いつかきっと、その牙で愛して 〜普通のJKはクラスメイトの美人吸血鬼を餌付けしたい〜   作:亜星

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残照

 

 「明日はまたくるんだからな!」

 

 そんな瀬川の捨て台詞を断ち切る様に、自動ドアがぴたりと閉じた。そして動き出す私たちふたりの時間。窓の外ではロープウェイの駅が横滑りに流れていく。

 私を瀬川から守るように立っていた透子が、大きくひとつ息をついてぺたりと床に座り込んだ。

 

「あははは、なんか疲れちゃったねぇ」

 

 一言だけこぼしたそれは、普段どおりのふにゃっとした気負わない声。いつもと変わらないその声が、さっきまでの非日常は完全に終わりを告げたのだと私に教えてくれた。

 

「そうね、なんていうか疲れたわ」

 

 私もそれだけをやっと口にして、キャビンの角の座席に座り込んだ。

 背もたれに完全に体重を預けて、両脚をだらりと大きく前に放り出す。

 普段の私なら絶対にやらない、お行儀の悪さ。

 だけど今はそんな事気にしていられないくらい身体中が重く気だるく感じられ、履き慣れたブーツすら、今はやたらと重い。

 

 ゴンドラを運ぶロープの軋む音。

 緩やかに流れていく黄昏の空。

 

 確かに時間が流れているという事を、それだけが私に感じさせてくれた。

 

(どこを見ても(あか)い空)

 

 窓の外で太陽は、もう半ば以上水平線の下にその姿を隠していた。

 天上から染み出す紺色と残照が染め上げる朱の色。

 それが混じり合った緋色の帯が鮮やかに夕暮れの最後のひと時を飾り立てる。

 誘われるように伸ばした手を、ふと我に返った私は慌てて引っ込めた。

 

(さっきまで何ともなかった(あか)が、こんなにも目に焼き付いて離れない……)

 

 やたらと喉が渇いている。

 喉を鳴らして、口の中に湧き出した唾液を飲み下す。

 口の中は後から後から込み上げてくる唾液で溢れかえりそうだった。

 

 喉の渇きに任せて、それを何度も飲み下す。

 けれども喉の乾きはおさまらない。おさまるはずがない。

 

(私、昂ってるんだ。あの人から透子を守らないといけなかったから。それで血の猛りに身を任せてしまったから。だから昂ってる)

 

 喉の渇きは瀬川と張り合って激しく体を動かしたから。アドレナリンの分泌が気分を高揚させて、心拍の上昇と発汗を促している。

 きっとそれだけ。

 この昂りも、喉の渇きも、込み上げる衝動も、じっと身体を休めれば治るはず。治ってくれるはず。

 私は極力そう思い込もうとした。

 そうしないと、今の私は何か途轍もない間違いを起こしそうだったから。

 

「あやめも大変だねぇ、あんな強引な人に気に入られちゃって。あたし、強引な人って苦手なんだよね。ほんともう、肩凝っちゃって。もうバッキバキよ?」

 

 緊張感のまるでないおどけた透子の声。不意にキャビンに響いた気の抜けたその声に、思わず私は透子の方に目を向けた。

 

 目を向けてしまった。

 

 目に飛び込んできたのは、片腕を思い切り伸ばしてぐいっと背を伸ばす透子の後ろ姿。

 

 猫のようにしなやかに伸びた背筋と、露わなうなじ。

 私の視線は否応なしに吸い寄せられてしまった。

 

(透子はどうしていつも、あんなに美味しそうなモノを平気で晒していられるの⁈)

 

 瀬川という危険がなくなってようやく気がついた、私の中にいつの間にか膨れ上がっていた古い血のもたらす衝動。血を求めてやまない、悍ましく浅ましい(かつ)え。

 せっかくそれを飲み下してやり過ごそうとしていたのに、そんな私の努力を透子の無防備さは早々に打ち砕いてくれた。

 

 前下がりに切り揃えたせいでやたらと露わな華奢な首筋。

 思い切り伸ばしたせいで袖がずり落ちて露わになった細い腕。

 

 その健康的な肉肌を窓から差し込む真紅の残照が艶かしく染め上げる。

 凝り固まった背筋をほぐそうと体を左右に揺らす透子。その動きにつられてやはり左右に揺れる柔らかそうな手首を、私は浅ましくも喉を鳴らして目で追いかけてしまう。

 

「あやめってさ、いま辛いでしょ?」

 

 なんでもないような透子の一言。

 その一言に、収まりかけてきた鼓動が一瞬で跳ね上がった。

 今の私がどれだけ飢えているのか、その事を透子が想像できないわけがない。それなのに、こんな煽るような事をいうなんて。

 向こうを向いたままの透子の表情を想像する。その顔には悪戯を楽しむような人の悪い笑みが浮かんでいる気がして、喜ばせてなるものかと、私は極力平静を装う。

 

「そうね、男子とあんな風に張り合うなんて、さすがに辛かったわ。まだ心臓がドキドキしてる」

「確かにすごかったよね。瀬川くんもあんなに動けるなんてすごいなって思ったけど、あやめもすごかった」

「お陰でほんとに疲れてしまって。だから今日はもうあまりからかわないでね」

 

 こちらを振り返りもせずに、相変わらずぐいぐいと背筋を伸ばす彼女の背中。

 その度に右に左にと揺れる真紅の残照に彩られた柔らかげな手首。

 根源的な欲求を掻き立てるそれは、私の視線を釘付けにして離さない。

 

 その左右に揺れる腕が、ぴたりと動きを止めた。そして伸ばした手をゆっくりと下ろした透子が、手の甲で右目を擦るのが見えた。

 

「素直じゃないな〜、あやめは。さっきからあやめが何を見ているのか、あたしが気がついてないとでも思ってるの?」

「何って…… 夕陽が綺麗だから、ずっと外を見ていたわ……」

「う、そ、つ、き!」

 

 透子は、笑いを含んだ声で私の精一杯の強がりを切って捨ててしまった。

 こしこしと目元を擦る透子の手から目が離せない。

 透子が目元をこするその度に、手の甲を染める真紅がより深くなるのは気のせいに違いない。

 

「う、嘘なんかじゃないわ……」

 

 絞り出すように強がって見せるけど、透子にそれを取り合ってもらえるとは思えなかった。声の震えを抑えられない。いつもの淡々とした、冷淡な自分を思い出そうとしたけど、ぜんぜんうまくいかなかった。

 

「うそじゃないなら、さっきからどうしてそんなに鼻を鳴らしているのかな?」

「私、そんなこと!」

「してるよ、あやめ。さっきからずっと、かわいく鳴らしてたよ。花の匂いでも楽しむみたいに、すんすんって」

 

 私は恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆い隠した。

 

 透子に、気づかれていた。

 浅ましくも血に酔ってしまった私のこと、気づかれてしまっていた。

 

 それでも私はキャビンに充満する、濃厚で芳醇な透子の血の匂いを楽しむ事を止められない。両手で鼻先を覆ったお陰で、鼻を鳴らすその音がやけに耳に響く。私の羞恥はなおさらに掻き立てらる。

 

 ただでさえ芳しい透子の血の匂い。普段は特に何も感じないのに、時折ふと漂ってきて、その度に私に激しい飢えをもたらす芳醇な香り。

 

 それに気がついていないはずなんてなかった。

 

 それなのに。

 

 ああ、なんてことを言ってくれたの!

 せっかく、気がつかないふりをしていたのに!

 

 こうやって、あからさまに指摘されてしまってはもう無理だった。自分を騙すことなんてできない。自分の浅ましい欲望を、自覚させられてしまった。

 

 血が、欲しい。

 透子の血が、欲しい。

 

 身体(血袋)に詰められていてでさえ私を魅了してやまないのに、このキャビンの中でその血は今も流されている。直接に室内に放たれた鮮烈なその香りに、私の血の衝動は否応なしに高められていく。

 

「ねぇ、あやめ。キミ、血が欲しいんじゃないかな?」

 

 透子は振り返ってふんわりと微笑んだ。

 

 未だ透子の目元から滲み出て、つと頬を伝う赤い雫。

 ちろりと覗く可愛らしい舌先が、手の甲を濡らす血の雫に伸びていく。

 

 見ていてはいけないと思うのに、その光景から目が離せない。

 

「と、透子、やめて。わたし、そんなの見せられたら……」

 

 とても正気ではいられない、そんな予感が私にはあった。

 

 いや、今の私は既に正気ではない。

 

 透子の怪我の具合を心配するよりも先に、その血が乾いてしまうのが勿体無い、そんな事を考えてしまう私が、正気な訳が無い。

 血の飢えに押し流されそうな私の理性が、ちりちりと焼き切れていく。

 頭に血が昇って目の前が霞んでくる。

 

 これ見よがしに伸ばされた透子の舌先が、手の甲を濡らす赤い雫を掬い上げた。

 

「あぁあぁ……っ」

 

 ため息とも嗚咽ともつかない声が溢れ出し、背筋を漣のような震えが駆け上った。

 

 あの冬の日以来、何度も味わった透子の血の雫。

 それが舌先に落ちて弾ける時の感触、充足感、芳醇な香り。

 その度に味わった甘美な刹那、その記憶が私の体を駆け巡る。

 

 快感にも似た痺れに身をまかす私と、透子の視線が絡み合う。

 

 --誘うような、透子の目線

 

 気がつけば私は、透子を床に組み伏せていた。


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