったはずが、気がつけばあたりは暗くなっていた。自分でも体感していなかったほどの時間が過ぎていたらしい。けれどそんなことよりも、私は怒りと困惑の感情に苛まれて、それを彼にひたすらぶつけていた。
『どうしてあんな態度をとったの?! 私が枕をすればそれで良かった話でしょう?!』
『だから絶対に枕なんてさせないって言ってるでしょう!!』
思えばこうやってまともに話したのも、気持ちをぶつけ合ったのもこの時が初めてかもしれない。
『どうして……! 私はもう……覚悟出来てた……のに……ッ』
これからのことに対する不安と、どうしようもない脆い覚悟が簡単に崩れ去ってしまった自分の弱さが私をせき立てた。どうして……こいつはいつも私の邪魔ばかり。
『覚悟出来てるやつはな、そんな風に泣いたりなんかしねぇんだよ』
『……!』
あぁ、そうか。私は泣いていたのか。きっと涙となって流れ出したのは、私の中に溢れ出した負の感情のせいだろう。
『だって……だってぇッ……!』
不意に、私の体がポッと暖かくなる。優しい腕が、私を包んでいた。決壊した涙は彼のシャツに染み込んで、冷たさを感じさせるほどであった。けど、そこが嫌に心地よくて顔をうずめるほかなかった。彼は何も言うでもなく、赤子をあやすように背中を叩いていた。
あぁ、そうか。私は泣いているんだ。このどうしようもなく温かで優しい、私のことを守ってくれる存在のせいで。ただ安らぎをくれる、こいつのせいで。
あぁ、そうか。私は壊れてしまったんだ。この嫌でたまらない芸能界という大穴から私を救い出してくれるこいつのせいで。
私はもうどうすればいいのか分からなくなって。ただ初めて感じたこの感情の赴くままに、溺れてしまうことにした。
その夜私は、無理矢理彼の住む家に押しかけて、無理矢理純潔というものを捨ててしまった。どうせ捨てなければならなかったかも分からないものなんだ。捨てたところで後悔はない。
彼は初めて謝ってくれたけれど、私は謝って欲しいんじゃない。ただ得体の知れない愛の形を教えて欲しかっただけなんだろう。
「……千聖?」
「ごめんなさい」
愛を育むホテルのベッドの上で、私の隣で呑気に寝息を立てていたこいつのせいで。
こいつが守ろうとしてくれた私は、今日も壊れ続ける。
今日はどう狂おうかしら。口づけの余韻に溺れていく。
私の紡ぐ謝罪の言葉の意味は彼には届かない。
けれど、壊してくれて、ありがとう。