■
潮騒の音と共に寄せる波が、プルルートの足元を濡らす。
「いつまで、そうしているつもりですか?」
問いかけるイストワールの背後には、崩壊したプラネタワーの残骸が打ち上げられていた。夕陽を浴びて鈍く輝くそれを一度、ぼんやりと見上げてから、プルルートがうわごとのように語りだす。
「何もかもが、終わるまで」
「もう、全て終わっていますよ」
「……だったら、何かが始まるまで」
「その時が永遠に来ないと言うことは、あなたが一番分かっているはずですが」
答えるイストワールの声には、微かなノイズが走っていた。それは、彼女がもうすぐに終わろうとしている証拠だった。小さな背中から生える虹色の羽根は、ぼろぼろにひび割れている。羽ばたくと、夕陽を浴びたかすかな欠片が、きらきらと輝きながら砂浜に落ちて行った。
それを眺めていたイストワールが、はぁ、と小さく息を吐いてから、プルルートへと向き直る。
「思うに」
「……うん」
「あなたは執着していたのだと思います」
プルルートは、何も答えなかった。
「守護女神戦争を勝ち残り、この世界の最後の女神となった。それなのに、あなたはこの次元を支配することも、発展させることも、あるいは破壊することもしなかった。ただ、あなたはこの世界を俯瞰することしかしなかった」
「……そうだね」
「私にはそれが理解不能でした。あなたはどうしようもなく怠惰で鈍感な人です。何度も仕事を押し付けられたり、あるいは仕事を放棄されたりしました。ですが、この次元を護るためなら全てを投げ捨てられる人でもあった。何度もこの次元を護り、人々を助けた。それこそ、長きに亘る守護女神戦争によって崩壊しかけたこの次元を、あなたが唯一の勝者となることで救って見せた。それなのに……」
続く言葉は、潮騒の音に遮られた。水平線の向こうでは、捲れ上がった大陸が大きな波となって、別の大陸を飲み込んでいた。氷柱のように落ちていくビル群は夕焼けに照らされて、茜色の輝きを放っている。寄せる波が、プルルートの足元へたどり着き、すぐにまた海へと帰っていった。
ぽすん、とその場へ腰を下ろした彼女へ、イストワールが言葉をかける。
「放棄したとは言いません。ですが、女神としての役割を全うしたとも言えません」
「そうかな」
「人々が助けを求めれば、それに応えた。ですが同時に、人々が助けを求めなければ、あなたからは決して動くことはなかった。あなたは、世界を守護する
「……でも、それが最後に残された女神の役割じゃないの?」
返ってきたその言葉に、イストワールは一瞬、目を見開いたが、すぐに今にも泣きだしそうに顔を歪めながら、
「私は、呑気に笑っていたあなたの方が好きでしたよ」
鬼灯色に染まった瞳は、瞬きをすることもせず、ただじっと水平線の彼方を見つめていた。
「変化を畏れていたのですか?」
「……どうしてそう思うの?」
「自ら動くことを拒んでいた……いえ、この次元に干渉することを、拒んでいたように見えました」
返答はない。波の音が、校庭となってイストワールの耳へ届いた。
「別に、それが原因だとは言いません。機構になろうと、あなたはこの次元を護り続けた。ですが、もう寿命です。あなたがこの次元を護り続けたからこそ、この崩壊は避けようのないものになってしまった」
「慰めてるの?」
「かも、しれませんね。それとも、絆そうとしているのかも」
プルルートの横に漂い、同じように崩壊する風景を眺めながら、イストワールが続ける。
「理由を教えてくれませんか? あなたが、
「……そんなこと聞いて、何か意味はあるの?」
「確かに何の意味もありませんね。ですが、私の起動時間は残り4分36秒なんです」
かしゃり、と隣から乾いた音が響く。見下ろしたそこには、欠け落ちた虹色の片翼が、砂浜に突き刺さっていた。そうして浮かべた彼女の小さな笑みに、プルルートは喉まで昇っていた言葉を飲み込んだ。これが、彼女と交わす最後の言葉になることは、明白だった。
やがて、夕焼け色に染まる、ひび割れたガラスのような空を見上げながら、プルルートが語り始める。
「……ずっと、置いて行っちゃったの」
「誰をですか?」
「ノワールちゃん」
その名前を口にしたのは、いつ以来だろう。
「小さいときから、ずっとそうだった。私が先で、ノワールちゃんが後。新しいお菓子とか、ゲームの順位とか……それこそ、女神になったのも、そう。でもね、ノワールちゃんは絶対に後からついてきてくれた。私の隣に並んでくれた。私はそれが嬉しかった。どんな時でも一緒にいてくれるって、思ってたの」
「……そうですか」
「だから、私がこの次元の最後の女神になったとしても、きっとノワールちゃんなら隣に並んでくれるって、そう信じてた」
ひび割れた空の一部が崩れ落ち、景色の一部が大きな欠片となって海へと落ちていく。舞い上がる水しぶきは、夕焼けの光を浴びて、燃えるような煌めきを放っていた。
「……でも、ようやく気付いたんだ」
「何にですか?」
「私がずっと、ノワールちゃんを置いてけぼりにしてるんだ、って」
砂浜に放っていた手を、プルルートが強く握り締める。
「馬鹿だよね、あたし。ノワールちゃんが着いてきてくれるんじゃなくて、あたしがノワールちゃんを置いて行ってるだけだったの。それに気づいたときにはもう……あたしの周りには、誰もいなかった。あたしは、ノワールちゃんだけじゃなくて、みんなまで置いて行っちゃった。……ほんと、自分が嫌になるよ」
「……だから、変化を拒んだのですか?」
「あたしが歩くのをやめて、立ち止まっていれば、みんなが着いてきてくれると思ったから。でも、遅すぎた。あたしが立ち止まっているのは、この次元の行き止まり……みんなと一緒になったところで歩ける未来なんて、ない」
指と指の間から、静かに砂が零れ落ちていく。
砂時計の砂はもう、残っていない。
足元を埋め尽くすのは、過去に残した後悔だけだった。
「……ノワールさんのため、だったんですね」
「くだらない理由でしょ?」
「いいえ。とてもプルルートさんらしい理由だと思いますよ」
にっこりと、優しい笑みを浮かべて、イストワールはそう答えてくれた。
「ありがとうございます。最期にその話を聞くことができて、よかった」
「……行っちゃうの?」
「はい」
短く答えてから、イストワールがプルルートの目の前へ浮かぶ。
「あなたという女神に仕えることができて、幸運でした」
「いーすん……」
「ですが、さよならじゃありません。だからどうか、悲しまないでください」
そうして、鬼灯色の瞳から零れ落ちる涙を、小さな指で救い上げながら、
「私はずっと、あなたのそばに――」
とさり、と小さな主を失った本が、砂浜に堕ちる。
虹色の羽根は雪のように、夕焼けの光の中へと消えていった。
「……いーすん」
あれから、どれだけの時間が経っただろうか。一分かもしれないし、一時間かもしれないし、一日かもしれないし、一時間かもしれない。時間という概念が既に崩壊したここでは、その判別すらできなかった。
空は永遠に茜色に染まっており、大陸は波となってこの次元を食らい続けている。潮騒の音が鳴りやむことはなく、打ち寄せる波をプルルートはただじっと見つめていた。今の彼女にはそうすることしかできなかった。
ぼんやりと空を見上げる。ひび割れた空はそのほとんどが崩れ落ち、先の見えない暗闇を覗かせていた。
ぱらぱらと破片が落ちていく。空という景色が破れ、崩壊を続けていく。
――変化が訪れるのは、いつだって突然だ。
「あれ……?」
空の欠片の狭間、茜色に染まる景色の中に、ぽつりと。
人の姿のようなものが、見えた。
「……うそ」
手の甲で何度か目蓋を擦るが、それが消えることはない。それどころか、落ちてくる人影はどうやらこちらに近づいているらしく、次第に全貌がはっきりと瞳に映る。そしてプルルートは、信じられないように目を見開いた。
漆黒よりも黒い髪に、彼岸花のように真っ赤な瞳。体を覆う外套の下には、忘れもしない彼女が仕立てた服装が見える。疑問が洪水となってプルルートの頭を埋め尽くす。
けれど、ただ一つ確かなことは――
「のわあああぁぁぁああああ!?」
――ノワールが、そこにいた。
「ノワール、ちゃん……?」
「あ、やっぱりいた! ほらね、私の言ったとおりでしょ!?」
「どうして、ここに……」
「話は後でちゃんとするから! とにかく、全力で私のこと受け止めなさい!」
「え……え!? う、受け止めるって、どうやっ――」
ぼふん、と。
存外、鈍い音を立ててノワールはプルルートの上に墜落した。
「……助かったわ、プルルート」
「下敷きにするなんてひどいよ~」
「いつかのお返しよ」
ぱんぱん、と服に着いた砂を払い落としながら、ノワールが唇を尖らせる。すると彼女は、夕焼けの光が射す方へ顔を向けてから、小さなため息を零した。じとっとした訝し気な視線が、プルルートへと送られる。
「まったく、こんなところで何してたのよ? もう崩壊寸前じゃない」
「……それは、こっちのセリフだよ」
振り返った彼女の瞳を見つめながら、プルルートは静かに、
「どうしてノワールちゃんが、生きてるの?」
「そんなこと……」
問いかけに、ノワールは呆れたように肩をすくめてから、語りだした。
「あなたね、ツメが甘すぎるのよ」
「……ツメ?」
「だってあなたがやったことって、私たちを他の次元へ飛ばしただけじゃない。あなたからすれば、それで私たちを殺したってことにしたのかもしれないけど、そんな上手い話があるわけないでしょ」
「いや……でも……え?」
言っていることがよく分からない。それをさも当たり前のように語るのだから、よけいにややこしくなってくる。ずきずきと痛み始めた頭を落ち着かせると、プルルートは深く息を吸ってから、その根本となる疑問を口にした。
「……どうやって別の次元からこっちにやってきたの?」
「はい?」
「だって、そもそも別次元への、それも指定した次元への渡航なんてできるわけがないから、私はノワールちゃんたちをどこか別の次元へと飛ばしたのに……どうやって、ノワールちゃんはここに……」
「ああ、それなら」
途切れ途切れになって言葉を紡ぐプルルートに、ノワールが体を包む外套を開く。その中から出てきたのは、漆黒の羽根を持つ一羽の蝶だった。ひらひらと舞うそれは、プルルートの周りを漂うと、彼女の目の前に一度留まって、
『なるほどな。コイツがお前の言ってた最期の女神ってヤツか』
流暢にそんな言葉を話し始めた。
「しゃ、しゃべってる……!」
「紹介するわ、アナタに飛ばされた次元で出会ったクロワールよ。私はクロって呼んでる」
『違ぇよ! 出会ったんじゃなくて捕まえて利用してるんだろ!』
「あなたが私を騙して利用しようとしたからでしょ! 言っとくけど、ここしばらくはコキ使ってあげるからね!」
『どうしてだよ! お前、目的のヤツとは会えたんだろ!? なら俺の役目はここで終わりだよ!』
「あっ、こら! 待ちなさい!」
伸ばしたノワールの手をひらりと躱しながら、黒い蝶が海の方へと飛んでいく。黒い粒子をまき散らしながら、クロワールは一度、ノワールの方へと振り向いて、
『へへへ、じゃーな! この次元と一緒におさらばして――』
「えいっ」
『へぶ!?』
ばちん、と。先回りしたプルルートが、手にした本で彼女を挟み潰した。
『な、なにしやがるコイツ!?』
「……多分だけど、この子のおかげでこの次元に来れたんだよね?」
「そういうこと。ありがと、プルルート」
ページの間にクロワールを抑えつけたまま、プルルートがノワールへと本を渡す。そうして表紙へ目を落としたところでふと、ノワールが何かに気づいたように目を細めてから今一度、彼女へと向き直ってから、問いかけた。
「……もしかして、これ」
「うん。いーすんが乗ってた本」
「ダメよ! そんな大事な本にこんな汚いヤツ挟んだら!」
『誰が汚いんだよ! ってかこの本の中、なんだか変な感じするんだけど大丈夫か……?』
「今すぐ出しましょう! ほら、さっさと出てきなさい……!」
『あっ、待てよオイ! そんな無理やり開いたら――』
そんなクロワールの言葉を遮るように、紫色の光が開かれたページから放たれる。一瞬の暗転の後、色彩が戻ったプルルートの視界に映っていたのは、
「……いーすん?」
本の上に胡坐をかいて座る、小さな少女だった。
「おい、そこのトボけた方! 今なんて言った!?」
「あら? どうしたのよクロ、イストワールにそっくりじゃない」
「お、お前まで! いいか、二度とその名前で俺のことを……」
「呼ばれたくなかったら、分かるわよね?」
「うわ!」
両頬を片手で挟みながら、ノワールがにやりと頬を吊り上げる。そこで初めて、クロワールは自分の体がどうなっているのか理解したらしく、体のあちこちへ手を回すと、その瞳を大きく見開いた。
「ど、どうなってやがる!? なんで俺がこんな姿に……」
「そんなこと、私たちに分かるわけないでしょ? でもいいじゃない。そっちの方が捕まえやすいんだから」
「何にもよくねーよ! おい、やめろこら! 離せっての!」
「なら、さっさと別の次元への道を開きなさいよ。ここに残り続けたらマズいのは、クロも同じでしょ?」
「……あー、くそっ!」
そうやってクロワールが吐き捨てると同時、ノワールの目の前にある空間が水面のように揺らぎ始める。波を打つその表面に彼女は手を伸ばすと、何かを確かめるように頷いてから、クロワールの頬を掴むのをやめた。
やがて波が静まると、そこには雪によって白く彩られた街並みが、カーテンを透かすように映り始める。
そしてノワールは、プルルートの方へ向き直りながら、自らの手を伸ばして、
「ほら、さっさと行くわよ」
「行くって……どこに?」
「決まってるでしょ、ブランとベールを迎えに行くの。どうせあの二人も、私みたいに別の次元へ飛ばしたんじゃないの? もっとも、あなたみたいにアテがあるわけじゃないから、時間はかかるだろうけど……」
「もしかして……また、みんなでやり直せるのかな?」
「それはあなたが決めなさい。ま、あの二人が見つけるのが先だけどね」
「……うん!」
微笑んだプルルートが、ノワールの手を掴む。
長らく忘れていた誰かの温もりが、確かに伝わってきた。
「やっぱり、ノワールちゃんはついてきてくれたんだ」
「何よ、いきなりおかしなこと言って」
「……私は、いつもノワールちゃんのこと、置いて行っちゃってたから」
「違うわ、そうじゃない」
言葉を遮ったノワールが、プルルートの額をこつん、と指先で弾いてから、
「ついてきたんじゃなくて、今度は私が迎えに来てあげたのよ」
あの頃と変わらない背丈の彼女の頭を、優しく撫でた。
「きっと、長旅になるわ。覚悟はできてる?」
「……大丈夫。ノワールちゃんと一緒なら、いつまでも」
隣に並び、同じ一歩を踏み出し始める。
夕焼けの残光を背中に浴びて、二人は新しい時を共に刻み始めた。
■