戸惑いは、お互い様。
そんなあの日を、裏側から。
初々しく、そして。
日本に残って今まで通り英明に通う、というのはかなりの難題だった。学区内に都合良く親族がいる筈もないし、お母さんの旧友だという人が受け入れてくれなければ、結局私は渋々家族と一緒に行く事になっていただろう。私一人で家に残る、というのが許されない以上は。でもその家に一つ下の男子がいると知ったときは、さすがにちょっとたじろいだ。そりゃ魅力に欠けるワンパクでたくましい子ではあるけれど、あるけれども。……あるけれども、やっぱり怖い。それを振り払ってくれたのは、お母さんの言った「猪股さん」という言葉。
いのまた、さん。いのまたたいき、くん。思い出すどころか忘れようがない、私が日本に残る切っ掛けをくれた子だ。詳しく聞けば、確かにそのうちの子は「たいき」という名前だとか。私も小さい頃あっているらしいけど、正直それは覚えていない。とは言え、だ。もしそれが、そのまま「いのまたたいき」くんだったなら。――上手くやっていけそうな気も、しないでもなかった。
でも私たちはそれこそ、知らない同士だ。ついこの間まで、顔くらいは知っていても精々朝練で挨拶をする程度の関係でしかなかった。知っている事は殆ど無いし、知らない事は山ほどある。きっとこの先も、多くを知り合う仲にはならないと思う。まあ、とりあえず恙無くやっていければ良い。そういうのは、得意だから。
他人の家のお風呂というのは、落ち着かない。やることは変わらないけど、動線が違うから戸惑う。いつも通りに下着を洗っていても、はてこれをここへ干しっぱなしにできないし部屋まで濡れたまま持っていって良いものだろうか、とふと悩んでしまう。他の衣類は任せても構わないようだけど、こればかりは実の親にさえ弄られたくないものだし。
それに一応実家で使っていたボディソープやら何やらは一式持ってきたけれど、置き場がちょっと困る。毎回部屋にもって上がるのも、なんだかここの人たちを疑っているようで感じが悪い。どうしよう、かな。
なんだかんだ考えながら、それでも。湯船に漬かれば、気持ちは良い。入れてもらえば気持ちは良いがほんに気兼ねな貰い風呂、ってこういうことだろうか。違うかな。お湯に身を沈めながら、これからの事も考えてみる。
ここの人たちは、優しい。私をまるで家族のように、温かく迎えてくれる。でも正直、ちょっと難しいかもしれない。私はどうも、こういう温かさへの耐性が低いようだ。気を抜くと、どこまでも甘えてしまいかねない。それはきっとお互いに悪くない事かもしれないけれど、そうなって行けば行くほど別れの時が辛くなってしまう。
――二年、なんだ。その間だけの、仮初めの家族。私はここに、ずっといられるわけじゃない。私が去ったときに、ここの人たちが哀しむような事にはなって欲しくない。ちゃんと距離をおいて、節度ある関係を維持しなければ。
……と、思っているのに。お風呂頂きました、と報告した私は「ついでだから大喜に、お風呂入るように言っておいてくれない?」と由紀子さんに頼まれてしまった。居候初日で、早くも親戚の子扱いされているんだなー……と。まぁ、隣の部屋だし確かに「ついで」ではある。でも――大丈夫かなぁ、と自惚れた事も考えてしまう。こんなガラッパチな子相手に、良くない事を考える男子なんかいないだろうけどね。よほど特殊な趣味の子でもない限り、特になにも起きやしない筈だ。……でもなあ、男子だしナニかしてたらどうしよう、とか思いながら、それでも。頼まれた事はちゃんとやろう。居候として。
マナー通りノックして、名前を呼んで。
「お風呂どうぞ、っておばさんが」
と言いながらドアを開ける。部屋にいた大喜くんは、特にナニかしてはおらず、普通にジャンプを読んでいた。ああ、普通にしててくれてよかった。
部屋のなかはシンプルで、オトコノコっぽい感じ。ああ、大喜くんはオトコノコなんだなーとなんとなく実感する。そう、大喜くんはオトコノコだけど、怖い感じはしない。こう言ったら怒るかもしれないけど、どこか可愛い。普通の子で、もし私に弟がいたらこんなかなーという感じ。
正直、ここにいるのが大喜くんで良かったと思う。いくら親同士が仲良くても、ここは私にとって他人の家。朝練で良く会う大喜くんが、オトコノコだけど優しそうな大喜くんが、弟みたいに可愛い大喜くんが、ここにいてくれて良かった。それだけで、安心できる。
役割を果たして、私は今日からの居場所である自室へと入る。荷解きもまだ半端だけど、とりあえず最低限の荷物は出してあるからさしあたって問題はない。
ベッドに横たわり、明日を思いながら目を閉じる。明日も、朝練だ。明日も、大喜くんと学校で会う。……そうだ、日本に残れると分かった日にミサンガを作ったんだ、大喜くんはそういうの着ける子だろうか。渡してみようかな、なんて。きっとすぐに切れてしまうだろうけど、それで良い。そういう程度の曖昧な仲で、良いんだ。私たちは、それで良い。
まだお風呂にいるであろう大喜くんへ、心のなかでおやすみを言って。
私は新しい家で、最初の眠りについた。