[未完]
第1話
楽園への道
<焼け落ちる音>
ルイスにて
1535年11月7日
レティシアという名は、今は亡き母のマリアンナがつけたものだった。
ミッテスを出て南国のファウルースに来たレティシアが、初めの数か月を共に暮らした貧乏人のアンナはパシオン系のベウル人で、ミラとファウルースで生活を共にした。そして正確には恋人というよりは情婦のような存在だった。親しい人は皆、彼女の事をレイラと呼んでいた。
ファウルースには1533年4月10日の昼前に到着した。
ミッテスを出てから、ロマンに寄港し、船を乗り換えて、3か月と三日の航海の後だった。ついにオゼイユの地を踏んだ時、彼女は20歳になったところで、レティシアはヨーロッパと湿気たミッテスに永遠に決別してきたことを誇示するように、身の回りの物全てを携行していた。
レティシア---その瞳は呪われたように赤く染まっていて、口は線でも引いたようにすぼめられている。真っすぐ伸び切った黒色の髪を、彼女は放置していたが、この人口2500人ほどの小さな町に着いて間もなく切った。
というのもここにきて初めて仲良くなった友人の一人、フェレール海軍のリュネ准尉は、そんなに髪を伸ばし町を歩いていると、バシオン人は貴方が男を誘惑していると勘違いすると言ったからだ。
彼女は多くの期待を胸の内に秘めていた。オゼイユの燃えるような空気を吸い込むと、透き通るような空から降り注ぐ指すような陽に目がくらくらした。どこへ行っても突然自然が現れて、それは目の前を羽ばたく鳥や、果物を抱えた猿--
吹き零れるような自然は、虚しさに覆われ盲目になっていた彼女に、生きる事の情熱を思い出させた。
1534年3月中旬。やっとオゼイユの焼けつくような日光と、染み入る草木の香りにも慣れてきたころ。レティシアは酷い喀血とめまいに襲われ、彼女の胸はふいごの様に膨らんだり縮んだりしたあとで、呼吸困難に陥った。たまたま道端に伏していたレティシアをみつけた面倒見の良いリュネーは、彼女を近くの病院へ運び込んでくれた。医師たちは心臓の衰弱を阻止するため、シギタリスを主成分とする薬を飲ませ、足には炎症止めの軟膏を塗り、胸には吸い玉を当てた。また医師たちにはこの発作の原因は分からなかったが、病状は日に日に良くなつていった。
「退院する」まだ十全ではないと医師たちは止めたが、一日16フランの入院費が資金計画を狂わせるので拒否した。
すぐにベウル人街にある、オゼイユで最も安い宿屋の一つに引っ越した。それは海辺から数十メートルのところにある不格好な石造りの建物で、その辺りにはランタンを飾り、木造の掘立小屋が固まっていて、約300人とかなりの数のベウル人が住んでいた。
獣の耳を持つ彼らは、仕事にあぶれミラに農業労働者として畑仕事をする為にきたものの、収穫にうだつが上がらなかったり、戦争で略奪されてしまったためにオゼイユに移り住み、細々とした商売をしているのだった。
市長のブラシール・カルデアはベウル人街に獣人専用のアヘン窟を作ることを許可していたので、レティシアも上手くそこに潜り込むことに成功し、パイプを揺らしてみたが、パイプは彼女を夢中にさせなかった。麻薬の幻覚的作用は、彼女にとっては受け身なもので、酷く退屈に感じたのだ。
ベウル人街には格安で住むことができたが、部屋は狭く辺りは悪臭に満ちていた。すぐ隣にはクズ肉屋があり、少し歩けばあらゆる種類の屠殺小屋があった。何だか鬱蒼になり、彼女は押し出されるように海へ出かけていった。そこで押しては引いていく波際を眺めながら、砂遊びをして何時間も過ごした。
リュネ准尉は穏やかな瞳をしていて、エレガントで、それでいてまだ17歳だというのに教養があり、繊細な人だった。
彼女はレティシアに、オゼイユのベウル人街で生活をするのはどれ程危険か忠告くれた。けれどレティシア、お前は聴こうとしなかった。自由にあこがれていたのだ、ルイス人やフェレール人に軽蔑されたっていいじゃないか。貴族としての誇りや、植民者の間での評判何て影もないモノはどうでもよかったんだね。レティシア、お前はすっかり自分の情熱に焼け落ちてしまった。
赤毛のアンナと知り合ったのは娼婦とべろんべろんに酔った船員が蔓延る7つの酒場のいずれでもなく、大きなマルシュ広場だった。そこには小さな噴水を囲む鉄柵と、その周りを囲む空き地ぐらいしかなかったが、ボナール通りとボンネル通りの間にあるこの広場は、朝早くから夕方までは、食料品から装飾品まで取り扱う商売の中心であった。
しかし夜になると、あらゆる不道徳と結びついているフェレール人の言葉を借りるなら、ここは肉市場に変わるのだった。
暗闇に太鼓が響いて、青白いランプの光が辺りを照らすと、その輝きのもとでダンスパーティーが始まるのだが、それはいつも最後には乱交騒ぎに発展する。ごろつき、寄港した船の船員、ベウル人、あらゆる人間が乱れながら値段交渉をし、おおっぴろげに愛の行為を行う様子は、レティシアをわくわくさせた。
ベウル人街に住み着いただけでなく、肉市場をたびたび覗いていることがフェレール人の間で知れ渡ると、オゼイユに住み始めたばかりの貴族の娘レティシアのイメージは、植民者社会の間で最低のものとなった。また到着してすぐにリュネーが連れて行ってくれた軍人クラブからも、到着当時は盛大に歓迎してくれた市長のカルデアからも招待は受けなくなっていた。
アンナはその夜、営業をするため肉市場へ出ていた。バシオン人とベウル人の混血で、おしゃべりで愛嬌のある少女だった。荒れた生活で身なりには惨めさを感じさせるが、身なりを整えてやればさぞ美しくなるに違いない。レティシアは5フランで話をつけて、彼女をホテルの自室に連れてきた。あまりに楽しい夜だったのでアンナは金を受け取ろうとはせず。彼女はレイラに夢中になり、そこで一緒に暮らすことになったのだ。アンナは年齢の割に若さを失っていたものの、飽きを感じさせない情婦で、オゼイユでの数か月間、新しい生活になじみ、人々と知り合っていくうえでレティシアの助けになった。
オゼイユにきて1年半になる頃、資金の尽きたレティシアは実家のある、ファウルースの内陸に引っ越すことを提案した。アンナは快く了承し、こうして二人はオゼイユを出てファウルース北陸、ルイスを目指した。
リボン, 1534年8月13日
オゼイユから出るフェレール人の船に乗ると、一度ミラに寄港しそこでルイスへ向かう船に乗り換え、2ヶ月の船旅の末
とうとうフェレールの港町、リボンに辿り着いた。既に船旅で疲れ切っていたレティシアにとって、これから嫌という程見飽きた内陸へ向かう馬車の旅は、もはや憂鬱なものに感じられていたが。見知らぬ土地に来て活気づいているいる隣のアンナを見ると、それもさほど悪いことではない様に思えたのだ。
<虚しさの街>
ルイス,1534年8月15日
<やはりこの街は好きになれそうもない>
リボンから網にかかった平貝を相席にして運んでくれた四輪の荷馬車から降りて最初に感じたことがそれだった。
私はルイスの家並み嫌悪感を込めて眺めていた。繁栄と共にがんじがらめになってしまった街には、金箔やラピスラズリを張り付けた教会や大理石の宮殿。そんなものしかない退屈で空虚なこの街に、私の心を躍らせるものは何一つとしてなかった。
アンナはそんな私の心情など知るわけもなく、やれデカい街だ、豪勢で立派だ、などと無邪気にもはしゃいでいた。
ルイスへ着くと、私達を迎えてくれたのはサン・ソラス派の人々とそのリーダーだった。
国民が字を読めないことに付け込み、権力の集中化を図った教会に対して、反発している彼らは平民から多くの支持を得ていた。
しかし彼らの激しい言動が当局と問題を引き起こすのは時間の問題だと言えただろう。この派閥のリーダーはジョズ・コーレンという名のきざな船長で、慎重に行動して、節度を保つようにという助言に、私はうんざりしていた。
「慎重で節度を保つような人間が、オゼイユに行ったというのは可笑しな話ですね」と私はこのきざな大男の立場をはっきりさせてやった。
「しかしあなた方は今こうしてルイスの地にいるではありませんか。私は革命を始めるためにここにいるのです。
高名なるマルティネス家を継がれる貴方に助力を得ようと考えましたが、私は真実のみを口にするしかありません。
もし貴方が私に腹を立てたというのなら、それは仕方のないことでしょう。」
このハゲ、私がオゼイユの肉市場と法外な入院費で金を使い果たし、今ではアンタの後ろにいる靴屋にも劣る貧乏だという事を知らないのか。
このジョズ・コーレンという男は好きになれなかったが、
それでも確かに不公正を嫌う点においては、まるで反対という訳ではなかった。
到着の翌日、髭をたくわえたトロンの警察署長が、白髪にラヴェンダーの香りを漂わさせて私の屋敷に来ると、滞在している間は警護をつけさせてもらうという旨の話をしていった。
それから数時間後、王の代理人と共に召還状が届いた。9月の始まりに王子の成人を祝した招宴があるという。以前、オゼイユに居た頃から、いくつか似たような召還状は届いていたが無視を決め込んでいた。
…このルイスであれば到底そのような真似は出来ないと、あの髭もじゃの国王も思ったのだろう。
こんな呆けた集まり、行ったところで何になるっていうんだろうか。そこに居たのは肥えた強欲の獣、ドブ色の笑みを浮かべて媚びへつらう狡猾な豚。あそこは貴族にとっての肉市場だ。しかしもっと不自然で、人工的な、耐え難い腐臭を放つ人の心の墓場だ。
「レティシア・マルティネスはサン・ソラス派の暴徒達に拉致された為に参加できないと、貴方の上司に伝えなさい」私はおどおどしながらこちらの顔色を伺っている目の前の、香油臭い青二才に整然と言った。
「それなら誰も疑わないでしょう。それに必要ならほら、このアンナが証言してくれます。彼女おしゃべりが好きなんですよ」
とアンナの両肩を掴んで私の前に立たせてやると、王の代理人の礼儀正しい若者は目を見開いて四肢は震えだし、私をさらにオドオドしながら見つめ初め、もしかしたら彼は私に殺されると思ってるんじゃないかと疑う程だった。アレキサートのドミンゴ通りを行った先、森の奥深くにあるこの邸で、絶対的な権力者の小間使いは酷く私を恐れている。それが何故だか分かるのかい、レティシア。
お前がお前の父と初めて会ってから数日が経った頃、ついにお前の叔父が相続という厄介な言葉を口にした十年前のあの朝。
聡明で、エレガントで白髪頭に赤い瞳の華奢な紳士であるお前の叔父、ドン・セオ・マルティネスはその論争に対してすっかり準備を整えていた。
彼は親しみを込めた長い前置きを残した後で、ラテン語とよくわからない法律の引用を交えて他の同席者を圧倒しながら、お前に宛てた手紙の中で、全ての財産をお前が相続することを告げたんだ。
お前は酷く困惑した。マナー地区にある従妹の家に逃げたり、どこか遠くの村で隠居しようとするたびに、お前は殺されそうになっていたね。アンナと初めて会った時、その顔立ちがもう会えなくなった自分の母を思い出させたので、お前は酷く心を打たれ、一緒に暮らさないかと話した。お前はまだセンチメンタルで、大人になりきれていない娘だった、マルティネスの後継者よ。お前は震えながら情婦を抱擁し、その耳元で、好きになってもらいたいと囁いていた。お前は母の面影を取り戻し、そこの獣人のおかげで、接する事のなかった家族の温かさと、確かな幸せを満喫していたのだ。お前は実際そう感じていたし、守りたいと考えていたのだったね、レティシア。
お前は感情が高ぶったように赤い瞳を揺らしてアンナを抱きしめ、愛を囁いていた。
アンナにとってお前はレイラだったが、レティシア。お前にとってアンナは母だったのだ。
ルイスの屋敷に眠っていた3万フランは、レティシアの金銭的苦悩を解消するに十分な金額だった。叔父の肖像画にキスをすると、その時からお前はレイラではなく、レティシア・マルティネスとして再び生きる事を決めていたのだ。
レティシア・マルティネス、権力と富を得る代わりに人間らしさを失い、歪んだ形でしか人を愛せなくなった哀れな娘。
今、目の前のトロンで若い王の代理人を務めている青二才は、文字通り真っ青の顔色で、ほとんど逃げるようにこの場を去っていった。これまで何度か起こした癇癪の一つに加えようかとお前は考えていた。だが、それ以上にしっかりと伝えてくれるかどうかだけが気がかりだった。
<暴徒共>
ヴァレンコ,1534年8月21日
1534年の八月の朝、忌々しい空虚な街に来て数日が経った頃、ルイスのヴァレンコ通りの4番地から少し逸れた、ひらけた所にある、この別宅のドアが弱々しく叩かれたとき、レティシアは目を見開けたまま立ち尽くしていた。
目の前にはとても背が低く色白で、ソラス会の修道服に身を包み、金の髪には一輪の花を飾り、
首から「私はミラから来たシャルロットです。貴方の友人ジョズ・コーレンより慎ましい女性への贈り物」と書かれた札を下げた子供、少女がいた。ソラス派の贈り物など受け取る気はなかったレティシアは、少女を閉め出してカギをかけたが、一向に帰る気配を見せないので、彼女の修道服をめくり上げてみると、腱を切断された跡がはっきりと残っていた。それを見たレティシアは黙ったまま少女を抱え上げ、自分の部屋に運び込むのであった。
コーレンからの贈り物というだけでも最悪だったが、南国の花で上手く隠されていたこの鋭い耳はエルフのモノで、見た目は8歳や9歳そこらの少女だった。しかし最悪の極みは彼女がフェレール語を話せないことだった。
<サン・ソラス派の暴徒共、どうやら貴様らは平民と貴族との間に乗り越え難い亀裂を作りたいようだな>
サン・ソラスの暴徒共、労働者の不公正、種族差別、富裕層の利己主義や無知に嫌気が刺したから、革命を起こしたのでは無かったのか。
この街の宗教的狂気があらゆる抑圧のもとになっている事に気が付いたから、無知故に過酷な単純労働を強いられ、搾取されている労働者の目を、開かせようとしたのではなかったのか。
敗北を繰り返しながら抵抗を続けたサン・ソラス主義者達は、今や無知なブルジョワより邪悪で無自制な存在になってしまった。
言葉も知らぬエルフの腱を切り、マルティネスの魔女へ送り付け憤慨させる事が、種族差別根絶を掲げる貴様らのいう正義の行いというのか。
レティシア、お前は昔から大衆的な娯楽が好きになれないでいたね。
容赦は必要はない、暴力の本能に支配された動物たちを、今更救うことは出来ないのだから。
大衆的な快楽に憑りつかれた呪われた街よ!やはりサン・ソラス派は社会の毒だった。すべてを堕落させ、人間を貪欲で無自制な獣へと変えてしまった。私はシャルロットをベッドに座らせると、急いで玄関へ向かう。中折れ帽子を頭にかぶり、朝に買い出しへ出かけたアンナを探しに、外へ駆け出した。
ルイス1534年8月20日
アンナが買い物を終えて、ヴァレンコ通りに入る路地に入ると、行く手を脂ぎった顔の男たちに阻まれた。
「あんた自分が見下げ果てたクズだって知ってんのか」と男共は我を忘れた様子で言った。
「裏切者の卑怯者め、同じ獣人の癖に搾取する人間の側につきやがって」
男たちはこの暑い日だというのに帽子をかぶっている。アンナは理解できないまま、
(きっと頭のおかしな男の集団に違いないわ)
と思いながら、道の向こう側を見ていた。
仲間たちがナイフをちらつかせていたので、ようやく事情が理解できたアンナは昂然と言った。
「すみませんがここを通してください。誰が私のすることに口出しして良いって言うんですか」
「ソラス・マルティネスだ」と怒りを込めて男は答えた。「良く名前を憶えておけ、ソラス・マルティネスだ。自らブルジョワの地位を捨て、命を賭けて貪欲な貴族と闘っている我らの救世主だ。」
アンナ-燃えるような赤毛に潜むアンナの瞳には、憤怒が煮えたぎっていた。
「オゼイユに行って男娼にでもなったらどうでしょう、ええ、きっとその方がお似合いですよ!」と周りの人々に聞こえるように叫ぶと、アンナは男を馬鹿にしたような仕草をしながら、その場を遠ざかろうとする。男の内一人がアンナを殴りつけた。動かなくなった赤毛の女を担ぐと、男達はそのまま薄暗い路地に消えていった。
ヴァレンコ 1534年8月24日
別宅に戻ったレティシアは中折帽子を床に叩きつけると、その場でへたり込んでしまった。もう街中を捜し歩いて3日になるというのに、未だに足掛かり一つ得られないでいる。見てごらんレティシア、数日前拾ったエルフが、お前の悪魔のような形相に肩を震わせて怯えているじゃないか。懐かしいだろうね、オゼイユの夜空の下、マルシュ広場にある青白いランプに照らされて、娼婦だった頃のアンナと愛し合っていたあの頃が。
数少ないフェレールの友人たちによると、あの頃からお前は社会的に受け入れがたいほど常軌を逸しているとみなされていた。その為にトロンの警察署長やルイスの市長どもは、行方不明になった獣人の召使い一人に骨を折ろうなどとは考えもしなかった。
お前は失望の中に知った。何が自分をイラつかせ、不安にさせているのか。思い出したのだろう、お前がまだ幼い頃過ごしていた日々を。ルイスの今は誰もいない邸に、まだ大勢の家族と召使いが住んでいた頃、まだ母のマリアンナが生きていた頃、お前はまだ無邪気な何処にでもいそうなブルジョワの娘だったね。庭で草冠を作ったり、召使いのベットに隠れたりして遊んでいた。
お前は絵を描くことが上手かった、もっと別の環境だったら、画家になっていたかもしれないね。
けれどお前は8歳になった頃を境に、まるで外に行くことが出来なくなった。息苦しい程、きらびやかな部屋に、お前は閉じ込められ、その頃からレティシア、お前にとっての家族とは、毎日部屋に食事を持ってくる召使いと、たまに顔を見に来る母親の事だった。
何気なくカーテンの隙間から外を見ていた時、あらゆる装飾品に身を包んだ父の背中が見えた。お前は何の感情も探り当てる事が出来ず、父もまた、お前に対して同じように何の感慨も抱いてはいなかった。レティシア、お前にとって母は唯一の祝福であり、鎖だった。断ち切られた鎖が恋しくて、レティシア、お前はアンナに近づき、愛情を装ったのかい。レティシア、お前があらゆる狂気に身を任せ、過ぎた時間から続く影を追い続けていたのは。それがお前にとっての、楽園への道だったからだ。
リュネ・カスティオン
ロマンの街道 1534年8月24日
オゼイユを出て、1ヵ月と少しの航海を経てロマンに寄港すると、そこで私は船から下ろされる事になった。持ち物と言えば、ルイス王室の蝋封が押されたこの巻物を位のもので。その内容というのも、要約すると。
オゼイユで私が知り合っていたマルティネスのお転婆娘が、今度はルイスの実家に帰省したそうだから、
貴族の評判を貶める様な面倒を起こさないようにオゼイユの時みたく監視せよという、そういう指令であった。
このレティシアと知り合ったのは、私が娼婦に違いないと思って声をかけた事がキッカケだった。振り返った時の、あの赤い瞳を見て、私は直ぐにマルティネスの人間だと理解して。震え始めた指先を隠すように、腰の後ろで手を組んだ。
私は彼女の素性を知らない体で、そんな髪をしていては娼婦の様だと、説教なんてしてしまったけど、正気の今は思う。どう考えたって、誤魔化せたかどうか怪しい所だ。
ルイスに向かう馬車の中でさえ、喉元を輪でもはめられて、締め上げられている様な圧力を感じているっていうのに…。
あぁ、どうか主よ。このリュネ・カスティオンがこのままルイスの街に着いてしまうと云うのであれば、どうか、どうかマルティネスの魔女が面倒ごとを起こす前でありますように、私の無礼など、とうに忘れてしまっていますように。
ルイス 1534年8月27日
神は人の慌てふためく姿を見て楽しんでいるに違いない。昼を過ぎた頃にルイスに到着して、1時間かけて移動した末に、マルティネス家の誇大な邸を訪ねた。しかし中にはあらゆる気配が感じられず、あるのは冷ややかな暗闇だけ。
酔狂な天のいたずらで、私はまた面倒を背負う事になったのだ。
日が落ち始め、空が赤みを増してきた頃。レティシアの手掛かりを求めて街の広間に出てみると、サン・ソラス派と自称する人々が大声を上げ、金貸家の前でデモを行っていた。暫くして、その中の、一人の男が夕空を背に木台に立つと、演説を始めた。
「団結だ」
あらゆる身振り手振りを用いて彼は話していた。夕焼けの光が差し込む石畳に人々は立ち尽くし、声を聴いた者は全員立ち止まった。
「我々中流階級は、私たちのためと謳っている王室の政策によって崩壊した」
彼の演説の虜になっている男、彼の声に気づいて、娼婦外の方から出てくる女たち。その全員が薄汚れ、頭に帽子を被っていた。
「一年の内1日さえ!一日でさえ休みを取ることが許されないのだ!」
「危険な採掘労働によって命を落とすか、過労で死ぬか、出なければ解雇され飢えて死ぬか!」
「残された妻は食うものに困って娼婦になり、その子供は娼館の立ち並ぶ街路地で物乞いをしている!」
「今こそ我々は団結し!労働の奴隷でも、貴族の娼婦でもなく、一人の人間としての権利を勝ち得ようではないか!」
演説がピークに達した頃、棍棒を装備した数人の兵士が、演説の中止させるために民衆の中に割って入っていった。
抵抗する獣人を殴りつけ、木台は取り壊された。リーダーの男は兵士たちに取り押さえられたまま、演説を続けていた。
民衆を散らしていく憲兵と目が合うと、私は静かに目を逸らし。熱を増した民衆に背を向けその場を去った。
あの場から逃げるようにして街路地に入ると物乞いが居た。ヒビの入った椀を手に、薄汚い格好で、雨の日にドブに落ちた野犬のような臭いのする、おそらく子供の雌であろう獣人が物乞いをしていた。私は椀に音が鳴るように1フラン硬貨を放り込む。少女はうつむいたまま視線を動かさなかったが、私が前で屈みこむと、少し肩をビクつかせる。
私は頭の位置をこの小柄な少女に合わせ、軍人なりに最大限優しい声色で言った「今日は、綺麗な夕空ですね、お嬢さん」
少女は俯いたまま顔を上げようとはしなかったが、私は試してみることにした。
「今から質問する事を誰にも話さないと誓うなら、もう1フラン差し上げます。」
少女は顔を上げて、頭を縦に振ると、エメラルドの様な瞳を私に見せた。この10歳にもみたないような少女が、1フランの金に執着する姿というのは。見てて何だか悲しくなってくる。
「そして何と、私の質問に答えてくれたら、更にもう1フラン差し上げます」
「それ、本当」
輝くという言葉が正しいのだろうか、悪臭を放つ伸び切った前髪から見えたのは、そんな目だった。
「もちろん、本当ですよ。」
「質問は」
「レティシア・マルティネスという女性の居所をご存じですか?」
私は通りがかりに聞こえないよう、彼女に近づいて耳打ちをした。臭い。
「目が赤い人?」
「そう、そうです。うっ」
不意に鼻孔を開くと、堪えがたい悪臭に吐き気を覚える。少女は何ともなく「どうかしたの?」という顔をしている。
「どこに住んでるかは分からない、けどヴァレンコ通りの、市場に、よく赤毛の人と一緒に来てた」
ヴァレンコ通りと言えば獣人労働者が多く生活する貧困街だ。オゼイユに行くのも相当な物好きだけだろうが、こんな湿気た街に旅行で来る訳がないだろう。見かけたとすれば、それは彼女がその近辺で生活しているから。
「やった、あぁっ!」
私はとうとう見つけた手掛かりに、喜びのあまり立ち上がるが、襲ってくる足の痺れが私を再び跪かせた。
少女の小さな手に3フラン硬貨を2枚握らせ、痩せ細った体を思い切り抱きしめる。
私は外套を羽織っていたし、少女は冷え切っていたので、体温が伝わる訳ないのだが、温もりは確かに通っていた。
私は手を差し出して彼女の頭に乗せると、それを滅茶苦茶に撫でてやる。少女は降り注いできた僅かな温もりを噛みしめる様に、何も言わず、ただじっとしていた。
「私はリュネ、リュネ・カスティオン」
何だか頬の上辺りが痒くなって、少女のつむじから目を逸らす。娼婦街の、黄ばんだレンガが目に入った。
「私…無い」
「え」
どこか予想はしていた。彼女はどう見ても孤児で、獣人は孤児院にさえ入れてもらえないのだから。
私は意外だった、というような反応を見せて、少女の動きを待つ。
「それなら」
私にこれ以上、何かを与える資格があるのだろうか、もうそれはどうでも良かった。
「今から貴方はノエル・カスティオンとして生きる、なんてどうでしょう」
偽りの善意だ。自分の為だ。
あの夕暮れの広間を通りがかって、人々の作る陰影を、視界の隅に見つけた時から、そんな私心には気が付いていた。
ほら、目の前の少女は私の偽善に気づいたに違いない。
顔を赤くして、俯いて震えている。
「すみません、名前何てこんなこと…」
居ても立っても居られない。今すぐこの場を立ち去って、レティシアの死んだ目を拝みたかった。
私は余りに世間を知らず、通ってきた道は余りに平穏過ぎた。私はこの少女を前にして、確かに、自分の心を恥じていた。
遠くから犬の叫びが空に吸われて。私は靴先を変えてその場を去ろうと。
「リュネ」
以前よりもハッキリとした声で、私は呼びかけられる。この場を今去ることは許さないといったような、ある種の志を感じる様なそんな声。
「な、なななんでしょう!?」
私の心が見破られたのだろうか。獣人の不憫に同情する態度をしておきながら、私が海軍の人間で、貴族の警護にここに来たと知ったら何て言うだろうか。少女はそのことを言うのをためらっているようにも思えた。言い難いことを口に出そうとしているような仕草、その動きは顔を見なくとも察することが出来るくらいに、分かり易い。
「その…」
もう靴先も明後日へ向けて、ここを離れようと言うときに、少女は消えるような音を出す。
「綴りを、教えて」
「え…あぁ……あぁ!」
「駄目……?」
「いえ、もちろん喜んで!光栄であります!」
「変なの」
あぁ、レティシア、早くお前に会いたいよ。そうして二人でこの街の不和について語り合って。いつかルイスから不公正が取り除けたなら。その時からやっと、私は人並みの気高さをもって生きられると思うからさ。
『影の畔』
私の心は時を止めたままだというのに、無情にも空の陽は暮れて、鳥の囀りも遠のいてゆく。気疎い月が腹を出し、窓の硝子をすり抜ける、嘲笑うかのような侮蔑の光を瞼の外に感じながら煩悶する。1週間ほど昔の私なら平然と言うだろう。もし無為な時を生き長らえる者が居たなら、彼は流産した方がまだマシだったと。しかし、そのような人は流産などせずとも死ぬのだ。無為な時間が膨らみ続けるうちに、確実に、緩やかに心は死んでゆく。そして精神の死に連ねて肉体も滅びへと向かって行き、最後には辻褄を合わせる様に自ずと命を絶つ。…私がそうなる日も決して遠くはない。
床に頭をつけて寝ていると、世界が少し、私の方へ近づいたように感じられた。家の外から聞こえる馬車の蹄の音は輪郭を失い、丸みを帯びたまま耳に吸い込まれる。月がすっかり上った頃だった。暫くそうやって何にも成らない事をしていると、この家のドアを、誰かが叩く音が聞こえた。
この家のドアを叩く者と言えば、王族の使いか、警察か、コーレンの手先か。どちらにせよ碌で無しばかり。
三日三晩木のタイルに張り付いている私もその内の一人だろうか。なんだ、私も奴ら畜生と同類だというのか。
それは癪に障る。
私は軋んだ身体を無理やり床から引き剥がし、近くにあったテーブル台を掴む。
半ば無理矢理立ち上がろうとして、近くの花瓶に肘をひっかけ、キキョウを立てていた花瓶が一つ落ちて割れた。
キッチンの方で料理をしていたエルフが車椅子に乗ったまま駆けつけて来るが、私は足を止める事無くドアに向かう。
玄関に着く。靴棚の中には、アンナに買ったまま、一度も履かれていない白い靴を見つけた。
緋色のドアの前に立つ。私は覗き穴を無視して、僅かばかりの躊躇を押し殺す。真鍮のノブを捻り、内側に引いた。
ドアの隙間から覗えたのは、穏やかで美しい碧眼の女性。
彼女は僅かに肩を震わせた後、一度息を呑んで言った。
「や、やあ、レイラ。久しぶりだ」
初めて会った時も、たしか彼女はこんな仕草をしていた。
畏れとは少し逸れた、後悔の仕草。手を後ろに隠しながら硬い笑顔で愛嬌を繕う。
目をこちらへ向けはするが絶対に瞳孔は合わせない。
オゼイユに居た頃から半年が過ぎた今でも、私の友よ、お前の臆病は治らなかったのだな。
私は、彼女の瞳孔を見つめて答えた。
「久しぶり、リュネ。」
目の前に立つ、私の唯一の友人は安心したような顔を見せて、「上がってもいいかい?」と訊いていたので。私が、暫く使っていなかった玄関マットを床に投げるように敷くと、彼女は一言「お邪魔します」と、柔らかな笑顔で答えた。
天の意志が違ったなら、私も彼女の様に無垢なままでいられたのだろうか。少し考えてみたが、そんな姿はまるで想像できなかった。今まであらゆる交友を毛嫌いしてきた私が、未だに彼女を友と呼び続ける事が出来ているのは、私が彼女の純粋さにある種の憧れを抱いているからなのかもしれない。
私はこのリュネという友人に、ある敬意のようなものを感じていた。
戸外の月は既に上りきり、人の往来も聞こえなくなった。
臆病なエルフはリュネを警戒して、キッチンを仕切るカーテンの隙間から、こちらを覗いている。そんな様子を見て、私は何だか、たまらなく可笑しくなって、小腸から笑い声をあげた。
声に驚かされて、エルフはカーテンの向こうへ行って逃げてしまったし、リュネは怪訝な顔をするので、笑いに声を震わせながら言うのだ。
ルイス 1534年8月28日
「それにしても酷い臭いだ」
「え?」
レイラは私を部屋に上げると、かと思えばずっと抑えていた咳を吹き出すように笑いだし。爽快な表情でそう言った。
思わず戸惑いの声を漏らすと、そんな様子など無視するように、
レイラはバスローブと(私の知る限り)彼女は一生着ないような…純白の、フリルで飾られたネグリジェを私に手渡した。
「とりあえずシャワーを浴びろ。まるで雨の日にドブに落ちた犬みたいな臭いだ」
「あぁ、ありがとう。助かるよ。」
…私はこのネグリジェの在り処に言いようのない、嫌な予感を感じていた。
だって彼女がこんなものを着るはずがないもの。けれど、同居人らしき人は見当たらない。
もしかして、今とんでもない面倒ごとに巻き込まれようとしてるんじゃないか。
(いや気のせい、気のせい、きっと疲れてるんだ)
虫の知らせに暫く黙想したあと、振り向き様に同居人について伺おうとした時には、既に彼女はどこにも無かった。
心に染み付いていた不安感の生み出した妄想が脳裏を駆け巡った。
…けど浴室のシャワーから(信じられないことに)温水が出る事に気づくと、それは駆け巡ったままどこかへ行ってしまった。
そんな事よりも、てっきり臭いの元は、汗やノエルに抱き着いたときに、服に生まれたものだと思っていたけど。
温水を浴びて、バスルーム内にはむせ返る様な、まるで港で放置されて3日は経った腐魚のような臭いが嗅覚を刺激した。
その無情なる事実が、一体何が悪臭の原因たるかを物語る。
私はこんな悪臭を纏って出歩いていたか。思う…あぁ、私はもうダメだぁ。私はこの国で生きていく上でわりと重要だったものを失くしてしまった。淑女のとしての何とやらを…長い軍人生活の中ですっかり忘れてしまった。
(けど、忘れたってことは本当は大したことじゃなかったんだ)
(そもそも軍人が淑女の嗜みを忘れるべからず、なんて馬鹿げてるよ)
体中の骨を伝わって、真鍮のノズルから出る水滴の音が耳の内側を反響する。そのまどろむようなリズムは、私を少し間だけ子供にさせた。
(…臭いなぁ)
その後、浴室内に残った腐臭が感じられなくなるまで、シャワーを浴び続けた。いちおう、臭いは去ったように思えた。
ただ、漁師の様に自分の鼻が麻痺してしまったのか、それとも実際に臭いが取り除かれたのかもう分からない。
一応、香油をつける前にレイラに確認しておこう。そうしよう。
頭が痛くなる程の湯浴びも終えて。バスローブを取りにバスルームと更衣室を仕切るカーテンを開いた。
壁に備え付けたフックに、かごは吊るされていた。私はそれを手に取ると、やはり中身を見て、湯冷めしない程度にしばし考える。
中にはまるで、人形や恋人に着せる様な可愛らしいネグリジェとバスローブが畳まれて。私はやはり思うのだ。思うのだ。
(これを…着るのかぁ…)
きっと多分、これってレイラの恋人の服じゃないだろうか。彼女は在るものは何でも利用するタイプだから、きっとこの服もそうなだろう。
(いやぁ…でもこれは無いだろう‥)
多少の、いやかなりの抵抗感を受けて。彼女はレズだけど、きっとマザコンだから私には興味がないんだろうなとか考えながら。とりあえず私はバスローブだけを羽織って、リビングの方へ向かった。
手寧にワックスが塗りこまれた木のタイルを敷き詰めたリビングの床は、ほのかに暖かかった。
結局レイラは一体なにがツボにはまって笑い転げていたんだろう、とか。さっきから2階の方で聞こえてくるゴロゴロといった何かを転がすような音は何だろうとか。そんなことをバスローブを羽織ったまま、廊下を歩く最中考えていた。
リビングに着いて、ソファーの背から突き出たレイラの絹の様な後ろ髪を見つけた頃には、既に頭痛も引いていて。
私は若干嬉しい気持ちで、私は彼女のなだれ髪に声をかけた。
「レイラッ」
声をかけても返事が無い。
私はある可能性が浮かんで、顔を覗き込んでみると。やはり彼女は眠っていた。
暖かい色のランプに照らされて、なだれのように落ちた髪は艶やかな光を纏っている。いつもは真っ青で吸血鬼みたいな顔色も、此の時は暖色の光を吸い込こんで血の気を帯びていた。
「綺麗だ…」
そんな事を呟いてもピクリともしない。きっと眠ってしまったんだろう。
私を待っている間に寝てしまったのかな。なんて、そんなことを考え始めてしまうと、私の目には、彼女の横顔がたまらなく愛らしく映えた。
私の中心境がそう思わせたのか、それは単なる呼び水で本当は既に。
「レイラ」
私はもう一度だけ声をかけつつ、髪の毛に4本の指を通す。絹のような黒髪に鼻に近づけ匂いを嗅ぐと、マリゴールドの香りがした。
(でもきっと、こいつはマザコンだから)
だから、きっと、私には興味がないんだろうな、とか。
そんなことを思うと、何だか私は震える様な感情に襲われて、無性に、その場から離れたくなった。
私はすぐさまランプの火を吹き消す。
向かい側のソファーには枕も掛物も無かったけど、かまいやしない。もう横になって目を閉じた。
ランプから僅かに鯨油の香りが漏れていて、真っ暗闇の中だとそれがくっきり分かった。あぁ、もう眠ってしまおう。
指先に残ったマリーゴールド匂いと、下腹の辺りの、小さな歯車幾つも回っているような感覚が、あぁ、私の眠気なんかを吹き飛ばしてしまったけど。
(頬にキスくらいしておけばよかった)
そんな煩悩や小さな後悔や、目には見えない重みを胸に感じ始めたのは。眠れもしない晩夏の夜、月も沈みかけた頃のことだった。