控えめなノックの音に、山本は入室を促す言葉を掛けた。
意識を取り戻したということで行われた医師の診察も終わり、父も店のことがあるため帰宅した。否、彼自身は命すら危ぶまれる怪我を負った息子についていようとしたのだが、当の山本が帰したのだ。
その理由こそがこの来客だと言っても、過言ではなかった。
「こんにちは、山本君。快復何よりです」
「……レイ、お前だけ、か?」
「ええ」
病室の扉を開けたレイは、山本の疑問の言葉に淡く微笑んで肯定の意を返した。
そして携えていた無骨なアタッシュケースをベッドサイドのチェストに置き、自身は丸椅子に座る。
「ツナ達はどうした? シモンは、カオルは?」
開口一番尋ねるのは、やはり友のこと。
意識が回復した山本の頭を占めたのは、彼らが今現在どのような状況に置かれているかという不安だったのだから当然のことである。
水野薫に襲われる直前の遣り取りから、シモンがボンゴレ、ひいては綱吉達に危害を加えようと企てているのだと、山本は勘付いていた。
しかし、ダイイングメッセージよろしく書き残した血文字もその役割を果たしたかは怪しい。
かと言って、父にボンゴレ絡みのことを伝えるのも躊躇われる。
故に、山本武は彼女を待っていたのだ。
レイもそれは理解していたのだろう。
否、彼女のことだ、理解していなくては
微かに湛えていた笑みを吹き消したレイの、深く昏い青が山本を射抜く。
「少し、長くなります。楽な体勢で聞いてください」
その前置きの通り、確かにその話は長かった。
ある意味では山本の予想通りで、けれど想像していた最悪よりは余程マシな現実に唇を噛んだのは、一瞬。
「そこにあるのがオレの
「ええ。………やはり、行くのですね」
ころりと表情を変え、興味津々といった様子で開かれたアタッシュケースの中に鎮座する原石を覗き込む山本に、レイは表情に僅かな曇りを滲ませた。
「ティアの身体補助機能が生きていれば、貸し出せたのですが…」
「ん? 使えなくなったのか?」
「ええ。
メローネ基地攻略から現代への帰還まで彼女のトレードマークだったあの氷の蔦は、もう使用できないらしい。
サポートを受けられないことが確定したというのに残念そうな様子は欠片も見せず、
「そう言えば、レイ」
「なんでしょう」
「オレって死に掛けてた……んだよな?」
「ええ。もし意識を取り戻したとして、二度と歩くことは叶わない体になっているはずでしたね」
山本が何を言いたいのかを瞬時に察したのだろう彼女は揶揄うように、手術後時点での医師の診断を告げる。
数時間前に父共々聞いた医師の話と矛盾するそれに、山本は眉を寄せて口を開いた。
「ここまで回復した理由って、訊いてもいいのか?」
「………構いませんが、驚いても叫ばないでくださいね? ここは一応病院なのですから」
妖しく微笑むレイの言葉を、山本が守れたのかどうか。それは二人のみぞ知る。
◆
日本からそう遠くない海域に停泊する三隻の船。中央の船の横には比べるまでもない程小型の船が横付けしており、大型の船から縄梯子が垂らされている。
「ふ〜、やっと到着なのな…」
「見た時点でわかりましたが、大きいですね。
縄梯子を登り切った山本はぐいと伸びをし、彼に続いて
二人の到着の報を聞き、船室から出てきていた老人がマイペースな子供達に声を掛ける。
「山本君、松崎君!」
「
「すんません、遅れました!!」
「いやいや。回復したようで何よりだ」
「さっきヘリが飛んで行ったが、あれは…」
「雲雀君の物です」
「もうちょい待ってくれれば、オレ達も一緒に行けたのになー」
レイがニー・ブラウ
群れることを嫌う雲雀は、レイと山本も彼と同様にシモンの聖地に向かおうとしているとディーノが伝えていたにも関わらず、単独で並盛を
お陰で二人はディーノが手配した船で彼を追い掛ける羽目になったのだ。
談笑などしている場合ではないと会話をそこで打ち切り、レイは三隻が揃って舳先を向ける島へと視線を向ける。
「……あれが、シモンの聖地ですか」
「ツナ達はあそこにいるんスよね」
「ああ。四日前に向かったが、電波が遮断されているのかその後連絡は取れていない。それと、我々が到着した当初、島は周囲に空と海面を映すことによって隠されていた。今見えているのも、島本来の姿ではないかもしれない」
「幻術の応用、その一種ですね」
ガナッシュ・
「島の何処かに術の基盤を置き、それを使って簡単な操作ができるようにしているのでしょう…素晴らしいです。まさかこんなものがあるなんて」
その声に含まれるのは、驚嘆と手放しの称賛。そこからは、同じ術を操る者としての先達への敬意すら垣間見える。
「えっと……凄い、のか?」
「凄いです、とても。文献で言及されているのを見たことはありますが、理論上の代物に過ぎませんでした。それを創り上げただけでも凄いのに、あれは恐らく百年以上稼働し続けています。……永く創られた時のまま形を残すというのは、それだけで“凄いこと”なのです」
まるで創られた時の形から変わってしまったものを知っているような言葉に、山本は島へと向けていた視線をそっと隣に立つ少女へとやった。
深い青の双眸は潤んでいるように見えたが、きっと光の加減でそう見えただけだったのだろう。
一度瞬きをすれば、そんな気配はなくなっていた。
「……松崎君。いや、レイ君と呼んだ方が?」
「できればそちらでお願いします。松崎の名は自分のものと思えません」
「そう、か。では、レイ君」
酷く神妙な様子で、9代目はレイと言葉を交わした。
普段の彼が好々爺然とした穏やかな態度で、けれど人心を擽る巧みな言葉選びを躊躇わないことを知る守護者達は驚きに声を漏らす。
しかし、9代目の心に迷いはなかった。
何故なら彼は、既に知っていたのだ。
マフィアとしての思想を強く持つ自身の守護者達を見て、彼女が慈しみと残酷さに彩られた表情をする理由を。
「……貴女の兄君の日記を、読ませていただきました」
反応は、ただ目を細めるのみ。
「仲が、よろしかったのですな」
「───ええ」
ゆるり、と唇が綻ぶ。柔らかく目尻が下げられて、血色のない頬も淡く染まる。
両の手は大切な何かを失うまいとするかのように、胸へと添えられた。
「自慢の兄で、王でした」
誇らしげに、愛おしげに、そして懐かしむように。
告げるのは、ただ一人だけの大空への思い。
彼女が与えられただろう愛情に覚えがある彼は、レイの言葉に何処か悲しげな表情を浮かべる。
そんな9代目を真正面に見据え、レイは再び口を開いた。
「
底無しの深い青が鏡のように、9代目の姿を映す。
「此度の一件の責任は、貴方達にも、
故に───この件による罪咎は、全て私が負いましょう」
その双眸は、冷たく、昏く、深く。
けれど、何もかもを背負う覚悟を湛えている。
己を射抜いた眼差しの強さに息を呑みながら、9代目は既視感を覚えていた。
そして記憶の海を
忘れようもない、あの日だ。
血の繋がらぬ我が子を迎え入れるどころか、老いた
ボンゴレリングを継承するための試練において、若き日の彼を見定めた朝焼けの双眸。
自身にとっては遠い先祖であり、心より敬う始祖であり。
そして、目の前の彼女にとっては心からの信頼を向ける兄たる、一人の青年のそれ。
再認識───否、本当の意味で悟る。
この、己の四分の一も生きていないだろう少女は、それでも
「れ、レイッ……!?」
「君は一体何を…!!」
「……わかった。今回の件で、シモンファミリーに罪を問うことはないと約束しよう」
片手で守護者達を制止し、9代目はそう返した。
それ以外に、返せる答えなどなかった。
この一件は、
故にこそ彼女はここで己の正体を明かすことを選び、シモンへ降りかかろうとしている火の粉を払ったのだ。
ボンゴレ
「
最後にそれだけ告げた少女が、雨を司る少年共々シモンの聖地へと向かったのち。
「9代目、どうなさってしまわれたのですか」
自身の雷であるガナッシュに問われた9代目は、その問い掛けの理由がわかるからこそ苦笑した。
彼を始めとした守護者からすれば、己は老いて尚絶大な権力を持つファミリーの長。彼女は武に長け、それ以上に智に長けれども未熟な守護者。
どちらが優位かなど明らかだと認識しているために、先程までの遣り取りに納得できないのだろう。
彼らの認識も間違っている訳ではなく、確かに少女はボンゴレの守護者であり、9代目と呼ばれる男はボンゴレのボスなのだが。
しかし致命的に、核心的な部分の情報が不足している。
「ガナッシュよ。わしが綱吉君のことを、『再びボンゴレを正しく包む大空』だと言ったこと、覚えているな」
「え…は、はい。勿論」
「……雪の守護者が初代以来現れず、綱吉君へ継承するという段になってようやく現れた理由が、
とうに死んでいるはずの彼女がここにいることには、超直感ですら見透かせない何かの意志を感じるが、そういう話ではなく。
もしレイが綱吉の近くではなく、若き日の9代目やそれ以前のボンゴレボスの近くに現れたとしても、『雪の守護者』がその代のボンゴレファミリーに名を刻むことはなかっただろう。
「…わしや先代達の在り方を、レイ君は認めないだろうからの」
彼女が終生の王とするのは、守るためにこそ立ち上がった
彼女が表向きでも守護者として振る舞うのは、
今は亡き王の意志を守ることが、彼女にとっての忠義の形なのだろうから。
「9代目を認めないなど…そんな権限が、あの小娘にあるとは思えません」
「権限ではない。それはレイ君が持っていて当然の
ただ一人に忠誠を捧げ、家族と並び立つことをこそ喜びとした雪としても。
兄姉に慈しまれて育てられ、彼らを心から慕う妹としても。
微笑みながら言った9代目は、手近なテーブルに置いていたタブレット端末を取り上げてガナッシュへと差し出した。
明るくなった画面に映し出されるのは、酷く黄ばんで虫食いもある紙。古書の一ページのようだが、筆記体で綴られている文章を見るに日記であるらしい。
「……これは」
「本部の方に頼んで撮影して送ってもらった、
日記すら本部で保管される人物など、該当者は一人だけ。
その守護者の名と、司る天候は───。
レイの正体を悟った守護者達の表情が強張るのを他所に、9代目は丸い船窓から空を見上げた。
一人の青年が、数年に渡って記し続けた日記。
それは一つの
当たり前の日常。当然の成長。
穏やかそのものの───否、優しく心安らぐことだけが綴られた日記。
混沌とすら称される当時の世情が滲むのは、最後のたった数ページのみ。
『頼むから無事でいてくれ。どんな形でもいいから生きていてくれ。そうしたら絶対に、オレ達が探し出して見せるから』
『どれだけかかったっていいから、無事に帰ってきて欲しい。オレが建てた墓を見て、何を勝手なことをと怒って欲しい。拗ねて不貞腐れて、甘いものと紅茶がやってくるまで機嫌を直さないでいて欲しい。
そんな風に、お前がお前らしく在れる以上のことを、オレはもう望まない。
喩えいつであろうと、何処であろうと、生きていようと、死んでいようと。
オレ達は、お前の幸福を願っている』
妹の身を案じ続けた兄へ向けて、呟く。
「
・初代雪
未成熟だったところに兄姉の影響をこれでもかと受けて育った末っ子なので、時折彼らを知る者が見れば想起せざるを得ない程に似通った表情や言葉選び、精神性を垣間見せる。そのためある意味ではツナ以上に、ジョットの意志を色濃く受け継いでいる人間でもある。
余談だが血の繋がりこそないとは言え“ジョットの
尚彼女が持つ『権利』は正確に言えば、『ボンゴレのボスであれ無条件に雪の守護者として仕えずにいる権利』。ボンゴレボスについてはジョット君が認めたのなら、と大空の判断を尊重する姿勢を取っているので別に9代目のことも認めていない訳ではない。ただ単純に純粋に、「あ、この人我が王の意志継いでくれてないですね」と子供らしい無邪気な残酷さで見定められただけ。
・10代目雨
後半置いてけぼりだったが、友達だからと信じて口を挟まなかった。
実は未来編最終盤のように何かやらかしそうなら力づくでも止めるつもりで同行している。
・9代目大空
立場や養子がいる関係から、
正しい意味での
・9代目天候
ボスからのとんでもない情報によりフリーズ中。再起動したらパニックに陥るのが確定している。