両思いなのにお互い勘違いしている令嬢と侯爵様の話 作:霞草。
一人きりとなった私室には、時計の針だけが静かにチッチッチと鳴り響く。
その針は、日付が変わる少し前を示していた。
(そろそろ就寝…出来るかしら。)
でも、いざベッドで横になってみても寝付けないのが現状だ。
今日ははしゃぎ過ぎたのだろうか。
久しぶり…本当に久しぶりの外出。
買い物を楽しんでカフェにも足を踏み入れ、たくさん“良い思い”をした。
旦那様がずっとずっと優しくて。
胸が弾んだその時間の余韻が残っているのか、中々上手く寝付けなかった。
気分転換になればと思い窓を開け、窓際にある小さな椅子に腰掛けた。
涼しげな夜風が身体を包む。
静かに息をする虫達の声が聞こえ、木々は星彩を反射しながら揺らめき、漆黒の夜空には欠けた月が見える。
思いきり息を吸うと、何とも言葉に言い表せない匂いがした。
まるで闇にまぶされた煌めきが光るかのように、生き物達が生き生きと輝いている─そんな雰囲気を感じさせるような良い匂い。
これが初夏。夏の始まり。
この初夏の匂いは、5年前のものと何ら変わりはなかった。
やはり、人は変わるけれど自然は変わらない。
─そう、レオンはきっと、変わってしまったけれど。
もう私には婚約者がいる。
だから、レオンの変化を嘆く資格すらないのかもしれない。
でも、変化がないことに安堵を覚えるのは私だけなのだろうか。
私はこれからもずっと、せめて彼らにはこのまま在って欲しい。
私が静かにそんなことを希っていると、その音の少ない空間に静かなノック音が入り込んだ。
「はい、どうぞ。」
私が声を掛けると共に部屋に足を踏み入れたのは、ラフな格好をした旦那様だった。
入浴した直後なのだろうか。
その黒髪は水が滴れない程に僅かに湿っていて、顔も紅潮している気がする。
「アイリス。まだ寝ていなかったんだな。」
「はい。…あっ…申し訳ありません。もう着替えてしまっていて…」
全体的に緩いため着心地が良い、真っ白なワンピースの寝間着。
この城に来た初日、リリスが「この中から好きなものを取って下さいね。」と言って並べられた十何着の寝間着の中の、一番質素なものだ。
余分な飾りが付いていないから、本当に着心地が良い。
しかし、いくら婚約関係だからといってこんな姿を侯爵家の当主様にお見せするのは如何なものか。
そして何より…お目汚しにならないだろうか。
「あ…すまない。寝間着姿を見られるのは気分が良いものではないな。今日はお暇しようか。」
(え…?そういう意味で言った訳では…!)
私は無意識のうちに椅子から立ち上がり、小走りに旦那様の側に行って大きな水色のシャツの端を掴んだ。
ドアを開け、去ろうとしていた旦那様は驚いたように目を見開く。
旦那様の服の端を掴んだ時、ふと我に返った。
私は何をしているんだ、と。
とんでもなく無礼な行為なのは勿論。
でも、初めは全く信用していなかった筈の旦那様に今では─
(誤解を解きたいと思うほどに、私は旦那様を信用しているのかしら…)
ちらりと旦那様を見ると、彼はその青みがかった黒い─そう、まるで夜空のような瞳を弧の形にして口角を上げていた。
穏やかで安堵感を抱ける、いつもの笑み。
私はいつから旦那様に、そんなことを思うようになったのだろう。
そんな自分の変化に戸惑いながらも、私はそのまま言葉を紡いだ。
「あっ、あの…そんな意味ではなくて…その…」
あたふたと言い訳めいたことを言う私に、旦那様は─そっと頭を撫でた。
(ま、また!?…恥ずかしい。)
温かくて大きな手で、まるで幼子をあやすように優しく。
羞恥でどうにかなりそうだが、かと言って止めてとも言えない─否、言わないのかもしれない。
こうされている時は羞恥の反面、何故か心が落ち着いてしまうから。
(いえ…その前に誤解を解かなくては。)
私は気を取り直したように一度目を強く瞑ってから、上目遣いで旦那様を見た。
「私は、その…寝間着姿をお見せすると不快な気分にさせてしまうのではないかと思って。無礼なのは勿論ですが、私はただでさえ…不恰好な容姿なので…」
最後の言葉を発する時には、声も小さく目線も下に下がってしまっていた気がする。
自分で言葉に出して言うと、何だか余計に傷ついてしまったから。
“不恰好”“不細工”“気持ち悪い”
私がしつこく両親やメイドに構うと幾度となく言われていた。
幼い頃はとにかく構って欲しくて、幼いながらに色々考えてどうにか話して貰おうとしていた。
でもただの1度も成功したことはなく、しつこいと感じられてしまうと暴言を吐かれた。
そんな幼少期を思い出すと、少しだけ落ち込んでしまう。
「いや…え?不恰好?何を言ってる?」
でも、旦那様の反応は意外そのもので。
信じられないものを見たとでも言うように目を見開き、口を開けた。
「…はい?」
旦那様は手を私の肩に置き、私と同じ目線になるよう屈む。
突然のことに驚きながらも、真剣そうな旦那様の、私が映った目を見た。
「アイリス嬢。君は全く不恰好なんかじゃないし、むしろ麗しいよ。まるでてん─」
“麗しい”
それがお世辞だとしても、どんなに嬉しいか。
気遣いというものに5年ぶりに触れ、少し心が温かくなった。
しかし、その後に続く言葉を紡ごうとした旦那様の口は色白の手によって押さえられた。
横を見ると、開けっ放しのドアから入ってきたと思われるリリスがいた。
ひそひそと旦那様に何かを言い、それを聞いた旦那様は顔を真っ青にして急いで「いや、何でもない!」と言った。
「えっ、あの…何が…?」
リリスは悪戯をしている子供のように意地悪気に微笑んだ。
「どうかお気になさらず。」
私は、旦那様が何を言ったかより、リリスがそんな表情をしたことにひどく驚いた。
時々垣間見れる、リリスの人間味のある表情。
また新たな一面を見られた気がする。
…それが良い表情と言えるのかは分からないけれど。
「…こほんっ、とにかく。」
旦那様は仕切り直すようなわざとらしい咳払いをし、急いでリリスを部屋から出した。
その姿に人間味を感じ、何だか可笑しく思ってしまった。
「ん?どうかしたか?」
そんな私の心情が読めるのだろうか。
それとも顔に出ていた?
旦那様は私の心情の変化を察知し、すぐに問うた。
「いえ…何でもないです。」
「本当にどうした?」
「大丈夫です。何にもありませんから。」
旦那様は私にそうきっぱりと言われて不服そうな目で私を見た。
そんな姿が…侯爵家の当主様に言うべきではないのだろうが、何と言うか可愛らしくて。
「そうだ。それで…。君は容姿に自信を持って良い。絶対に。むしろ持たなくてはいけない。世の女性を敵に回すぞ。」
持たなくてはいけない?世の女性を敵に?
意味が分からないと思う私を見て「ふっ。」と笑い「何でもない。」と言う旦那様に、ますます困惑した。
「それで、話は戻るが…私が言いたかったのは、アイリス嬢が寝間着姿を私に見られるのが不快ではないか、と言うことだったんだ。私は勿論君の寝間着姿を見ても不快にならないし、むしろ…いや、何でもない。」
旦那様は少し顔を赤らめて口に手を当てた。
先ほどから「何でもない」ばっかり言う旦那様だが、そんなに言えないことなのだろうか。
(何だかムズムズするわ…)
と思ったが、自分も先ほど同じことを言っていたので追及は出来ない。
「私が旦那様に寝間着姿をお見せして不快になるなんて、滅相もありません。それより旦那様が不快になられていないのなら良かったです…ソファーにお掛けになりますか?」
「ありがとう。」
そこで会話が途切れ、しばらくの間沈黙が続いた。
私は何を話せば良いのか分からず、ちらちらと旦那様を見た。
(相変わらず、美麗なこと…)
特にその、青みがかった黒い目。
まるで奥深くに光を秘めているよう。
“夜空”
さっきの自分の例えを思い出して、本当に良い例えだなと思った。
開けたまま放置していた窓からは美しい夜空が広がるが、それが旦那様の目にそっくり。
その私の視線に彼は気が付いたのだろう。
ばっちりと目があってしまった。
「…私の顔に何かついてるか?」
「い、いえ!何でもないです!申し訳ありません…」
ぶんぶんと頭を振り、急いで謝った。
まさか、言える筈がない。
“その美しい瞳に惹き込まれていました”なんて。
そんなことを言ったら羞恥でどうにかなってしまいそう。
「と、ところで!何か用件があったのでは…?」
話題、話題と必死に探し、何とか言葉を紡いだ。
「いや…特に用はないよ。」
「え…?」
「何となく、話せたら良いなと思って。今日のデートはどうだった?」
旦那様は何故か顔を赤らめながら─
(えっ?デート!?)
「デートじゃないです!あれはお出掛けでしょう?」
旦那様は一体何を考えているのだろう?
デートというのは“そういう仲”である男女がするもので─
(いえ、私達はそんな仲じゃないわ!)
「え…いやいや、あれはデートだろう?」
「お出掛けですよ!」
「デートだって。」
「お出掛けです!」
「デート!」
そこまでして、しばらくの沈黙が流れた。
こんな水掛け論を侯爵家の当主様とやっているなんて後から思えば無礼だが、当時はそんなことを考えられる程の余裕はなかった。
でも、しばらくして。
「ふふっ。」
つい笑いが込み上げてしまった。
その言い争いが何だか可笑しくて。
笑っている私を見て、旦那様も同じように笑った。
旦那様が声を上げて笑うところは初めて見たが、その夜空ような美しい目に相応しい、月のような輝きを放つ笑みだった。
先ほどとは一転して、和やかな空気が流れ始める。
「君もそんな風に自分の考えを言えるんだな。」
それが旦那様にとって嬉しいことであるかのように、そして眩しそうに言った。
自分の考えを言う…よく考えると本当に久しぶりのことかもしれない。
と思ったけれど、よく考えたらレオンのことを旦那様に話していた。
出会って初日に、想い人の存在を…
(何て、自分勝手なんだろう。)
でも何より、身勝手だと分かっていてもレオンを好きでいることを止められない自分に、一番嫌悪感を抱く。
「そうだ…アイリス嬢。本当に用がないという訳ではなく…一応話があるんだ。」
穏やかな静寂が室内を包みしばらく経った頃、不意に旦那 様が口を開き、一通の手紙を出した。
真っ白い封筒を赤い紋章の印で止められた手紙。
この紋章は確か─
「皇室…?」
「ああ、そうだ。実は…皇室に、建国記念のパーティーに招待された。」
「建国記念…ああ、建国記念日は2週間後でしたね。」
我が国、エストレヤ。
エストレヤが建国されたのは5000年以上昔のこと。
当時のエストレヤでは天候不良による凶作が酷く、長期に及ぶ食料を巡った争いが繰り広げられていた。
また人々の精神状態も常に不安定であったため、異教間の領地の取り合い等も絶えなかった。
人々が疲弊し切った中、後に“初めの聖女”と呼ばれるようになった少女が現れる。
それはそれは美しい少女だったらしいが、その最大の特徴は血の色だった。
─薔薇色の血を持つ聖女。
現代にも100~200年に1人現れるということ以外情報が公開されていない謎多き話だが、その“初めの聖女”が行ったことだけは広く知られている。
彼女は自分の血が他の人と違うことを知っていた。
そして、自分には何かしらの“能力”があるということも。
彼女は、戦火により焼け野原と化していた土地に足を踏み入れ、正座のまま、飲まず食わずで祈り続けた。
平和だけを、ただただ願って。
そして約1ヶ月後、ある暁に唐突に彼女は強烈な光に包まれて消え去り、エストレヤ一帯の土地が甦った。
荒れ果てた土地は緑を取り戻し、人々は戦意を喪失し、彼女が祈り続けていた場所には現在も使われている“神殿”が建立された。
人々は武器を捨て、話し合い、現在の皇室に繋がる国の代表者を決める。
そうして誕生したのがエストレヤ国だ。
「私も…招待されているのですか?」
「ああ。君は侯爵家の配偶者候補だからな。何より名指しだから、参加するしかない。皇室の命は絶対だから…」
そんなことを言いながら、苦そうに顔をしかめる旦那様。
もしかして、旦那様も行きたくはないのだろうか。
でも、その端麗さがあれば誰だって─
(あ…)
私は忘れていたのだろうか。
ここに来て彼の優しさに触れるまで、どんな噂で彼を判断していたのか。
“冷酷無慈悲”
そう囁かれていたではないか。
(それに…)
旦那様の目をチラリと見ると、綺麗な青みがかった夜空のような黒色。
レオンとそっくり。
そのレオンは昔、私に話していた。
“黒い目なんて、この国では不吉…だろう?”
私は社交に参加したことはないけれど、私の両親のことを考えても、社交界が優しさに溢れているとは到底思えない。
そんな環境で、そんな人がいたら。
きゅっと胸が締め付けられた。
その旦那様の苦い顔は、今までの出来事を語っているようで胸が苦しくなる。
(私達は…そう変わらないのかもしれないわ。)
私はずっとのけ者にされていたけれど、旦那様も似たような境遇だったのかもしれない。
麗しく権力もある旦那様の周りには人が集まる。
でも、それは上辺だけ。
実際にはそんな噂が立つくらい陰口を言われていた。
当の本人は皇室からの手紙を何度も読み、その度に自身の名前を確認して顔を歪めていた。
先程のは私の想像に過ぎない話だけど、そこまで間違ってはいなさそう。
私達は案外、似た者同士…だったりして。
「旦那様。」
ほぼ無意識に、声を掛けていた。
「私は婚約者として、旦那様の側にいます。だから…大丈夫です。」
口が勝手に動いた、というのはこういう時に使うのだろう。
思っていないこと─否、もしかしたら心の奥底で思っていたのかもしれないことが、自然に声に出た。
自分では、何故言ったのかは勿論、声に出た“大丈夫”の意味も分からなかった。
私が隣にいたところで旦那様が助かるわけでもないのに、何が“大丈夫”だ。
根拠もなければ頼りがいもない台詞だったと思う。
─でも。
その言葉には、眩しい笑みが添えられた「ありがとう。」を旦那様から引き出す程の力はあったようだ。
ご覧頂きありがとうございました!
次話もご覧頂けると幸いです(*´꒳`*)