二人の間にも、春が来て。
末長く幸せでありますように。
それがきっと、皆の願いだから。
先輩との同居が始まって二年ほどが過ぎ、その日はやって来た。始まったその日から、分かっていた事。
猪股家から、先輩が去る日。それでも予定よりは少し長く、卒業まで居てくれた。
先輩は家族とは合流しないけど、それでもけじめは付けたいと言って。大学へ進学して尚居候を続けるのはさすがに迷惑だから、と独り暮らしを決意したのだ。
最後の日、先輩は俺を抱き締めて――こう言った。
「桜が咲いたら、また会おうね」
涙ではなく、微笑みと共に。
それからの月日、俺は遅れていた勉強の方へと注力することになった。
高三になって漸く本腰を入れた上に、そもそも英明はスポーツ系私立だから全国的には学力低め。
それでも俺は、頑張った。先輩のあとを、追う為に。
桜が咲いたら。それは春になったら、じゃない。合格したら、だ。そんなの俺の頭でも分かる。
先輩は、俺の背中を押してくれたんだ。2年でインターハイへの雪辱を果たし、どこか芯を失っていた俺を叩き直してくれたんだ。
勿論それは軽いことじゃない。俺の頭の悪さは、先輩だって知っている。なんの自慢にもならないけど。
それでも、たとえ荊の道であろうとも。俺は、先輩が好きだから。
約束を果たすため、合格発表までは一切連絡は取らないと決めた。もう一度先輩に会うその日まで、何があろうと諦めない。
その一念、まさに苔の一念で――俺は奇跡を起こした。
一年ぶりに会った先輩は、少し大人びて見えて。
でも、あの時と変わらない優しい笑顔で。
あの時のように、俺を抱き締めてくれた。
だから俺も、先輩の胸のなかで、言ったのだ。
「先輩、好きです。結婚してください」
人生で一番の決意を込めて。そう、言った。
先輩は、少しだけ泣いて。
「ありがとう。嬉しいよ」
強く強く、俺を抱き締めた。
先輩がたった一人、一年を過ごしたマンション。そこに足を踏み入れるのは、緊張なんてもんじゃない。
でもそこは、猪股家での時と変わらないくらい片付いた「先輩の部屋」だった。
雛のやつは「あの人きっと大学で、彼氏とか作って遊び回ってるよ」とか変なことを言っていたけど、でも。先輩は、やっぱり先輩だ。……まあ、直接聴く程の勇気はないけど。
先輩美人だし、そういう相手が出来たりもしたんだろうか。
いや、結婚してくださいって言っておいて俺は何を考えてるんだ。少なくとも受け入れてくれた以上、今はフリーなんだからいいじゃないか。
とは言え、先輩に俺以外の誰かが触れたのかと思うと悔しい。そして、そんなゲスな事を考えてしまう自分が嫌だ。
これから、一緒に住むのに。俺はいつまで経っても、体育館で片想いしていた頃のままだ。
「これからも、先輩後輩なんだね。私が取ってた一般教養のノートとか、貸そうか?」
「全力でお願いします。俺合格自体滑り込みなんで、単位とれる自信ありません」
大喜くんは相変わらずだねー、と笑う先輩はやっぱり。やっぱり、あの頃のまま。俺が好きになった、可愛い先輩だ。
そして、先輩の手料理をご馳走になって。
先輩が片付けを終えてお風呂に行った、その少し後。俺は急速に襲われた――現状の重さに。
いやいや。いやいやいやいや。これは、スゴく……スゴい状態ではあるまいか。
結婚しましょうと言って、受け入れて貰って。着の身着のままとは言え相手の家に転がり込んで。相手は入浴中で。これは、もう――そういう事をするべきなのではないか。先輩も、待っているのではないか。
一応俺も男の子です、興味はバリバリあります。そして今まで一度も経験はありません。正直、したいです。
でも、だ。先輩に、そういう感情を向けて良いんだろうか。先輩に、取り返しのつかない傷を刻んでしまうかもしれないのに。
結婚するって言うのはそういう事だ、と分かってはいる。俺も18歳児なんだから。
どうしよう。冗談めかして覗いたりしても良いんだろうか。いや良くないよ。
先輩が湯上がりホコホコで出てくるまで、俺は一人で悶々としているしかなかった。
夜は更けていく。時間は止まらないから。
寝具が一人分しかないから、と俺たちは同じベッドに横たわっている。勿論、服はちゃんと着ています。なにもしていません。
でも心臓は張り裂けそうで、かけ布団を伝って先輩に動悸を知られてしまうかもしれない。
一睡も出来ない可能性はかなり高い。こんな状態で大人しく寝ていられるほど、俺は子供じゃない。
先輩が少しも動揺していない風なのが、どこか寂しく感じさえする。先輩も、俺と同衾してる事をもっと一大事だと思ってほしい。
――思わせることは、可能だ。すぐ隣にいる先輩に向けて、寝返り打つフリをすれば。先輩を、――抱けるだろう。先輩だって、わかっているはずなんだ。俺よりひとつ上、大人びたこの人なら。
落ち着け、と頭が命じて。でも、身体が逆らおうとしている。過ちは、嫌だ。でも、俺は。俺は。
「大喜くん、まだ起きてる?」
まるで、見透かしたようなタイミング。
慌てて返事をすると、先輩は笑って。
「これからは、ずーっと一緒なんだね」
満足そうに。嬉しそうに。言ってくれた。
「明日も明後日もずーっとこうして話して、ずーっと一緒に寝られるんだね。幸せだねぇ……私いま、スゴく幸せー……」
鈴の音みたいなその声に、心が清められていくのが分かる。
先輩はこの一年ずっと俺を、待っていてくれたんだ。
他の誰かなんて、見ようともせずに。
たった一人、この部屋で。
「はい。大好きです、千夏……先輩」
目を閉じて、思う。まずは、先輩を名前で呼べるようになろう。あれもこれも、その後だ。
結婚するってことは先輩の言う通り、ずっと一緒にいるってことなんだから。今度は期限なんか無い、だから焦らず一歩ずつ特別な関係になろう。
俺たちはもう子供じゃないけど、でも大人になりきってもいないから。
布団のなか、手を繋ぎあって。
俺たちの初夜は、静かに過ぎていった。
多分雛ちゃんはオリンピックとか出てます、失恋背負って。