日本中を熱狂させたURAファイナルズ初回、中距離部門を勝利した直後に引退を発表したウマ娘、アグネスタキオン。
 時は流れ、中央のトレーナー資格を引っ提げてレース界に戻ってきた彼女はあるバーで人を待っていた。シンボリルドルフ。かつてURAファイナルズで最後の勝者を競った相手であり、現URAファイナルズの運営会長となったウマ娘。

 シンボリルドルフからの依頼を切欠に、アグネスタキオンは呪うべき現状にその心境を吐露する……


 2021年11月7日開催のプリティーステークス20Rにて発行された「404 not found(https://syosetu.org/novel/273055/)」への寄稿原稿を、ネット閲覧向けに空白などを調整したものとなります。
 本作は2作寄稿した内の1作となりますが、メロンブックス様の通販(https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1134209)にて購入可能となっておりますので、ご購入を是非ご検討ください。割とサークル主の初作品というには狂気的なページ数でご提供となっております。

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Report:ユメノオワリ

 薄暗い照明から光を受けて、カウンターの向こう側でステンドグラスのようにボトルが輝いている。いずれも熟成という年数を重ね、この光景に色を添えていた。この町は決して都会とは言えないが、そんな中でも一際場末にあるような酒場に、彼女は一人座っていた。

 

 カロン、と手元にあるグラスの氷か、あるいは外界と隔てる重い扉のドアベルかが音を立てた。既に席を占領している彼女と同じく、栗毛色の耳を持った女性がそこにいた。

「やあ、遅れてしまったかな」

「いいや、私が早く来たのさ生徒会長。少し心を落ち着ける時間が欲しかったからね」

「今の私は生徒会長ではないさ」

「いや失敬、私にとって貴女はいつまでも生徒会長だったものでついね」

 既にグラスを手元に置いているウマ娘、アグネスタキオンが肩をすくめる。現役の時より伸ばした栗毛色の髪が、肩の上で揺れた。新たに席へ腰かけ、慣れた様子で注文を済ませたのはシンボリルドルフ。彼女は現役の時と変わらず、栗毛の髪を肩より少し下くらいまでで揃えていた。正面の一部が黒毛で、流星のように白い筋のような毛が混じっているのも相変わらずだ。

 この酒場は、トレセン学園に勤務するスタッフでも一部しか知らない穴場だ。彼女達以外に客は見えず、マスターがグラスを磨く音、少し古びたシーリングファンが回る音、そしてたった二人の客が持つグラスの中で氷が擦れる音しかしない。

 全くの無音よりも静寂に感じるこの空間で、二人はしばらく会話もなく、ゆっくりとグラスの中身を舌に染み込ませていた。

 

「それで。生徒会長改め運営会長の依頼とやらを聞かせてもらおうじゃないか」

 二人のグラスが空になる直前。アグネスタキオンが赤褐色の瞳をシンボリルドルフに向けた。バーカウンターに体重を預けると、僅かにキシリと音が鳴る。

「ああ、その件だが……実は、ある仕事に対して君を推薦する声が多くてね」

 シンボリルドルフが、右手側にいるアグネスタキオンの方へ一枚の茶封筒を置いた。推薦状在中、と赤字で添えられている。ふぅん、と興味があるのかないのか分からないリアクションとともに、ひとまずその封筒を受け取り中身に目を通し始める。

 

 

「……本気かい? 会長。いつもの冗談のつもりか」

「もちろん本気だ。君がすんなりと受けてくれるとは思っていないが。しかし精明強幹、そんな人物がありふれているとも思えない」

 ふぅん、と今度は考え込んでいるのがよくわかる声色で、アグネスタキオンは書類に改めて目を通す。内容としては、URAファイナルズの運営委員長への推薦だった。確かに、初回の中距離優勝者である彼女に声が掛かること自体は不思議ではない。

 しかし、URAファイナルズの特徴と言えば、あらゆる条件のレースでそれぞれ頂点を決める、という異例のシリーズだ。他の、それぞれの覇者だって声を掛けてもおかしくはないだろう。

 ついでに言えば、アグネスタキオンと言えば現役時代、つまり学生時代は素行の悪い生徒として知られていたはずだ。本人としてもそれは認めている。

 

「一応確認しておくが、他の初年度覇者には?」

「いいや。最初に初年度覇者が候補として全員挙げられ、その中で一番人気だったのが君だ」

 シンボリルドルフの言に、アグネスタキオンは心底呆れた表情を作る。別に、出世欲や金銭欲が強いわけではない彼女は、むしろ面倒くさいというマイナスの感情が強かった。それ以上に、彼女にはそれになりたくないという理由があり、シンボリルドルフがすんなりとは受けてくれないだろうと思っていた根拠もそれだ。

 不機嫌さを隠そうともせず耳を絞るアグネスタキオンに、シンボリルドルフは苦笑しながらも彼女から発されるであろう苦言を、甘んじて受け入れるつもりであったし、その体勢も整えていた。それを見て更に不機嫌になる、という部分は流石に予想していなかったようだが。

「貴女だって知っているだろう。URAは私には思い入れもあるが、それ以上に苦い思い出も多いことくらいは」

「先刻承知してはいる。それでも君に相応しい地位だと思うし、君自身の為にもなると思っているよ。私個人としても推薦させてもらった」

「確かに、私は会長に恩がある。それもかなりの大恩だ。が、しかしだ。それを踏まえてもこれは流石に引き受けるつもりはない」

 眉間に皴を寄せ、推薦状を突き返すアグネスタキオン。そうか、と眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべるシンボリルドルフは、しかしそのまま引き下がる訳ではなかった。でなければ、かつて「皇帝」と呼ばれ、今はトレセン学園の運営会長など務めてはいないだろう。

 

 

 アグネスタキオンが今回の依頼を断ろうとした理由は、シンボリルドルフもよくよく知っている。当時の理事長である秋川の発案によって開催された、URAファイナルズ。中距離部門にアグネスタキオンはエントリー、シンボリルドルフさえも打ち破って勝利して見せた。

 しかし、超光速の栄光はそこで重力に捕まってしまった。ウマ娘の肉体が発揮しうる限界速度、その先をアグネスタキオンと当時の担当トレーナーは確かに観測した。同時に、限界速度を超越したウマ娘がどうなるのか、も。彼女の夢と栄光は、星のように輝き、現実という太陽に打ち消されることとなった。

 アグネスタキオンは生来、速度を出すことに祝福された脚を持って生まれ、同時にガラス細工のように脆い脚に呪われて生まれた。クラシック級の夏、ついにその呪いを断ち切った彼女は、今度はウマ娘全てに課せられた呪いを前に敗れたのだ。観測したい景色を観測し、その呪いを受けたことそのものに後悔はない。

 

 アグネスタキオン最大の後悔は、これをきっかけに当時の担当トレーナーとの契約を続行することができなくなってしまったことだ。

 一時は自ら命を絶つことを考える程に、その事実はアグネスタキオンというウマ娘を蝕んだ。恋仲、という言葉では言い表せない程の絆がトレーナーとの間にはあった、と自他共に認める彼女にとって、それは自分の脚でレースを走れなくなったことより余程深い傷を残していた。

 死別した訳ではない。会おうと思えば、比較的容易に会って、話をすることも出来る。しかし共に狂気の果てを目指したあの頃には二度と戻れない。

 

 アグネスタキオンは時間がこの傷を癒してくれると期待して、学園の退学後もトレーナーに会う口実を作れるよう、トレーナー資格を取得した。

 元々研究者肌で学ぶということに慣れていた彼女は、特に苦もなく中央のトレーナーとして学園に在籍する権利を手に入れた。

 だが、トレーナー資格があってもトレーナーの隣にいる資格は、手に入らなかった。トレーナーもアグネスタキオンも、トレーナーとして学園に在籍するためには、ウマ娘のトレーナーである必要があったからだ。

 

 

「会長。私が貴女に恩を感じていることに嘘はない。だからこの頼みを断る事に、心が痛まないわけではないんだ」

「ああ」

「だが私は、貴女の期待する程強いウマ娘ではなかった。唯一、なんだ。あの頃は良かったと思ってしまう時期は」

 

 

 

 

「タキオン」

 自分のことを呼ぶ声に、意識が急速に浮上する。椅子に腰かけたまま眠ってしまったようで、側にティーカップが置かれる音がした。何の疑問も持たず、ティーカップに口をつける。飽和寸前まで溶かされたのだろう砂糖の甘さと、タンニンの渋みの混じった味が眠気を飛ばす。

 トレーナーはよくよく自分の味の好みを理解しているものだ、と思う。毎日のように砂糖を限界まで投入した紅茶を淹れさせればそうもなるか、と思わず微笑みが漏れる。この紅茶は果たして、トレーナーが淹れた何杯目の紅茶だろうか、と。

 

 

「タキオン?」

 

 ホワイトボードと睨めっこしていると、後ろからトレーナーの声が聞こえた。トレーナー資格を有するくらいだから、学力は高いのだろう。しかし専門外であろうホワイトボードに書かれた内容を理解しきれはしないようだ。

 そういう時、決まってトレーナーはアグネスタキオンの知識を褒めて、同時にそれを蓄えてきた努力を称える。君だって努力の果てに今の地位があるのだろうに、とは思っても口に出すのが恥ずかしくて言えなかった。

 

 

「タキオン!」

 

 ゴール板を真っ先に横切り、ウィナーズサークルで観客に愛嬌を振りまいた後の地下バ道。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったトレーナーの顔が突っ込んできた。

 クラシック級の花形、三冠レースのたった一つを獲っただけでこれだ。仮に、もし仮に三冠を達成しようものなら、脱水症状で死んでしまうのではないだろうか。

 尤も、それを叶えるにはピースが足りない。正直、次の東京優駿を走ることが出来るかどうかすら分からないのだから。

 

 

「タキオン……」

 

 菊花賞。最後の三冠レースを後ろから追い上げてきたマンハッタンカフェと競り合いながらも勝利した後。約束を果たすことにした。

 脚部に不安を抱えていたこと、月桂杯で自らの脚と引き換えにデータを取るつもりでいたこと、トレーナーの狂気に中てられてプランAへ舵取りしたこと。

 そしてこの時を以て、アグネスタキオンとその担当トレーナーは、真に二人三脚でトゥインクルシリーズにスタートを切ったと言えた。

 

 

「タキオン……!」

 

 マンハッタンカフェをライバルとして挑んだ三年目の総決算、有マ記念。ようやく私達は、望んだ景色を捉えた。

 まだまだ、ここからが長いのだ。だというのにトレーナーは皐月賞の時以上に顔をぐしゃぐしゃにして、地下バ道で抱きついてきた。

 だが今回は、涙を湛えていたのはトレーナーだけではなかった。感極まる、とはこういうことなのだと、この時本当の意味で理解できたと思う。

 

 

「タキ、オン……」

 

 酷く焦燥した顔が目の前にあった。見える天井は、見慣れないが病院のものだと推察できた。

 プランAの補強を超える負荷が掛かって、アグネスタキオンというウマ娘はレースで走ることができなくなったのだ、とも。

 ゴールへ一番最初に辿り着いたのは覚えている。その後、ウィナーズサークルへ向かう途中で、アドレナリンが誤魔化していた脚の痛みに、視界が暗くなっていったのが最後の記憶だ。

 地面が迫る視界が、直前で止まったのを思い出す。他に間に合う者がいなかったし、恐らくは私のすぐ後ろを走っていたシンボリルドルフが支えてくれたのだろう。ということは、また彼女に借りを作ってしまったようだ。

 

 

「ごめん。タキオン」

 

 URAで私が倒れてから数日。自分でも何となく気づいていたが、私は既にまともにレースが出来る体ではなくなっていた。軽く走るくらいは出来る。だが、他者と競り合い、自分と戦うような全力疾走は出来ない。恐らくトレーナーも、同じような所見を医者から聞いたのだろう。

 

 

 そうして私は、アグネスタキオンというウマ娘は、レースから引退せざるを得なかった。正直なところ、十分なデータは揃った。見たい景色を見ることができた。プランB、あるいはBダッシュとでも呼ぶべきプランへ切り替えることに、未練は一切ない。

 だが。今度こそ私は、トレセン学園に在籍する寄る辺を失った。かつて選抜レースに出なかった時とは違う。こればかりは、トレーナーを以てしても如何ともし難い状況であった。

 

 トレーナーの謝罪は、何というか少し滑稽だった。君が悪いところがどこにある、と問えば、トレーナーは私に無理をさせたことが自分の責任だと言う。殊勝なことだ。傲慢とさえ言えるかもしれない。君に何が出来たと言うのだろう。何を変えられたと言うのだろう。人は神でさえない以上、不可能なことがあるというのは至極当然のことだ。

 結局、初回のURA優勝という快挙とともに、私はレースを引退した。そう、人もウマ娘も神にさえ届かない。私は私の脚という運命から逃れる術を持っていなかった。ただ、それだけのことだ。

 

 研究者である以前に、一人の狂人である自覚があった。人に好かれない性格だという自覚があった。地位や名誉、金銭といったものに興味がないという自覚があった。であるが故に、過去を顧みることはあれど、過去の自分を羨むことはなかった。たった一時期の例外を除いて。それが、トレーナーとともにトゥインクルシリーズを駆け抜けた三年間という僅かな時間だ。

 ウマ娘の限界速度、その先を目指して只管に走り抜けたあの日々は、アグネスタキオンという存在にとってカウンターの向こうで輝くボトルのように煌めいていた日々だった。

 名家の娘として過ごした過去は、客観的には幸運な事だったと思う。それなりに優秀なトレーナーとして過ごす今も、きっと恵まれているのだろう。それでも、あの頃は良かった、とはきっと思うまい。

 

 だからこそ。今という、トゥインクルシリーズを駆け抜けた日々が過去になったこの時間軸が酷く苦痛なのだ。

 

 シンボリルドルフのように、元トレーナーと立場を変えて関係を続けるだけの器用さはなかった。

 マンハッタンカフェのように、別の道を共に歩めるだけの視野の広さはなかった。

 ダイワスカーレットのように、自分の望む道を進み続けるだけのタフネスが、自分にはなかった。

 

 自身の狂気に共感し、共に狂って走ってくれる存在が自身にどれほど影響を与えていたのか。それに気づいた時には、既に手遅れだった。

 近くにいる。会うことも、話すこともできる。しかし、あの頃のパートナーとしての関係に戻ることができないことを強く意識してしまって、会うことも話すことも苦痛になってしまった。

 

 

 

「アグネスタキオン」

 

 自分のことを呼ぶ、明確な現実の声。それに、回想に耽っていた彼女はふと視線を上げた。ボトルの反射光で僅かに彩られたバーカウンターから視線は移り、隣に座っているシンボリルドルフを見る。

「すまない。君に辛い思いをさせる為にここに来たわけではないが、軽挙妄動だった」

「……いや、貴女は悪くないさ。こんなに時を過ごして、未だに過去に囚われている。私らしくない私は貴女にとっても予想の範疇になかっただろう」

「いいや。私とて、君がどれ程苦しんでいるか共感はできないが。異体同心の友と会うに会えないことが苦しいことだというくらいは分かる」

 そう言ってアグネスタキオンではない、どこか遠いところを見るような視線のシンボリルドルフ。アグネスタキオンは、彼女にとってのそういった存在に心当たりはなかったが、それでも皇帝は皇帝なりにそういう間柄の者との別れもあったのだろうとは察する。

 

「それと、もうひとつ。配慮が足りなかったこと以上に、私は少し君達を見くびっていたことを謝罪したい」

 そう言って、先程の推薦状とは別の封筒を差し出した。こちらは少し分厚く、中に入っているのが一枚の紙だけではないらしいことが分かる。訝しみながらも広げてみると、それはURAファイナルズ運営委員の新メンバー、その各役職の候補者一覧であった。

 

「これ、は……」

「すまない。私はこれを、君達の関係性を悪い方向に捉える者が出てくることを危惧されてしまうと思わせてしまう。そう考えてしまった。それに……」

 言い淀むシンボリルドルフの耳は、しなりと垂れていた。彼女にとって余程自分の判断が責任感を煽ったらしい。

「これを見せさえすれば、君が頷いてくれるという傲慢が許せなかった。だが、これを見せず君を説得できるなど、傲慢以下の手抜き、侮りでしかない」

 すまない、と頭を下げるシンボリルドルフ。アグネスタキオンにはその謝罪が、音としては聞こえていたが意味を理解することができていなかった。アグネスタキオンが震える視線で追う文字は、運営委員長補佐の名前だった。よく見知った、それでもかつてあまり呼んでやれなかった名前。かつて自分と共に狂い、果てを目指した唯一無二の存在が、そこに記載されていた。

 

「何故、とは聞くまい。私のことを慮ってくれたのだろう。だが、だが……!」

 くしゃり、とメンバー表が音を立てた。それを見てシンボリルドルフは困惑の表情を隠せなかった。喜ぶことはあれ、こうも取り乱すとはシンボリルドルフにとって完全に予想外だった。左手でメンバー表を握りしめながら、右手では頭を抱えるように髪を掻きむしるアグネスタキオンは、焦燥しきった表情で必死に叫びだしそうな自分を抑えているようだった。

「……これを見せて、私にどうしろと言うんだい」

「君は私に恩があると言っていたね。私の方こそ、君には恩があると思っている。それを……不本意ながら仇で返してしまったようだ。本当にすまない」

 絞り出すような声色で問いかけられて、自身の望んだ結果とは真逆の結果になってしまったことを受け止めたシンボリルドルフ。動揺こそすれ、それでも取り乱すことはなかった彼女の胆力は流石と言わざるを得ない。

 

 しかしいくら取り乱さなかったとはいえ、何故こうも取り乱す結果になったのか、シンボリルドルフは察することができていなかった。瞑目し思考を巡らせるも、答えを得ることができない。ぐいっとロックグラスに入った琥珀色の液体を飲み干して、アグネスタキオンはぽつりぽつりと語り始めた。

「会長。私にはね……遅すぎたんだ」

「遅すぎるなんてことは……」

「あるさ。超光速なんて呼ばれた私にとっては最大級の皮肉だがね」

 新しい氷と琥珀色の液体を注がれたグラスを手に取り、一口胃に収める。手の中でグラスの中身を回すように揺らしながら、アグネスタキオンは続ける。

「これが例えば、私がトレセン学園に戻ってきた直後や、脚を駄目にした直後なら、違ったかもしれないが」

「それ、は……」

「まあ、無意味な仮定さ。実際に起こらなかったという意味でも、実際に起きるはずが無いという意味でも」

 僅かな沈黙が訪れる度に、シーリングファンが回る音とマスターがグラスを磨く音だけが聞こえる静寂が訪れる。 相変わらず、年季の入ったたバーカウンターにはグラスが天井の照明を反射した光が写りこんで、一切の揺らぎを見せていない。皮肉な程に落ち着いた空間だった。

 

「しかし無意味な仮定程、人を狂わせる感情の要因もあるまい。特にレースの結果や脚の故障がある我々ウマ娘には。そうだろう」

「私は無敗でないことを悔いているつもりはないよ」

「それは無敗が呼んだかもしれない結果を見ていないからさ。例えば、君がURAで私に勝ち、私が脚を壊さずに終わった世界があるとすれば?」

 

 シンボリルドルフのレース人生において、たった四度の敗北の一つ、URAファイナルズ。それを引き合いに出したのは藪蛇だったと悟った時には遅かった。そしてアグネスタキオンの例えは、良心を信じ良心を人質にとった例えだった。そこからシンボリルドルフがどういう思考をするのかも読み切った、完全な不意打ちだ。

 

「その例えは……少し、ずるいな」

「無論貴女を責めるつもりはないさ。そもそもあれは、私が勝手に速度を上げすぎて勝手に自爆した結果なのだからね。だが……これで分かってもらえるだろう」

「そうだな……しかし、それが無意味な仮定というのは分かったが、遅すぎるという部分には繋がらないと、捲土重来を期す権利は失われないと、私は思う」

「うーん駄目か! 相変わらず口喧嘩では分が悪い相手だよ。仕方ない、降参だ」

 おどけたような、学生時代を思い出すような口調で言ったアグネスタキオンだが、その表情までは学生時代のそれではなかった。本気で、誤魔化したいと考えている表情で、しかしシンボリルドルフはそうせざるを得ないのだと理解していた。

「さっきも言っただろう? その時期だけなんだ。あの頃は良かった、それが全てさ」

「三年間。確かに君は、面目一新の変化を得たのは私も同意するよ」

「大なり小なり、あの期間を経験したウマ娘とトレーナーにとっては掛け替えのない思い出にはなるだろう。私は……少し、それに入れ込みすぎてしまった」

「特に、君のトレーナー君との思い出に、か」

「今にして思えば、狂気としか言いようがない時期だった。だからこそ、中途半端に戻ってきてしまって、理解してしまった。もうあの頃には戻れないのだと」

「一度腹を割って話し合ってみたらどうか?」

「いいや、話し合ってしまったから駄目なのさ。話し合って、気づいてしまったからこそ……私はトレーナー君を避けてしまっている」

 手にしたグラスに視線を落としながら、困ったように笑うアグネスタキオン。既に彼女の心が折れてしまった後なのだ、とシンボリルドルフはようやく認めざるを得なかった。

 

 

 皇帝たるシンボリルドルフとて、挫折が無かったわけではない。だが立ち直れるだけの環境があったことをここにきて自覚し、そしてそれがアグネスタキオンにとっては存在しない環境だったと悟った。

 いや、とシンボリルドルフは気づく。本来彼女を立ち直らせることができるのは、かつてのトレーナーだ。しかしよりによって、そのトレーナーが心を折る原因になってしまったことが最大の原因なのだと。

 

「……やはり、荒療治しか残っていないか。アグネスタキオン。先に、騙し討ちのような形になってしまうことを謝らせてほしい」

「ふぅん? 随分と殊勝な謝罪だが。今更私達に出来ることがあるとは……」

「ああ。私達では無理だ。だから、今日二人で会うという約束を、最初から私は破っている」

 シンボリルドルフが服の内側にあるポケットからスマートフォンを取り出す。番号といくつかの操作用のボタンだけが表示されていた。通話中を示す画面だった。

「おい、まさか……」

 アグネスタキオンが何かに気付いた途端、背後で再び、扉が重々しい音を立てて開いた音が聞こえた。静かな店内にはよく響き、聞き間違いではないことを突き付けてくる。扉に背を向けたままのアグネスタキオンは、顔色が悪かった。視線は泳ぎ、口は閉じ切られず、脂汗が額に浮かんで、叱られることを察した子供のように背筋が伸びている。

 

 

「タキオン……」

 聞こえた声に、油の切れたブリキ人形のようにアグネスタキオンが振り向く。

「トレーナー、君……」

「やっと会えた。やっと、声が聴けた。やっと……タキオンの言葉が聞こえた。もう一度、タキオンに会えた……」

 

 

 トレーナーという職業は、公序良俗に反するものでなければ基本自由だ。事実、トレーナーはかつて一張羅のように来ていたベストとシャツを、今では着ていないことをアグネスタキオンは知っている。だが、そこにいたトレーナーは、そのかつてのベストとシャツに身を包んで、アグネスタキオンのトレーナーとしてそこにいた。それがトレーナーとしての決意であり、矜持であり、望みでもあったからだ。

 

 言葉にこそ出さなかったが、アグネスタキオンもまた、トレーナーにようやく再会できたという実感があった。

「タキオン。私も、貴女に謝らなければいけない」

「何、を……」

「あの時……君と離れたくないって。ちゃんと言うべきだった。一緒に、別の形になっても果てを目指そうって」

「だがそれは……」

「出来た。出来たんだよ。でも君の走りが見られないって思うと、踏み出せなかった。君に辛い思いをさせるんじゃないかって……逆だった。逃げちゃいけなかったのに逃げたのは、トレーナーである自分なんだ。本当に、ごめん」

「違う! 走れないのが怖くて逃げたのは私だ! 君に果てを見せることが出来ないと……見捨てられてしまうと恐れて、逃げたのは私だ……」

 いつの間にか、アグネスタキオンは椅子からも立ち上がって声を荒げていた。尻すぼみになる言葉と同調するように、力が抜けたかのように椅子にその身を預ける。

 

 

 シンボリルドルフは、恐らくここでどうするべきか分からず行動できなかっただろう。それが分かっていたから、アグネスタキオンのトレーナーを呼んでいた。トレーナーは一切臆することなく、項垂れるかつての相棒に近づいて、僅かに腰を落として目線を合わせた。何かを確認するように瞳を覗き込むと、落とした腰を戻して一つ深い呼吸を入れる。

 

「シンボリルドルフ会長。すみません、貴女が期待した程、上手い解決は出来そうにありません」

「む、それは……」

 

 パァン――

 

「痛ッ……⁉」

「タキオン。これで……夢から醒めた?」

「お、おいトレーナー君」

「悪夢はこれで終わりだよ、タキオン。自分を縛る鎖にいつまでも拘るなんて、君らしくもない」

「鎖に拘る、か……確かに、私らしくない自覚はとっくに持っているさ」

 

 乾いた音が響いて、しかし何事も無かったかのように、二人は会話を続ける。

 シンボリルドルフの困惑気味な制止を無視して語り掛けたトレーナーに、アグネスタキオンは自嘲気味に答えた。トレーナーの想像よりもアグネスタキオンは雁字搦めに縛られていると気づいて、トレーナーは更に言葉を続けることを決める。

 

「タキオン。菊花賞を勝った時、プランAの話をしたよね。つまりもう一つ以上の別プラン……プランBが君にあった」

「……ああ。あったさ。むしろ今はそちらがメインだがね」

「プランBは、自分が取ったデータで、他人を果てに到達させるプラン。違う?」

「ふぅん? まるで名探偵だ。正解だよ。トレーナーとして実行する今では、ダッシュを付けて呼称すべきかもしれないが」

 会話の中で、二人の視線が合うことはなかった。アグネスタキオンはずっと俯いていたからだ。だから、彼女がトレーナーの初めて見るはずだった本気の怒りという表情は見ていない。

 

「なんで今でも、普通のトレーニングと違うそれを実行しているのか……自分でも分かっていないでしょ」

「意味が分からないな。トレーナーなら、自分の担当するウマ娘をより速くしてやることは共通の目標だと思うが」

 僅かに怒気を含んだ声色で反論し、ようやくトレーナーと視線が合う。初めて見る本気で怒ったトレーナーの顔に、アグネスタキオンは目を丸くして驚いた。

「自惚れじゃなく、君のことならよく分かってるつもりだよ。嘘はついてなくても、本当の目的はそうじゃないことくらい分かる」

「何を馬鹿な……」

「諦めきれてない。本当の果てを見る、その夢を。君はまだ諦めちゃいないのに、諦めてるフリをしてる」

 アグネスタキオンの眉がピクリと動いた。少なくとも彼女の琴線に触れて、パンドラの匣に手をかけられたのだとトレーナーは感じた。後は開け方次第で、希望が残るか絶望が残るかの勝負だ。

 

 

「タキオン。いい加減悪夢から目覚める時だ」

「夢なものか! 私の脚が! 私の目指す果てを追えなくなった今が、夢であるものか! 醒めるものなら醒めてほしいさ、今だって! だが……!」

 

「だから君は今でもプランBなんてやってるんだろ、アグネスタキオン!」

「……ッ!」

 

「光の速さを超えるなら、向かうのは過去じゃなくて未来のはずだ。君に、アグネスタキオンにそれが出来ない訳がない」

「それが出来ないから、私は……」

「出来るよ。タキオンなら出来る」

「何を根拠に……」

「君がアグネスタキオンだから、私がタキオンのトレーナーだから。それ以上の理由は必要?」

 いつの間にか、いつもの人好きのする柔和な表情になっていたトレーナー。その瞳を見て、アグネスタキオンは脱力したように項垂れた。そして、自身でもよく分からない感情が腹の底から湧いてきたのに気づく。

「フ……ククッ。アッハハハハ!」

「タ、タキオン……?」

「何だい君、その目は! ハハハッ、随分と……いつにも増して狂った色をしているじゃないか! あの頃と変わらないどころか、あの頃より深く狂った色になっていようとは!」

 

「大丈夫か?」

 二人のやり取りを静観していたシンボリルドルフが、思わず椅子から転げ落ちそうなほど笑うアグネスタキオンを支えながら困惑気味に尋ねる。

「はーっ。いやはや、大丈夫なものか。こんなに笑ったのは久しぶりだ。いやいや冗談抜きに笑い死にしてしまいそうだ」

「タキオンのその笑い方も久々に聞いたよ」

 呑気に笑うトレーナーをよそに、シンボリルドルフがマスターに目配せし、受け取った水のグラスをアグネスタキオンに渡す。配慮を理解してグイっと一気に飲み干すと、ようやく一息つけたようだ。

 

 

「全く……君には敵わないな。分かった、降参だ。会長、君の目論見に私はまんまと乗せられたというわけだ。貴女にもやはり敵わないね」

「む……私の想定とは大分ずれてしまったのだが」

「出遅れようが囲まれようが、一番にゴールを駆ければそれは勝利さ。我々ウマ娘という競技者には慣れ親しんだルールだろう」

「審議で降着さえしなければな」

「なぁに、ここまでやらせておいてやっぱりやめた、等と言える過程ではなかったとも。気に食わないことはあるが、それはルール違反じゃない」

 

 ふう、ともう一息ついて、アグネスタキオンは席を立つ。トレーナーと正面から向き合うと、笑みは潜んでいつになく真剣な表情を向けた。対するトレーナーは、相変わらず柔和な笑みを保ったままだが、それがアグネスタキオンにとっては心地よかった。

 

 

「こんな醜態を晒しておいて図々しいが、私にとってはそれもいつも通りか」

「ようやくいつものタキオンに会えた気がするよ」

「む、それは後でゆっくりと、詳しく意図を聞かせてもらおう。兎も角、だ。その……またこれからも。よろしく頼めるかな、トレーナー君」

「こちらこそ。同僚としてもよろしく、タキオン」

 握手を交わし、ようやく二人を戒めていた悪夢の鎖は断ち切られた。それはそうと、とトレーナーは言う。

「これからはライバルとしてもよろしく」

「まずは君に追いつくところから始めないといけないかな。実績が足りていないからね。ところで会長、少しいいかな」

「何だろうか」

「また貴女に借りを作ってしまったようだ。トレーナー業以外で、貴女に返せるアテが無くてね。先ほどアテを捨ててしまったんだが」

「自月自明、拾得物は持ち主に返すべきだな。私のライバルになってくれたことへの借りは、拾っておいた手数料ということで返せるかな?」

「おや、これは会長への借りが雪だるま式に増えていきそうだ」

「君の研究データで、私の方こそ借りが多いと思うのだが……これからもよろしく頼むよ」

 二人もまた握手を交わし、それを以てここにいるメンバーの目的は果たされた。騒がしくしてしまったことをマスターに謝りつつも会計を済ませ、心なしか軽く感じるバーの扉を開ける。

 

 

 

「おや。今日は随分と天の川が明るいな。三本も流れているとは……」

「えっ。タキオン、こっち向いて。タキオンの隣に立っているのは何人?」

「んん? そんなの……おや、トレーナー君が三人に、会長が二人……五人もいるぞ?」

「大分呑んでいたからな……コンビニで水か味噌汁でも買っていくかい?」

「コンビニの……あれは駄目だ。トレーナーくぅん、君が作ってくれたまえよ。しじみの味噌汁がいいな。ほら、はーやーくー……」

「わ、わ、いきなり倒れてこないで⁉ あとその無茶ぶりも久し振りだね!」

 限界を迎えたらしいアグネスタキオンをどうにか受け止めて、トレーナーは肩を貸す。シンボリルドルフとともに苦笑いを浮かべながら、どうにかトレーナー寮へ向けて脚を進めていった。その時のトレーナーの顔は、自分が見ても懐かしいものだった、とは後日のシンボリルドルフの談だった。

 

 

 

 そして、ある日のURAファイナルズ運営企画室。

「ところでトレーナー君。先日君は私のことを図々しいと言ってくれた訳だが」

「お、覚えてたんだ……」

「酔っても記憶をなくすタイプではなくてね。丁度いいことに、今度臨床試験予定の薬が三本あるんだ。どうだい?」

「……光ってるね」

「見た目でも楽しめるだろう? なぁに、仮に想定外の作用を起こしても、精々酩酊状態になるだけさ。化学反応でエタノールを生成する可能性があってね」

「……学生のウマ娘には飲ませられないんじゃ」

「だから君が試すのさ。ほら、ぐいっと」

「うっ……久しぶりだと覚悟が……南無三!」

 ブランクがあるとは思えない飲みっぷりだ、と全く関係のない感想とともに、いつか浮かべていた狂気の笑みを再び浮かべるアグネスタキオン。隠し持ったレコーダーをどう使うつもりなのか、それは彼女のみぞ知ることである。

 

「ふむ。思った通り、これを入れるとエタノールが体内で生成されるな。逆にこれを抜けば問題はないと。さて、それでは酔った君がどんな言動をとるのか実験といこうじゃないか……」

 URAファイナルズ運営企画室によくいる二人のトレーナーを見た者は、一様にこう評する。はしゃぐ子供のような楽し気な表情で、誰も混ざりたくないような狂気に満ちている、と……



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