でもいったんテンションが下火になると持ち直すのに時間かかるんですよね……
棋士室は、金美にとって居心地のいい空間である。
何せ、この部屋に来るのは将棋を第一に置いている人間が殆どである為に、小学生が交じっていようとほとんど気にされない。まぁこの小学生竜王の存在は異質である為、居れば声を掛けられる事は多いが特に気になるものでも無い。
「夏休みの宿題かぁ。何もかもが懐かしい気がするねぇ」
ただ、平日の昼間からここに来てノートと教科書を広げている小学生はあまりいない。そこに関東所属のプロ棋士が来てその小学生に声を掛ける事は、もっとないだろう。今後、見慣れた光景になるだろう事を知らぬ奨励会員や関西棋士達はそう思った。
「山刀伐八段は高校を出たんでしたか」
「うん、そうだね。実家のある山形の高校だよ。指す相手が少ないからその分、自分一人で研究か、やらなきゃ将棋に影響出るから宿題したのを思い出すよ」
よどみなく会話をしながらも金美の手は止まらず、話しかけている山刀伐はそれに感心するしかない。いくつもの作業を同時にこなせる並列思考が抜群に巧いという、彼女の強さの一端を垣間見ることができるものだからだ。
山刀伐は自身にそこまで将棋の才能が無いと考えている。だからこそ事前研究に手を抜かず、あらゆる相手と研究会を開いて知識をぶつけあい、新しい発想を見つけて咀嚼する。そうして身に付けたものを自身の血肉として、今は金美の師匠となった名人の研究パートナーにまでなった。
そんなパートナーが自身の弟子にと望んだ存在。山刀伐もそうだが、将棋界に属する者達が今一番注目している金美と研究会をしたいと思う棋士は実は多い。鏡州が一度だけとはいえ、金美相手に研究会をした事は関西ではあっと言う間に広まって、彼は奨励会員から質問攻めにあっていたりする。
「竜王は、将棋の才能って何だと思う?」
す、と山刀伐が聞きたい事を切り出す。この幼い竜王の将棋観というものにとても興味があったから。編入試験で対局もしたが、その年齢では絶対にありえない重厚な研究密度が彼にとっては印象的だった。
才気だけに依らず研鑽し、想像を絶する何かによって人智を超えた理外へと辿り着いてしまった存在。山刀伐尽という棋士が遥か年下の棋士に深い敬意を抱くのは、そんな彼女の一端に触れたいという現金な理由も当然あるし、心の底からその研究の密度に感服したと言う事もある。
だからこそ、何かしらでも良いからその哲学を知りたいと思ったのだ。
「誰もが持ち合わせる能力を如何にして将棋に適応、または応用するか」
だから、そんな端的な言葉が返ってきて、思わず返答に困った。
「……どういう事だい?」
「例えば、すっごい勉強の出来る人が居るとします。東大……何ならハーバードとかでもいいですが、首席で入学して飛び級して首席で卒業できるような人が。その人が将棋を始めたら、強くなりそうですよね?」
「まぁ……一概には言えないけど、強くなりそうな印象は確かにあるね」
「何故でしょう?」
「ふむ……勉強がそれだけ出来ると言う事は、記憶力や計算力、思考力や理解力も高いと考えられる。つまり将棋に必要だと言われている能力が高い事が想定される……そう言う事か」
そんな人物が居れば確かに、将棋のルールを覚え、定跡を学び、経験を積んでいけばメキメキと棋力を上げていくだろうと想像する事が出来る。しかしその逆……棋士が勉強を出来るかと言えば、出来るかもしれないが
山刀伐の理解を察して、金美は更に説明を続ける。
「私が思うに、将棋の天才と言われている方々はその能力を将棋に適応させやすかったのではないかな、と思うんです。『好きこそ物の上手なれ』という言葉もありますので、将棋が好きなら多少の無理はあっても適応させてしまう……逆に勉強となると嫌いな人は多そうですから、適応させやすくてもしなかったりするかもしれません」
「君のお父さん……明石クンは
「元々頭が良かったかは聞いていませんが、将棋でそういう能力が培われ、勉強に対して適応か応用できたからこそ、今お医者様をしている……のかもしれませんね」
そこで説明を切り上げ、ノートを閉じる。今日の分が終わったようで、鞄にノートと教科書をしまって代わりに取り出すのはシリアルバーである。
「それは?」
「脳への栄養補給です。父と母に話をしたらこれの携帯許可を貰いました」
「勉強にそこまで頭を使ってたように見えないけど」
「勉強しながら、頭の中で研究会してますから。並列思考は得意なので」
何でも無いように言われて山刀伐は流しそうになったが、とんでもない事を言っている事は理解できた。要するに日常生活の中、頭の片隅にある将棋盤を使って彼女はずっと独りで指し続けているのだ。休まず、弛まず、延々と独りで手を検討し、あらゆる局面を並べ、将棋という深淵の中へと潜り続けている。
「……それ、ずっとかい?」
「生まれた時から頭の中に将棋盤があるので」
「これは本当に、生石クンの言った通りだねぇ……」
「どうせ小学生の形をした将棋マンだとかなんとか言ってたんでしょう……後で奥さんにチクッときます」
ぶっすー、とした表情でシリアルバーを齧る彼女の姿が何とも年相応に見えて、山刀伐は笑った。
このちぐはぐな所が、まだ彼女が人間だと思える所だ。これも無くなって超然とした雰囲気……あの竜王戦の時のような雰囲気を纏い続けていたら、最早本当に神にしか見えない。
東京でのイベントで天使の羽根が付いた衣装で登場した時も、普通なら微笑ましいはずの姿に会場は魅せられていた。その容姿と纏う雰囲気に、奇跡的に衣装が合ってしまい会場の人間全てが彼女に呑まれていた。
あの場に居た男の子達は多分大変だろうなと、彼は思う。無垢な少年の初恋を奪うのに、彼女の容姿は充分に過ぎる。何ならオーバーキルだと言っても過言ではない。もしあの中に棋士を志す子が居るとすれば、理由はほぼほぼ金美に相違ないと思えるほどに。
「さっきの話だけど、結論は?」
「能力を将棋に適応させると言う事は、舗装を行う前の道路に似ていると考えます。地均しや路盤改良などが能力を適応させるという行為に似ていて」
「経験はその上に敷くアスファルト、か」
「はい。そして、道路というのは使っても使わなくても朽ちます。舗装が古くなったり、地面の方が動いたりして。経験や能力の変化に合わせて一旦壊して練り直していく……それを将棋という分野でやりやすい人が、いわゆる将棋の才能がある人、ですね。まぁそれを一生していけるかはまた別の話ですが」
「考えるだけで気が遠くなりそうだねぇ……」
『それが楽しいんじゃないですか』と、金美は笑った。何の迷いもなくそう言い切る彼女はやはり、将棋が人の形をして生まれてきたのだと思える。少なくとも、山刀伐は彼女の歳で将棋自体が楽しかったという記憶はあるが、将棋観を壊して再構築する事を楽しいと思ってはいなかった。
「君とも是非、交わってみたいねぇ」
つい口に出た彼の口癖を聞いて、金美はノータイムで携帯を取り出す。素早く『110』と入力した後にその画面を山刀伐へと向けた。
「あと一押しで警察に通報できますけど、言動には注意しましょうね?」
「……うん、これは自分でも最悪だと思った。今まで通りにはいかないねぇ」
◇
夏休みが終われば、竜王戦が近づいてくる。
例年、挑戦者決定戦は九月に行われ、十月からが竜王戦になる。金美にとっては初の竜王防衛戦となるが、彼女はその生活リズムを大きく変える事はない。前世にて、こういう時はマイペースが一番だと言う事は身をもって学んだため、それが染みついている。
ただ、彼女が変えなくても向こうからやってくる変化もある。
「ご無沙汰でしたな、明石竜王」
「ご無沙汰しております、
関西将棋会館で彼女に声を掛けてきたのは、将棋連盟が発行する雑誌や書籍の編集を一手に担う書籍部の発行責任者……自身も編集の実務を担い、プロ棋士でもあった加悦奥大成七段。『将棋世界』に金美のインタビューが載った時にインタビュアーだったのも彼だ。
「あぁ、今日は取材じゃないんや」
「なら用事は、連れて来られた彼女の事ですか?」
「供御飯万智、です」
加悦奥の後ろには、金美も知っている少女が居る。何せその少女は、金美が解説した小学生名人戦の出場者……惜しくも三位となった供御飯万智だから。
金美が万智に会釈をすれば、彼女も返してくる。そうして挨拶を終えた後、金美は加悦奥に視線を送った。
「竜王にちょいと、こいつを揉んでほしいんだわ。恥ずかしながら、俺が胸張って教えられるのは書籍関係だけでね」
「ご謙遜を。引退されてなければ是非、公式戦でお相手願いたかったのですが」
「最強の最年少棋士にそう言われるのはむず痒い……まぁそっちはいいとして、竜王の強さって奴を体験させてやってほしい」
今の俺でも取材できない事だから、と言いながら、加悦奥は万智に視線を移す。金美もその眼で、供御飯万智という人間を見通すように視線を向けた。
今生で小学生名人戦で指す彼女の姿は確かに、前世で見た女流棋士・供御飯万智に通じるものがある。そして今、今生の供御飯万智の目を見て、同じように
「……加悦奥七段。申し訳ありませんが今の彼女と指す気は、私にはありません」
「な、なんで」
万智が口を開きかけた所を、加悦奥が手で制した。
「理由を聞いても大丈夫か?」
「早々に自分自身に見切りをつけた人と指す気はありません。伸びしろしかないはずの今の段階で自分の才能の上限を決めつけるような、将棋指し未満とは」
その言葉に、万智は呼吸を忘れた。目の前の棋士に自分がどう見えているのか、それだけで理解したからだ。
ともすれば生意気にも取れる物言いではあるが、万智の師匠である加悦奥も金美の言葉に反論できない。目の前の棋士の観察眼は異常と言えるレベルである事を、加悦奥は知っている。彼女が解説に立った小学生名人戦には、加悦奥も取材で現場に居た。
解説を聞くだけで鳥肌が立ったのは後にも先にもこの時だけだと、後に弟子に語るほどに戦慄した。
未来が見えているのかというほどの読みもそうだが、それと同じくらいに対局者の心情を把握し、その呼吸を理解していた。交流があるという、小学生名人になった九頭竜八一相手ならあり得るだろうが、他の三人は全くの初対面であったのは調べが付いている。
その三人の呼吸すら完璧に読み切って、投了のタイミングすら予言して見せた。相対しているわけでもないのにそんな事が出来る棋士を、少なくとも加悦奥は知らない。
そんな彼女が言った『才能の上限を決めつける』という言葉。
自分に弟子入りして来た少女に当てはまっていると、加悦奥も理解している。強くなりたいのならもっと違うプロ棋士の所に行けばいい。小学生名人戦で三位ではあったが、実力は小学生であれば申し分なく、伸びしろだってないはずがない。
しかし万智は、プロ棋士ではあるが取材や編集に力を入れているような変わり者であると自覚のある加悦奥の元に来た。取材で人を見る目については多少の自負がある加悦奥が、その理由に気付かないはずはない。
「七段が私に頼む理由はその辺りでしょうけれど、ご本人にその意志が無ければ私と指したとしても動く事は無いですから」
それはあまりにも勿体ないと思った。
こじ開けられそうな棋士が居なければ諦めていたかもしれないが、今この時に特大の爆弾……『神の弟子』『史上最年少竜王』『史上初の女子小学生棋士』という様な前代未聞の肩書を幾つも持つ棋士が居てしまった。
その棋士に自分自身ですら思い至っていた理由で否と言われてしまえば、加悦奥も引き下がるしかない。
「……こなたは、強うなれますやろか?」
どうしたものか、と考え始めた時、万智が口を開いた。
俯いた状態である為にその表情は窺い知れないが、その声に先ほどまでと違う熱が宿っている。
「なれるかなれないか。それは、その道を歩かなければわかりません。歩く気すらなければ、なれる可能性はゼロです。そして、歩いたとしても報われるかどうかなど誰にも分らない」
「なら……」
「ですが、棋士という人種はそういう生き方をしてきた方々です。プロ棋士になれるかどうかも分からない。しかし、
どんなに悔しくても、どれだけ惨めに負けても、棋士であり続けるならば這い上がらなければならない。
前世で、ソフトに初めてプロ棋士として敗北して、一度は命すら本当に投げ出そうとした男を金美は知っている。彼はそれでも、再びプロとして将棋界に帰ってきた。多大な犠牲を払って尚、棋士として生きる為に。
それ以外にも、一世一代の勝負を仕掛けてきた勝負師達を知っているのだ。それくらいの気概があの時の供御飯万智にあったと、金美には到底思えない。
確かに、まだ十年程度しか生きていない中で大舞台に上がって負けた……しかも自分の詰みを見逃して、だ。それは悔しいだろう。何故だと叫んで泣くほどであっただろう。
二度と将棋が指せない程に失墜したわけでもない。何なら、自分の命を絶つほどに追い込まれたわけでもない。己を省みて、何をどうすればいいのか。何が足りず、何を伸ばし、何を糧にすればいいのか、考える事も実践する事も出来るはずだ。
「敢えて酷い言葉を投げかけますが……半端な貴女程度が見切れるほど将棋は安くない。小娘風情が、将棋を
ぎしり、と空気が音を立てて軋んだように、万智も加悦奥も感じた。
目の前の少女がちらりと怒気を見せただけで、まるで空間が悲鳴を上げたように感じたのだ。加悦奥の背には冷たい汗が流れ、万智は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように空気を取り込めない。それほどまでに三人の中で最も年下のはずの少女が、その場を支配していた。
「お姉ちゃん」
そんな場に、何でもないように現れたのは金美よりも更に幼い白髪の少女……銀子だった。
「おや、銀子。どうしましたか?」
「指すのに探しに来た」
そんな事を堂々と言ってのける彼女に、金美は微笑みを浮かべてその頭に手を乗せる。いつの間にか空気は弛緩して、万智はようやく呼吸を再開できたが、既に金美は彼女に気を向けていなかった。
「そうですね、この後は少し会長と話がありますから……清滝先生にお家にお邪魔してもいいか聞いてもらえますか? よろしければ伺いますよ」
「師匠は今日は後援会の人と飲み会で居ない」
「なら娘さんの方に聞いてください。勝手に伺うと失礼ですからね」
「わかった」
「あぁそれと」
「何?」
「銀子は、プロになりたいんでしたよね?」
唐突な質問だったが、銀子は気にした様子もなく頷いた。
「それは何故です?」
「八一がなるって言うから。それと……」
空銀子はその眼に蒼い炎を湛えて、真っ直ぐに金美を見つめた。
「お姉ちゃんと同じ所に立って、参ったって言わせる為」
「――…そうでしたね」
優しく笑い、頭を撫でながらも金美はその眼に『棋士としての己』を宿して銀子を見返す。
「楽しみにしています空銀子。貴女がそうなって、私の前に立ってくれる事を」
そのやり取りで、万智は目の前の竜王が何を求めていたのかを理解した。
無垢な……いっそ狂気にも近いと言えるほどに、そうなるのだという情熱。大人になれば……いや、少しでも賢しければすぐに失ってしまうようなものだが、その道を走り出す為には絶対に必要なそれを持っていれば、相手がたとえ将棋を始めたばかりの素人であっても、金美は喜んで指導対局でも研究会でも、何なら全力での対局すらするだろう。
憧れと同じ場所に立てないと諦めた少女と、憧れを超えんと欲する少女。目の前の棋士がどちらに時間を割くかなど明白で、そこに才能の有無は一切関係ない。
将棋というものに一番情熱を傾けている者に、理外に棲む棋士は応えてくれる。
万智も、銀子から熱いくらいの熱量を感じた。青白い、高まり過ぎた炎のような情熱は金美の御眼鏡に適ったのだろう。二人の関係性を良く知らなくても、あれほどの情熱を持っている相手ならば教えていて楽しい事は想像できる。
「ッ……」
それ以上に、銀子の口から出た名前が万智の心を揺さぶった。
小学生名人戦で、負けて泣いていた自分に声を掛けてくれた男の子。大切に心の内に仕舞っていた思い出の彼の名前。それが年下の少女の口から出た事もそうだが、自分が諦めたものにこの少女が手を伸ばしているから。
「……なれると、思てはるん?」
だからこそ、聞かずにはいられない。
明石金美という規格外を除けば、女性がプロ棋士になった事例は皆無。その金美も正規の手段である奨励会を勝ち進んだわけでは無く、それに限定すれば女性がプロになった事例は存在しない。
今現在、関東にいる女性奨励会員の最高が五級……万智や月夜見坂燎の一つ上の岳滅鬼翼が居るが、彼女は去年の小学生名人であり、初の女子小学生名人。しかしそれでも順風満帆とは行っていない。
それを考えれば、銀子の夢は妄想だ。理外に棲む棋士が助力したとしても、優れた棋士がイコール優れた指導者ではない事を万智は知っている。なれるはずがないと、思っている。
そんな万智に、銀子は目を向けた。大海原のように青く、底知れなさを内包した深い深い青い瞳を。
なんて、眼。
息が詰まりそうになる。
一瞬だけだったが、それでも供御飯万智は空銀子の眼を……その深蒼の根源を垣間見て、確かに呑まれた。小学生になったばかりだろう少女に年上の自分が呑まれたのだと、自覚した。
「……あんさん、名前は?」
「……空銀子。師匠は清滝鋼介」
「八一くんと同門……」
「彼の姉弟子ですよ。さて銀子、私は会長との話があるのでどこかで時間を潰しておいてください。大体三十分くらいで終わると聞いてますから」
「わかった」
「加悦奥七段」
「……これはそういう流れになんのか?」
「えぇ。ですので、お時間があれば保護者をお願いしたいのです」
「竜王に頼まれれば仕方ねぇか」
『この竜王が目を掛ける相手も気になる』という言葉は飲み込んで、加悦奥が睨みあう二人に視線を向けた。
万智は強い。小学生名人戦三位は伊達ではなく、小学生の中であればトップクラスなのは間違いない。しかしそんな彼女と真っ向から睨みあって退かない少女……あの名人すら降した最強の棋士が目を掛ける少女に、強く興味をひかれている。
「……彼女、強いのかい?」
「そうですねぇ……」
何処か弾むような金美の声は、銀子との年齢差も相まって妹を自慢する姉そのもので。
「現時点で言うなら、今回の小学生名人戦で打ち立てられた史上最年少。来年には塗り替えるかもしれない、という程度でしょうか」
普通なら贔屓目120%に取られそうな言葉を、半ば予言のように呟いた。
◇
「え、万智ちゃんと指したの? 銀子ちゃん」
清滝家に伺って夕食をご馳走になった後、万智と会った話をすれば八一はそんな声を上げた。『万智ちゃん』呼びで機嫌を一気に下降させる銀子に対して、金美は苦笑を禁じ得ない。
「まぁ、話の流れですね。最初は加悦奥七段が私と指させようと連れてきたのですが」
「さ、指したの? じゃなくて、指したんですか? 竜王」
「いいえ、今の彼女と指したいと思わないのでお断りしました……読みが乱れてますよ、銀子」
咎めるように歩が銀子の陣へと斬り込む。『ぐっ』と唸った銀子は必死に盤面を覗き込み、読むために思考の海へと没入していく。
せっかくだから、と八一と桂香も加えた三面指し……いつぞやのように金美は一人で三面を捌いていく。あの時と違うのは、桂香が振り飛車を繰り出してきたという点だ。
居飛車党である三人の師匠が許可を出した事もそうだが、桂香は研究家の気質でありその対象は何も居飛車の戦法だけに留まらない。振り飛車を指す女流棋士も多いので、それを研究する事は何も間違ってはいないから。
「どうして指さなかったの?」
「万智ちゃんだって強いのに……いや、師匠達みたいなプロみたいに強いって言う気はないけど」
「強さはまったく関係ありません。彼女は中途半端なんですよ」
『中途半端?』と聞き返してきた八一に対して、また奇手を持って斬り込む。考え込んだ銀子と八一を余所に、金美は再び口を開いた。
「彼女の師は加悦奥七段ですが、それは明らかに観戦記者としての修行の為でしょう。その上でどうやら、女流棋士にもなるつもりのようですが」
「あー……そう言えば研修会で見たような」
「別にそれを責める意図はありません。どちらを選ぶのも彼女の道であれば、部外者である私が口を出すのは筋が通りません」
しかし、と前置きしながら、今度は桂香に対する盤の駒を動かす。
「彼女は既に自分に見切りを付けていました。絶対にそれ以上にはなれないと諦め、観戦記者や女流棋士は目的の為の手段であると割り切った。将棋が好きである事もその情熱も認めますが、既に諦めた相手に教える事は何もありません」
「……例え話だけど、明石竜王なら万智ちゃんを鍛えるとしたらどんな指導をするの……でしょうか?」
思い出したように敬語に直した八一に対して、呆れた笑いを浮かべる。
「敬語、自然に出るように頑張りましょうね。例え話程度で良いなら、私がやらせるのは詰将棋でしょうか。ただし、実際に発生した終盤の盤面を引用した物ですが」
「詰将棋問題集に載ってるようなものではなく?」
「えぇ。そして大体二十から三十手詰めの問題を多数用意して、こう付け加えます。『
は? と三人が疑問の声を上げる。
詰将棋と言えば、どれだけ長手数であろうと詰むという前提が無ければ成り立たない。その前提がなければ、解かせる意味が無いのだから。
故に金美が言う詰将棋は厳密に言えば詰将棋ではなく、主に言えば終盤力と詰む詰まないを瞬時に見切る感覚を鍛える為のものであると、少し考えて三人は気が付いた。
「他に付け加えるルールとしては、一問五分制限で十問くらいですか。それを一日の指導を終えた後に毎回行い、たまに短手数や詰まない問題を交ぜ、間違えればペナルティ」
「……どんなペナルティを?」
「間違えた問題数に十掛けした回数のスクワットか腕立てか腹筋くらいにしときましょうか」
「肉体派……ッ!?」
嫌なら間違えなければいいし、一問程度なら間違えても万智くらいならばあまり苦にならないレベルのペナルティ。ただ、本当にやるとなれば金美がそんな『温い』問題を出すはずがないと銀子だけは直感している。
「どんな問題を……」
「そうですねぇ……では九頭竜君。貴方の盤面の詰みが私にはもう見えていますが、何手詰めですか?」
「えっ!?」
ぎょっとした八一が床に両拳を突いて盤面を覗き込んだ。目を見開いて読みを入れる彼の姿を見て、銀子と桂香もその盤面を覗き込むが本当に詰むのかどうかすらも分からない。唯一金美だけが、涼しい顔をしてそんな三人を眺めている。
「……二十五手先に詰みがある……?」
「それは貴方が一手受け損ねた場合ですね。全て受け切った場合は三十三手先に、二手損ねれば十一手で詰みです。五分以内に読んだにしてはまぁまぁの精度でしょう」
「お姉ちゃんは何時から……」
「供御飯さんの話を始めたくらいにはもうわかってましたよ」
この人やっぱ化物だ。
三人の心が一致した。
◇
今生初の防衛戦となる竜王戦。この棋戦は第一局が海外で行われる事もある。
前年度はフランスで行われる予定だったが、挑戦者である金美のパスポート発行が間に合わないという理由と、流石に連盟も小学二年生の女子が挑戦者になると思っておらず、その辺りの手続きの関係もあって流れた。
故に今回はかなり念を入れての海外開催となり、場所こそ前年度に予定していたフランスのパリではあるが、会場等のグレードは上がっている。
しかもタイトル保持者が見目麗しく幼い少女である事も相まって、現地での注目度も上がっていた。
当然地元のメディアからの取材の申し込みもあり、通訳もついていたのだが。
「僕の弟子が恐ろしく優秀だった件について」
玉座タイトルの防衛戦の真っただ中である筈の師匠が弟子のインタビューを見て思わず、そんなラノベタイトルかスレのタイトルのような事を呟くくらいに、この竜王はそつが無かった。
『フランス語は何処で?』
『母が語学の勉強をする際に耳にしていたら自然と。後は師匠の影響でしょうか』
本当は前世で語学にも手を出していただけだが、母親が語学の勉強をしている事も嘘ではない。幼い頃から英語やフランス語のラーニングCDを流していたし、それを聞いて学び直したのだから。
故に現地の人間相手に通訳なしで会話ができる。それに師匠もチェスの世界大会に出る為に英語を勉強したので英語なら出来る。前世でも同じで、金美は彼に影響を受けて語学の勉強をしていた。
『FIDEマスターの……では君もチェスは?』
『お遊び程度に師匠とやる程度です。本業は将棋ですので』
「へぇ、そうなんですか? 名人」
「確かにやるね。彼女、そっちも中々に強くていい刺激を受ける」
弟子のインタビュー映像を見ながら名人が話しているのは、研究パートナーの山刀伐。彼も画面に映る竜王に、名人を通してだが影響を受けている棋士の一人だ
「ルールを教えて、何度か練習した後にやってみたんだけど、最初から本気を出す羽目になったよ」
「チェスでも国内屈指の名人を追い詰める素人ですか……」
「『気分転換には良いですね』と言ってそれっきりだけどね。まぁ彼女には将棋がその性分に合っているんだろうさ」
研究会をしている最中に、部屋にあるテレビが映像を映す事はない。しかし今日は名人が自分から進んでテレビをつけて、チャンネルを弟子のインタビューを報じている局のものにした。こんな世間話など以ての外だったのに、ただそれだけの事で幼き竜王が名人に与えた影響というものが分かる。
「竜王戦、惜しかったですか?」
「惜しかったと思っているけれど、皆にとって彼女と指す事は良い事だと思っているんだ」
「……あの『導き』の将棋の事ですね」
山刀伐の言葉に、名人は頷いた。
明石金美の特異な将棋。盤を挟み、彼女と相対して指す事で一つ上の次元へと導かれるような感覚を、編入試験の対局の際に山刀伐も感じ取っている。何が足りないかを気付かされ、どうすればいいかと問えばまたそれにも気づかされる。
それは目の前の名人と似たようなものだ。彼も感想戦で別の手順を詳らかにする事があり、棋士全体のレベルアップを願っている節が多々見受けられる。
言ってしまえば、運命だろうか。将棋に対してよく似たスタンスを取る二人が師弟になったのは。
「本音を言えば全棋戦に出てほしいけれど、そうすると彼女の学業に良くないからね」
「仮にこの竜王戦に勝てば最年少防衛記録と共に、最年少での九段昇段。棋戦だけじゃなく取材などで多忙を極める事になりそうで、それも影響しそうですけど」
「そこはマスコミの理性に期待、かな。あまり良くない所には連盟から……僕の名前を使ってでも苦情を言わないとね」
そんな事を彼を見て、山刀伐は変わったと思う。
悪く言えば、盤上真理以外に興味を持たなかった棋士。プライベートにおいては結婚して、二児の父でもあるのだからその人間性については他の人と変わる所は無いのだろう。しかし棋士としての彼は、自身の発言の影響力がありすぎる事を忌避し、連盟からも遠ざかりただ独りだった。
こうして誰かと研究会をする事はあっても、本質的には孤独でしかなかった。誰も、本当の意味で彼と盤を挟む事は無くなっていたから。神とまで呼ばれてしまっていたから、そこでしかいずれ盤を挟んでくれる誰かを探せなかったから。
しかし今は、良い意味で地に足がついている印象を山刀伐は感じている。
広がった視界の中で現実すら見据えて、弟子の行く末を案じている彼は『師の表情』をとって盤から目を離し、唯一の弟子が映る画面を見た。
「娘達も……特に下の娘は、妹が出来たみたいだと喜んでいたよ。『次はいつ家に来るんだ』とか、『関東に移籍する時はウチに住めばいい』とか言って困ったもんさ」
「その割に、移籍すればいいなって表情ですね」
「まぁ唯一の弟子だし、手元に置いておきたい気持ちもあるさ。関東に来てウチに住むなら、四六時中指す事だって出来る」
「そして娘さん達に怒られると」
「妻も一緒にやってきたらもう、僕は勝てないよ」
ははは、と二人が笑う。
「そろそろ、向こうで対局が始まる頃かな」
時計を見た名人がそう呟くと、テレビの映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、ホテルの中に設けられた対局場。『対局開始10分前』という表示がある画面に映ったのは挑戦者。酷く緊張した面持ちで侮りなどの色は一切無くとも、その異様な雰囲気には呑まれているように見える。
何せこれから相対するのは弱冠九歳の史上最年少竜王……彗星のごとく現れた異端の棋士。今対局室に集まったメディアが注目している存在だ。部屋の雰囲気もそうだが、何から何まで異質なのだろうなと名人は考える。
『失礼します』
その声が聞こえた時、記者達がカメラを一斉に構える。挑戦者も思わず、といった感じで背筋を伸ばした。
『おぉ……』
ドアが開き、その姿を現すと今度は感嘆とも溜息とも取れるような声が漏れた。
水引で軽く結った髪に、金飾りの簪。纏うのは白の振袖と緋袴。白の羽織を纏った姿……日本人に聞けばほぼ全員が『巫女さん?』と呟くような色合いの和服姿で、竜王は現れた。
それだけなら、目の肥えた記者達が呆けるはずもない。現れた彼女が纏う超然とした雰囲気が、その出で立ちを色物ではなくまさに『神域より現れた神』のような存在感を発揮させているのだ。
「これは……」
「現地に居たら、僕も冷静ではいられそうになかったな……」
行かなくて正解だったと名人が苦笑した。
去年の竜王戦決勝トーナメントで戦った時よりも遥かに、その雰囲気が人間離れしているのを感じ取ったからだ。
今あの場に居る彼女が将棋そのものだと言われても、この姿を見た棋士は全員信じてしまうだろう。それほどまでに圧倒的な存在感を持って、金美はこの会場を支配してしまった。
「少なくともこの局はもう決まりだね」
名人の呟きは確信の響きを内包している。
事実として、この後の対局で挑戦者はみるみる時間を溶かしていった。竜王も慎重を期してか、持ち時間を三時間ほど使って指した勝負は二日目の昼前には終了。速報で竜王の勝利が伝えられた。
そしてその後、師匠である名人は玉座を防衛。
弟子である竜王もそれに続くように、四連勝で防衛。段位を名乗る事なく、史上最年少で九段に到達した。
竜王戦の竜王の衣装監修:釈迦堂里奈
と書くと途端に愉悦部の陰謀に早変わり。